小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第1章 青き春の章

第32話<夢中>





 「ヒッヒッヒッヒ」

 クーヤはペン先をちろりと舐め、紙に文字を走らせる。

 「疾きこと風の如く……」

 風、の漢字。その脇に、ハンスとマルセルの名が並ぶ。

 「徐かなること林の如く……」

 林、の漢字。その脇に、バルシャの名。

 「侵掠すること火の如く……」

 火、の漢字。その脇に、スルトの名。

 「動かざること山の如く……」

 山、の漢字。そこで、老人は暫く考え込む。やがて口角を吊り上げると、まぁ他におらんしな、と独り言を呟き、クーヤと記した。

 「知り難きこと陰の如く……」

 陰、の漢字。その脇に、アクセル・ベルトランの名。

 「動くこと雷霆の如し……」

 雷、の漢字。その脇に、ナタンの名。

 「何とびっくり、揃いよったわ」

 顔の皺を一層深め、クーヤは会心の笑みを漏らした。中指で白眉を撫でながら、ペンを机の上に戻す。
 風林火山陰雷……六つの面を揃えたこの組織は、もはやヤクザ集団などではない。少し肉付ければ、立派な軍団である。

 「ヤベェな。こんな綺麗に揃われたら、早々抜けられんわい」

 言葉だけならば愚痴のようだが、彼は肩を震わせて笑っていた。
 生まれた、生きた、後は死ぬだけ。佐々木武雄の葬式から、既に十余年。何のしがらみも持たない筈の自分が、今正に、縛られようとしている。それが堪らなく滑稽だった。

 「……ヒヒッ、死ぬまで生きようじゃねぇか。まったく、面白い」
 「死ぬの? クーヤ……」

 肩に、白い腕が回される。ギャエルの腕だった。身体を密着させ、老人の肩に顎を乗せると、彼の前の紙を覗き込む。

 「……遺書、じゃないな。よかったよかった」
 「遺言か。そんなもん、その時が来れば口で言うわい」

 ギャエルの腕に、骨張った掌が重ねられる。

 「出来れば……あたしより長生きして欲しいんだけどなぁ、クーヤには」
 「ヒッヒッヒ。お前が婆さんになる頃にゃ、ワシゃ土に還っとるわ。……いいのか、起きて。未だ日の出にゃ時間があるぞ」
 「んー。また、欲しくなった」
 「嬉しい事言ってくれるじゃないの。それじゃ、粉骨砕身、ご奉仕させて頂くとしますかな」

 クーヤはギャエルを抱え上げると、ベッドの上に放り投げた。








 お気に入りの髪飾りは、アクセルが買ってきた物。お気に入りの服は、アクセルのお手製。若草色のワンピースの襟から、プハッと頭を出したティファニアは、鏡の前に立つと、髪飾りを丁寧な仕草で身につけた。
 太陽が燦々と、窓辺に降り注いでいる。その光を浴びる少女の髪は、麦穂のように輝いた。最後に、チョーカーを首に巻くと、尖った耳が完全に髪に隠れる。

 「あっ、そうだ」

 思い出したように振り返るティファニアに微笑み、マチルダは麦わら帽をその頭に乗せた。

 「ありがと、お姉ちゃん」

 ティファニアはそのツバを持ち、ぎゅっと被る。あとはピンクの花柄ポシェットを下げれば、彼女の余所行きのスタイルが完成した。
 虚無の曜日には、大通りに市が立つ。見物料を求める大道芸人もやって来て、街はなかなかの賑わいを見せる。そしてそんな街中を歩くのは、ティファニアの楽しみの一つだった。

 「お姉ちゃん、用意出来た?」
 「ああ、出来てるよ」

 そう言いながら、マチルダは壁際の時計に目を向ける。
 妙だった。ティファニアとの買い物なら、何を置いても予定をこじ開けるアクセルが、未だ顔を見せない。ティファニアもそれに気付いたのか、マチルダの袖を引く。

 「遅いねぇ、お兄ちゃん」
 「そうだね……」
 「まだ、寝てるのかな?」
 「そうかも」
 「じゃ、私、起こしてあげなきゃ! お兄ちゃん、昨日は夜更かししてたに決まってるし。きっと、寝坊しちゃってるんだ!」

 言い終わると同時に、パタパタとティファニアは駆けていく。
 部屋に一人残されたマチルダの耳に、小高い音が届いた。それが何の音であるのか、見なくてもわかっていたが、彼女は窓から一階を見下ろす。

 木剣を握るアニエスが、十字型に組まれた木材に、様々に打ちかかっていた。跳躍して打ち、しゃがんで打ち。縦に振り下ろし、横に薙ぐ。いつもの、彼女の修行風景だった。

 「……精が出るわね、アニエス」
 「ああっ」

 マチルダの声にも振り向かず、一心不乱に木剣を振り続ける。アニエスの午前は、そうやって過ぎていく。血豆や擦り傷など、掌が傷つけば、アクセルが治癒の魔法を使うのだが、最近アニエスは、それを昼食の前に頼んでいた。午前中の鍛錬が終わるまでは、いくら怪我をしようが、血を流そうが、頑なに治癒を拒む。一度など、折れた木剣がざっくりと太腿に刺さったが、アニエスはそれでも治癒を断り、涙を流して痛みに唸りながらも、新しい木剣を振り続けた。結局その時は、終了時間を迎える前に貧血で倒れたのだが。
 “もうヘタレなんて言えないな”と、アクセルはマチルダの前で、そう笑っていた。

 「……これから買い物に行くんだけど、アニエスもどう?」
 「いや、私はいい」

 断るアニエスだが、その時初めて、木剣が空を切った。
 マチルダは窓際で頬杖を付くと、続ける。

 「お昼の後、おやつも作るつもりなの。テファがまた、メロンパンが食べたいって言い出してね。その材料も買うから、荷物を持ってくれる人が欲しいの」
 「メロンパン……か」

 時たまアクセルが作る、砂糖がかかったパン。表面にクッキー生地を貼り付けて焼くそうだが、焼き立てのあの不思議な食感は、貴族ですら知らないのではないかと思える。
 アニエスの手が止まった。

 「まぁ……そうだな」

 木剣を下ろし、考える。

 「その、あれだな。この暑さの中、休みも取らないのは自殺行為であり、それはただの愚か者で……。弓も、たまには弦を外して休ませてやらなければ……」
 「ね、行きましょう」
 「……そうだな、よし。パシられてやることにしよう」

 微かに呆れも混じったような微笑みと共に、マチルダは溜息をつく。
 風が吹き、彼女の髪を解した。目を細めて髪を抑えながら、マチルダの瞳は、虚空へと向けられる。どこか、懐かしむような表情だった。

 「お姉ちゃん」

 一瞬、惚けていたのだろう。マチルダはハッとして振り返ると、窓から離れる。

 「ど、どうしたの? テファ」

 ふて腐れたように唇を尖らせ、ティファニアは上目遣いにマチルダを見上げた。

 「お兄ちゃん、起きないよ」
 「……え?」








 初めは、誰しもが、ただ疲労しているだけだと思った。阿片の一件から今まで、アクセルに、心の安まる時は無かった。
 しかし、アクセルを置いて買い出しに行ったマチルダ達が帰って来ても、少年は目を開けない。そして皆、異変に気付いた。

 水メイジの診断は、疲労による休息。
 それは間違ってはいなかったが、問題は、対処法が見つからないことだ。

 「……ただ……眠ってるだけなんだよな」

 ベッドの上の少年は、ただ静かに、寝息を立てている。寝顔を眺めるナタンはそう言いながら、アクセルの頬を軽く突く。

 「身体が、な」

 クーヤは椅子をガタガタと鳴らした。

 「身体が、拒否しとる。起きることを。まぁ要するに、疲労が極限まで達して、並大抵の睡眠じゃ足りん、と判断したんじゃろうな」
 「……そりゃ俺だって、12時間くらいぶっ通しで眠ったことはあるがよぉ……。有り得るのか、そんなの。もう20時間近くになるんだぞ?」
 「蛇や熊なんぞは、数ヶ月眠っとるわい」
 「そりゃ冬眠だろうが」
 「そう、その通り」

 クーヤは立ち上がると、アクセルの襟から手を差し込み、彼の胸に直に掌を当てた。

 「冬眠みたいなもんじゃな。見ろ、心臓も随分ゆっくりじゃ。可能な限り体力の消費を抑え、そして可能な限り体力の回復を図っとる」
 「いつ、目覚めるんだ?」
 「知らん」

 二度寝や三度寝というわけではない。目を覚ますことも無く、ただ昏々と、まるで物語の眠り姫のように、ただ眠っていた。

 (……ガキじゃねぇか、未だ……)

 今更ながらそのことを認識し、ナタンは唇を噛む。少年の身体は、随分と小さく見えた。
 いくら大人びていようが、死体の隣で食事が出来るような異常者だろうが、未だ十にも満たない少年なのだ。確かに、全てはアクセルが始めたことである。しかし彼は、彼自身も、自らの年齢を忘れていたのではないか。日付が変わる前に休むことも無く、昼寝をすることも無い。常に考え、常に磨き、常に心がけてきた。

 「失礼します」

 ノックの後、盆を持つリリーヌが入室した。深皿には、湯気の立つシチューがある。彼女と入れ替わりにクーヤは退室し、それにナタンが続く。

 「……リリーヌ」

 去る間際、ナタンはリリーヌを振り向いた。

 「はい」
 「その……すまん。けど、頼む」
 「仰らないで下さい、そんな事。私も、ベル君のこと好きですから」
 「そうか……」

 微笑む彼女に頷き返し、ナタンは後ろ手にドアを閉める。

 リリーヌはベッド脇に盆を置くと、匙で一口すくい、それを自らの口に含んだ。具材はとろける程に煮込んであるが、今のアクセルには、咀嚼する力すら無い。リリーヌは腰を上げ、アクセルの唇を開かせると、零れないよう口移しで、彼の口の中にシチューを流し込んだ。少年はそれを、静かに嚥下する。

 翌日になっても、アクセルは目を覚まさなかった。ティファニアが話しかけても、反応を見せない。まるで沼のように深い眠りだった。

 「……まだ、か」

 不思議だと、アニエスはそう思う。少し頬を叩き、名を呼べば、今にも目を開けそうに感じられた。しかし実際は、いくら呼びかけても少年は反応しない。

 「ベル君」

 無駄だろうと思いながら、それでも呼んでみる。やはり、一方通行。何も返っては来ない。

 「お兄ちゃん、いつ起きるのかなぁ?」

 隣には、ティファニア。ベッドの脇に頬杖をつき、首をふらふらと動かしている。
 少女の疑問に答えるのは、いつもはマチルダの役目なのだが、今はいない。アニエスは無言だった。

 「ねぇ、いつ起きるの?」

 ティファニアは振り返り、アニエスに尋ねる。それに答えられる筈は無かった。アニエス自身、不安で心が揺さ振られているというのに。
 何も知らない、無垢な瞳に彼女は怯む。しかし助け船は、意外な所からやって来た。

 「心配ない。もうすぐだ」

 声を聞いて驚き、そして振り向いてもう一度、アニエスは驚いた。
 スルトだった。部屋に入ってきた彼を、蹌踉けながら見上げ、ティファニアはまた聞き返す。

 「ほんとに? もうすぐ?」
 「ああ、もうすぐだ。少し長く、寝過ぎているが。……ティファニア。マチルダが呼んでいた。行ってこい」
 「うんっ」

 はっきりと、保証するような肯定を聞いたからか、ティファニアは満面の笑みになると、パタパタと走っていく。スルトはそのままベッド脇の椅子に腰掛けると、自らの杖であるメイスを床に立て、指先で弄んだ。
 ふんっ、と、アニエスは鼻で嗤う。

 「嘘も、そこまで堂々とつければ立派だな」
 「……嘘を言った覚えは無いが」
 「ベル君が、もうすぐ目覚めるなんて、どうしてわかる?」
 「わかる筈が無い。俺はただ、信じているだけだ」

 信じている……その言葉が何故か、アニエスの癪に障った。かぁっと頭に血が上りかけたが、踏み止まる。

 「信じる根拠は何だ?」
 「そんなものは無い」
 「何だそれは。無い無い尽くしだな」
 「ではお前は、目覚めることなど無いと、そう信じたいのか? ……どちらなのか、など、どうでもいい。俺はただ、目覚める方を信じることにしただけだ」

 アニエスが立ち上がる。それ以上、この場に留まることを拒否するかのように、スタスタとドアへと向かった。

 「……言っておくが」

 ノブに手を掛けた所で、彼女はスルトを振り向く。

 「目覚めると信じているのは、私も同じだからな」
 「ああ……。知っている」

 少々乱暴に、音を立てて、ドアは閉じられた。

 もしも、このままずっと目を開けなければ……。そんな危惧が、段々と現実味を帯びたものになっていく。
 アニエスは焦れた心を叩き付けるかのように修行に励み、ミシェルとマチルダは何度も見舞いに行った。

 だが、その眠りも永遠では無い。
 アクセルがようやく目覚めたのは、イシュタルの館に戻って三日後の、昼前のことだった。

 「ん…………」

 本当に、自然な目覚めだった。朝、日の光を浴びてのそれと同じような、ごく自然な起床。
 昼食を持ってきたリリーヌは、危うく盆を落としそうになる。

 「ベル君……!」
 「おはよう、リリーヌ。長い間……眠ってたみたいだけど」

 身体を起こそうとする彼に駆け寄り、リリーヌは枕を支えにして、アクセルの上体を立たせた。

 「心配かけたね……。ごめん」
 「ううん……」

 彼女は微笑と共に首を振る。

 「その……知らせて、くるね……」
 「ああ。リリーヌ」
 「ん?」
 「ありがとう」
 「うん……」

 彼女は袖口で目を押さえながら、ドアを開け、小走りに走っていった。

 一人残されたアクセルは、窓の外の陽気に目を細め、そしてそっと、自らの心臓に掌を押し当てた。

 (……夢……)

 恐らく、随分と長い間眠ってしまったのだろう。
 そして自分はその間、夢を見ていた。夢の多くがそうであるように、目覚めた今はもう、はっきりと思い出せない。記憶に霧か靄がかかり、全ては曖昧になり、輪郭すら定かではない。

 (何か、大切なことだったような……)

 その大切だった筈のことが、思い出せなかった。覚えているのはただ、その重み。
 誰かに、何かを言われた。その言われたことが、思い出せない。

 (誰に……? 何を……?)

 全ては文字通り、霧の中だった。

 「……フハハハハハハッ!!」

 突如として、笑い声が届く。それと同時に、ガチャガチャとノブが軋んだ。
 ビクリと身体を震わせたアクセルは、ドアに目を向ける。ノブの他に、ドアを叩く音もした。

 「フハハハハハッ!」

 恐らくは、押すのではなく引かなければならないことを思い出したのか、すぐにドアが開き、見事なまでの高笑いの主が姿を現す。アニエスだった。

 「フハハハハッ、お寝坊さんだなぁベル君!」
 「ああ……。アニエス、おはよう。心配かけたね」
 「クククッ、どうしたどうした、ヤケにしおらしいじゃないか! ははぁん、さてはアレだな! 恋しいおねぇさんに久々に会えて、感動で胸いっぱいの涙腺崩壊三秒前といったところか、んん!?」
 「まぁ、そんなところかな……」
 「フハハッ、素直だな、愛いヤツめぇ! そういう素直な少年は、おねえさんは嫌いではないぞ? しかしベル君! 聞くところによれば、眠ってる間、大きいのも小さいのも垂れ流しだったそうではないか! それをリリーヌさんに処理させたのは、頂けないなぁ! それともアレか? そういうプレイのつもりだったのか!? このマセガキめがっ!」

 さながら、機関銃を想わせるような喋りだった。まるでホースの先を抓んだように、言葉は勢いよく飛び出し、途切れることを知らない。
 未だ寝惚け眼のアクセルは、微笑を浮かべて聞いていた。

 「フハハハハハハッ、どうしたどうしたぁ! そう言えば先ほど、ドアがやけに開きにくかったが、きっとアレだろう!? たまった涙の水圧だろう!? そーかそーか、とっくに泣きべそ大洪水か! 確かに、ベル君っ、よく見れば涙のせいでグショグショじゃないか! 涙腺崩壊で、両目どころか全身くまなくウルウルだな! フハハッ、ハッ、ハッ……ハッ……し、仕方ない、から……おねえ……ざんの……胸で……思う存分っ……泣……」

 どうやら、限界を迎えたようだった。
 蛇口を止めたかのように言葉が途切れ、そして同時に、別の蛇口が開いてしまったらしい。両手で顔を覆い、肩を震わせるアニエスに、アクセルはそっと呼びかけた。

 「アニエス、来てくれる?」

 返事も、頷きも返さず、彼女は顔を隠したままアクセルの前に歩み寄る。
 指の隙間から、微かに、嗚咽が漏れていた。

 「……抱き付いていい?」

 微笑を浮かべたまま、アクセルは尋ねる。アニエスは答えず、バッと腕を広げると、急いで少年の頭を抱え込み、その若草色の髪に顔を埋めた。

 「……ありがとう」

 一言、それだけ呟くと、アクセルは目を閉じる。どくんどくんと、アニエスの心臓の確かな脈動が、暗闇の中に響いていた。その心臓の音、そして微かな嗚咽を聞くうちに、アクセルの瞼の裏にもふと、涙が滲んだ。

 (ああ、そうだ)

 不意に、思い出せた。夢のことを。
 誰に言われたかもわからない。何故言われたのかもわからない。どんな声だったのかすら覚えてはいない。
 それでも、たった一つだけ、思い出す事が出来た。霧の中、その部分一点だけが、何故か晴れている。

 (妙な夢だったなぁ……)

 夢は、確か記憶の整理の余波のようなものだったと聞いたことがある。様々な記憶が混じり合い、ちぐはぐに組み合わされ、破綻した世界を生み出すのだと。
 その世界の中で、自分は確かに、言われた。

 “お前の命はあと十年”と。



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ゼロの使い魔 (MF文庫J)
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