第1章 青き春の章
第33話<野望>
両手を、胸の前で交差させる。身体を縮め、背を丸め、膝を曲げる。
「……ふっ……」
抑え込むように、溜め込むように。体中を震わせながら、解放に備える。
「っかぁぁぁぁぁつっ」
跳躍し、両手両足を大の字に広げた。そして着地すると、少年は四方八方に正拳突きを放ち始める。
「アクセル・ベルトラン復活ッッ!! アクセル・ベルトラン復活ッッ!!」
「だぁもうっ、うるせぇ! 何回やんだよ、それ!」
「また三日くらい寝たらいいんじゃないの?」
ナタンが怒鳴りつけ、フラヴィが虚空を見上げて溜息をついた。
普段から破天荒な面のあるアクセルだが、眠り過ぎて体力が有り余っているのか、平時にも増して騒がしく、賑やかである。
辟易した様子の二人を前に、アクセルはオーバーアクションに両手を広げ、肩をすくめ、やれやれという風に首を振った。
「ヘイヘイヘイヘイ、ショウヘイ、ヘーイ。みんな大好き、幼気な愛玩動物が、夢の世界での死亡宣告を乗り越えて帰って参りました、ってカンジなのに、何故そんなに素っ気ないんだい? ははぁん、わかったぞ。さては君たち、僕がいなくて不安いっぱい胸おっぱい、切ない気持ちが甘酸っぱい、だったワケだな? そうだろ。いや、そうに違いない。全く、このこの……このっ、子猫ちゃんどもめ! 言葉の前と後に“ニャン”を付けろ!」
「ニャンッ、黙れこの殺人鬼が! 心配して損したニャン!」
「ニャんた、アニエスから何か感染されたのかニャン?」
「……ニャタンがキッツイのは想定の範囲内だけど、フラヴィがキッツイのは哀れだニャー」
「よし、ベル。血圧が高すぎなんだろ? 血ぃ抜いてやろうじゃないか。一滴残らず」
ともかくイシュタルの館にも、そして組織にも、ようやく日常が戻ったことになる。尤も、その変化を知る者は限られているが。
ラヴィス子爵は妻に会い、レオニー子爵領から連れてきた傭兵たちをそのまま守備隊に組み入れると、北東街道の土砂を除きつつ、再び旅立った。それはアクセルの長い睡眠の前の出来事であったが、もしも子爵に報告が届けば、彼はその足を止めただろうか。
アクセルが代官、リーズが代理として務めるのは、今のところ変わりは無い。しかしそれも、第二子の誕生によって、やがて変化が生じるであろう。どのような変化であるのか、それをアクセルが予知する術は無いが。
「恐らく僕の父には、野心がある」
それが、アクセルの出した答えだった。
「代々、大貴族の後ろ盾を得る代わりに、その手下として働いていたそうだけど……。忠誠を誓う、なんてことは無い。所領安堵の為の、ギブアンドテイクだ。そして父は、今の状態に納得していた訳じゃない。大貴族の後ろ盾など無くても、ラヴィス子爵領を守り抜ける可能性をこの組織に見たからこそ、存続を許した。となると、組織のこれからの行動は一つ」
「拡大、ですね」
後を引き継ぐ形で、バルシャが呟いた。
今までは、ひたすら守ってきた。女を、イシュタルの館を。この街を、組織を。ただただ守り抜き、反撃し、向かってきた者は叩き潰した。
今度は、攻める番だった。
「賭場のアガリも、既に精一杯。これ以上は見込めません。娼館も、確かに赤字ではありませんが、外部から見えるほど儲かっているわけでも無い。……力が、必要です。ここで守ってばかりでは手に入らない、力が」
「それで、クルコスを狙うのか?」
「そう提案します」
バルシャはそう言いながら、壁の地図のクルコスの街にピンを刺した。
王都へ続く北東街道を、上っていくことになる。
「クルコスの裏を支配する組織は、三つ。まずは奴隷市場ですが、これは既に、配下にあります。残る二つは、占い師の老婆、ノーリが支配する『漠忘の彼岸』。そして、商人の連合体である『バルテルミィ』。……決して、易い事ではありません。先代の奴隷市場の管理人は、『漠忘の彼岸』にだけは手を出すな、と、そう言っていました。ですが、ここを支配出来ないようならば、どの道勢力拡大など夢です。我々にとっても、これは賭けになります。この街すら失う恐れもありますし、勿論、死人も出るでしょう」
バルシャはそこで、ナタンに目を向ける。
椅子に深々と腰掛け、頬杖を付いて地図を眺める彼は、実に泰然としていた。
「……続けます。謎が多い『漠忘の彼岸』は、ひとまず置いておくとして、先ず攻めるのは商人の『バルテルミィ』。彼等を調べ上げます。望み、弱み、怨み、好み、あらゆる事を。必ずどこかに、隙はある筈です。それを突き上げ、『バルテルミィ』を支配下に置いた後、『漠忘の彼岸』を押し潰す。今の段階で描く手順としては、これが妥当かと」
「そしてクルコスの街を狙うもう一つの理由は、傭兵ギルドの復興だ」
アクセルは椅子から立ち上がると、バルシャの隣に並び、ノックするように地図を叩く。
「北東街道の上流を、このまま治安の悪い状態にしておくわけにはいかない。そもそも、クルコスの治安悪化の原因は、傭兵ギルドの壊滅にある。レオニー子爵も腐心しているが、結果は出せていない。ギルドを復興したとして、それを任せられる、有能な人材が見当たらないんだ。……『漠忘の彼岸』は知らないが、既に『バルテルミィ』は、勢力拡大の為に傭兵ギルドを手に入れようと動き出している。それに先んじて、この組織が、クルコスの傭兵ギルドを設立する」
官としてではなく、民としての行動。不満を持っていたり、反抗したりする傭兵たちを纏め上げる、強力な力を持った人間が必要だった。
アクセルが選んだのは、『疾風怒濤』のハンスとマルセル。フリーランスとして今まで生き抜いてきた彼等に、クルコスの街で、傭兵ギルドを立ち上げさせる。並の傭兵メイジなどでは歯が立たない、強力なメイジであるあの二人ならば、他の傭兵達も認めざるを得ないだろう。例え暗殺計画が持ち上がっても、そうそう殺される彼等ではない。
「まずは傭兵ギルドを設立、その次に『バルテルミィ』を相手して、最後に『漠忘の彼岸』。順序としては、そうなるな」
「はい」
「よし、早速準備だ。バルシャ、お前は奴隷市場と連携して、傭兵ギルド設立の下地を整えてくれ。そしてハンスとマルセルがギルドを立ち上げた後、『バルテルミィ』を調査。その時は、ベル。お前もアリスとして、連中を探って貰う」
「よしきた」
「それまでは、いつも通りだな。全ては、傭兵ギルドの後だ。俺たちはここの土台を固める為、治安維持に努める」
「そうそう、こっちも疎かには出来ないんだ。もう夏も終わる。つまりは、学校の夏休みが終了するということだ。以前から危惧していた貴族のガキが、イシュタルの館で問題を起こすかも知れない。……ハンスとマルセルはクルコスに行かせるとして、やっぱりスルト、それにクーヤは外に出せないなぁ。まぁ、僕もなるべくアリスでいるし、バルシャがいなくても、何とかなるか」
「……すみません。以前は任せて下さいなど、大きな事を言ったのに」
「だからよぉ、バルシャ。お前には、もっと大事な仕事が出来ただけだろうが。ウジウジ言うなよ。さて、こんなところか。予定も立ったし、小腹も空いた。終わりにしようぜ」
大雑把ではあるが、クルコス制圧の道は立った。
アクセルが鼻歌交じりにナタンの部屋を出た後、残されたバルシャは、ふとナタンに声を掛ける。何か腹に入れようと立ち上がったナタンは、椅子から腰を浮かせたまま、怪訝そうに彼の顔を見た。
「少し……驚きです」
「何がだ?」
ナタンは更に首を傾げる。
「このような勢力拡大を、ボスが言い出したことです。その、別に否定的な意味を含んでいるわけでは無いのですが、貴方には、そういう野心は無いものだと……」
「ああ、そりゃ見込み違いだぜ」
ドサリと音を立て、ナタンは浮き上がった腰を椅子に落とした。
ラヴィス子爵との対峙後からか、彼はどうも、一回り大きくなったように見える。一度は心臓が止まり、その死線を乗り越えて生き残ったからか。
「バルシャ。俺には一つ、野望があった。今もある」
「野望……ですか?」
「そうだ、野望だ。秘密だけどな。のし上がるとか、いい女を抱くとか、豪華な服に身を包むとか、大勢の人間を跪かせるとか……そんなのがちっぽけに思えるほど、バカでかい野望だ」
欲望とはつまり、野望の原動力。金が欲しい、いい女を手に入れたい、尊敬されたい、畏怖されたい……そうした欲望が野望に火を注ぎ、その人間を動かす。王になるという野望があれば、その野望は欲望によって肯定され、人生も命も賭けさせることになる。
大勢力の大ボスになれば、金も、女も、力も手に入る。貴族のような暮らしが出来、自らの手を汚すことなく他人の人生を支配することが可能となり、大抵の我が侭を押し通すことが出来る。
野望を抱いていながら、ナタンはそれらの欲望を、ちっぽけに思えると語った。
「……一番の野望は、たった一つ、それだけだ。けど、それじゃあ駄目だった。野望はいくつも必要なんだ、俺の場合は。イシュタルの女達、貝殻の男達、それにお前ら……。俺の肩には、たくさんのものが乗っかってる。なら俺は、乗せてる奴らに、夢を見せてやりたい」
その一番の野望について、ナタンはバルシャにも決して話さなかった。
祭壇に住まわせたアクセルの精神力は、相変わらずそこを住居としていた。そして気付けば増加している。どこからか仲間を連れてくるのか、それとも精神力それ自体が分裂して増殖しているのか、それは定かではないが。
増加を続け、飽和状態になれば、それは結晶体として実体化する。そう呼んで正しいのか定かではないが、アクセルはそれらを総じて、精霊石と名付けた。
(……さて、どうするか)
通常、メイジがそれを生み出すことは出来ない。火石も風石も、全ては宝石や化石のように、鉱脈として発掘されるものだ。強大な力を有するエルフですら、それを製造出来る者は限られている。
はっきり言って、扱う勇気はなかなか出なかった。下手をすれば、虚無魔法並の威力と共に暴発してしまうのではないか……そんな恐れがあった。
(……ゆっくり考えよう)
精霊石は相変わらず生産されていたが、アクセルは全て、厳重に保管することにした。今の力量で、扱いこなせるとは思えない。ただ、ほんの少しだけ……本当に、ほんの少しだけ、使うことにした。あくまで一部だけ、慎重に、注意深く。
あれを作る為に。
そして、気がかりな事。自分の今の力量……メイジとしてのクラスだ。
ナタンが殺された時、トライアングルクラスに跳ね上がったという自分の力は、未だラインクラス。精神の爆発による、一時的なものだったらしい。しかしラインクラスの中では確実にトップの実力であり、やがて自然とトライアングルに達して落ち着くだろうと、ハンスもスルトも、口を揃えていた。
(……さて)
服は、いつものゴシックロリータ。娼婦達の中にも、影響されたのか似たような服を着る者もおり、このイシュタルの館でそう珍しいものでは無くなった。夏なので、半袖に改造したものを選ぶ。
カツラを被り、軽く口紅を。爪の状態を確かめ、仕上げに、鏡の前でくるりと回った。
「異常なし、と」
アリス。イシュタルの館に住む、不思議な少女。ナタンのお気に入りだとか、バルシャの妹だとか、様々に噂されていたが、確かに、見習いの娼婦ではなく管理側であるというその立ち位置は、特殊だった。
イシュタルの館の玄関では、既に準備を終えたリリーヌが、花壇のヒマワリを眺めつつ待っていた。
「お待たせしてごめんなさいね、リリーヌ」
アクセルの口調は、余所行きのそれである。自分はアクセルでもベルでもなく、アリスという少女であるという自己暗示にも似た切り替えは、容易には崩れなかった。
「ううん。それじゃあ、行こっか。アリス」
寧ろ気を付けるべきは、アリスに接する他の皆だった。間違っても、ベルなどと呼ぶわけにはいかない。
リリーヌの隣に並び、アリスは外に出た。天気は曇りで、時々太陽が、思い出したように顔を見せる程度。その為、暑すぎず寒すぎず、過ごし易い気温だった。花壇の周りを、蝶が飛び回っている。時折涼しい風が吹き、木の葉が囁き合った。
イシュタルの館を出た後、街の中心部へと向かう。若草色のドレスに身を包んだリリーヌは、実に優雅な所作で、大通りを歩いていた。
(……美人だな)
隣のアリスも、そう思う。整った顔立ちに、柔和な雰囲気。一度その美しさを目に入れてしまえば、彼女のちょっとした動作も、歩き方も、話す言葉も、表情も、あらゆるものが美しく感じてしまう。
声を掛けてくる商店の主人や、挨拶してくる酒場の女将に、丁寧に会釈を返しながら、リリーヌは尚も歩き続ける。アリスはただ、従者のように付き従っていた。
やがて、東地区の端に達したところで、彼女の足が止まる。
「着いたわ」
リリーヌのその言葉に、アリスも看板を見上げる。三階建ての建物で、一階部分の入り口の上に、酒瓶を形作る真鍮製の突き出し看板があった。
食堂の名前は『揺れる天窓』。ふと、覚えのある名だと思った。
「リリーヌ様!」
その声の大きさにも驚いたが、様を付けているのにも驚いた。アリスがふと顔を上げると、店の中から、一人の可愛らしい少女が駆け出してくる。
「ようこそいらっしゃいました、リリーヌ様!」
年の頃は十五、六。はきはきとした活発な、看板娘といった感じの少女だった。
「元気そうね。モニク」
リリーヌが少女の名を口にした時、アリスはようやく思い出せた。
以前の、立て籠もり事件。リリーヌが服を脱ぎ去り、その隙にバルシャが犯人を取り押さえた、あの事件だ。人質になった少女の名前がモニクであり、事件の現場はこの食堂だった。
「席の用意は万端です。ささ、小汚い店ではありますが、どうぞ、奥の方へ……」
リリーヌの手を取り、モニクと呼ばれた少女は店内へ導く。その時、ちらりとアリスを振り返り、眉間に皺を寄せて怖い顔で睨んだ。
(……ああ、なるほど。お邪魔虫ってワケね)
あの事件以来、どうやらこの少女は、すっかりリリーヌに懐いてしまっているようだ。更にその好意は、少々妙な方向へと傾いているらしい。
心の中でだけ苦笑いを浮かべつつ、アリスもそっと、二人の後に続いた。
店内は、なかなか小綺麗だった。まだ昼食には少し早く、客の姿は見当たらない。入り口脇の階段を上り、三階に達すと、ベランダに二人分の席が用意されていた。
“予約席”と記された札を持ち上げ、モニクは恭しく椅子を引き、リリーヌを座らせる。アリスも自ら椅子を引き、その向かいに腰掛けた。
モニクはテーブルの前に立つと、一つ咳払いをする。
「本日は、当『揺れる天窓』亭にご予約を頂き、ありがとうございます。リリーヌ様、あともう一人」
アリスは今度こそ苦笑した。
「それでは、ただいまお料理をお持ち致します。暫しお待ち下さい」
ただの居酒屋食堂であるのに、一流レストランを意識したかのような喋り方だった。それもまた、このモニクという少女のリリーヌに対する、精一杯の敬愛の表れなのだろう。
モニクが去った後、アクセルはアリスの顔で微笑んだ。
「随分と、慕われてらっしゃるのですね。リリーヌ様」
「うん、そうなの。有り難いことに」
リリーヌは頬杖をつき、そっと微笑みを返す。そして彼女の人差し指が、どこかへ向けられた。アリスはその指先を追う。
「ねぇ、アリス。あそこに、大きな建物が見えるでしょう?」
「ええ、ありますわね。確か、使われていない倉庫だった筈。あそこは……」
そこで、アリスは気付いた。ここが東地区と南地区の境目であり、あの倉庫こそ、自分が誘拐された場所であることに。あそこで初めてフラヴィと顔を合わせ、メンヌヴィルに目を付けられた。
あの時も、今と同じ、自分はアリスだった。
「その周りに、いくつか空き家があるの。それを繋げれば……」
「なるほど。あれが、劇場の候補地ですか?」
以前、アクセルはリリーヌに尋ねた。何か欲しいものは無いかと。
彼女の答えは、望んだものは、大きかった。劇場である。
「娼婦の私が、街の皆に受け入れられている。それは、凄い事だと思うの。男に見下され、女に軽蔑される娼婦を、ああやって慕ってくれる子もいる。……幸せなことだわ。受け入れて貰える、というのは」
彼女も、あの倉庫を忘れた訳では無いだろう。アリスと同じ方向へ目を向けたまま、リリーヌは続けた。
「イシュタルの女の子達にも、歌の上手な子もいれば、物語が大好きな子もいるの。勿論、本業を疎かにするつもりは無いわ。空いた時間で、稽古をすればいい。それは確かに、本物の劇団には敵わないけれど、娼婦達が行う歌劇は、それだけで話題になると思うわ」
それは、リリーヌの立てた作戦。
「だから……あそこを、劇場に改造して欲しいの」
アリスは彼女の作戦を、前世の知識に当てはめる。
要するに、政治家や金持ちが、大金を払ってでもアイドルや女優を抱きたがるのと同じなのだ。それは性欲を満たす為だけではなく、大勢の人間が応援し熱狂するその人物を、自分一人が独占しているという、征服欲の為。
美形揃いの娼婦達である。稽古次第で、また演劇の出来栄えによっては、人気は更に上がるだろう。
ステージの上は、不可侵の神聖な領域。その領域で、アイドルとして輝く彼女たちを手に入れるためならば、貴族も商人も、大枚を叩く。
(枕営業ありきのアイドルってことか? 何という逆転の発想。……しかし)
アリスは考える。そうすれば確かに、女優を兼ねる娼婦達の人気は上がり、彼女たちを独占するためならば、客同士で値の釣り上げ合戦が起こる。そしてオークションのように、高騰するだろう。
しかしそれはあくまで、成功した場合の話である。
倉庫を見つめたまま、アリスは険しい顔をして考えている。リリーヌはテーブルに両手を置き、椅子から腰を浮かせて身を乗り出すと、そっと顔を近付ける。彼女の唇が、アリスの頬に触れた。
「ひふっ!?」
奇声と共に、アリスは口付けられた頬を抑えて仰け反る。がたんと椅子が鳴り、危うく転倒しそうになった。リリーヌは既に椅子に戻り、両手で頬杖をついてアリスを眺めている。彼女は、微笑んでいた。
「な、何……ですか?」
若干頬を染めたまま、アリスは引きつった笑みと共に尋ねる。
「だって、可愛かったから、つい。……お願い、アリス。ちょっと大きなプレゼントだけど、くれないかな? 舞台の女の子も、稽古も、私が責任を持つわ」
「……劇場自体は、いいんです。リリーヌさんには、いつもお世話になっていますから。今のはただ、舞台で利用できそうなマジックアイテムを考えていただけです」
「協力してくれるの?」
「ええ、勿論。やるからには、成功させます。いいですね、リリーヌさ」
「ありがとうっ」
テーブルが揺れた。身を乗り出したリリーヌが、アリスの首に抱き付いている。彼女に引き寄せられるように背を曲げながら、アリスは呆れた。落ち着いた雰囲気の美女かと思えば、こうやって、幼い少女のような行動もする。今までに、一体何人の男が、このギャップによって心を鷲掴みにされたのだろう。
階段の方角から感じる、メイジに換算すればトライアングルクラスはあろうかという殺気に晒されつつ、アリスはまた、引きつった笑みを浮かべた。
昼下がりの裏庭で、スルトにハンスが話しかけた。
「“白炎”よ。準備は順調か?」
おはよう、でも、こんにちは、でも無い、ハンスの挨拶を受け、スルトはメイスを振り回していた腕を止める。暫く何の準備かと考えている風だったが、答えが出なかったのか、彼は無視した。再びメイスを振るい、小さな火炎を放つ。飛び出した火の玉は、二十メイルほど前方に転がる古兜に当たり、消えた。
ハンスはふと、尋ねる。
「……無視か」
スルトは何の反応も返さないことで、それを肯定した。
次に、古兜の隣に転がる、穴の空いたコップ。それに小さな火の玉が当たり、コップが弾け飛ぶ。
「何の準備か、理解していない風だな? ならば敢えて口に出してやろう。裏切りの準備だ」
「……悪いが、益々理解できない」
それがスルトの、素直な感想だった。相変わらず鍛錬を続ける彼に向かって、ハンスはポケットから銅貨を取り出しながら、呼びかける。
「おい、メンヌヴィル」
「……俺は、スルトだ」
振り向いた彼に、銅貨を見せる。
「このコインが分かるな? 勝負だ。上昇ではなく、落下の時に……」
そう言うと、ハンスはコインを跳ね上げた。風の魔法で、更に高く舞い上げると、それは事務棟の屋根と同じほどにまで上昇する。ハンスは杖をベルトに納め、眼光鋭く待ち構えた。
上昇していたコインに勢いが失われ、ほんの刹那、静止する。そして力を失ったコインは、星の内側へと引き寄せられ始めた。
その瞬間、空気の塊が、コインをどこかへ弾き飛ばした。
「ハハハハハッ」
杖をくるくると回し、ハンスはベルトに納めると、高笑いする。
「どうだ、メンヌヴィルよ! この私の……」
ぱしゅんっ
「…………」
また、古兜に火の玉が弾ける。スルトはコインにも、ハンスにも気付かなかったと言うように、自らの鍛錬に没頭していた。
ベンチの背もたれに腰掛けていたマルセルは、兄貴分に憐れみの視線を向ける。
「兄貴。……今のは、いくら何でも空回り過ぎ」
しぱぁんっ、と、振り向きざまに『エア・ハンマー』で顎を撃ち上げられたマルセルは、ベンチの後ろに落下した。
「ひ、ひはは……」
舌を噛んだのか、口を抑えて悶絶している。ハンスはベルトに指を差し込むと、またスルトを振り向いた。
「なぁ、メンヌヴィルよ。教えるんだ。お前が未だ、こんな片田舎で燻っている理由は何だ? “白炎”の名が泣くぞ? 邪魔なものは焼き尽くし、素直に奪い取ってしまえばいいじゃないか。欲しいものは何だ? 今更手を汚したくないのか?」
ハンスにとって、一番の気がかりが、このメンヌヴィルだった。メンヌヴィルではなく、スルトと呼べと言う彼は、今更改心したというわけでも無いだろう。
何を考えているのか、全く不明なのだ。
「あら、スルトさん。こちらにいらっしゃったんですか」
スルトが鍛錬の手を止め、振り向く。ハンスも彼に倣い、その幼い声の方向へと目を向けた。
黒髪の少女が、微笑と共に歩み寄ってくる。
「……ああ、アリスか」
鍛錬は中止するようで、スルトはメイスを納めた。アリスと呼ばれた少女は、軽くハンスに会釈しながら、スルトの前に立つ。
「スルトさん、お願いがあるんです。ちょっと来て頂けますか?」
「わかった」
あれだけ挑発されても応じなかったスルトが、この少女の願いを、鍛錬を止めてまで容易く受け入れる。まさか……と、ハンスは顎を撫でた。
ふと、彼の背後で靴音が鳴る。マルセルが立ち上がったのだろう。
「……は……初めましてっ!」
弟分を振り向こうとしたハンスは、突然の大声に顔を顰め、肩を縮めた。
「ぼ、僕の名前はマルセルです! 名前はマルセルですが、知り合いは皆こう呼びます! ……マルセルと!」
(こいつは一体……何を言ってるんだ?)
落下した拍子に、頭を強く打ってしまったのか。振り向いて見れば、マルセルは顔を硬くして、目を見開いている。視線の先には、アリスがいた。
大声に驚いたのか、アリスは若干戸惑った風だったが、スカートの裾を摘み上げ、丁寧にお辞儀する。
「ご丁寧に、ありがとうございます。初めまして、マルセルさん。アリスと申します。それでは、ご機嫌よう……」
「ままっ、待って下さい! 一つだけ、一つだけ教えて下さい!」
一つだけと言われ、アリスは困ったような表情で待った。
「シチューは、シーフードかビーフ、どちらが好きですか!?」
「え……と……。敢えて言うならば、シーフードの方が……」
「僕もです!」
「そうですか……。それでは、失礼させて頂きますね」
「あ、待っ、待って下さい!」
「待つのはお前だ。だいたいお前、好物は豚肉だろうが」
放っておけば面倒な事になると判断し、ハンスはマルセルを羽交い締めにした。暫く抵抗していたマルセルは、アリスとスルトの姿が見えなくなって後、急に大人しくなる。
こちらを振り返った弟分の顔に、ハンスは思わず後退った。
「ど……どうしよう、兄貴……」
「おい止めろ、よせ。止めるんだ」
「俺……俺……。恋……しちゃったみたいなんだよね……。ふへ……へへへ……」
「その気色悪い顔を止めろぉ!」
『疾風怒濤』による組織乗っ取り計画は、前途多難だった。
スルトの義眼のサイズはわかった。全ては、ここから。
「さて……。やってみますか」
地下倉庫の片隅で、アクセルは指を鳴らす。机の上には、精霊石が乗っていた。
アルベール・オブ・マスターピース……“傑作卿”。その記念すべき第一作目は、相応しいとすべきかすべきで無いのか、なかなか難易度の高いものである。
“傑作卿”。そんな名を名乗る資格が、果たして自分にはあるのか。
「頼むぞ、僕。成功させろよ」