第1章 青き春の章
第30話<父子>
糸が切れた人形のようだった。たった今、彼を辛うじて立たせていた最後の糸が途切れ、その身体は星の内側へと引き寄せられる。
笑っていた。最後に、仲間の顔を見ることが出来たからか。それとも、これまでの人生を振り返り、それが満足できるものであったと納得出来たからか。
瞳から魂が失われ、そして瞼が緩やかに閉じる。安らかに、眠りにつくように静かだった。
「ァ……ァ……」
少年の喉が、壊れた笛のような音を立てる。言の葉は形作られず、風に融けて消えた。
立つことすらもどかしいかのように、アクセルはナタンの遺体に這い寄る。そして彼の身体に覆い被さると、両手を胸の穴に被せた。まだ肉体が生きていたのか、傷はすぐに塞がる。が、それだけだった。ナタンの心臓は脈を打たず、彼が瞼を開けることは無い。
「……どうやら、一足遅かったってヤツか?」
マルセルが腕を組み、ハンスが肩を竦めて見せた。
アクセルは両手を重ねたまま、ナタンの胸を押す。一度ではない。二度、三度と。再び心臓を鳴らそうと、力を込めて、圧迫を繰り返す。
それでも、ナタンは目を開けない。
アクセルの両手が、今度は彼の頭に伸びた。顎を引き上げ、顔を上に向かせ、口を開かせる。そして十字に口を重ねると、息を吹き込んだ。抜け殻に魂を吹き込もうと、唇を離しては息を吸い、また唇を合わせて吐き出す。
それでも、ナタンの魂は戻らない。
「な……何してんだよ」
人工呼吸と心臓マッサージを続ける少年の行動が奇怪な儀式に映り、マルセルは恐る恐る尋ねてみる。アクセルは答えず、また同じ動作を繰り返した。
「……もう止めておけ。そいつは死んだ」
溜息と共にハンスが告げる。
「確かに、世の中には……雷に打たれて生き返ったヤツとか……ゴーレムの口に吹き込まれた息が魂になったとか……そんな話も転がってるが。マジックアローで心臓を射抜かれた人間が生き返ることは、あり得ない。気が済むまでさせてやりたい気もするが、なぁ?」
そう言って振り向いたハンスの視線の先には、緑髪の貴族。アクセルと同じ髪だった。
身長は高い。マルセルほどではないが、ハンスよりは上。杖を握り、静かに佇むその姿は、歌劇の主役のようでもあった。
「さて……。誰だ、お前達は」
「傭兵だ。そこの坊ちゃんに雇われた、な」
「“疾風怒濤”か?」
「その通り」
ふう……と、子爵は溜息をつく。数秒目を閉じていたが、やがて無表情のまま問いを重ねた。
「私の味方なのか?」
「どうだろうな。とりあえずこの坊ちゃんは、場合によっては父親殺しも厭わない種の人間のようだが」
「では……敵か」
「そのようだ。子爵、貴方にとっては何とも不幸なことに」
そう言いながらも、ハンスは杖を抜かなかった。抜き撃ちが彼の本領であるし、例えラヴィス子爵が攻撃を仕掛けてこようが、それでも間に合わせる自信があったからでもあるが、その最大の理由は、アクセルの次の行動を待つためである。
少年はまだ、ナタンの魂を呼び戻そうとしていた。
「最も不幸なのは、その男だ」
ラヴィス子爵は杖でナタンの遺体を示すと、目を細める。
「もっと他の生き方があっただろうに。妻を娶り、子を増やし、平穏の中で暮らすことも出来ただろうに。……アクセル、もう諦めろ」
自らの息子に、子爵は語りかけた。必死に心臓マッサージを繰り返していた少年の動きが、やがて止まり、遺体の傍らに座り込む。背を向けたアクセルの表情は、誰にも分からない。
「東地区の様子を見た。よくやった、と、褒めてやりたい気もする。しかし、それは余計なことだったのだ。東地区は、ゴミ溜めのままであるべきだったのだ。税収が増えようが、犯罪が減ろうが、あそこに手を出してはならなかった。……アクセル。ともかく、こちらに来い」
アクセルは膝をつき、そのままゆるやかに立ち上がった。悄然とするように肩が落ちていたが、その右手には、杖が握られている。
アクセル……再びその名を子爵が呼ぼうとした時、風が巻き起こった。少年の身体が竜巻に包まれ、衣服の裾がはためき、水滴が飛び散る。その風はすぐに収まったが、ラヴィス子爵とマルセルは驚愕し、ハンスは一人笑っていた。
(トライアングルクラス……)
風の魔法に長けた者ならわからない筈の無い、強大な力の渦。一瞬竜巻となって発現したその魔力は、今は全て、アクセルの内側へと潜んでいた。
「……父上」
振り向いたアクセルの表情は、何の感情も映してはいない。その潜ませた力を、一切合切の敵意を解放するまで、雫すら漏らすまいとするかのように。怒声も激昂も表に出さず、一歩一歩、父親の元……ラヴィス子爵の元へと、歩んでいく。
「すみません。その……何と言えばいいのか、僕の頭では浮かびませんが……。ただ……一つだけ」
精神力が膨れ上がる。最早、風船と同じだった。膨れ上がり続ければ、あとはもう、割れるしか道は無い。
「あなただけは許さない。死ね」
頸動脈を切り裂けば、人は死ぬ。ナタンのように心臓を貫かれても、死ぬ。単純に首を絞められ続けても、死ぬ。
死ね……そう言ったアクセルだが、彼の力の膨張は、それだけでは留まらなかった。殺すよりも先に、相手を滅亡させようとしていた。かつて人間であったこと、それすらも判別が付かない程の細切れに、そして挽肉に……。実の父親を、爆ぜ飛ぶ血肉に変えようとしていた。
明確な殺意だった。殺さずにはいられない、殺さずには済まされない。自らの血を受け継いでいる息子の、盤石のような意志を感じ取り、ラヴィス子爵は杖を握り締める。もう、話は通じない。損得も利害も取引も有り得ず、アクセルの殺意が、ひしひしと肩にのしかかってきていた。
アクセルに、理性など無かった。ここで父親に許しを請い、これ以上の死者が出る前に解決を図るのが、最良の選択であった。にも関わらず、彼はラヴィス子爵を殺すことを決めていた。イシュタルの館も、ファミリーの仲間も、そしてティファニア達のことすら、今は、少年の頭から消えていた。
嘆願でも願望でも無く、そして命令ですらない。死ね……それはあたかも、確定した未来をなぞらせる為の、エンターキーのようだった。
「……何だと?」
そう呟いたのは、ハンスだった。既に、顔の笑みは消えている。
アクセルが見たのは、ラヴィス子爵ではなく、その反対側。遺体だったナタン。
「……げふぉっ」
三度ほど咳き込み、ナタンの手が動く。顔を顰めつつ床を押し、上体を起こそうとして、ごろりと仰向けに転がる。
「……ふぅ……」
そして息を整えながら、ゆっくりと、その場に座り込んだ。
「……何だ? 何が起こった?」
状況を確認しようとしているのか、彼は座り込んだまま、首を左右に回す。寝惚けたような仕草だった。
「うおっ、痛ぇ!? ひっ、左、左手がっ」
アクセルが癒したのは胸の傷だけで、ローランの剣を止めた左腕の傷は何の処置もされていない。血が流れる左腕を押さえながら、ナタンは顔を歪めた。
「……ナタ……ン?」
風が弱まった。呆然と、ようやく形になった言の葉が、死んでいた筈の男の名を呼ぶ。アクセルの手から、するりと杖が落下し、甲高い音と共に跳ねたが、彼はそれに気付いていなかった。小走りに男の元に走り寄り、両側からナタンの頭を掴む。
「ナタンだなっ、おいっ、ナタン!」
「そっ、そうですけど? 何だ、何なんだよ、一体。どうした?」
「ほら、これ、何本だ!?」
「え? 三本……いや、一本……おい、次々変えんなっ!」
「動くなっ」
アクセルは彼の襟に指を差し込むと、一気に左右に引き裂く。そして露わになった胸に、頭突くようにして耳を押しつけた。ドクンドクンと、高らかに鳴り響く脈動がある。
「……動いてる」
「え? う、動いてねぇけど……?」
「…………ハハハハハハッ」
突如として高笑いを響かせると、アクセルは立ち上がり、ナタンの怪訝そうな顔を下から蹴り上げた。
「ぶっ?! な、何なんだよっ、コラッ」
「ハハハハッ、ハハッハハハッ……生きて……生きてたっ! アッハハハハハッ」
相変わらず発狂したかのように笑いながら、掌で彼の頭をベシベシと、何度も叩く。笑いすぎたのか、目尻に涙が溜まっていた。
「どうした、ベル……一体どうした」
「ハハッ、ナタンめっ、ナタンの癖にっ、このナタンがっ、このナタン野郎っ!」
「いや、そりゃ、自分の名前くらい知ってるけど……」
あり得なかった。ハンスの目から見ても、あの倒れ方は、擬態などでは無い。本当の、死人のそれだった。
まさかあの少年は、本当に、命を吹き込んだというのか。それとも、去りかけていた魂を引き戻したのか。
しかし、男は現在こうやってハンスの目の前で、動いている。会話している。それを現実として受け入れれば、その奇跡を起こしたのが風のメイジであることも事実であり、思わず快哉を叫びたくなる。
(やはり……こいつは惜しい)
ハンスは落ち着きを取り戻すと、腕を組み、ただ、雇い主の次の言葉を待っていた。
しかし、そこでめでたしめでたし、と終幕の筈も無い。
ナタンが生きていた以上、アクセルにはもう、ラヴィス子爵を殺す理由は無くなり、冷静さを取り戻す。数秒ほど天井を見上げ、溜息と共に激昂を追い払うと、再び緊張した表情で、父親を振り向いた。
「……アクセル」
息子の殺気が消え去り、ほっとした子爵は、その名を呼ぶ。
「もう、知っているんだな」
「……マザリーニ枢機卿から、お聞きました」
「その名をリーズから聞いた時、予感はしていた。……やはり彼は、有能に過ぎる」
「僕が余計なことをしたのは、知っています。しかし父上。そのことを、予想していたのでは? だから僕を、確かめるために、代官として……」
「反論はせんよ、アクセル」
留守が多い父親と、父親が不在でも苦にしなかった息子。思えば、普通の親子という関係には、ほど遠かった。
「アクセル。それに、イシュタルのナタンよ。来い。話をしよう」
雨が上がっていた。あれほど重厚に塗りたくられていた黒雲は、いつの間にか姿を消していて、太陽の光が濡れた街に燦々と降り注いでいる。その眩しさに顔を顰めながら、ローランは執政庁から出ると、待機していたリーズ達に、全てが終わったことを告げた。
「ローラン殿、そのお顔は……」
鼻を覆うようにして、ぐるりと一周、包帯が巻かれている。思ったよりも重傷で、治癒の魔法でも完治はしなかった。
「いえ、何でもありません。このまま、待機していて下さい。あとで子爵様が直々に……」
「イシュタルの館はっ!?」
リーズにとっての本題は、やはりそれなのだろう。気色ばんで詰め寄ってくる彼女を、彼は微笑んでいなした。
「そのことについては、私などの預かり知らぬところです。しかし、ご安心を。もう、血が流れることは無いでしょう。全ては子爵様がお決めになること……。それでは、失礼させて頂きます」
ローランは執政庁の門を抜けると、濡れ鼠のバルシャの元に歩み寄る。彼の姿を見ても、バルシャは驚きはしなかった。
「……今回は、若者の勝利です」
「……そうか」
機械的に返したバルシャだが、雰囲気が若干和らぐ。それでも緊張を崩そうとしないのは、ローランを信用してはいないからだった。
背筋を伸ばし、ローランは通りを抜ける。折られた鼻の辺りが、ぼうっと熱を持っていた。
ひょっとしたら、アクセルは自分を殺しに来るかも知れない。あの少年は、その選択肢を容易に選び取って見せるだろう。しかし何故か、それに怯える気は無かった。寧ろ、そうなることを望んでいる風すらあった。
そんな自分の感情が可笑しく、ローランは小さく笑いを漏らす。しかし、上から降ってきた別の笑い声に、それは掻き消された。
「ヒヒヒッ。『初月の館』か……“初月(みかづき)”なんてモンを知っとる人間は、そうはおらんよなぁ」
決して、思い出したくは無い声。死ぬまで、金輪際、永遠に、耳になどしたくは無かった笑い声だった。
ハッとして上を見上げたローランは、塀の上に座り、片足をブラブラと遊ばせている老人を発見すると、唇を剥いて歯根を露わにした。
「……クソジジイ……! まだこの世にしがみついてやがったか……!」
「ジジイにジジイ呼ばわりされるとはなぁ。しかし……なかなか男前になったんじゃねぇのか? ええ、楼蘭(ローラン)?」
クーヤはローランを見下ろしたまま、ニヤニヤと笑みを浮かべている。
「テメェ……何でここに……」
普段の、礼儀正しく温厚なローランは、ここにはいない。剣を振り回していた頃の彼が、まるで時間を超えて来たかのように、そこにいた。
「今は、イシュタルの館で世話になっとる」
「!? ケッ! 女に食わして貰う身かよ。相変わらずの屑だな、お似合いだぜ」
「ヒヒヒッ……。負け犬の遠吠えならぬ、負けジジイの八つ当たりか? もう若くはねぇのに、意地張って『デュランダル』を使わんからそうなる」
「黙れっ」
吐き捨て、ローランは歩き出す。
「気にすんなよ。少しくらいの汚点は、寧ろ美徳にも成り得るもんじゃて」
「……あり得ねぇよ。挽回のしようも無い、俺の人生最大の汚点は、何だと思う?」
「うん?」
「“悪逆”のサンディ! テメェの息子としてっ、この世に生を受けたことだっ」
ローランは振り向かず、クーヤは相変わらず笑っていた。
「我が家の成人の儀だ。少し早いがな」
雨上がりの中庭、そこに設置されたテーブルと三つの椅子。傍らには急拵えの竈が作られ、網が乗せられていた。
ラヴィス子爵が編み籠から取り出したのは、貝……牡蠣だった。
椅子には、アクセルとナタンが座っている。
「季節外れだが、北のオクセンシェルナでは、夏に獲れる牡蠣がある。これがそうだ。牡蠣を焼くコツは、平らな面を先ず焼くこと……」
貴族が料理をしないというイメージは、既にアクセルによって壊されている。しかし、歴とした貴族家の当主がトングを振るっている姿に、ナタンは密かに衝撃を受けた。
網の上の牡蠣が、やがて、海産物独特の、香ばしい香りを放つ。殻が降参するように開き、ラヴィス子爵はその中に、レモン汁と、ローランが持参した瓶を傾け、黒い液体を垂らす。
それが醤油だということは、アクセルにはピンときた。
「ワインと言えばタルブ産だが、牡蠣に合うのは白……ドーヴィル産の白ワインだ」
平民には勿体ないが、と付け加えようとしたラヴィス子爵だが、止めておく。アクセルの機嫌を損ねれば、命が危ういと気付いていた。
「あ、俺が……」
酌をしようとしたナタンだが、無言のままアクセルが白ワインの瓶を掴む。三つのグラスにワインが注がれた頃、三つの皿にも焼き牡蠣が乗せられていた。
「さあ、食え」
ラヴィス子爵に勧められるまま、フォークを手に取ったナタンだが、再びアクセルの手が伸びる。ナタンの皿を自分の方へと引き寄せ、自分の皿をナタンに押し出した。牡蠣は、既に一部が切り取られ、アクセルの胃の中にある。毒見だった。
ラヴィス子爵も、アクセルも、二人とも無言である。
(親子だってのに……何てギスギスした空気だ……)
自分が消えて親子水入らずになれば、雨上がりの陽気の下、もっと和気藹々としてくれるのかと、ナタンは本気でそう考えていた。
フォークで殻の中の肉を突き刺し、口に運ぶ。アクセルの料理は堪能してきたが、季節の関係で、初めての牡蠣だった。
噛んだ瞬間、塩味の肉汁が溢れ出す。磯の香り、と表現される風味だとは知っていた。それに黒い液体が混じり、濃厚な風味が鼻孔にまで抜けていった。
「……美味いだろう」
「え、ええ」
お世辞などではなく、本当に美味ではあるが、出来ればもっと違う雰囲気で楽しみたかったと、ナタンは笑う。
「どう思う?」
「え?」
「貝殻だ」
ナタンは殻をひっくり返し、外側を見た。
「汚いだろう?」
確かに、内側のような光沢はない。海藻か何かが細かく張り付いている。貝殻で作られたアクセサリーなどもあるが、間違っても、その材料にはならない。他の貝殻を見るが、形もバラバラで、本当に同じ種類なのかと疑いたくなった。知らなければ、岩か何かにしか見えないだろう。
「驚くべきことに、フロワサール八臂伯の時代まで、この美食は漁師しか知らなかった」
ラヴィス子爵は椅子の上で足を組み替え、ワイングラスを持ち上げる。
「海岸を領地に持つ貴族も、外見のあまりの汚さに、目も向けなかった。……しかし、八臂伯はこれに目を付けた。漁師が捨てた貝殻から、草花が芽吹いているのを発見し、牡蠣が持つ生命力に驚嘆した。ゲルマニアとガリアの同時侵攻という難局に面していた当時、八臂伯は私費すら投じて牡蠣を集め、前線の将兵に送った。肉は精力を生み、貝殻は薬となった。……勿論、これはほんの一因に過ぎない。しかし、もし牡蠣が無ければ、現在の地図にトリステインの名は記されなかっただろう。そう言っても過言ではない」
アクセルは無言だった。父親の話が意図することは、既にマザリーニ枢機卿から聞かされている。
「もしかしたら、この貝殻の汚れは、牡蠣の自衛の手段だったのでは無いか。人々から目を背けさせる為の。今ではハルケギニア中で、牡蠣は食されている。……あの戦後、火のように早くこれは広まった」
グラスの中で、くるりと、ワインが回る。
「さて……。我がラヴィス領であるが、聖湖ラグドリアンから流れる大河の一つ、ギヨル川に面している。子爵であるにも関わらず、この水の王国で、そのような重要な土地を抱えることがどれ程危険か……わかるか? 土地を持たない、碌な官職にも就けない貧乏貴族など、掃いて捨てる程いる。彼等の不平不満、嫉妬は、尋常では無い。その矛先は、ウチのような、土地持ちの弱小貴族に向けられるのだ。戦争も起こらないこの平時、土地を得る方法は? ……跡取りのいない土地持ち貴族の養子となるか、それとも……政争によって罠に嵌め、奪い取るか。……言うなれば、ゼルナの東地区とは、必要な汚点だったのだ。牡蠣の殻に付着した、ゴミ……いや、ゴミ箱だ。都合の悪い人間、裏切られた人間が押し込められた、開けてはならないパンドラの壺。それが、彼等の目を背けさせる」
本来いるべき子爵の不在は、隙では無い。持ち主ですら持て余す領地だと、周囲にそう印象づける必要があった。
「……そして、それだけでは十分では無い。強力な大貴族の後ろ盾が必要なのだ。私の後ろには、とある大貴族がいる。私はその手下として、各地を飛び回っている。それが留守の理由だ」
そこまで語ると、ラヴィス子爵は一息にワインを飲み干す。
アクセルは俯き、ナタンは手を膝に置いていた。
何もすることが無い……それが、アクセルが代官に任命されてから、ゼルナの街を歩いて出した感想である。目立った良も無く、目立った悪も無い。中庸の場所。例え東地区を改革などしなくても、十分に、街は機能していた。そのような仕組みは、既にラヴィス子爵家何代にも渡って受け継がれてきていた。
アクセルは、その規範を破壊したことになる。領地を失わない為というラヴィス家の目的を、大きく切り崩してしまったことになる。
感謝も、怨みもされてきた。しかし大局的に見れば、自分の行いは、果たして正しかったのだろうか。
ナタンに仇を取らせたら、すぐに彼を故郷の村に解放するべきでは無かったか。奴隷市場に出向き、マチルダやテファを見つけさえしなければ、彼女たちは原作の流れに戻り、もっと平穏に暮らせたのでは無いか。アニエスを保護するべきでは無かったのではないか。メンヌヴィルと知り合いさえしなければ、葛藤することも無かったのではないか。娼婦達を知りさえしなければ、もっと別の……。
(……ダメだ)
既に、知ってしまっていた。既に、変わってしまっていた。既に、行ってしまっていた。
因果……因を作り出したのが自分ならば、その果を自分が受けるのは当然のこと。その因に、善悪は無い。良果か悪果か、どちらかを受けるだけだ。
「イシュタルの館の男達は、“貝殻(コキーユ)”と呼ばれているそうだが……アクセル。お前の考えか?」
「……はい」
無表情のまま、アクセルは顔を上げ、はっきりと答えた。ラヴィス子爵は軽く笑みを浮かべる。
「貝殻か……。成る程、言い得て妙だな。牡蠣貝から教訓を得た当家である。差詰め、イシュタルはシャコ貝か。……ふむ」
ラヴィス子爵は立ち上がり、背を向けて後ろ手を組み、空を見上げた。
数分、そのままだった。
「……イシュタルのナタンよ」
「はい」
背を向けたままの子爵に、ナタンは短く答えた。
「東地区は、既に変わってしまった。それを自然な形で元に戻すのも、手間がかかる。……率直に聞く。お前達は、この街を裏から支えられるか?」
アクセルが顔を上げた。
「この地を狙う貴族は、あの手この手を繰り出してくるだろう。勿論、秘密裏に、非合法に。東地区は既に汚点では無く、真珠の如き光となってしまった。陰謀の手を、叩きつぶせるか? 答えろ」
ナタンは右手を上げ、頭をかく。不遜な態度とも取れたが、ラヴィス子爵は、彼の答えを待った。
暫く目を閉じ、考え込んでいた彼は、やがて片目を開けてアクセルを盗み見ると、フッと笑った。
「貴族様の事情は……正直に言えば、興味はありません。しかし」
そこで、子爵が振り向く。ナタンはその空色の目を、真正面から見据えた。
「ベル……アクセルは、俺の恩人です。もう、二度も命を救われました。だからという訳でもありませんが、ずっと、味方でありたいと思います。そしてもう一つ。イシュタルの女を泣かせるヤツは……俺も、バルシャも……野郎どもも、許しはしません。……俺から言えるのは、それだけです」
「いいだろう」
ラヴィス子爵は一つ頷くと、杖を抜く。そしてその先端を、アクセルへと向けた。
「アクセル・ベルトラン。改めて、ラヴィス子爵領の代官に命ず。その責を、全うせよ」
ふらりと、アクセルは立ち上がる。そして泥の地に片膝を付けると、頭を下げる。親と子ではなく、主と臣の姿だった。
その姿を傍らで見るナタンの心に、何故か、悲哀が生まれる。彼は唇を固く結んだ。
「……畏まりました。謹んでお受けします」
無機質に、義務としての返事を行ったアクセルは、自分の心に生まれた一抹の寂しさに、自嘲の念を浮かべる。
自分は、父親を殺そうとしたのに。何を今更、そんな善良な気持ちを持つのかと。
親子は、既に親子ではない。
アクセルは静かにその事実を見つめ、内側に納め、そして飲み干した。