小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第1章 青き春の章

第37話<羈絆>






 固めた握り拳を、ただ、相手に叩き付ける。それだけ。何の術理も工夫も無い。あるのは、衝動に任せた暴力。

 「We will……We will……」

 掌に爪が食い込むほど、強く、力強く。歯を食いしばり、ひたすらに力を込めた拳を、アクセルはメンヌヴィルの腹部に向かって突き立てた。

 「rock you!!」

 手応えはある。しかしそれでも、メンヌヴィルは倒れない。

 「……ぐっ」

 小さく呻くと、彼はすぐに、反撃の拳を繰り出してくる。
 防御も回避も忘れたように、アクセルはじっと歯を食いしばる。まるで破城槌のような腕が、その先端にて少年の胸に衝突した。
 いくら何でも、体重差があり過ぎる。アクセルの両足は地面から離れ、その拳に押し出されるまま、後方へと転がった。

 一体、もうどれ程の時間、この応酬が続いているのだろうか。

 あまりに長い時間だ、と、メンヌヴィルは思った。
 あまりに短い時間だ、と、アクセルは思った。

 いつしか二人の間に、暗黙の了解が出来ていた。殴るのは一発ずつ。防御も回避も行わず、ただ耐える。話し合ったのでも、提案したのでも無い。まるで原初からの決まりに従うが如く、アクセルとメンヌヴィルは、ただ交互に拳をぶつけていた。

 後方へと転がったアクセルは、顔を顰めて身を捩る。しかし数秒後、再び立ち上がるため、身体を起こした。それから十数秒かけ、ゆっくりと体勢を整え、また拳を固める。
 ボロボロである。体中アザだらけで、左目は恐らく見えていない。盲目のメンヌヴィルにも、アクセルの体温の違いで、それが分かった。未だに骨折していないのは奇跡であるし、立ち上がれるのも驚嘆に値することだ。

 「……何故だ。何故、立ち上がる」

 アクセルの何十と重ねた攻撃が、メンヌヴィルの体内に澱のように蓄積され、鈍重な痛みとして現れている。メンヌヴィルは問い掛けるが、アクセルは答えず、虚ろな瞳で、ふっと笑った。

 「何で……だろうな、スルト。殴り合ってると、人を見る目のない僕でも、わかる気がする。感じるんだ。お前の躊躇いが。お前の戸惑いが。……お前の苦悩も。……僕より痛そうな顔しやがって」

 ドンッ、と、アクセルは拳を叩き付ける。しかしもう、威力と呼べるものは無い。少年の小さな身体に、その力は残されていない。

 「…………」

 ギィ、と、メンヌヴィルの歯が軋んだ。拳を振りかぶり、固め、放つ。アクセルの首が半回転するほど回り、彼の身体は地面へと叩き付けられる。いや、叩き落とされたと言うべきかも知れない。

 「俺を……スルトと、呼ぶな」

 何度、その言葉を向けただろう。何度言おうが、恐らくアクセルは、永久に聞き入れるつもりは無い。

 「イヤなこった」

 返ってくる筈の無い声が、それでもどこかで期待していた声が、返ってきた。
 アクセルは地面を押しのけるようにして、顔を上げる。

 「そんな頼み事を……聞いてやると思うか?」

 そうしてまた、アクセルは立ち上がる。蹌踉け、傍らの樹幹に肩を預け、それでも拳を構えようとする。

 「気ぃ抜いてんじゃ……ねぇ……。殺し合いの……真っ最中だぞ……」

 アクセルは顔をしかめ、樹から離れる。そのまま、飛び込むようにしてメンヌヴィルの腹を殴った。今度こそ、何の衝撃も無い。枯れ葉で叩かれたような感触だった。
 それに反し、メンヌヴィルの拳は鉄球のような威力で、少年の顎を斜め下から打ち上げる。また、叩き落とされるようにアクセルは倒れ伏した。

 (まだ……動く)

 メンヌヴィルは確信していた。少年の体力を考えれば、とっくに気を失っている筈だ。今はただ、精神力によって無理矢理立ち上がっているに過ぎない。ここまで殴られ続け、倒され続けたというのに、未だ、アクセルの精神は折れていない。
 アクセルはやはり、身体を持ち上げた。

 「……ぶっ」

 首を捻り、口から何かを吹き出す。折れた奥歯は石にでも当たったのか、乾いた音と共に跳ねた。

 「あー……疲れた……しんどい」

 まるで寝言のように、アクセルは呟く。

 「……風呂入りたい……水飲みたい……ぐっすり寝たい……」

 愚痴のようでもあった。

 「さっさと……帰りたいんだ。だから、スルト……いい加減、素直になれ」

 片方の口角を上げ、歯を見せながら、ヒヒヒと砕けた笑いをする。そうやって暫く笑い続けていたアクセルは、やがてメンヌヴィルの前に立つと、拳を構えないまま彼を見上げた。

 「僕も、お前も、同じだ。ひとりぼっちがイヤなんだ。確かにお前が一人抜けたところで、僕はひとりぼっちにはならない。ナタンがいる、バルシャがいる、フラヴィがいる。アニエスもミシェルもマチルダもテファも……リリーヌ、クーヤ、マノン、ギャエル……貴族の時だって、リーズがいる。幸せだ。けどな、お前がひとりぼっちになるのは許さん。それはすごくイヤだ。これからも僕らは、あのイシュタルの館で過ごすんだ。あそこで食べて、寝て、起きて、話して、笑う。その中には、お前だっている。それをイヤだとは言わせない。そんな嘘はつかせない。……聞け、スルト。お前は金輪際、僕の仲間だ」

 ドンッ、と、アクセルは吹き飛ぶ。メンヌヴィルの蹴りが腹部にめり込み、押し飛ばされるようにして転倒した。
 明確なルールなどない。あったとしても、そんなものを気にするメンヌヴィルではない。しかしその蹴りは、彼にとってひどく覚悟のいるものだった。
 力の差は歴然としている。していながら、追いつめられているのはメンヌヴィルの方だった。いくら殴っても、倒しても、アクセルが変わらない。逃げようとしない。殺すつもりが無くても、このまま続ければ、彼はもう永久に動かなくなるだろう。それを理解しないアクセルでは無いのに、相も変わらず、懲りた様子も無く、メンヌヴィルに近づいてくる。

 「……もう、立つな」

 二人の間にいつの間にか出来ていた、暗黙の了解。それを破壊する、決別の蹴り。
 殴り合いを続けたことは、言うなればメンヌヴィルが、アクセルのペースに支配されていたということである。

 「俺を……追うな。俺なんぞを」

 アクセルに向けた言葉であるが、それよりも寧ろ、メンヌヴィル自身への言葉であった。
 いつの間にか地面に転がっていたメイスを拾い上げ、彼は踵を返す。行く当てなど無い。ただ、アクセルのいる方向とは逆へ行くだけだった。

 「何だ……もう飽きたのか……?」

 果たして今の少年の状態は、意識があると言えるものなのか。仰向けに、大の字になって倒れたまま、アクセルは言う。メンヌヴィルは振り返らず、ただ歩き続ける。

 「僕は、一晩中だって……続けられるのに……」

 寝言のようだった。泥酔者の軽口のようだった。
 メンヌヴィルは返事をせず、何の反応もせず、距離を離し続ける。

 「待てよ……逃げるな……逃げたら……お前の負けだぞ……。待て……」

 爪の先で土を掻く音。か細い呼吸音。

 「待てって……言ってんだろがぁっ……!!」

 その音が、変化した。

 「……!?」

 音だけでは無い。魔力にも、変化があった。決して振り向くまいと決意していたメンヌヴィルは、反射的に振り向いてしまう。
 驚くほど容易く、アクセルは立ち上がっていた。いや、立ち上がらされていた。背中から風が吹き出し、それが無理矢理に彼を押し上げた。

 (何だ……あれは……)

 見えぬ筈の目が、翼を幻視する。少年から感じる魔力が、彼が背負う巨大な翼を形作っていた。

 アクセルは知らない。自らの背から溢れ出し、虚空を泳ぐ、二つの翡翠色の光に気付かない。ただ、微風にさえ乗れるのではないかと感じるような、身体の軽さに驚いていた。体重が全て失われ、夢のように虚ろだった。
 そしてその軽さには、覚えがある。死ぬ時だ。重力の檻から解放され、風船のようにどこまでも飛んでいける気がする。肉体が崩れ、剥き出しになった魂が風に融けるような、恍惚とした快感。

 (そうか……死ぬのか)

 アクセルは微睡んだように、静かに納得する。自分の命は、ここまでなのだと。
 もう、何も出来ない。出来るのは……。

 「スルト。最期の……一撃だ」

 アクセルは微笑み、囁くように告げ、右拳を固めた。ふわりと、その両足が地から離れ、浮く。背からあふれ出る魔力が発火したように激しくなり、それによって発生する風が、少年の小さな身体を弾丸のように打ち出した。

 翼を広げ、迫り来る拳。
 メンヌヴィルが両手を交差し、頭を下げてそれを塞ごうとしたのは、純粋な生存本能だった。この拳を受ければ、命に関わる。本能が即断し、肉体に防御姿勢を取らせた。
 凄まじい暴風が木々を揺らし、葉を落とす。周囲で灯火のように燻っていた火が、或いは掻き消され、或いは勢いを増して炎となる。メンヌヴィルの肌にも、嵐が叩き付けられた。

 「…………?」

 しかし、それだけだった。肝心の、恐るべき拳が来ない。
 冷静になり、メンヌヴィルは気付いた。アクセルが、拳を寸前で止めていることに。
 背中の奔流が、消えている。

 「……ははっ」

 アクセルが笑った。

 「スルト、いいぞその顔。……笑えるな」

 漸く……今度こそ本当に、少年は意識を手放し、崩れ落ちた。








 メンヌヴィルは、ただの悪役である。

 ガリア王の命を受けたシェフィールドが、アルビオンのトリステイン軍を撤退させるため、トリステインの魔法学院へと送り込んだ刺客。貴族の子女を人質にして立て籠もり、教師でありかつての隊長であったコルベールに殺された男。

 (そんなヤツ……だったのになぁ)

 仲間にしたのは、仕方なく。他に道は無かったから。
 ただそれだけの筈だった。

 「……んん……?」

 瞼ごしに射られた光に、アクセルは呻き声を上げる。日の出だった。

 「……ぅん……」

 身体を起こし、目を擦る。

 「……起きたか」
 「……スルト、おはよう」

 反射的に挨拶をする。そして直後、アクセルの眠気は吹き飛び、彼はハッとして首を回した。宝石箱を逆さにしたように、一瞬にしてあらゆる記憶が溢れ出す。
 メンヌヴィルなのか、スルトなのか。ともかく、彼はそこにいた。傍らにメイスを転がし、胡座をかき、背を向けて座っている。さながら、寝ずの番をするかのように。

 自分が生きていたこと、死ななかったこと。それよりも先にアクセルを安堵させたのは、彼がそこにいることだった。

 「何故、拳を止めた?」

 そう問われるが、アクセルにはっきりとした答えは無い。ただ信じられないほど身体が軽くなり、それに身を任せていた記憶がある。
 なので、少年は呆れて見せる。

 「また……“何故”だな」

 大男の表情は見えない。
 数秒して、ようやく口を開いた。

 「ベル。俺も、お前の疑問に答えられるかどうかはわからない。だが……俺のことを、話そうと思う。聞くか?」
 「勿論。興味がある」

 アクセルは腰を浮かすと、彼と背中合わせになり、真似するように胡座をかく。

 「このまま……話す。お前に、話そうと思ったことを。話さなければならないのではないか、そう思ったことを。長くなるかも知れない。聞きたくないなら、止めてくれ」
 「ああ……」

 アクセルはそっと、目を閉じる。スルトも、記憶を手繰るように瞑目した。

 「ハンスが言っていた通りだ。俺の一族は、“サトゥルヌスの一族”とも呼ばれた。もっとも、滅多に呼ばれることは無い。今ではその呼び名を知る者も少ないし、存在すら知られていない、没落貴族だ。領地も無く、民もいない。人里離れた土地で、ひっそりと生きていたのだから当たり前だが……。それでも、かつては、遙か昔は王族専属の料理人だった。料理対決に敗北し、その座を奪われ、再び誇りを取り戻すことだけを夢見てきた一族だ。奪った者の一族もとうに滅亡し、現在ではその仕組みすら様変わりしているというのに……見果てぬ夢に囚われた、時代の異物。貴族でありながら、幼い頃から俺も料理を叩き込まれてきた。特に仕込まれたのは、肉料理だ。先祖の敗因であり、一族の業」

 スルトは一度言葉を区切り、溜息のように息を吐き出すと、顎を上げる。自らの記憶に、恐る恐る踏み込んでいく。

 「母親はいなかった。いや、母親という女がこの世に存在することを知ったのも、随分後だった。まともな精神の女なら、耐えられる家では無い。親は父親であり、父親は師匠だった。父は俺を肉を焼く者(ロティスール)と呼んだが、それが本名としてのものかはわからない。そして……ある、晴れた夏の日だ。森で香草を集めていた時、人買いから逃げてきたという少女と出会った。俺は彼女を匿った。今思えば、初恋だったのだろうな。それまで、一族の者以外に会うことなど無かった。……優しく、美しい娘だった。傍にいれば花の香りがして、花園の妖精のようだった。一度も褒められたことが無い俺の料理を、美味しいと褒めてくれた。……しばらくして、俺の境遇を知った彼女は、一緒に逃げようと言ってきた」

 再び、言葉が途切れた。三十秒、一分が過ぎても、沈黙していた。

 「…………」

 アクセルはそっと顔を上げ、彼の背に頭を預ける。それに押し出されるようにして、スルトは再開した。

 「……ある日、父が言った。晩餐のため、“王の肉”を調理しろと。……示された肉を見た瞬間、身の毛がよだった。油のような汗が噴き出した。調理中、そのあまりの臭いに、何度も嘔吐した。……俺と兄妹達は、調理を終え、一族の者の晩餐に皿を並べた。……一族の者全てが、料理を絶賛した。兄妹達の中でも特に、俺の皿が美味だと言われた。父親ですらが初めて笑顔を見せ、褒めてくれた。……俺も食卓についたが、食べる気など無かった。胃が空だというのに、その悪臭に耐えられなかった。……“何故食わない”、と父が尋ねた。他の兄妹達は食べているのに。……俺は答えられなかった。ただ父に嫌われたくなくて、必死に我慢して、肉を一口だけ食べた。すると、父が皿を運んできた。そして再び尋ねてきた。……“何故もっと食わない、お前の愛した女なのに”……皿の上のあの娘の首が、俺を見下ろしていた。俺が焼いた肉も、妹が調理した臓物も……全て……」

 スルトの僅かな震えは、アクセルにも伝わった。

 「全て……仕組まれていた。一族が辿り着いた究極の……“王の肉”とは、ドラゴンでもユニコーンでもなく、人間だった。父親が買った、花の香りのする少女が逃がされたのは、俺と出会わせるため。最愛の者を王の食卓に饗し、王の血肉にすることこそ、王に対する最大の忠誠であると、父はそう言った。……空の筈の胃袋から血を吐き、俺はのたうち回った。そして尚も彼女を食らう一族を目にして……衝動に、身を任せた。気付けば一族も、館も、周囲の森も、全て焼き払っていた。残ったのは俺と、あの娘の首。……右目は、料理の材料にされていた。俺は自分の右目を抉り、彼女の眼窩に嵌め込み、花葬した。……すぐにでも、後を追いたかった。しかし、会わせる顔など無い。……俺が……未だ生き恥をさらしているのも、やはり……“何故”、それなのだ。何故、あれほど芳しかった彼女に悪臭を感じたのか。何故、一族の者が焼けていく臭いを、芳しいと感じたのか。……それから俺は、焼いた。人間も亜人も魔物も、あらゆるものを。赤子も娘も、妊婦も、依頼されれば命令されれば燃やした。嬉々として。……答えを見つけたかった。その欲求の前には、あらゆる人間はただの肉塊に思えた。……あの世で、彼女に会わせる顔が欲しかった筈なのに、俺は……益々、会わせる顔を捨てていった。俺が肉が焼ける臭いを欲するのは、それを嫌いになりたいからだ。それを嫌わせてくれる者に出会いたいからだ」

 さながら長い旅路を終えたかのように、スルトは俯き、大きく息を吐き出した。

 「……ベル。お前は、俺に、再び光を与えようとした。お前なら嫌わせてくれるのではないか……そう思った瞬間……俺は、逃げ出した。それを確かめるためには、お前を焼かなくてはならない。焼かずにはいられなくなる。……それが、嫌だったんだ。お前を殺したくは無かった。このままお前と過ごせば、きっと、俺はお前を焼くだろう。そうなれば俺は……」

 アクセルは突然伸び上がると、後頭部同士を衝突させ、スルトの言葉を切らせる。予想もしなかった衝撃に短く声を上げ、彼は片手で項を押さえた。

 「おいこら。負けた分際で、何だその言い草は」
 「負け……?」

 スルトは思わず首を回し、振り向く。立ち上がったアクセルは、腰に手を当てて大男を見下ろしていた。朝日に照らされ、若草色の髪が宝石のように輝いている。

 「そうだろうが。ルール破って、蹴りを使ったし。最期の一撃は、必死になって防御しようとしてたし。たかがガキ相手に、何だあの無様な行動は。素直に負けを認めろ」
 「……そうだな」

 自嘲し、スルトは思い返す。
 たかがガキ一人。自分を追いかけてきた小僧一匹。それに憔悴し、戸惑い、必死になって引き離そうとした。大の大人が取る行動では無い。圧倒的な力量の差がありながら、自分は敗北したのだと、そう認めるしか無い。

 「そうだろ、そうだろ。その通りだろう?」

 満足したように、アクセルは何度も頷いた。

 「負けたんだ、お前は。だったら、勝者の言うことを素直に聞け。ほら、帰るぞ」
 「帰る?」
 「バカ。イシュタルの館に決まってるだろうが」
 「……お前は、俺の話を聞いてなかったのか?」

 育った環境の異常性も、自身の異常性も、イヤと言うほど聞かせた筈だった。それなのに、ぐいぐいと袖を引っ張ってくる少年に戸惑い、スルトはその手を振り払う。

 「何故、俺を連れ帰ろうとする」
 「ほら出た、“何故”だ。いい加減聞き飽きたぞ、それ。……いいか、答えてやる。何故、最期の拳を寸止めしたのか。お前と同じ理由だ。僕も、お前を殺したくは無かった」
 「……俺が、お前を殺すとは考えなかったのか?」
 「はっ、お前にそんな度胸あるのか? 僕から逃げてばっかりだったクセして。……まぁ正直言えば、ほんの少しは、それも考えたりした。ほんの少しだけな。お前も知ってるだろう、スルト。僕が大嫌いなことは、死ぬ事だ。あの時はただ、お前を殺す事が、それより……死ぬより嫌だと思っただけだ。だから、死んでもお前は殺さん」

 アクセルはそう言うと、突然ポケットに手を突っ込む。引き抜かれた手には、小箱があった。それを開き、中身をスルトの目の前に突きつける。
 踏み潰された筈の、義眼だった。

 「これは……何故……」
 「予備くらい作るだろ、普通。これはな、お前のために作ったものだ。お前がいなかったら、ゴミだ。“傑作卿”の記念すべき第一作目を、お前はゴミにする気か?」
 「だが……俺は……」
 「うるさい。まどろっこしい。でかい図体して、グズグズ言うな。……離れたいお前と、一緒にいて欲しい僕。結論は違うが、結局お前だって、僕のこと好きなんじゃないか。素直になれよ、無茶ゴリラが」
 「…………」

 躊躇いがちだったスルトの手が、やがて恐る恐る伸ばされ、義眼を摘み上げる。そして左の義眼を外し、新しいそれを嵌め込んだ。

 感じたのは、光。そしてようやく、彼は思い出した。自分の今までの風景が、白と呼ばれる色だったことに。
 ちりちりと、痛いほどに朝日が差し込んでくる。スルトは顔を歪め、思わず瞼を閉じようとした。しかしそれを堪え、顔を上げる。見なくてはならないものがあった。

 「……そうか……」

 アクセルの顔を見つめたまま、スルトは微笑んだ。

 「お前は……そんな顔をしていたのか」
 「どうだ、将来有望そうだろ?」
 「ああ、確かに……天使のようだな」
 「天使ぃ?」

 アクセルは鼻で嗤った。しかし依然笑みを浮かべたまま、彼は頷く。

 「ああ……天使だ。俺のような者に、手を差し伸べるなど……」
 「ナタンがこの前、僕を殺人鬼って呼んでたけど、自分でピッタリだと思った。……天使も迷惑してるだろうな」

 メンヌヴィルには劣るだろうが、アクセルも既に三桁の人間をその手に掛けている。
 同類相哀れむというヤツかもな、と、少年は心の中で呟いた。

 スルトが立ち上がった。

 「俺ももう……逃げるのを止めるとしよう」
 「……お前の名は?」
 「スルト。“白王”のスルトだ」
 「お前の家は?」
 「イシュタルの館」
 「じゃあ、お前にとっての僕は?」
 「救い主だ」

 男はその場に跪くと、少年に向かって頭を垂れる。あまりに突然の姿勢に、アクセルの方が慌てた。

 「こんな俺でいいなら……好きに使ってくれ」
 「な、なぁスルト。何か重たいんだけど……」
 「お前はこの俺に、有り得るはずの無い、奇跡の光をもたらしてくれた。俺は……満たされたんだ。陳腐な台詞だが、俺の正直な気持ちだ。お前のためなら、喜んで死のう」
 「だから止めろ、そういうこと言うの」

 アクセルは呆れたように溜息をつく。彼が仲間であり続けてくれるのは喜ばしいことだが、その形が問題なのだ。

 「死とか、そういう重たいのを、僕に背負わせるな。……僕のために生きるって言うんなら、許す。あと……僕は天使でも、救い主でも無いぞ。友達ではあるけどな」
 「……わかった」

 本当に理解したのか、理解していないのか。アクセルにとって、少々気がかりな返事だった。








 「…………訳分かんねぇ」

 ベンチに寝そべり、日除けの帽子で顔を覆い、ハンスは呟く。くぐもった声は、同じくベンチに寝そべり、先ほど捕まえたカマキリを掌の上で遊ばせているマルセルに届いた。

 「だよなぁ」

 マルセルは気のない返事をし、一つ欠伸をした。

 殺し合いをしていた筈のアクセルとスルトが、仲良く帰ってきた。殺されている筈のアクセルも生きていたし、殺して去った筈のスルトもいる。“何だ、生きてるじゃん。新手のギャグ?”と、ハンスからアクセル死亡のお知らせを聞いたフラヴィは、そう言って笑っていた。

 「……諦めねぇか?」
 「誰が諦めるか!」

 すっかり消極的な反論をするようになった弟分を、ハンスは横になったまま蹴飛ばす。

 「くそっ、メンヌヴィルめ。何だってんだ、晴れやかな顔しやがって。二年越しの糞詰まりが治ったような顔だったぞ、あれは」
 「うーん、確かに何か、憑きものが落ちたって言うか……」
 「はんっ、あいつは間違いなく憑く方だがな。……きっちり殺しとけってんだ」
 「…………」
 「また計画の練り直しだな」

 ラヴィス子爵も、欲しいのはアクセルではなく、イシュタルの館だろう。アクセルが殺されようが、一通り葬儀を済ませ、犯人であるメンヌヴィルを手配して終了である。子どもは二人目がいることであるし、特に跡継ぎの問題は無い。イシュタルの館を誰が仕切ろうが、組織の力さえあればそれでいい筈だ。アクセルが殺され、その責任をナタンなどに取らせれば、楽にハンスが組織を掌握出来る筈である。
 そしてその企みは、見事に水泡に帰した。

 「さて、どうするか。暫くは大人しくしとくか。明日はまた、レオニー子爵領に行くとして……? おい、マルセル? どうした?」

 急に沈黙した弟分が気になり、ハンスは帽子を僅かに傾け、隣を見る。マルセルが蒼白になり、小刻みに首を横に振っていた。

 「…………?」

 ふと帽子を取り、空を見上げてみる。しかし清々しい蒼穹は、スルトの顔面によって覆い尽くされていた。
 彼の紅の瞳が、じっと、無機質なまでにハンスを見下ろしている。

 あまりの驚愕と衝撃に、叫ぶことすら出来なかった。蛇に出会した蛙の如く、ハンスは目を見開き、瞬きを繰り返す。背中だけではなく、彼の体中から、冷たい汗が噴き出してきた。
 スルトが、その海溝のように真っ暗な口を開く。

 「……裏切るのか?」
 「…………」

 直球ど真ん中の問いに、答えられない。そもそも、風のスクウェアクラスである自分に気付かれないまま、ここまで接近していたことが異常だ。

 「ベルは……俺を、許した。だからきっと、お前達が裏切っても……許すのだろうな」
 「そ……そうは」

 “そうは思えない”と、愛想笑いにも似た言葉を返そうとしたが、スルトは無表情のまま首を横に振った。

 「だが、俺は許さない。もしお前が裏切り、ベルを悲しませたら……俺は、奪う」
 「…………」

 “何を”と、それも聞けず、ハンスは沈黙している。

 「お前の一番大切なものは何だ? 俺は、お前の二番目に大切なものを奪おう。次に、三番目に大切なものを奪う。次が四番目、五番目……。そうして、お前の一番大切なものを、たった一つの大切なものにしてやろう。その後で、それを少しずつ奪い取る。大切なものが人間なら、そいつを1サントずつ奪う。大切なものが誇りなら、お前自身が気付かないほど緩やかに奪っていく。大切なものが魂なら、お前の心を壊死させていくだろう。そして、お前に、お前を辞めさせる。“ハンス”という一人の人間であること、それを奪う。生まれてきたことが間違いだったと、お前に気付かせてやろう」

 以前の彼のように、狂った笑い声は上げない。ただ訥々と、科学者が現象を解説するかのように、静かに説明していく。紅色の瞳でじっと見つめ、表情も変えず。
 スルトは親指と人差し指を曲げ、ハンスの目の前で、その義眼を外した。

 「ベルが……記念すべき一作目に、名前をつけてくれと言ってきた。だから俺はこの義眼に、『羈絆(きはん)』と名付けた」

 紅の瞳の目玉と、深淵のような左眼窩が、並んでハンスを見つめている。

 「友情の証であり、絆を羈(つな)ぐ瞳だ。羈絆の瞳は、いつもお前を見ている。食べている時も、寝ている時も、女を抱いている時も。……証拠など、必要ない。全て、俺の独断だ。俺一人で片付ける。本当に裏切ろうが裏切るまいが、俺が裏切りだと判断すれば、それでいい。……お前がもし、本当に心の底から改心して、ベルの役に立ちたいと思っているなら、どうか気を付けてくれ。その場合でも、安心しないでくれ。俺には恐らく……少々、嫉妬深い一面があるだろうから」

 義眼が嵌め込まれる。

 「どうか……心に留めておいてくれ」

 最後にそれだけ付け加え、スルトは裏庭から立ち去った。
 ハンスの頬が痙攣を始める。無理に笑おうとするが、それは笑顔にならず、益々顔が歪んだ。その歪んだ顔を、彼はマルセルに向ける。

 「ふざけんなっ……! 憑きものが落ちただと? 益々やばくなってるじゃねぇか……!」

 『疾風怒濤』の風向きは、相変わらず向かい風だった。


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ゼロの使い魔 (MF文庫J)
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