小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第1章 青き春の章

第36話<殴愛>






 それは、戦闘とすら呼べなかった。
 コップに入れられた蟻が、注がれる水に為す術無く溺れ死ぬかのような、圧倒的な力の差。

 「こちらも終わりました」

 貝殻紋の羽織の男が、荒縄を引きずり、木々の間から姿を見せる。篝火の下にまで来ると、荒縄をたぐり寄せるようにして、その先に括り付けてあるものを放り捨てた。足首を緊縛された男は、既に死体である。

 「ああ、ご苦労さんだ」

 彼に応じるようにして、男が歩み出た。両腰にはそれぞれ、一振りずつの剣。男……ナタンはしゃがみ込み、その死体の顔を持ち上げた。

 「この男か?」

 背後の村長に尋ねる。老齢の村長は、しぱしぱと何度か瞼を開閉し、篝火に照らされた物言わぬ顔をじっと見つめた。そして、納得したかのように大きく頷く。

 「そうです、この男です。イシュタルの館の使いだと名乗って……」

 ラヴィス子爵領、パリュキオの村。ここにも、イシュタルの館のことは伝わっていた。もっともそれはあくまで、その暴力性についてのみだったが。

 「そうか……」

 ナタンは立ち上がり、村長の肩に手を置くと、他の部下に声を掛ける。

 「攫われた娘達は?」
 「山小屋に監禁されていました。全員無事です」
 「死体はいくつだ?」
 「これを入れて、ちょうど十体。全て、下衆どもです。明日の朝には燃やします」
 「……わかった」

 淀みなく答える部下に頷き、ナタンはふと双月を見上げた。

 やはり、イシュタルの館の武力は異常である。メイジ達を除いたとしても、その結論は撤回されない。荒事や一芸に長けた、恐るべき男達。ナタンが殆ど動くこともなく、彼等はすぐに敵の居場所を突き止め、間髪入れずに始末してしまった。

 (……ゴミ溜め、か)

 ラヴィス子爵はそう言っていた。
 彼等は誇りも、矜持も奪われ、あの場所に文字通り捨てられた。何を成すでもなく、何を行うでもない。ただ薄暗いあの地で、死ぬのを待っていた。心を枯らし、魂を腐らせて。

 「……ボス。どうかなさいましたか?」

 一人、歩み寄ってきた部下がいる。メイジの男だった。元は、どこかの貴族の私生児だという。トライアングルの技量を持ちながら、彼は何故、捨てられたのか。それは、彼自身しか知らない。

 「いや……。相変わらず、お前らすげぇなぁ、と思ってな」

 ナタンはニッと笑って見せ、腰の剣の柄頭を撫でた。
 ドロップアウトしたとはいえ、貴族の血を受け継ぐ者が、しかも年下のナタンをボスと呼び、敬意を表している。今更ながら、ナタンにはそれが不思議だった。例えば彼と自分が戦えば、三秒と経たずに魔法にやられるだろう。
 そのメイジは、ナタンの隣に並んだ。

 「許せなかった。それだけです」
 「許せなかった、ねぇ。当たり前だな」
 「ええ。特に、俺たちにとっては」

 メイジはふと、双月を見上げる。

 「“貝殻紋”は、俺たちに授けられた、最期の誇りなんです」
 「最期……?」
 「東地区に流れてくるような俺たちです、碌な人間がいませんよ。揃いも揃って、屑ばかりで……肥やしと大差ありません。死んで、土に還る時を待ってるだけ」

 双月に彼は、どんな思いを馳せているのだろう。ふわりと、花が開くように喋り出した彼は、そのまま想いを連ねていく。

 「“女を守れ”……それだけ、言われました。単純な、難しいことを。でも、まずはそれです。笑っちまうくらいの初歩の初歩。子どもでも知ってるようなことから始めました。そうすると、自分でもわかったんです。認められていくのが。……一時は世捨て人を気取ってみたりもしましたが、人間は結局、人間の中で生きてるんです。人から認められたい、気に入られたい、受け入れて貰いたい……そんな風に思いながら。覚えてますよ、俺。ほら、花屋の爺さんです。非番の時、ふらりと町に出たら、あの爺さんが挨拶してくれたんです。ご苦労さん、と。ああ、俺は苦労してたんだ、そしてその苦労を知っていてくれる人がいたんだ。……正直、今まで生きてきた中で、一番嬉しかったです」

 照れ臭くなったのか、彼は人差し指で、鼻の頭を擦った。

 「……まぁ、その……。俺たちにとっての“貝殻紋”は、俺たちの全てなんです。一時は人間をやめさせられた俺たちを、また人間に戻してくれた。もし、俺が死んで、墓なんてもんを建てて貰えるんなら、貝殻を彫って貰いたい。“貝殻の男、ここに眠る”……そんな一文でも刻んで貰えたなら、俺たちの人生も、あの世で少しは自慢出来る気がします」
 「縁起でもねぇな」

 そう言って、ナタンは笑った。

 その時ふと、メイジは何かに気付いたように、顔を上げる。ガサガサと草が踏み荒らされる音に、ナタンもハッとして周囲を見回そうとした。
 しかし、探すまでも無い。草むらから、男が飛び出す。片手に握った拳銃は、その銃口をメイジの彼に向けていた。彼は急いで杖を引き抜こうとするが、間に合う筈も無い。

 「死ねぇぇ!」

 逃げられないことを悟った犯人の、最期の攻撃なのだろう。絶叫と同時に、男は引き金を引いた。

 「危ねっ」

 ナタンが叫ぶ。轟音の瞬間、メイジの顔の前を、何かが凄まじい速度で擦り抜けた。
 銃弾は発射されたが、痛みは無い。恐らくは、至近距離であることの慢心が外させたのだろう。攻撃が失敗し、みるみる恐怖の表情へと変貌する男の眉間に、マジックアローが突き立った。

 「ボス、ご無事で!?」

 メイジが叫ぶが、ナタンは右手首を左手で握り、地面を転げた。

 「痛っ、熱っ、痛くて熱いっ」
 「ど、どこを撃たれたんです!?」

 銃口は、間違いなくメイジに向けられていた。どう考えても、隣のナタンに当たる筈が無い。
 転げ回るナタンは、やがて蹲り、ぶるぶると右手を差し出した。拳になっていた掌が開くと、血の雫と共に、何かが落ちる。

 「……え?」

 鉛の球体だった。ちょうど、弾丸ほどの大きさである。
 まさか、と、メイジは頭を振った。

 「ボス、大丈夫ですか!?」
 「い……いや、何か黒いのがあったから、思わず……」
 「ともかく、右手を見せて下さい。多少、治癒の心得は」
 「……て、あれ?」

 ピタリと、ナタンの震えが止まる。むくりと起き上がった彼は、掌をひっくり返してみた。
 掌の中心に感じた痛みと熱はすぐに消え、傷も無い。

 「え……あれ、おかしいな。あんだけ痛かったのに……」
 「……あの、ボス。これ」

 メイジは鉛の球体を広い上げると、ナタンの傷すら無い掌の上に転がした。彼は暫く無言で、それを握り、開く。そして、メイジと顔を見合わせた。

 「……。まっさかぁ、あり得ねぇよなぁ?」
 「ええ、俺もそう思います。けど……」
 「いやいやそんな……まさか……嘘だろ」

 いくら軌道の予測が付いたとはいえ、銃弾を横から掴み取るなど、出来る筈が無い。そしてその傷が、こんな短時間で跡形もなく消える筈が無い。

 「……まぁ、あれだ。無事で何よりだ」

 誤魔化すように笑い、ナタンは鉛玉を投げ捨てた。








 例えばメイジに、尋ねてみたとする。「最強の属性とは何ですか?」と。

 失われた始祖ブリミルの虚無である、と答える者がいる。最も強いというのなら、火属性だと答える者もいる。最も剛いというのなら、土属性だと答える者もいる。いや、水属性の禁呪である『ギアス』も侮りがたいぞ、と答えたりもする。

 次の質問。「風は最強の属性なのですか?」と尋ねてみる。

 余裕のあるメイジは「ああ確かにそうだ」と微笑み、余裕のないメイジはムッとして口を結ぶ。ともかく、どちらも否定はしない。皆、それぞれの属性に誇りを持つが、風メイジが最強である、という言葉に異議を唱えても、風属性が最強である、という言葉には反論の口を閉ざす。

 風最強説の所以として挙げられるのは、その応用範囲の広さの他に、スクウェアスペル『遍在』があった。
 風はどこにでもある、故に風属性のメイジはどこにでも存在できる、という、飛躍というレベルを軽く超越した理論によるもの。使用するメイジと全く同じ分身を作り出し、一斉に攻撃する、恐るべき魔法である。例え一対一の正式な決闘であろうが、『遍在』は魔法の一つとして認められる。つまり、一対一でありながら、三対一でも四対一でも成り立つという、非常に恐ろしい状況が生まれる。
 最強クラスのスクウェアスペルでありながら、大勢で一人を倒すという、弱者の必勝戦法を許可するもの。しかも、本体であるメイジ一人を倒せば全ての遍在が消えるという弱点を有するため、ルールや縛りの多い大会でも禁止されない。

 「ユビキタス・デル・ウィンデ……『風の遍在(ユビキタス)』」

 『遍在』を相手にした場合、まずこちらも『遍在』によって戦力差を縮めるのが定石である。ハンスは三体の分身を生み出すと、襲いかかってきた火炎の人影を迎え撃った。

 「おいっ、これは何だ!? 風属性の『遍在』と同じと考えていいのか!?」

 『遍在』の一つに加勢しながら、アクセルは怒鳴る。

 「俺はそう思う!」
 「いや、火属性の『遍在』なんて聞いたことないぞ!」
 「くそっ、これやっぱり、俺のせい?」
 「くたばれくたばれ、みんなくたばれ」

 瞬きを二回ほど繰り返し、アクセルはハッと我に返った。

 「じゅっ……順番に喋れお前ら! え、あれ? どれが本体だ!?」

 「俺だ、俺!」
 「騙されるな、そいつは偽者だ!」
 「気を付けろ、最初と三番目のヤツは嘘つきだ!」
 「かく言う私も本体でね」

 アクセルは両手を伸ばし、傍らのマルセルの襟首を掴むと、ぐいと自分の目線まで引き寄せた。

 「おいっ、何だ!? 『遍在』に反乱起こされるようなヤツを、お前は兄貴と慕ってたわけか!? しかも全部偽者っぽいぞ!」
 「い、いやほら、兄貴の『遍在』って、少し個性的で……」
 「これを個性で片付けてたのか!?」

 外見も中身もコピーする、それが『遍在』である。故に近しい人間でも、その見分けは容易にはつかない。

 (……の筈なのに、何だこれ。一人の本物に三つのコピー、全部揃って偽者っぽい)

 「ぐぁっ」

 呻き声に、マルセルの襟を掴んだまま振り返る。一人のハンスが炎のメイスで胸を貫かれ、ぽしゅんと、嘘のようにかき消えた。しかしハンスの『エア・スピアー』も、相打ちで火炎の人影の喉元を貫いており、その人影も消滅する。

 (ハンスの『遍在』はおかしいとして、問題はスルトの作った火炎の『遍在』だ。火属性の『遍在』? 姿が火だるまなだけで、これ全部、中身はスルトか?)

 スルトの場合は、本体の判別は容易であった。彼は相変わらずあの場所から動かず、じっと、夜空を見上げている。戦っているのは、彼が生み出した火炎の分身たちだけだった。

 基本的には火炎の『遍在』も、その外見を除けば、風の『遍在』と同じらしい。本体と同じ能力を持ち、それぞれ独自に動き、死ぬほどのダメージを受ければ消える。

 (つまり……魔法も、スルトと同じく?)

 アクセルがそう考えた刹那、三体の炎人たちは一斉に跳び退がった。そして集合し、火炎のメイスの先を全て、ハンス達に向かって揃える。
 放たれた三つの火炎は、螺旋状に組み合わされて一つの奔流となり、大口を開けて襲いかかってきた。

 「!」

 三体のハンスも、力を合わせて風で上昇気流を起こし、火炎を斜め上へと逸らす。しかし火炎を追うようにして、メンヌヴィルの『遍在』達が迫ってきた。

 「『アイス・ウォール』!!」

 動いたのは、マルセル。杖を向けて素早く詠唱し、ハンス達とメンヌヴィルの影達との間に、氷の壁を作り出した。

 「ええい……クソッ、邪魔だっ」

 三体のハンスが、三体とも同じ動きで、杖を振り下げる。そのうちの二人がかき消え、真ん中の一人が残った。

 「……おい、ハンス。とりあえずお前、もう『遍在』は使うなよ」

 アクセルが冷たく言い放つ。
 本体のハンスは片手で頭を抑え、何かを追い払うように首を振った。

 『遍在』を解除したハンスは、氷の壁の向こう、火炎の人影たちを見て考える。

 『遍在』は風のスクウェアスペル、つまり風を四つ重ねて完成する。三つ重ねて劣化版が完成することはあり得ない。メイジが重ねられるスペルは、最大で四つ。その四つを全て風で埋めて初めて、『遍在』を使用できるのだ。故に、トライアングルクラスのメイジは使用できず、スクウェアクラスのみの魔法となる。
 しかし、メンヌヴィルの『遍在』は、あり得ない。風のスクウェアだというのなら、『遍在』を使用できることに疑問は無いが、彼はそれを炎で行った。風を四つ重ね、更に炎を重ねた。

 (あり得ない)

 重ねる属性の限界が四つであるというのは、全てのメイジ共通の、絶対不変の理である。確かに、王家のみに許されたヘクサゴンスペル、聖堂騎士が得意とするという賛美歌詠唱など、スクウェアスペルを超える魔法は存在する。しかしそれらも、合体魔法に分類されるものであり、二人以上の協力者がいて初めて成り立つ。たった一人で、独力で出来るものではない。

 (ならば、あれは?)

 メンヌヴィルがエルフだというのなら、どれ程楽な答えだろう。その方がまだ、納得できる。

 (くそ……考えるなっ)

 ハンスは自らに言い聞かせた。風と炎、二つの属性のスクウェアクラスなど、それ自体が前代未聞だ。火炎による『遍在』のからくりがどうだろうが、自分は今、想定外の化け物を相手にしている。ならば、詮索は無用だ。

 火炎の『遍在』達はそれぞれ炎を放ち、見る間に氷の壁を溶かしていった。

 「マルセル!」

 振り向かないまま、ハンスは背後の弟分を呼ぶ。若干怯えは含んでいるが、応っと、力強い返事が来た。

 「やるぞっ、『疾風怒濤』だ!」
 「たった一人相手にか……って、言ってる場合じゃねぇな」

 マルセルはメンヌヴィル達を警戒したまま、じりじりと後退る。続いてハンスは、アクセルに怒鳴った。

 「いいかっ、アクセル! 一分、いやっ、三十数えろ! その後、上空へ避難だ!」
 「……わかった、信じる」

 アクセルの答えに一つ頷き、ハンスはマルセルを連れ、森の中へと消えた。
 彼等が何をするのか、それは不明である。しかし、選択の余地など無かった。

 (風属性の……スクウェアだと!?)

 未だ愕然とした硬直は解けないが、考えてみれば納得がいく。熱を肌で感じている、それだけにしては、メンヌヴィルは周囲を認識し過ぎていた。人間だけならまだしも、壁やドアノブ、ボタンまで、彼は正確な位置を把握している。シャツを裏表に着ることも無い。
 そもそも熱を肌で感じるというのは、風があってこそだ。スクウェアクラスの風読みで周囲を把握し、更に加えて、風が運ぶ熱で敵を認識する。流石に風のスクウェアだというのは予想外だったが、風属性の高い才能を持つというのは、あり得ない話では無かった。

 火炎人形たちは氷を消滅させると、ざっと、左右に分かれる。まるで、道を作るかのように。彼等の間を、メンヌヴィルは、一歩一歩……両手を広げ、天を仰ぎ、近づいてきた。
 その口から、声が零れる。冷静な声ではなく、血の通わないような、不気味な音。洞穴を抜ける風が偶然にも人の声を真似た、そんな気がした。

 「幼子は、水浴びを好む」

 アクセルは震える身体にギッと力を込め、拳を構える。

 「しかし、童は……季節の巡るを知らず」

 少年は閉じた口の中で、十を数えた。

 「故に季節を知る大人、無情に幕を引く」

 通り抜けるたび、火炎人形たちは再び火の玉へと姿を変え、メンヌヴィルの周囲にまとわりつく。三つの火の玉を纏ったまま、彼は掌で自らの顔を覆った。

 「我が名は……ロティスール」

 二十を数える。あと、十。
 アクセルはそっと、流れるように身体を低くし、足の裏に風を起こす。そしてその勢いで、飛びかかった。

 「『密葉』!」

 固めていた拳を広げ、掌からブレイドを形成する。斬るのではなく、突き。さながら貫手のように、ブレイドの先端をメンヌヴィルの胴体に向けて突き出した。それに対し、メンヌヴィルは全くの無防備。アクセルの攻撃を知覚していない筈が無い。それでも、メイスを動かすこともせず、ただ泰然と立っていた。
 その姿に、アクセルは迷う。殺し合いにおいて躊躇うのは、これが生まれて初めてのことだった。その迷いが、突きを鈍らせる。

 ブレイドが、止められた。

 「……!!?」

 アクセルが驚愕したのは、止められたことではない。メンヌヴィルに纏わりつく火の玉から、火炎の腕が伸び、それがブレイドを阻んだこと。

 (何てことだ……)

 風の『遍在』は、風の普遍性を表している。そして炎の『遍在』が表すのは、変幻自在。風のように姿形を完全に真似ることは出来ないが、代わりにその姿を、あらゆる形に変えることが出来る。

 「アクセル・ベルトラン。何を迷う」

 指一本も動かさないまま、メンヌヴィルは口を開いた。

 「お前は……」

 ハンス達が隠れてから、三十秒。アクセルは足裏に風を起こして跳躍すると、『フライ』で飛び、頭上の枝に乗った。
 感じたのは、膨大な魔力。

 「『疾 風 怒 濤(シュトゥルム・ウント・ドラング)』」

 闇を貫き、無数の光が走った。ほんの一瞬、風の吼える音の後、それは金切り声に変わる。
 きらきらと輝く何かが、ブリザードのように一直線に走っていた。それらはメンヌヴィルを狙い、跡形もなくなる程に穿ち、貫こうとする。巻き上げられた土煙、そして白い霧が混ざり合い、メンヌヴィルをその中に隠した。

 (何だこれ……)

 アクセルは樹上から、半ば呆然と見下ろしている。キラキラとしたものは、無数の氷の刃だった。そしてそれを、風の魔法によって走らせる。

 ハンスとマルセルの二人が、その力を合わせた『疾風怒濤』をたった一人相手に使用するのは、これが初めてのことだった。そもそもが、敵部隊を蹂躙し、城門を砕き、砦を破壊する魔法である。
 マルセルが作り出す、親指ほどの大きさをした、無数の氷の弾丸。それを、ハンスが撃ち出す。使用する魔法は単純で、そこらのメイジでも真似ることは出来るが、問題はその持続性だった。莫大な精神力を全て注ぎ込み、直線上にあるもの全てを破壊するまで止まらない。ガトリング砲のように、ひたすらに氷の弾丸を放ち続ける。
 木々が薙ぎ倒され、悲鳴のような音と共に崩れ落ちた。
 煙幕へと続く、青白い光の道。二十秒ほどして、それは狭まっていく。ついには一筋の光となり、そして消えた。
 がさがさと、葉や草を踏みしめる音。闇の森から姿を現したハンスとマルセルは、それぞれ肩を回し、肩を上下させて呼吸を整える。

 「どうだ……見たか、俺たちの切り札」

 未だ晴れぬ土煙を指さし、また、頭上のアクセルをも見上げ、ハンスは勝利の笑みを浮かべた。

 「切り札、ね」

 アクセルは樹から飛び降り、ハンスの隣に着地すると、また拳を構える。

 「じゃあ……やっぱり、お前の負けだ」

 ハンスの笑顔が固まった。その視線は、徐々に散っていく土煙へと向けられている。
 ちらちらと、幻のような火の玉が浮かんでいた。

 「嘘だろ」

 マルセルの呟きが、全てを表していた。火の玉がかき消える。
 煙が晴れ、メンヌヴィルの姿が露わとなった。周囲の木々は薙ぎ倒され、砕かれ、無惨な姿になっているが、ただその中で、彼だけは違う。メイスを手に、泰然と立っていた。

 氷の弾丸は、当たれば砕け、破片を撒き散らす。元々物量で押し潰す魔法なので、後続の邪魔にならぬよう、弾丸は脆く作成されるが、例えスクウェアの火炎だとしても、一瞬で溶けて消えはしない。例え出来たとしても、残った氷が、そして水が弾丸となり、相手を攻撃する。
 メンヌヴィルは、火炎の魔法を使わなかった。彼が使ったのは、水属性の初歩、『凝縮』。それが水の球体を作り出し、メンヌヴィルの前に浮かんでいる。恐らくはそれで、自らを襲う範囲の弾丸のみを防いだのだろう。水面に弾丸を撃ち込むのと同じく、弾丸は自滅し、それを吸収して水の球体は更に巨大化していた。

 (どこまで可能なんだ、この化け物は)

 そしてその早業を知った瞬間、ハンス体中から、冷たい汗が噴き出す。火属性に才能があり、風属性も得意だというのならわかる。しかし、火属性に相反する水属性ですら、メンヌヴィルはトライアングルの実力を示した。
 化け物だった。メイジではない。ただ、何の因果か人の形をしてこの世に生まれ出でてしまった、どこか別の世界からの来訪者。不幸なことに、自分は今、それと遭遇してしまったのだ。
 そう結論付けると、ハンスの取るべき行動は一瞬で出された。

 「負けだ」
 「え?」

 マルセルは兄貴分の顔を見るため、振り向く。ハンスは眉を八の字に下げ、片目をつぶり、大きく溜息をついた。

 「負けだ、負け。だいたい、二属性スクウェアの時点でおかしいんだよ。ヤツは人間じゃねぇ。悪魔だ」
 「…………」
 「逃げるぞ。付き合ってられん」

 この場に残ったのは、あくまで、アクセルの挑発に乗ったから。そもそものハンスの目的は、アクセルを守ることでも、己の力を認めさせることでも、メンヌヴィルに勝利することでも無い。ただ、イシュタルの館を乗っ取ること、それだけである。
 最強の切り札『疾風怒濤』が敗られ、メンヌヴィルの実力が非常識なことを理解した今、傭兵としてのシビアな考え方は、あっさりと逃走を許可した。

 「……それじゃな。残るかどうかは好きにしろ。まぁ言わせて貰えれば、ここに残り、少しでも足止めしてくれれば嬉しいが」
 「兄貴……いいのか?」
 「いいんだいいんだ、さっさと逃げる」

 本当に、驚くほどあっさりと、ハンスは逃げた。杖を納め、踵を返し、闇の森へと駆け足で消えていく。マルセルが慌ててその後ろを追った。

 (まぁ……仕方ないか)

 アクセルはそれに続かず、また、彼等を罵倒することも無い。命あっての物種である。無理に戦う理由が無いのなら、生き延びるために逃げるのが正しい。それは本能に沿った行動であり、逃げた彼等を非難するのであれば、命そのものを非難するのと同義だ。
 そう、この状況、逃げるのが正しいのだ。

 (なのに……何で、俺は)

 圧倒的な実力差を感じた身体が、震え出す。身体だけではない。胸の奥底にある筈の魂も、迫る死の恐怖に怯えていた。

 (身体も心も、怖い怖いと言ってるのに)

 未だ足下に突き刺さっている氷の弾丸を、メンヌヴィルは足で踏み潰す。まるで、霜を踏み砕くような音がした。再び、ぼう、と灯火のように、メイスの先に火の玉が生まれる。

 (逃げろよ、俺……何で逃げない?)

 アクセルは自問した。
 心も体も、両方が戦闘を拒否しているというのに、何故自分は逃げないのだろう。死なないためには、逃げるしかない。殺されないためには、逃げるしかない。逃げるしかないのに、何故、逃げないのか。

 「アクセル・ベルトラン」

 メンヌヴィルが、その唇からぽとりと零す。

 「お前は……素晴らしい、戦慄するほど」

 それが本当に賞賛なのか、アクセルには分からない。いや、言った本人も、それは同様なのではないか。

 「俺は、お前が好きだ。お前を、尊敬している。……燃やしてしまいたい程に」

 突然、アクセルは構えを解く。そして闇夜へと顔を向け、その顔を両手の平で覆い隠した。
 全くの無防備である。今ならば、ドットクラスのメイジにも殺されるだろう。
 メンヌヴィルは足を止めた。

 「くく……くく……」

 アクセルの指の隙間から漏れてきたのは、笑い声。

 「あはっ、はは……あはははははっ」

 両手を下ろしながら、ただ、笑う。嘲笑でも、狂った笑いでもない。まるで遊んでいるような、子どものような笑い声だった。
 メンヌヴィルの言葉を聞いた途端、アクセルは答えを出した。

 「何だっ、おい! そんな、そんなことだったのか! ははははっ、スルト! ありがとう、ようやく謎が解けた! すっきりだ!!」

 笑い声を納め、アクセルはメンヌヴィルを向く。満面の笑みで歯を見せ、パキパキと指の骨を鳴らす。

 「全く……仕方がないな、お前は! 僕を困らせて、仕方のないヤツだ!」
 「……何を、笑う?」

 メイスを構え、メンヌヴィルは静かに尋ねる。指一本でも動かせば、間髪入れず火炎が襲いかかるほどの緊張状態であったが、アクセルはそれでも笑顔を崩さなかった。

 「何故、僕が笑うのか。お前はそれが気になるんだな?」

 少年は両手を広げ、静かに笑いを漏らす。

 メンヌヴィルの実力ならば、どちらにしろアクセルは殺すことが出来る。方法も時間も、いくらでもあるのだ。事実先ほども、殺せと言わんばかりの隙を見せた。

 「何故、何故、何故……世の中、そればっかりかもなぁ? 何故、お前は肉が焦げる臭いを求める? 何故、お前は未だ僕を殺さない? 何故、お前は逃げるようにして出てきた? 何故、僕が作った義眼を踏み潰した? 何故あの時、僕に手加減した? 何故、気を失った僕を燃やさなかった?」

 無防備のまま、つかつかと、アクセルは迫る。歩み寄ると言うよりは、迫ると言う方が合っていた。

 「質問したいのは、僕の方だぞ、スルト。……安心しろ。僕は……お前が好きだ」

 メンヌヴィルに、明らかな動揺が見えた。

 「僕はずっと……ずっと、ひとりぼっちだった。それで良かった。ひとりでも構わなかった。何しろ、初めからそうだったからなぁ。酒を飲んだことないヤツが、酒なんていらないとほざくのと同じだ。ひとりぼっちだった僕は、もう、ひとりじゃないことの幸せを知ってしまった。すると、どうだ。ひとりぼっちが、恐ろしくなった」

 言葉が、次から次へと生み出され、紡がれる。アクセルの口は、まるで羽のように軽かった。栓を失った水道だった。放っておいても、勝手に言葉が飛び出してくる。
 メイスの間合いに入っても、メンヌヴィルは手を出さない。アクセルは彼を見据えたまま、ついにその懐に入り込み、そこでようやく立ち止まった。

 「おい、スルト。僕はな、ひとりぼっちが怖い。寂しいのが怖い。ひとりきりで死ぬのも、とても怖い。そして、お前が僕の元から去っていくのも、すごく怖いんだ」
 「俺は……メンヌ」
 「またそれか? それしか言えないのか? バカなのか? 他の言葉を忘れたのか? でもな、それでも構わん。僕はな、スルト、お前が好きだ。初めは怖かったし、災難だと思った。でも今は、大好きだ。お前の事情なんか、教えてくれないんだから知らん。知ったことか。だから、僕だって教えてやらん。ただな、お前は逃がさんぞ。僕から逃げられると思うな。お前はこれからも、イシュタルの館の仲間で、僕の仲間だ」
 「俺は……」
 「“まさかの友は真の友”……あの時、馬車の中で、お前はそう言ったな? スルト。お前は僕の、真の友だ。聞くまでもなく、お前も僕をそう思っている。それとも何か、あれは嘘だったのか? 今更どうでもいいがな!」
 「俺は……メンヌヴィルだっ」
 「黙れスルトぉ!」

 アクセルは跳躍すると、右拳を振りかぶり、メンヌヴィルの頬を殴り飛ばした。魔法は一切使わない、純粋な、身体能力のみの攻撃。
 メンヌヴィルの巨体がぐるりと半転し、樹木の倒れるような音をさせ、仰向けに崩れ落ちた。

 「……何だっ、おい! 魔法使った時より効いてんのか!? だったら始めっから、こうしてれば良かったなぁ!」

 アクセルの顔から、笑みが消えていた。眉を吊り上げ、眦を決し、倒れ伏す彼を見下ろして怒鳴りつける。しかし、そこに殺気は無かった。

 「そう言えば……思い出したぞ。あの時、馬車の中で、僕は確かこう言ったな。“殺し合いの中で育まれる友情なんて聞いたこともない、信じたくもない”と。でもな、今は信じたい気分だ。……いいぞ、スルト! 殺し合いだ、命がけの喧嘩だ! とことん付き合って、友情ってもんを育んでやる! お前、何だかんだ言ってどうせ、僕のことが好きなんだろうが! それをお前に認めさせてやる! お前が泣いてもっ、両手を合わせてもっ、ぶん殴ってやる! お前が素直になるまでっ、殴り続けてやる!」

 アクセルは肩に手を当てると、シャツを掴む。そして一気に破り捨て、投げ捨てた。
 少年の身体は、既に衣服の下に、筋肉と呼べるものを隠していた。

 「どうした、いつまで寝てる? ……来いよ、スルト。…………来いっつってんだろがっ、この無茶ゴリラがぁぁぁ!!」
 「俺はっ、メンヌヴィルだぁっ!」

 悲鳴のような咆吼と共に、メンヌヴィルは立ち上がった。



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