第1章 青き春の章
第31話<三面>
「……彼の名は“清貧”、彼の名は“恵雨”。生涯ただ一人の女性を愛し抜き、自らの財を貧しき者、悩める者に分け与え、常に愛をもって人を助け……」
葬儀の参列者は多く、墓地にはとても収まりきらなかった。平民達も墓地の外から、錆びた鉄柵によじ登ろうとしていたり、精一杯背伸びをしていたり……故人の最期を何とかして目に焼き付けようと、様々に試みていた。
折しも昼頃から豪雨に見舞われたが、それを苦にした様子の人々はついに見当たらなかった。
さながら、王族の葬式のようだった。一体今の世で、何人の貴族が、ボーフォール伯爵と同じほど、平民からその死を悼まれるだろうか。
(……やはり、捨てるべきでは無かったのでは? ボーフォール伯)
ボーフォール伯爵は、病死ということで決着した。身寄りが無い為、葬儀の喪主はマザリーニ枢機卿が担う。
「彼の魂を祝福し、永久の安楽の内へと導き給へ……」
故人が捨て去ろうとしていた名誉は、結局、失われなかった。マザリーニ自身、聖職者でありながら暗殺すら考えてはいたが、いざ伯爵の遺体を前にすると、やはり物悲しさは拭えない。
血の繋がらない、何人もの他人が、粛々と涙を流していた。
静かに瞑目するボーフォール伯の首の、小さな傷に気付く者はいない。よほど近くで、触れながらでも無ければ、それを認識することは不可能だった。葬儀の一切を取り仕切るマザリーニが、全てを了解している以上、彼の天寿を疑う者はいない。
マザリーニの脳裏には、いつしか、アクセルの顔が浮かんでいた。
未だ十にも満たぬ年齢で、これだけの事をしてのけた少年。その彼を、果たして父親はどう扱うのか。
自分が彼に差し出したのは、情報。彼が自分に差し出してきたのは、忠誠。
(自分を扱え……そう言うのか、彼は)
少年は自ら、手駒となることを望んだ。確かにあのような特異な味方は、政治に携わる者にとって、得難い手札となるだろう。
(……悲しいな)
そこまで追いつめられていた少年も、既にあの少年の使い道を思索している自分も。
マザリーニの悲哀にも似た失望は、表に出されることはなく、葬儀は恙なく終わりを迎えようとしていた。
イシュタルの難局を知る者は少ないが、それでも何人かの娼婦は、何か問題が起こったのではと、疑いを抱いていた。それを払拭するかのように、急遽、慰労の宴が催される。北東街道が塞がったことで急に暇になってしまったというのも、その理由の一つではあるが。
父親と共に屋敷に戻っていたアクセルが、ようやくイシュタルの館に顔を出せたのは、その宴会が終わり、片付けが済んだ頃だった。
「……あっ、お兄ちゃんっ」
事務棟の玄関で靴を脱ぐ少年を出迎えたのは、ティファニアだった。駆け寄ってきた少女の脇に両手を差し込み、ぐいと持ち上げると、アクセルはそのままクルクルと回り出す。
「テ〜ファ〜、久しぶり、会いたかったぁ! ああもうっ、テファテファテファテファテファテファテファテファ」
振り回されるティファニアは、鈴のような音色で笑っていた。
「おお、ティファニアよ、あなたはどうしてティファニアなの? それはね、マジ天使だからさぁ」
「……何言ってんだい、アンタ」
騒ぎを聞きつけたのか、それともたまたま通りかかったのか、フラヴィが呆れたような顔で腕を組んでいる。構わずティファニアの小さな身体を抱き締めるアクセルは、やがて少女を解放すると、慈しむように金色の髪を優しく撫でる。
「あ、でも、ちょっと悪い娘ですねぇ。こんな時間まで起きてるなんてぇ」
「えー。でも、マチルダお姉ちゃんは、今日は遅くまで起きてていいって」
「ああっ、ごめんっ、テファ! 至らぬお兄ちゃんを許しておくれ!」
「うん、いいよー」
「ハッハッハ、このマジ天使めぇ」
暫く黙っていたフラヴィは、やがて顔を曲げて溜息をつくと、パンパンと急かすように手を叩く。
「ほらほら、テファ。あんたはもう寝なさい。明日は買い物に行くんだろ?」
「うんっ、お兄ちゃんも行こうよ!」
「え、いいの? じゃあ連れてって!」
「いいよー」
名残惜しそうに頭を撫でるアクセルだったが、再びフラヴィに急かされ、ティファニアと別れた。少女の身体が階段の向こうに隠れるまで手を振り続け、立ち上がると、微笑と共にフラヴィを振り向く。
「お疲れ様、フラヴィ。よく頑張った」
「……時々、あんたが年上に思えてくるよ」
そう言いながらも、フラヴィは右手を伸ばし、アクセルの頭を撫でた。
まるで飼い主に褒められる子犬のように、少年は気持ちよさそうに目を閉じる。その、いつもとは違う彼の雰囲気に、フラヴィは戸惑った。
「あ、そうだ」
その戸惑いを打ち消す為に、フラヴィは急いで言葉を紡ぐ。このまま続ければ、妙な気分が生まれてしまいそうだった。
「宴会場は片付けたけど、まだ、飲んでるのが何人かいたよ。そいつらにも、顔、見せてやりな」
「ああ、そうだね。……フラヴィ、血はいいの?」
「……今夜は、いいよ。明日の晩に頼むかも」
「そう、わかった」
宴会場はほぼ片付けられており、娼婦達の姿は既に見えなかったが、代わりに男達が酒盛りをしていた。つまみも、簡単なものだけ。男達と言っても、ナタン、それにバルシャの二人しか残っていなかった。
「あ」
「おう、ベル。戻ったか!」
チビチビと飲むバルシャごしに、ナタンは赤い顔のまま手を振って見せる。
一度、確かに心停止していた彼ではあるが、今はもう、全快していた。いやそもそも、何故蘇生することが出来たのか、という疑問は残されているが、アクセルは偶然で片付けている。それ以外に、説明のしようが無かった。願いが神様に通じたとか、友情パワーとか、またはご都合主義だとか、そういう類の。アクセル自身、一度死んで、この地に転生した存在である。
「ああ、ただいま。バルシャ、ナタン。二人とも、お疲れ様」
「いえ……。私は別に……」
「だから謙遜してんじゃねぇよ。一番頑張ってたの、お前じゃねぇか」
すっかり酔いが回っているのか、ナタンが笑いながら、バルシャの背を叩く。バルシャはそれに返さず、するりと滑らかに立ち上がった。
「酒、持ってきます。ワインで?」
「ああ、ありがと。お願い」
マントを脱ぎ、くるくると畳みながら、アクセルはその場に座り込む。つまみの皿に残された干し肉を摘み上げ、それを口に放り込んだところで、ナタンが静かに咳払いをした。どうやら見た目ほどには、酔ってはいないらしい。
「……よくやった、ナタン」
「ああ。お前もな」
軽く、拳をぶつけ合わせる。ナタンは手にしたグラスのワインを飲み干すと、大きく息を吐き出し、その場に寝転んだ。アクセルは、窓の双月を見上げている。
「一件落着ってことで、いいんだよな?」
「そうだ。これで僕も、安心して眠れそうだよ」
ブランツォーリ司祭の一件についても、マザリーニ枢機卿がその力を使い、揉み消してくれるよう手はずを整えている。恐らくは、病死ということで決着が付くだろう。
イシュタルの館も、表立ってというわけにはいかないが、存続が認められた。浮浪者に仕事を与えて税収を上げ、また治安の改善に成功するなど、領地に対する貢献が見られるため……大義名分は、そんなところである。
しかし、父であるラヴィス子爵の目的は、もっと暗い所にある。アクセルは漠然と、そう考えていた。
「お待たせしました」
新しい瓶とグラスを手に、バルシャが戻ってくる。アクセルは礼を言いながらグラスを受け取り、ワインを注ぎ入れ、そしてそれを持ち上げた。
「乾杯」
「何にだ?」
「今に」
中身を一息に飲み干すと、アクセルは目を閉じ、息を吐きながら俯く。余韻でも楽しむかのように、暫く顔を下げていたが、やがてナタン、そしてバルシャの名を呼んだ。
少年にとって、ここからが本題である。
「僕の目的は、表と裏、両面からの掌握。それは知ってるよね?」
「おう、知ってる」
「はい」
顔を上げ、アクセルは二人の顔を、それぞれ順番に見た。
「それなんだけど……少し、修正が入る」
「修正、というと?」
「僕は廃嫡された」
バルシャが凍り、その語句の意味を噛み砕いたナタンも、すぐにハッとして少年を見る。
「別に、驚くことでも無いよ。代官は本来、領主に代わり、徴税などの内政を担い、領地を管理する役職。現に僕が任命される前は、ラヴィス子爵家とは無縁の老人が務めていたんだ。要するに、代えが効く代用品。……“これからも、ラヴィス家に尽くせ”って言われたけど……実の息子なら、わざわざそんな言い方しないだろ? 父が僕を代官にした理由は、僕を見極める為。危惧通り、余計なことをし出した僕は、要注意人物なのさ」
「……じゃあ」
ナタンが上体を起こし、人差し指をアクセルに向けた。
「お前が将来、領主になる可能性は……」
「ゼロ」
「有り得ません」
アクセルは横目で、バルシャを見る。彼は自分自身、話を整理しようとするかのように、床を指先でトントンと叩いた。
「あなたは、ラヴィス子爵の唯一の後継者。魔法の才能もある。それを、廃嫡など……」
「違うんだ」
「何がです?」
「……母が、妊娠していた」
バルシャが絶句する。アクセルは彼とは逆に、クスクスと、思い出し笑いのように微笑んでいた。
「全く、何時の間に……と思うよ。けど、目出度いことだ。僕に、弟か妹が出来るんだから。そうだろ?」
「ああ……そうだな。何たって、お目出た、っつぅくらいだし」
笑い返すナタンは、唇を結ぶバルシャの肩に手を回すと、彼のグラスにワインを注ぎ入れる。
「ほら、そんな顔すんな」
「しかし……」
「祝ってやろうぜ。新しい命だ。こいつも本当に、兄貴になるんだし。それに……ベルよ。お前、何か企みがあるんだろ?」
「んっふっふっふ」
アクセルは再び、グラスを傾けた。
「次の領主になるのは、今度生まれてくる第二子。弟なら継ぐし、妹なら適当な婿を迎え入れるだろう。その子が“表面”を掌握し、ナタンが“裏面”を掌握する」
少年の表情は、酒か興奮か、ほんのりと紅潮していた。
「そして僕は、“側面”を掌握する」
「側面?」
「……表向きの事情は、こうなる。“アクセル・ベルトランは嫡男であったが、ブリミル教に傾倒、後に出家し、弟に家督を譲る。そして自らは司教として、生まれ故郷のラヴィス子爵領にて、布教に務める”」
「ブリミル教……?」
「今回の一件で、ブリミル教の厄介さとヤバさを思い知った。第二のブランツォーリが現れないとも限らない。だからいっそ、ここのブリミル教を、僕が支配する」
突然、ナタンが笑い出す。
「お前がブリミル教? 寧ろ教祖様の方が似合ってるんじゃねぇか、怪しい方の」
「失敬だぞ、お前」
「いやけど、食事前の祈りの言葉も満足に言えないだろ、お前は」
「言えないんじゃない、敢えて言わないだけだ」
「……始祖ブリミルへの敬意とかは?」
「無い。でも、ブリミル教は利用する」
「……可哀想な始祖ブリミル」
「ともかく」
グラスを置き、アクセルは自分の膝を叩いた。タシタシと、軽い音が鳴る。
「表を握る僕の弟妹、裏を握るナタン、そして側面を担うブリミルの僕。これでようやく、全ては成り立つ」
「……問題は、いずれお生まれになるご弟妹ですね」
落ち着きを取り戻したバルシャは、静かに問題点を指摘した。
確かに、その弟妹がどんな人間になるのか、それが最も重要な点である。
「まだ時間はある。それに、放置してても結構うまく行くのが、この領地さ。僕も兄として監督するし、ナタンにも裏から働いて貰う」
「それでいいのか?」
不意に、ナタンが尋ねた。質問の意図がわからないといった風に、アクセルは小首を傾げる。
「あれだ、ほら。領主にならなくて……家督を継げなくて」
「いいんだよ、別に。考えてみれば、こっちの方がいい。ほら、西地区に、寂れた教会があっただろ? あれ、本当は、ブランツォーリの担当なんだよ。もう、次のブランツォーリは招かない。立て直し、僕が担当するんだ」
アクセルは一口だけワインを含むと、拳を作り、それで隣のナタンの胸を叩いた。
「……お前が、生きてる。誰も、死ななかった。一人たりとも。これは、立派な勝利だ。勝ったんだよ、僕らは」
(……初めてだな。ノーリの予言が外れるなど)
あの老婆に、スルトは尋ねてみたことがある。老婆は、ある種の託宣だと答えた。本当に時たま、まるで神降ろしか何かのように、頭に言葉が入り込んでくることがあるそうだ。そしてそれは、占いなどではない。確定した、現在の先への道標である。
ナタンの心臓は一度止まり、その後、再び動き出したという。
(“ユル”……死と再生のルーン。ノーリの占いは、それを指していたのか? しかし、予言では、ナタンの死は確定していた。いや、確かに一度は死んだ。外れたわけではない。……有り得たのか、そんなことが)
地面は、未だ濡れていた。少し足を動かせば、靴の側でずるりと、泥がせり上がる。双月がただ、彼を見下ろしていた。
どうでもいいことの筈だった。ナタンが死のうが生きようが、生き返ろうが。このイシュタルの館が無くなろうが、存続しようが。自分はまた、元の傭兵に戻り、メンヌヴィルの名を戻せばいい。
そのどうでもいいことが、彼の頭を巡っていた。どうでもいい筈のことが。
「……お前が、スルトか?」
出来るだけ気配を消すようにして、その男が近づいてきているのは知っていた。しかしスルトはその素振りを見せず、たった今、名を呼ばれて初めて気付いたかのように、背後を振り向く。
ハンスはふっと嘲りのような笑いをすると、泥だらけの地面に足跡を残しながら、彼に近づく。
「やはり、メンヌヴィルか。“炎王(スルト)”とはまた、随分身の程知らずな偽名だな」
「…………」
スルトは答えず、再び月を見上げた。
「何だ? 盲目の貴様でも、月光が恋しいのか?」
挑発だった。しかも、本気ではない。ただの遊びである。言うなれば、虐めのようなものだった。その挑発に乗ろうが乗るまいが、ハンスにとっては、どちらでも構わない。
スルトは取り合わず、双月を見上げたまま、再び思索に耽った。
「貴様の危険性は、よく知っている。しかし……あの小僧もよく、お前のようなものを迎え入れたな、大した度胸だ」
「…………」
「しかし、例の噂は知っているのかな?」
心当たりが多すぎる。頭の片隅でそう考えながら、スルトは黙殺した。
これまでマッチを擦るように、人を燃やしてきた。何本のマッチを使ったかなど、覚えている人間はいない。
「俺も、信じようとは思わん。いや、信じたくない、というのが本音か。いくら何でも、そんなこと、ある筈が無いと考える」
「…………」
「お前の一族が……“サトゥルヌ」
破裂だった。
風船に、ハンスの言葉が、針を刺した。
言葉を言い終わらないまま、ハンスは後方へと飛び退く。抜き撃ちを信条とする筈の彼の右手は、まだ魔法を放ってすらいないのに、杖を抜いていた。
スルトは、こちらを振り向いている。顔だけではなく、身体も同じ方向だった。手には、メイスが握られている。
「……噂じゃ無かった、というのか」
確認するようにハンスが尋ねるが、スルトはそのまま、メイスを納めた。そして相変わらず無言のまま、また、背を向ける。
杖を握り締めた自らの右手に気付くと、ハンスは忌々しげに舌打ちし、それをベルトに納めた。そして自らを奮起させようとするかのように、笑顔を作る。
「いや、まったく、驚きだ。あの噂に、根も葉もあったとはな。お前がかの実験小隊に加えられたのも、もしかしたら、一族の秘儀が理由か? それはそうだ、もうお前一人しか残っていないのだからな。そうなると、貴様が何故、一族を皆殺しにしたのか、という疑問はあるが……」
「“疾風”よ」
初めて、スルトが声を出した。
「どうするつもりだ、それを知って」
「ん、何だ、“白炎”ともあろう者が、そんな事を気にするのか? 知られたくないのか? 嫌われたくないのか? “白炎”よ、一体どれほどの人間を燃やしてきた。老若男女の差別なく、赤子も幼子も、神父も妊婦も、聖なるも邪なるも、悉く燃やし尽くしてきたのだろう? そんな悪魔が、誰の言葉を気にする、誰の目を気にする。教えてくれ、“白炎”。一体貴様は、誰に嫌われたくないんだ?」
「…………俺は」
「おいっ、スルト!」
不意に、上空から声がかかった。見上げるまでもなく、二階から、小さな影が落ちてくる。泥が跳ねぬよう、その少年は、近くの石畳の上に着地した。
「それに……ハンス?」
「何だ、その顔は。俺がいては不味いのか?」
「そうじゃないけど」
アクセルは否定するように手を振りながら、持っていた靴を履くと、泥の中に踏み込んだ。
「ただいま、スルト。戻ったぞ」
「ん……ああ」
彼は、若干戸惑いのような仕草を見せる。あまりにもあからさますぎるその様子に、ハンスはブラフなのではないかと考えた。
「クルコスの街に行ってたそうだけど、様子は? 何か変わったこととか……」
「いや、特には。敢えて気になったことを挙げれば、市場の方で……」
そのまま雑談に入った二人を後に、ハンスは踵を返し、建物の中に入った。
クルコスの街の様子、アクセル不在の間の出来事。そしてアクセルも、初めて行った王都トリスタニアのことなど。
「次は、もっとゆっくりと見て回りたいなぁ」
そんな風に笑うアクセルに、スルトはふと気付いた。
「どうした、楽しそうだな」
「ん? んふふ……。これ、何だか分かる?」
スルトは確かめるように、掌を差し出す。その大きな手に、少年の小さな手から、何かが零された。
小石のような形をしている。不揃いの、様々な形。しかしすぐに、スルトは気付いた。表情は、驚愕の色に塗り潰される。
「これは……風石に、火石? それに土石……では、これは……」
「そう、全四種。風、火、土、水の、結晶体。まだ天然モノほどには役に立たないだろうけど、すごいだろ」
「いや、そんな言葉では片付けられんぞ、これは。伝え聞くところでは、エルフですらこのようなことを可能とする者は限られて……」
「祭壇だよ」
あの、四つの属性の祭壇を自作したのは、いつだったか。
相変わらずあそこを住処とする精霊は増え続け、あたかも宝石のように輝いていた。そしてその行き着く先が、どうやら結晶化だったようだ。
自室の祭壇の傍に放置されていた結晶体を発見した時、アクセルの身体は、歓喜に打ち震えた。
「んっふっふっふっふっふ」
くぐもったような、堪らなくなったような笑いを漏らし、アクセルは肩を震わせる。
「待ってろ、スルト。お前にも、いいもの作ってやる」
「……ああ。それは、楽しみだな。しかし全く、デタラメなヤツだ」
掌の結晶を少年に返し、スルトは溜息混じりに呟いた。アクセルは彼の袖を、軽く引っ張る。
「? 何だ」
「一緒に、名前を考えてくれないか?」
「名前……」
「そうだ。今、僕は、アクセル・ベルトランの他に、アリス・ムーンライトというペンネームを持っている。そして、もう一つ、マジックアイテムの製作者としての名前も持ちたい。クラフトネーム、ってヤツだ」
これから更に、金は必要となってくる。組織の為だけではない、父親が要求するであろう、無理難題に応える為にも。
そのために、自分に何が出来るのか……アクセルの出した結論は、マジックアイテムの製作だった。しかし、そのままアクセルの名前を使いたくは無い。もっと、新しい、それこそどこからかわき出た人間、という名前が必要だ。
十数秒ほど考えて、スルトは口を開く。
「……傑 作(マスターピース)」
「マスターピース?」
「そうだ。アルベール・オブ・マスターピース。こんなのはどうだ? 名を聞いた者は、アルビオン辺りの出身だと思うだろう」
「いや、けど、“傑作”だなんてそんな……」
「そこだ」
スルトの大きな掌が、少年の肩を包んだ。
「そういうお前だからこそ、マスターピースと名乗れ。お前とはほど遠い、自信家の名前だ。シンプルで分かり易いではないか。“傑作卿”」
「……うわー、頑張らないと」
「そうだな」
アルベール・オブ・マスターピース……アクセルは何度かその名を、舌の上で転がす。それを具象化してみようとすれば、白衣のマッドサイエンティストが現れた。中年の、妙な瓶底眼鏡をかけた、神経質そうな男である。その様をどこか可笑しく感じ、少年は微笑んだ。
「……なぁ、ベル」
スルトは静かに、名を呼ぶ。その声は、それまでの彼のものとはどこか違っていた。
「新しい物や、新しい技術を開発しようとする心……その欲望は、俺は、健全なものだと思う。素晴らしいと、賞賛されるべきものだ。だが……。時として、人は、それに呑まれる。頭を没っし、ただその先だけを見つめて、無意識に他を視界に入れなくなる。何もかもを巻き込み、踏み潰して、それでも尚、見果てぬ夢を見てしまう。俺は……」
そこで、彼は言葉を切る。言うのを躊躇うというよりは、何を言うべきなのか、それに迷ったようにも見えた。
「……どうした」
続きを促すように、アクセルは尋ねる。スルトは少年ではなく、双月を見上げていた。まるで月面に、己の姿を映し出そうとするかのように。月光すら捉えられない瞳を、ずっと、夜空に向けていた。
「いや、何でもない。ただ杞憂からか、老婆のようなことを言おうとしてしまった。忘れてくれ」
笑顔を作ろうとしたスルトの顔は、歪んだまま、何も表すことは無かった。
“白炎”のメンヌヴィルは、精々、トライアングルクラスのメイジである。そしてハンスは、火属性のメイジにもトライアングルクラスのメイジにも、山ほど圧倒し、勝利してきた。
(それなのに、クソ……クソが)
そのトライアングルクラスの火メイジに、気圧された。火炎など、風で吹き返してやればいいのに。そう、簡単だ。本気を出せば、メンヌヴィルなど、簡単に始末出来る筈だ。
ハンスは傍らの柱を蹴りつけた。
「どうした、兄貴ぃ」
甘ったるい吐息と共に、マルセルが近寄ってくる。今までどこで飲んでいたのか、顔は真っ赤だった。手には、ワインの小瓶がある。
「……マルセルか」
「兄貴ぃ、ここ最高だなぁ」
ニヤニヤと気色悪いほどの笑顔を見せるマルセルは、上機嫌にハンスの肩に腕を回した。飴色の吐息が、ハンスの顔を包む。
「女は美人ばっかりだし、料理はうまいし、酒はあるし……。なぁ、兄貴ぃ。暫くここにいようぜ。傭兵は、ちょっと休んでさぁ。金も手に入ったし、暫くはゆっくり、遊んで暮らそうぜ。最近働き過ぎだったんだ、いいだろ?」
溜息をつき、ハンスは弟分の腕を振り解く。そして彼を放ったまま、スタスタと、廊下を歩いていった。
少し慌てたように、マルセルはハンスの背を追う。
「な、なぁ、兄貴。このまま、ここで働くってのもアリじゃねぇ? 俺ら“疾風怒濤”がいれば、百人力だろ? なぁ、兄貴。どうしてそんな機嫌が悪いんだ? 俺、何かしたか? それとも何かあったのか? 頼むよ。兄貴。俺、ここが気に入っちまったんだ。この通りだ、兄貴、なぁ兄貴」
ハンスは突然振り向くと、マルセルの手から小瓶を奪った。風の刃で栓を開け、口をつけると、そのまま天を仰いで瓶を逆さまにする。ごきゅごきゅと激しく喉が鳴り、ワインの水面が、どんどん下がっていく。やがて小さな渦となり、ワインが全てハンスの喉を通り抜けていったところで、彼は瓶をマルセルに突き返し、大きく息を吐いた。
「……だから駄目なんだ、お前は」
「え?」
ハンスは口を拭い、歯根を剥き出しにして笑う。さながら悪魔の笑顔のようで、マルセルは酔いが醒めたように身体を硬くした。
「なぁ、マルセル」
「な、何だ?」
「そんなに気に入ったんなら……乗っ取ろうじゃねぇか。この娼館だけじゃねぇ。この組織の全てを、な」