小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第1章 青き春の章

第38話<枕話>






 例え大きな難問を片付けたとしても、それによってもたらされる平和は、どの程度なのだろうか。一週間か一ヶ月か。場合によっては、一時間も無い。
 そう、そうやって平和を楽しむ間すら、滅多には与えて貰えないものなのだ。人の一生は、それほどに忙しない。日捲りカレンダーのように、一つ捲れば次が現れる。その問題を片付けてしまった今となっては、あれほど難問だと頭を悩ませていたことも、結局は膨大な問題の一つなのだと、イヤでも理解しなくてはならない。

 拡張が決定したイシュタルの地下室。新たに地下二階を作成するため、一人、アクセルは『錬金』によって、工事のあらすじを纏めるべく、地下道を掘っていた。しかし、ようやくアクセル一人が通れるくらいの、細い穴を掘っただけ。その穴は、どう見ても工事とは関係の無い方向へと伸びていた。

 「…………」

 地下一階から、距離にして五十メイルほど。さながらモグラかミミズのように掘り進んだアクセルは、その行き止まりで、『サイレント』の魔法を使う。これ程地下深くへやって来ていながら、そんな事を行うのは、それほど彼にとって重大な問題だからである。
 誰にも聞かせるわけにはいかない。

 「……ふぅ」

 溜息と共に、俯く。若草色の前髪がはらはらと垂れ下がり、彼の瞳を覆い隠そうとする。
 しかし次の瞬間、アクセルは勢いよく顔を上げると、地下から見える筈の無い天を仰ぎ見るかのように、遙かな蒼穹に木霊すかのように、叫んだ。

 「どうしよぉぉぉぉっっ!!」

 誰かに尋ねるわけではなく、ただ、絶叫する。ただ、内側の衝動を吐き出さんが為に。

 「ミシェルがぁぁぁっ、性に興味を持ってしまいましたぁぁぁぁ!!」

 それはさながら、乱れ混じった感情の慟哭だった。








 アクセルの様子が妙だということは、イシュタルの館の皆が薄々勘付いていた。
 談笑していたかと思えば、ふと虚空に視線を泳がせ、またはどこか遠い一点を見つめたまま、物思いに耽る。誰かに名を呼ばれてやっと、ハッとしたように瞬き、何でもないと微笑む。そして気付けば、また考え事をしている。
 そんな調子だった。

 「……ベル」

 そしてそんな調子の彼に、スルトが声を掛ける。

 「何か問題があるのか? 悩み事か? だったら、話してはくれないか? 俺が役に立つかは分からないが……せめて友として、お前の悩みを共有したい」
 「うん……ありがとう、スルト」

 間違っているわけではないが、何か間違った方向へと向かってしまっているスルトに対して、特に突っ込みもなく素直に礼を言うことが既に、異常と言えた。

 「心強いよ、本当に。けど、こればっかりは駄目だ。この問題に、お前を関わらせることは出来ない。大丈夫、命に関わるようなものでは無いんだ。ただ、個人的な悩み」
 「そうか……。わかった。ただ、必要になったら遠慮なく頼ってくれ。お前の力になるのが、俺の喜びなのだ」

 アクセルのマジックアイテムで視力を取り戻してからというもの、スルトは万事このような調子だった。アクセルはただ、喧嘩して仲直りしたとだけ説明したが、彼がそれで解決したとしている以上、皆も追求するようなことは無い。何より、スルトの行き過ぎた親愛からの行動に、少なくとも危険は無いだろうと判断していた。

 「…………ふぅ」

 頬杖をつき、相変わらず物思いに耽っているアクセル。目の前の紅茶を飲むでもなく、ただカップの取っ手を抓み、レバーのように左へ右へと回している。彼の机の前を通り過ぎようとしたフラヴィは、思わず目を見開いて振り向いた。

 「え? 今、呼んだかい?」
 「ああ……。少し、相談に乗って欲しいんだ」

 ナタンでもバルシャでも、スルトでも無い。仕事の話なら、男にする筈だ。頬杖を付いたままこちらを見上げてくるアクセルを、フラヴィも見つめ返す。

 「……あたしに? 相談を? あんたが?」

 確認するように、彼女は人差し指を交互に向けた。目は、相変わらず見開かれている。自分が、この少年から、そこまで頼りにされることなど思いつかなかった。

 「そうだ……。ナタン達には出来ないんだ。フラヴィに聞いて欲しい」
 「……ほほーぅ」

 フラヴィは顔を歪め、満面の笑みを浮かべると、アクセルの机に腰掛ける。表情の理由は、彼が下手に出てきたことの他に、彼の悩みの見当がついたからである。

 「さて、それで? このラパンの姉御に、何の相談だい?」
 「実は……」
 「いやいや、皆まで言うな。あたしはもう、すっかりパーフェクトにお見通しなんだ」
 「えっ」

 少年は瞬きを繰り返し、唖然とした表情で改めてフラヴィを見上げた。彼女は腕を組み、ニヤニヤと笑顔のまま、そっと顔を近付ける。

 「女……だろ?」
 「女?」
 「男の悩みなんざ、出世か女だよ。出世に興味無いあんたなら、女しかないじゃないか」
 「その通りだ。女の子だよ」

 アクセルが素直に頷いたので、かえってフラヴィは怯んだ。

 「ただ、悩みの度合いを具体的に言えば……。十人のスルトが、揃って僕を殺しにかかって来るくらいの……」
 「人生終了じゃないか、それ。で、結局お相手は誰?」
 「その前に、フラヴィ、質問がある」
 「質問?」
 「ああ……その……」

 彼がここまで言葉を濁すのも、珍しかった。尋ねたい内容ははっきりしているらしいが、ちらりと上目遣いで見上げては、顔を背け、口の中でモゴモゴとしている。フラヴィは首を傾げていたが、やがてアクセルが立ち上がり、伸びをして、彼女の耳元で囁いた。

 「その……初めての自慰行為は、いつだ?」
 「は?」

 聞き間違いであると断じて、フラヴィは聞き返す。目の前の少年が異常である以上、あり得ないということこそあり得ないのだが、それでも聞き違いだと考えた。
 しかし、その異常な少年は、常の状態では無かった。羞恥心に頬を染め、拗ねるように顔を引きつらせ、その汚れを知らなそうな桜色の唇から、再び言葉を紡ぐ。

 「だから……その、オナ…………だ。だいたい、いつくらいだ? 初めてしたのは」
 「……初めから説明して貰っていいかい?」

 質問を質問で返す、疑問の応酬。先にそれに降参の白旗を掲げたのは、下の立場に立つべき少年だった。








 スルトを連れ戻した後だった。心配ない、問題ない、大丈夫と、喉にタコが出来るほど繰り返し言った。彼女も、耳にタコが出来るほど聞いた筈だ。にも関わらず、ミシェルは心配そうな顔をしていた。
 怪我こそ『治癒』の魔法で完治していたが、服までは不可能。泥だらけで、上半身裸で、所々破れて血が滲んだズボンという姿を見せられて、言葉だけで安心出来る筈も無い。
 その夜だった。スルトを連れ戻せた喜びに浸りながら、寝間着に着替え、休もうとしたアクセルの部屋に、ミシェルが訪れる。
 未だ、時々ではあるが、幼い少女達とベッドを共にすることはあった。ティファニアに、ティファニアを心配するマチルダ、悪夢を見たらしいアニエスも、揃って一緒に寝ることがあった。夜中にふと目を覚ましても、誰かしら隣にいて、自分が孤独ではないことを確認できる。シーツも布団も、皆の体温を吸収し、心地よい暖かさに包まれて目を閉じることが出来る。そんな一時は、アクセルにとっても得難い安楽だった。
 一人やって来たミシェルに、アクセルは笑顔でベッドのスペースを譲る。彼女は遠慮がちに微笑み、もぞもぞとベッドの中に潜り込む。ほぼ徹夜だったアクセルも、同じく早々にベッドに入ると、二人きりで静かに眠った。
 問題は、夜中、ふと目を覚ました時である。目の前に、もぞもぞと動くミシェルの頭があった。ぼんやりとその水色の髪を見下ろしていたが、やがて、左腕に違和感を覚える。柔らかな膨らみかけの胸部と、そして熱を帯びた太腿に挟まれていた。左腕に抱き付くようにして寝ているんだな、と、一瞬そう思ったが、少しずつ様子が違うことに気付いた。
 挟んでいるのではなく、擦りつけている。アクセルの左手に自らの両手を重ね、導くようにして、自分の足の付け根に沿わせている。そうして指を曲げさせたり、腰自体をくねらせるようにして、ぎこちない動きを繰り返していた。
 荒い吐息に、湿り気を帯びた微かな喘ぎ。アクセルは左手の指先が、僅かに濡れているのを感じた。

 「っふ……うぅ……」

 押し殺した声と共に、ミシェルは痙攣するように身体を震わせ、太腿で一層強くアクセルの手を挟む。十秒ほど小刻みに震えていたが、やがてそっと力を緩め、寝間着の内側へと誘い込んでいた左手を解放すると、その液体を優しく拭い取る。
 それからは、何事もなかったかのようにミシェルは眠った。
 あれほど疲労していたにもかかわらず、アクセルは夜明けまで、一睡も出来なかった。ただ、彼女の行動を脳内で処理しようと、ひたすらに考えていた。いや、真っ先に出てしまった結論を否定する為に、あらゆる角度からあらゆる可能性を検討していた。
 しかし結局、結論はたった一つしか現れず、その後二度の夜でも同じだった。

 そしてそれは、アクセルを大いに悩ませることとなった。








 「……なるほどねぇ」

 そう言いながら頷くのは、リリーヌ。
 話のあらましを聞いたフラヴィは、助っ人としてリリーヌを指名し、アクセルも了承した。二人揃ってリリーヌの部屋を訪ね、問題を詳しく説明する。

 「その……。やっぱり、それだよな?」
 「ああ、そうだね」
 「ええ、そうね」

 女性二人の揃った同意に、アクセルは溜息と共に俯いた。
 が、そんな彼の苦悩とは裏腹に、フラヴィとリリーヌは互いに、何とも言えない表情を見せ合う。そして頷き合うと、フラヴィは一つ咳払いした。

 「なぁ、ベル。聞きたいんだけど……」
 「……何?」
 「結局、それの、何が問題なんだい?」
 「っはぁ!?」

 目を見開き、首を傾げ、小馬鹿にしたようにアクセルは声を上げる。

 「だ、大問題だろ!? 何でそんなこと言えちゃうの!?」
 「いやだからさ、ミシェルはあんたのこと大好きで、あんたもミシェルのこと大好きなんだろ? だったらいいじゃん。何を悩んでんの?」
 「ああもうっ。このウサギ女め……! いいか、ミシェルは未だ12、僕なんかは9歳だ! そういう、いけない遊びが許されるわけないだろ!」

 あまりに良識的な理論に、フラヴィとリリーヌは絶句した。しかしいち早く正気を戻したフラヴィは、一つ首を振ると、アクセルに向かって指を突き出す。

 「娼館の言い出しっぺが、何言ってんの!? 12で娼婦なんて、裏じゃ大して珍しくもないんだよ!? そもそもあんたに、そんなこと言う資格は無い!」

 反論しようとしたアクセルの前に、ビシリと掌を突き出し、更に彼女は続けた。

 「あたし知ってんだよ、あんたが発案した喫茶店! 何だいっ、『エプロンだけ喫茶』って!」
 「ぬああっ!」

 まるで狙撃されたかのように、アクセルは胸を押さえてその場に倒れた。フラヴィは容赦なく追撃する。

 「全裸の女の子に、制服はエプロンだけ! 客は後ろ姿や横から見て楽しむってヤツ! もうっ……エロいとかじゃない! 発想が病気! 夏季限定だけど、聞くところによれば、結構繁盛してたんだってねぇ!?」
 「ぐぁぁ……僕の、二番目くらいに知られたくない一面が……既に白日の下にぃ……!」
 「これが二番なの!?」

 転げ回るアクセルに、更に暴こうとするフラヴィ。リリーヌは二人の間に割って入ると、それぞれ落ち着かせ、アクセルの方に向き直った。

 「あのね、ベル君。好きな人にもっと触れていたい、っていうのは、自然な気持ちだと思うわ」
 「……そうかも知れないけど」
 「例えば、その、ベル君が……その……自分の……ソレを、寝ているミシェルの手に包ませて……上下させたりとか……。思わず、そんな事しちゃったら……」
 「その時は、腹をかっさばく」
 「そう、腹を……え?」
 「え?」
 「え?」

 リリーヌが首を傾げ、フラヴィが顔を上げ、アクセルも訝しむように眉を顰めた。再びフラヴィと顔を見合わせ、リリーヌは改めて尋ねてみる。

 「えっと……お腹を?」
 「正座して、腹をナイフでかっさばいて、目の前の地面に内臓を全部並べる」
 「やだ……怖い」
 「じゃ、じゃあ、ミシェルもそうすべきだってのかい?」
 「んなわけ無いだろがぁ!! 誰だそんな事言うヤツはぁぁ!」
 「あんたもうっ、ワケ分かんないよ!!」

 再び冷静に議論できるようになるまで、数分の時間を要した。

 フラヴィもリリーヌも、薄々とは感じていたが、今までの話によって確信することが出来た。
 つまり、アクセルはミシェルもマチルダも、ティファニアも、そしてアニエスも、皆を愛しているが、それは父親としての愛情なのだ。少々、親バカな類の。年下でありながら、少年は年上の少女達に、庇護者としての愛を注いでいる。
 しかし、ミシェルという娘が女としての行動を取った故に、彼はひどく狼狽していた。

 「……もうさ、ヤっちゃえば?」

 だが、そんな事情を丁寧に考慮してやるフラヴィでは無い。何より、議論にすらならないアクセルの理不尽さに、少しはあった愛想も尽きていた。

 「だから、僕は精通もまだで……」
 「勃つんだろ? なら問題ないじゃん。ミシェルが満足するまで、ヤっちゃえヤっちゃえ」
 「それは……出来ない」
 「何で? あの娘が求めてるんだろ? だったら応えてやんなよ」
 「けど、その……。親御さんに、申し訳が立たないと言うか……」
 「けっ、親御さんときたかい」

 フラヴィは絨毯の上に寝転ぶと、足の裏でげしげしとアクセルの背を蹴飛ばした。

 「もう諦めな、ベル。そこまで悩んでるってことは、あんたもう、ミシェルを娘として見てないよ。女として見てる」

 そう、本当に娘として見ているならば、こんな風にいつまでも悩んだりはしない筈だ。見て見ぬふりに徹するか、それともミシェル本人に直接諭すか。行動するかしないか、それをはっきりさせている筈だ。

 「……ミシェルのことは、隅々まで知ってるつもりだった。ホクロの数まで。けど……何ていうか、あんな……女としての……」
 「そうそう、そういうもんさ。娘なんて、いつの間にか女になってて、それで男作って家庭に入って……」
 「……っ!!」

 突如、アクセルの目から涙が溢れた。背後からも泣き出した様子は明らかで、強く蹴りすぎたのかとフラヴィは思わず足を止める。ぐしぐしと涙を拭っていたアクセルの頭を、リリーヌが微笑みながら抱き締めた。

 「い……一体、どうしたんだよ?」

 リリーヌに抱き締められたまま、頭を撫でられ、少年は泣き続けている。そうしていれば年相応に、母親に泣きつく男の子に見えた。

 「いや……ほら……」

 拳で両目を擦り、顔を紅潮させ、アクセルは嗚咽する。

 「いつか……テファ達も、巣立って行くんだなって……寂しくて……」
 「何年後の心配してんの? 何歳の心配してんの?」
 「どんな男と……結婚するのかなぁ?」
 「知らないよ。立候補すれば?」

 原作でティファニアが惚れたのは、主人公の一人、平賀才人だった。原作が完結していない以上、結末がどうなるのかはわからないが、ともかく一途なまでに惚れていた。
 しかしそれは、アルビオンの田舎で隠れ住んでいたという彼女の境遇が、大きく作用していた為でもある。ハーフエルフであることを受け入れる、このイシュタルの館で暮らしている以上、そんな孤独を感じることは無いだろう。
 それでもやはり、十年後、ティファニアは召喚された平賀才人を愛するのか。それとも、全く別の人間に好意を抱くのか。

 「……。あれだな。テファの結婚式では、僕は監禁されてた方がいいかも。僕の中の封じられしダスティン・ホフマンの覚醒に備えて」
 「あんたの頭の中では、もうそこまで時が進んだのかい」
 「テファの結婚相手は……僕の『拳弾』、『密葉』、『威吹』を三十発ずつ受けて、尚も立っていられるくらいの漢じゃないと……認められないなぁ」
 「それつまり、殺すってことだよね? ……まぁ、果たしてエルフを嫁にしようなんて豪儀なのが現れるのか、って話だけど」
 「フラヴィ。それは、テファが行かず後家になると言いたいのか?」
 「ああもうっ、ほんと面倒臭い。あんたって」

 涙がようやく収まったらしく、アクセルはリリーヌから離れた。

 「今は……ミシェルの話だ」

 そう言うと、彼は涙を拭い去り、瞬きを繰り返す。
 結局のところ、どうすればいいのか。ミシェルのあの行為は、今まで三度。全て、アクセルが疲れてぐっすり眠ろうという夜だった。彼女はそうやって、起きる可能性の少ない夜を狙ったのだろう。つまり、アクセルに知られたくは無いということになる。

 (そうだよな、後々黒歴史になるのは決まり切ってるし)

 一番いいのは、このまま知らない振りを続けることだろう。それが八方丸く収まりそうな結論だとは思うが、アクセルにその自信が無い。女の子が自分の手を使って自慰を行っている状況は、率直に言えば非常に興奮するのだ。その興奮で、未だ幼い下半身の一部が剣と化す。今はまだ大丈夫でも、これからミシェルの興味が更に進化し、万が一アクセルの股間に及ぶことにでもなれば、狸寝入りも続けられなくなる。

 「……私達が、相談に乗るのは?」
 「え?」

 リリーヌの提案に、アクセルは首を傾げた。

 「相談……乗ってもらってるけど……」
 「そうじゃなくて、ミシェルの相談に乗るの。ほら、同性だし。女の子の身体のこと、教えてあげられる人が必要でしょ?」

 確かに、もっともな話だった。これから初潮を迎える彼女たちに、アクセルでは何一つアドバイスなど出来ない。保健体育の教師が必要だ。
 フラヴィもリリーヌも、その道のエキスパートである。

 「これから女の子の身体として、どう成長していくのか。それを教えてあげるの。悩んでいることはないか聞けば、もしかしたら、ベル君の悩みも解決するかも」
 「……お願いする。けど、僕が夜のこと知ってるとか、そういうのは勘付かれないでね。あくまで僕は何も知らず、ぐっすり熟睡してただけで……」
 「わかったわかった。信用しなよ」
 「いや、リリーヌはともかく、フラヴィはいまいち信用出来なくて……」
 「黙りな」

 部屋を後にしたフラヴィとリリーヌは、一時間後にはもう戻ってきた。
 本棚にあった考察本の一つを捲っていたアクセルは、時計を見ながら、やけに早いなと振り返る。そして異変に気付いた。

 「……どうしたの?」

 フラヴィは無表情で、リリーヌは居心地悪そうな顔で、揃って立っている。

 「ベル。ミシェルが性に目覚めた原因、わかったよ」

 無表情のまま告げるフラヴィに、アクセルは驚いた。この短時間でミシェルに基礎知識を教え、更に相談に乗り、更に原因まで突き止めてきたという。

 「え……何……天才?」

 あまりの速度に、アクセルはそう言いながら首を傾げて見せた。

 「何言ってんだい。天才はあんたじゃないか」

 お世辞か愛想にも聞こえるが、フラヴィは相変わらず無表情である。それが不気味だった。

 「……まぁ、原因は、僕も見当がついてるよ」
 「ほぉ。言ってみな」
 「アニエスだ」

 アクセルの答えに、ふぅんと、フラヴィは頷く。

 「あの耳年増、どっから調達してくるのかは知らないけど、余計な知識ばっかり頭に入れてくるんだよなぁ。あれさえ無ければ、僕ももうちょっと……」
 「外れだよ」
 「……外れ? 何が?」
 「原因はね、あんただ」

 フラヴィに人差し指を突きつけられ、アクセルは思わず仰け反った。
 しかし原因が自分にあると言われても、少年には心当たりなどない。一緒に風呂に入っても、一度もそんなハプニングは起きなかったし、日常生活でも同様。

 「わけが分からないって顔してるね? じゃあヒントだ」

 訝しむアクセルを見ると、フラヴィは咳払いをする。そして突然、海藻のように身体をくねらせると、シナを作ったような声で喘ぎ始めた。

 「“お、おにいちゃん。からだが熱いのぉ”」
 「……どうした、フラヴィ。カブトムシか何かに脳みそ啜られ……」

 呆れ顔でそこまで言いかけて、その顔は固まる。何かに突き当たったかのように。そしてみるみるうちに蒼白になり、続いて真っ赤になり、アクセルの両手はゆっくりと、自らの頭を抱えるために上昇し始めた。
 思い出した様子の彼に、一つ溜息をつき、フラヴィは後ろ手に隠し持っていた本を露わにすると、それをアクセルの足下に放り投げる。黒い装丁の本は、絨毯の上にポスンと落下した。

 「アリス・ムーンライトさんの……ブラックレーベル」
 「ほっ、ほぎゃああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 ペンネームで呼ばれた少年は、先ほどより更に激しく、絨毯の上を転げ回った。

 「ぼっ、ぼぼっ、僕のぉぉっ、一番知られたくない一面が、今っ、白日の下にぃぃぃぃ!!」
 「さぁてどうする、大天才さん。これを読んじゃったから、ミシェルは……」
 「言わないで! それ以上は許して、言わないで!」
 「ベル君……。これ、私達から見ても、ちょっと過激過ぎ……」
 「リリーヌさんまでぇぇぇぇ!!」

 アリス・ムーンライトとはそもそも、アクセルが前世で見知った物語を参考に、童話として物語を書く時のペンネームである。ティファニアに読み聞かせるために、童話を本に纏めたのが始まりだが、今では近隣の領地の本屋にもこっそりと置かれている。なかなか好調な売れ行きで、アクセルも密かにほくそ笑んでいた。
 しかし執筆したのは、童話だけでは無い。時たま溢れ出た性欲、リビドーを、思う存分に吐き出したものも存在する。とても子どもに見せられるものではない、そんなものが。いつの間にか、それらが本に出来るほど溜っていた。そしてそれを、魔が差して、ついつい本にして、とうとう出版してしまった。執筆者の名はそのまま、大人向けの黒い本である。
 それが、童話以上に売れた。他の官能小説の、実に五倍の値段を吹っかけたにも関わらず、あっという間に完売してしまった。今では更にプレミアが付き、裏の市場でも取引価格が上昇を続けている。アクセルが手元に残しておいた最期の一冊も、知られれば買い手が押しかけてくるだろう。
 失敗は、まさかそこまで売れるとは思わず、アリス・ムーンライトの名をそのまま使ってしまったこと。

 フラヴィは本を持ち上げると、ページを捲り、手の甲でパンパンと叩いて見せた。

 「さて……。この本の第五話『魔法の雫』。魔女の秘薬を飲んで、兄より年上に成長してしまった妹。火照った身体を治してと懇願する妹に、思春期真っ盛りの兄が欲情して……」
 「ぅあぁぁあああああ…………」

 アクセルはベッドの下に上半身を突っ込み、バタバタと足を動かす。そんな彼を容赦なく引きずり出すと、フラヴィは本を片手にしゃがみ込んだ。

 「これってさぁ……近親相姦てヤツだよねぇ?」
 「……そうです」
 「いいのかなぁ、こんな法に触れるようなの書いちゃってぇ」
 「け、けど、そういうフィクションが有り触れた世界も存在して……」
 「するわけないだろ。寧ろあんたが作ってるじゃないか。……そして、率直に聞くよ。だからあんたも、素直に答えな。これ……モデルは、あんたとミシェルだよねぇ?」
 「…………そうです」
 「ほら、謝りな」
 「ミシェルのお父さん、お母さん。こんな僕が保護者でごめんなさい」

 素直にどこかへ向かって土下座するアクセルに、もはや抵抗する力は残されていなかった。

 「全く……。あんな事言っときながら、裏ではこんなもん書いてるんだから。とんでもないね、あんた」
 「いや、けどね。年上の妹とか、そういう奇妙な設定って、すごく萌えて……」
 「死ねば?」
 「……そうだよね、僕なんて……」

 どこかすさんだ表情で、自嘲するように呟く。既に、後悔の二文字しかなかった。

 「ああ、そうだ」

 フラヴィは思い出したように顔を上げ、アクセルの肩を叩く。アクセルはぐるりと首を回し、力無く彼女を見上げた。

 「ミシェル、あんたの嘘寝に気付いてたよ」
 「…………え」
 「心臓がばくばくしてたのが、すごい伝わってきたって」
 「ちょ……ちょっと待て、フラヴィ」
 「だから今夜。しっかりやりな」
 「何を!? しっかりって何を!?」
 「何をって……ナニしかないじゃん」
 「だからそれが駄目だって……!」

 声を荒げるアクセルを、そっとリリーヌが押し止める。流石にフラヴィ相手と同じように、とはいかず、アクセルも素直に口を閉じた。
 彼女は優しく微笑むと、アクセルの頭を撫でる。

 「大丈夫、難しく考えないで」
 「いや、だって……」
 「つまりね。ミシェルは今、不安なの」
 「不安?」

 リリーヌは頷くと、アクセルを座らせ、自らもその隣に腰を下ろした。

 「ベル君、知ってる? 十分に愛を注いでもらえなかった子どもは、すごく人懐っこくなるの。愛が欲しくて」
 「…………」
 「ここ最近、ベル君がずっと忙しくて、すごく悩んでて。ミシェルもそれを、すごく心配してて。……愛の示し方は、一つじゃないわ。だから、彼女を愛してるってこと、教えてあげて。安心させてあげて」
 「……わかった」
 「そうそう、あたしもそういう事が言いたかったん」
 「フラヴィ、黙って」








 死刑執行者の足音が聞こえてくるのを、じっと耳を澄ませて待ち続けている死刑囚……方向は違えど、緊張の具合は、そう言い表すことが出来た。

 「…………」

 口がからからに渇き、唾も出ない。アクセルはサイドテーブルの上の水差しを持ち上げると、そのまま、一口だけ含んだ。
 昼間も、夕食時も、ミシェルはいつものミシェルである。その彼女が、夜、ベッドでは別人のようになる。

 (ベッドの上では豹変……ベッドの上では野獣……。うん、エロいな。いや、考えるな、俺のバカ)

 そしてついに、部屋のドアがノックされる。
 吹き出しかけた水を何とか飲み込み、少々咽せながら、アクセルはどうぞと応えた。ノブが回り、そっと、静かに少女が入り込んでくる。

 「……兄さん。いい?」
 「ああ……うん」

 既にベッドに入り込んでいたアクセルは、短く答えた。ミシェルは笑うと、掛け布団を捲り上げ、アクセルの隣に滑り込む。

 (……どうしよう)

 あれから色々と考えてみたが、結局何の結論も出ないまま、夜を迎えてしまった。何となく顔を合わせづらく、アクセルはミシェルに背を向けている。

 「兄さん」
 「うん?」
 「抱き締めていい?」
 「……うん」

 背後で、動く気配がする。ミシェルはアクセルの首に腕を回すようにして、身体を密着させた。普段はそれほど気にも留めないのに、今は何故か、背中に感じる膨らみがやけに生々しい。イヤでも、女だということを意識させられる。

 「……ミシェル」
 「何?」
 「あの、僕の部屋にあった本だけど。あれはただ、僕の妄想を並べ立てただけで、僕が望んだりしてることじゃないから」

 予防線のつもりかと、アクセルは自問した。今の言葉に、果たして意味はあるのかと。

 「……お疲れ様」
 「え?」

 思い掛けない言葉に、アクセルは思わず僅かに首を回そうとした。ミシェルが一層、強く抱き付いてくる。

 「ちゃんと、言えてなかった気がしたから。お疲れ様、って」
 「……ありがとう」
 「大変だったんでしょ?」
 「まぁ、喉元過ぎれば……」

 遡れば、ブランツォーリ司祭と守備隊隊長イジドールの陰謀。もう、あれから随分と経ている気がした。クーヤが仲間に加わり、王都トリスタニアへ行き、マザリーニ達と出会い、父親と対峙するために戻り……。

 アクセルはそっと、背後から回された手に自分のそれを重ねた。

 「ミシェルも、いつもお疲れ様」
 「ううん。大したことは出来ないから」
 「助かってるよ。本当に」
 「役に立ててるかな?」
 「とても」
 「良かった」

 クスクスと、笑いが漏れる。

 「兄さん」
 「何?」
 「私のこと好き?」
 「大好きだよ」
 「あんなことしても?」
 「……ちょっと驚いた。うん。でも、嫌いにはならない」
 「じゃあ、もっといけない事していい?」
 「それは駄目」
 「何で?」
 「何でも」

 何故駄目なのか、と問われても、アクセルにはっきりとした答えは無い。ただ、駄目だと感じるから。してはいけないと思うから。故に、子どもの駄々を宥めるような形になってしまう。

 「……たまに、なら、今までみたいなことしていい?」
 「それは……。うーん……。その……」

 アクセルは、腹が立った。自分自身の煮え切らなさに。いっそのこと、トコトンまで付き合えばいい気もしてきたが、やはりそれは出来なかった。

 「いつなら、いいの?」
 「そりゃ……大人になってからとか」
 「何歳?」
 「え、うーん……十八くらい……かな」
 「じゃあ、十八歳になったらしていい?」
 「……ああ」

 流石にそれまで時間があれば、全ては変化しているだろう。アクセルはようやく、頷くことが出来た。

 「……してみたいことがあるの。こっち向いて?」

 ふと、ミシェルが囁く。言われたとおり、アクセルは寝返りを打った。鼻の先には、彼女の顔がある。

 「ちょっと、待ってて」

 ミシェルが布団の中に潜り込んだ。暫くもぞもぞと動いていたが、やがて布団の外に、くしゃくしゃに丸まった寝間着が現れる。すると、アクセルのシャツの裾が引っ張られた。

 「ちょ……くすぐったいって」

 髪の先が、脇腹をくすぐる。アクセルが笑っていると、彼女はぷはっと、同じ襟から頭を出した。

 「あーあ、シャツが伸びる」
 「んー……」

 互いの上半身の肌が、ぴたりと一糸隔てず密着する。ミシェルはそのまま抱き付くようにして、アクセルの上に乗った。

 「初めて会った時も……こうして貰ったから」
 「……そうだったね。随分前だ」
 「すごく安心する。……これなら、いい?」
 「うん」

 アクセルは腕を回し、シャツの布越しに少女の背を撫でる。ミシェルは気持ちよさそうに欠伸をすると、頬をくっつけたまま、耳元で囁いた。

 「テファだけずるいから……私にもくれる?」
 「テファ? ……何を?」
 「あれ」

 ミシェルの声は、弾んでいた。








 「兄さん、ここなんだけど……」
 「ん、ああ。本当だ。あとでナタンに言っとくよ。それじゃ、次、こっちお願い」

 ミシェルから書類を受け取り、新しい書類を渡すと、アクセルは赤インクで修正を加える。いつもの事務仕事の光景だった。

 「結局、解決したのかい?」
 「いや……先延ばしにしたようなもんだよ」

 ミシェルの後ろ姿を見ながら、フラヴィが近づいてくる。彼女に力無く笑いかけると、アクセルは書類を傍らに押しやり、次の一枚を引っ張り出そうとする。

 「おっと」

 しかしその一枚は、フラヴィによって奪われた。咎めるような視線と共に手を伸ばすアクセルに、彼女は軽く笑って見せる。

 「それで。取りあえずの解決策が、アレかい?」
 「う……」

 アクセルの手が、僅かに下がった。

 いつもと変わらないミシェルの首に、変化がある。フリルやリボン、小物で可愛らしく装飾された、革製のベルトが巻かれていた。アクセサリーのようだが、事情を知るフラヴィにしてみれば、首輪以外の何物にも見えない。

 「あーあ、嫁入り前の娘にあんなもん付けて……。本当に、将来有望だよ、あんた」
 「うるさいな」
 「……第四話『花園の少女』の娘も、確か首輪つけてたよねぇ。話の中では、売約済み、って意味だっけ?」
 「頼む、フラヴィ。もうあんまり、あの本について触れたりは……」
 「何で? 人気あんだろ? 売り切れなんだろ? もっと自信持ちなよ、ねぇ」
 「……クソッ」
 「まぁ、あれだね。娼館なんかで育った娘が、まともに育つと期待しない方がいいよ」

 からかうようなフラヴィの言葉に、アクセルは再び悪態を吐いた。



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