第1章 青き春の章
第3話<邂逅>その2
三日後、二台の馬車が、ゼルナの街に到着した。
ラヴィス子爵領最大の街とはいえ、所詮は片田舎。城壁に囲まれた街であるので、大した大きさはない。
出迎えた元執事だという男の目には、クマが出来ていた。鳥の骨、などと呼ばれている……現在は、まだ呼ばれていないが……マザリーニ枢機卿と同じく、相当に苦労しているらしい。
自分の仕事を子どもに奪われることで、怨みに思って何か仕掛けてくるか?というのは、杞憂だった。早く家に帰って、のんびりしたい。孫と遊んで暮らしたい……そう語る老人の頬を、涙が伝う。思わず、今までありがとうございました、と、両手を取って頭を下げてしまった。
さて。
館の二階、執務室の奥、代官の机に腰を下ろしたアクセルは、周囲に集まる人々を見回す。
「さて、と。まぁみんな、頑張るように」
それだけ言うと、さっさと文官たちを仕事に戻した。
そう、こんなものなのだ。自分はただ、形式的に派遣された代官。ここにいるだけでいいし、文官たちも、それ以上のことを望んではいないだろう。決まり切ったいつもの仕事を、今日もまた、繰り返すだけ。
「リーズ、ちょっと散歩に行ってくるよ」
「しかし……」
「大丈夫、ちゃんと変装して行くからさ」
山賊のボスの首を持ち帰った時、同時に、アクセルは魔法の腕前を示したことになる。
お忍びで、なら、供を連れずとも問題ないと判断され、リーズも快く、というわけではないが、そっと頷いた。ラヴィス子爵の代理のアクセル、その彼の代理を務める彼女なので、文官達に混じって書類仕事に向かう。
整えられていた髪をグシャグシャに掻き乱しながら、運び込まれたばかりの荷物を漁り、着古された平民の服に着替える。リーズが見れば、こんなボロを纏うなんてっ、と、拒絶反応を起こしそうだ。
続いて、風呂敷くらいの布に、適当に予備の衣服を詰める。それを背負えば、世間の荒波に揉まれつつも健気に生きる、飲んだくれの父と病弱な母と幼い弟妹を背負った、平民の長男(in行商の旅)……ともかく、どう見ても貴族ではない少年が出来上がった。
人など滅多に通らない裏門から出て、軽く地面を転がり、更に砂埃を頬に叩き付ける。
(これで、バレる心配はないな?)
疑問符が浮かぶが、アクセルはそのまま大通りへと向かった。
文官たちは、その目で、その足で、街の様子に触れることはなさそうだ。お飾りの代官ではあっても、本当のお飾りであってはならない。というより、少しでも良い方向へと持って行きたい。
転生者とはいえ、自分には原作知識以外、何の武器も無いのだ。政治も知らないし、外交も知らない。農業の知識も、軍事の知識もない。あるのはお決まりの、アニメやら漫画やらゲームやら……それと、どうでもいいような豆知識群。
出来ることからやろう。そう、例えば、捜査とか。
することがなくて暇で暇で、勧善懲悪の水戸黄門ごっこでもやろうか、そんな理由であることは否定できないが。
領内第一の都会らしく、様々な人間が溢れている。まぁ、そりゃ街なのだから人だらけなのは当たり前だが。
取りあえず、地理を把握するためにひたすら歩き回る。時折露店や大道芸人を見物しながら、店の場所、道路の様子など、なるべく頭の中に入れていった。
「……やれやれ」
二時間後、街の中心部を一通り歩き回ったところで、アクセルは噴水のベンチに腰を下ろす。
(……なんもねぇや)
自分に出来ることが、である。昼間から酒を飲んでる大人達が暴れ、露店で万引きしようとした少年がぶん殴られた。アクシデントは、その二つだけ。
街は、平穏無事な時間の中にある。
目立った悪も、目立った善もなく。可も無し不可も無し。
(まぁ流石に、漫画みたいなわかりやすい悪役はいないか)
もしいたとしても、その悪役を懲らしめてめでたしめでたし、というほど、簡単ではないだろうが。
「ん?」
そして、アクセルはその男に気付く。
自分の右奥に見える、建物に挟まれた薄暗い通り。そこの陰に、じっと一点を見つめる、無精髭の男がいた。年齢は見たところ、二十歳前後か。
「…………」
既に冬も終わったというのに、厚手のコートをしっかりと着込み、フードを被っている。その両目はぎらぎらと、刃のような輝きをしていた。
背を丸め、片手をコートの中に忍ばせ。
(殺すつもりか……?)
男が見つめているのは、噴水を隔てて広場の向こう側に建つ、街一番のホテル。今は貸し切りとなっているらしく、見張りに立つ傭兵達を避けるように、誰も近づかない。
別に、殺気を感じたとか、そんなことはなかった。そもそもそんな真似、本当に出来るのかわからない。
しかし、季節外れの分厚いコート、その内側に入れられた手、そしてシリアスな表情。
まさか、隣の菓子屋で限定発売されている、ナッツベリーケーキを買うわけでもないだろう。
再び男を見ると、彼は目を閉じていた。そして……肩を上下させて何度か深呼吸し、目を見開くと、裏通りから広場に出た。
「ぶっ殺す……」
彼がアクセルのすぐ前を通り過ぎた時、彼のぶつぶつとした呟きの正体がわかった。
やはり目的は、殺し。恐らくは、あのホテルを貸し切っている人物。
それにしても、呟きとはいえ声に出すとは……格好だって、あんな“それらしい”もので。
殺し屋ではないが、強い決意がある。
(ちょっと……ちょっとだけ。見るだけ)
少なくとも、あの男には自分の命を脅かすほどの力はなさそうだ。
いい加減、退屈で、暇だったのも理由。アクセルは膝に手を当て立ち上がると、ホテルの隣の裏通りへと入った男を見た。
「はい、ちょっとごめんよォ」
軽く声を上げながら、人混みを擦り抜ける。頭に籠を乗せたおばさんの前を通り、子どもを背負った女性の背中を掠り……。
「おいっ、そこの薄汚い小僧。このホテルは貸し切りだ。さっさとどっか行け」
「なんだよォ、ちょっと近づいただけじゃんかよォ……」
口を尖らせながら、見張りの傭兵に言われたとおりホテルの前を横切る。そして、先ほどの男と同じように、見張りの視線が外れた時を狙って、裏通りへと飛び込んだ。
街一番のホテルというだけあって、面積も広く、途切れない壁が続いている。そこを少し進んだところで、アクセルはゴミ箱の陰に隠れた。
(見つかってるし……)
少し先、ホテルの裏口の前に、男が三人。さっきの男は路地に倒れ、亀のように蹲っている。それを蹴りつける、二人の傭兵。
(見張りか……そりゃ、裏口にだっているだろうに)
近くに、男がコートの下に隠し持っていたのであろう、一振りのナイフが落ちていた。
しかし、何がどうなっているのか。
コートの下に武器を隠し持った男を、そのまますんなり通すわけにはいかない。そのくらいの理屈は言うまでもないが、男は誰を狙ったのか。
貴族……というわけではないだろう。貴族だって傭兵を雇うが、それならホテルの前に、これ見よがしに馬車を待たせておく筈だ。いや、宿泊しているのなら違うが。そうだ、貸し切りなのだから、当然宿泊してるだろうし、貴族の可能性もあるか。
しかし、それなら当然メイジであるわけで……メイジを殺しに行く男の武装が、ナイフ一本? あり得ないだろう。
いや、待て待て。この街には、貴族は自分しかいない。そこへお忍びでない貴族が来るのなら、余計なトラブルを防ぐため、当然真っ先に自分に連絡が来る筈で……。あ、でも、到着してすぐに街に出たから、自分にまで連絡が来ていないのかも。もしくは、単純に皆が伝え忘れたのか。
(あああっ、もう! バシッと正解出してくれよっ、俺の脳みそ!!)
まぁ……自分の頭脳にそこまで期待する根拠もないのだが。
別に、答えを一つに絞る必要はないのだ。ホテルが貸し切りなのだから、宿泊しているのは当然、それなりのステータスを持つ人間。即ち……貴族か、それなりの商人か。
蹴られ続ける男が、だんだんと動かなくなっている。
(……バカか、俺。あの男に聞けばいいじゃねぇか)
アクセルは立ち上がると、三人に向かって走り出した。
「兄ちゃんっ!」
そう声を出すと、傭兵二人が攻撃を止め、少し驚いたようにこちらを向く。アクセルはそのまましゃがみ込むと、蹴られていた男にしがみついた。
「兄ちゃんっ、何してんだよっ、こんな所で!」
「兄ちゃん……ああ、小僧。こいつ、お前の兄貴か?」
合点がいった、という表情で、傭兵の一人が声を掛ける。
「そうだよぉ! お前らっ、兄ちゃんに何しやがる!」
あくまで自分は、この男の弟。男は気絶してはいないが、かなりのダメージを受けており、喋ることも出来ない様子だ。
突然現れた自称弟を確認しようと、彼の目だけが動く。
「何しやがる、じゃねぇよ。この野郎、よりにもよって、バルビエ様を狙うたぁなぁ」
バルビエ……その名で、商人だと判明した。
確か、主に骨董を商う男で、出身はかなり遠くの……忘れた。
今ホテルを貸し切っているのは、そのバルビエ。
「親父の敵討ちか?」
「敵討ち?」
聞き返したのは、もう一人の……若い傭兵。壮年の傭兵は顎髭を撫でた。
「そうだよ。三日前……だったか。こいつの親父が、分相応な逸品を持ってるって聞いてな。バルビエ様が自ら出向いたんだが、頑として譲ろうとはしねぇ。時間の無駄だってことで、俺らが忍び込んで、一家皆殺し。ブツは目出度くバルビエ様の手に……」
事も無げに話す傭兵。アクセルは、蹲る男の身体に力が込められるのを感じた。
「運悪く……こいつにとっては運良く、だろうが、こいつだけ外出しててな。まぁ、敵討ちに来るかもってんで、一応警戒していたわけだ」
言うまでもなく、その傭兵が告白しているのは犯罪。
しかし、それを易々と口にしているのは、口封じをするからではない。勿論、口封じに男とアクセルを殺すつもりだろうが。
つくづく、弱者に厳しい世界だ。
この男だって、帰宅して家族が皆殺しになっていれば、勿論通報しただろう。
しかしその通報も、受けるのは下っ端。バルビエがばら撒く金の力で、すぐに止められ、握り潰されてしまう。一家皆殺しですら、所詮は金さえあれば黙らせることが出来る、些細なことなのだ。
近所の人間だって、関わりたくはない。
せいぜい、通りすがりの盗賊にやられた、可哀想な一家……そのような結論に落ち着き、やがて風化する。
ガンッ
アクセルが事情を把握した時、思いも寄らないことが起こった。
「……何しやがる」
壁に手をつき、殴られた頬を擦る壮年の傭兵。拳を握り締め、鋭い目つきになっているのは、若い傭兵。
(え……何? 仲間割れ?)
思い掛けない展開に、アクセルは二人の傭兵を見比べる。
「ふざけるなっ」
若い傭兵の怒声。
「そんな……そんなことの為にっ……人の命を、何だと思ってる!」
(おお……熱血だ)
軽く感動したアクセルだが、それに比べて自分の、あまりにも冷徹な……無機質な感想に、自己嫌悪に陥る。
確かに、酷い話だ。自分だって、バルビエを放っておくつもりはない。
しかし、この若い傭兵ほどの激情は、遂に生まれなかった。
「……あのなぁ、新入り」
バシィッと乾いた音が響く。平手打ちの反撃を喰らい、若い傭兵は背後の壁にぶつかると、そのまま尻餅をつく。
「きゃっ……」
(弱っ……しかも、女みたいな悲鳴……え? きゃっ、て?)
すっかり蚊帳の外となったアクセルを横切り、壮年の傭兵は、女のような悲鳴を上げた傭兵の兜を掴むと、それを素早く外した。
(……女だったのかよ……)
兜で、顔の大部分が隠れていた為か、気づけなかった。声変わりの遅い新米傭兵が、兜を外せば、栗色の髪が露わとなり、そしてその顔つきは……紛れもない女の子。
「バレてねぇと思ってたのか? もう、全員知ってんだよ」
「……い……痛……やだぁ……」
少女は座り込んだままボロボロと、大粒の涙を流し始めた。
(……つぅかさっき、倒れた人間ガシガシ蹴ってたじゃん。ストンピングだったじゃん。浦島太郎の悪ガキBだったじゃん)
男勝りで勝ち気な少女が、男を見返すために性別を隠して傭兵に……と、そこまで広がっていたアクセルの想像は、一瞬で打ち砕かれた。
チッ、と、壮年の傭兵は手を伸ばす。少女の鎧に付いていた飾り布を引きちぎると、それを無理矢理、泣きじゃくる口に押し込んだ。ズボンを引きちぎれば、少女の下半身が露わとなり、白い太腿と、清楚な下着が晒される。何をされるのか理解したのか、少女の顔は、恐怖で一層歪んだ。
「いいか、新入り。テメェが昨日食った飯だって、そうやって殺されたヤツらの持ち物で買った、血塗れの飯だ。おかわりもしてただろ? いい機会だ、よぅっく、そのちっさい身体に叩き込んで、教育してやるよ」
その前に……男は呟くと、剣を抜いた。
「さっさと始末しとくか」
倒れ伏した男は、顔を上げ、傭兵の剣を見つめる。その顔には既に憎しみではなく、恐怖が張り付いていた。
「……ん? そういや、あのガキは……」
倒れ伏す男に寄り添っていた、弟がいない。
「いや……そもそも、生き残ったのはこいつだけで……それに、息子は一人で……」
「今更かーい」
傭兵の右後方に回っていたアクセルの、突っ込み。ただし、手の甲ではなく、ナイフで。
ベルトと鎧の間から、脇腹を深々と刺され、痛みで声を上げることすら叶わなかった傭兵の身体が折れ曲がり、やがて路地裏に転がる。何が起こったのか、理解できないといった瞳から、暫くして光が失われていった。
アクセルは首を振る。
弟だと偽ったのは、失敗だった。たまたまこの傭兵が気付かなかったから良かったものの、これがもっと頭の回るヤツだったら……それだけでなく、腕も立つヤツだったら……。
(まぁ、ともかく……こんな危ない橋、渡るもんじゃないな)
切っ掛けは、ただの好奇心。それがいつの間にか、一人命を落とすような結果を生んでしまった。
(そうだ、あの娘……)
壁に目を向けると、少女は失神していた。口を塞がれていたおかげか、悲鳴を上げることはなかったが……座り込んだ地面が湿り、湯気が立ち上っている。
(……何で、傭兵に……)
どこからか烈風カリンの噂でも聞きつけ、憧れたのか? まさか?
気になるが、今は話を聞ける状態ではない。アクセルは傭兵の死体を踏み越えると、未だ倒れたままの、ボロボロの男に歩み寄った。
「……やぁ」
軽く微笑み、右手を挙げる。
どういう対応で行こうかと思ったが……謎の少年、ということにする。
強烈な第一印象を与えておけば、これから主導権を握り易くなる筈だ。
そう、これから……。
出来ることないんじゃないか、とはいえ、やってみたいことはある。その為には、自分以外の人間を引き入れる必要があるのだ。
ところで、自分に人を見る目があるのか……多分、ない。とりあえず、前世ではなかった。だから今生でも、期待出来ない。
流石に、主人公組など、原作で登場する人物達については、ある程度信頼出来るだろうが……それでも、絶対ではない。彼等だって、騙されたり、操られたりする。モブキャラの一人である自分は、その時に近くにいれば、あっさり殺される可能性が高いのだ。皆が過ちに気付いた時には既に遅く、アクセル・ベルトラン・ド・ラヴィスの名が刻まれた墓標の前、沈痛な面持ちの誰かが、「アクセル、あなたの死は無駄にしない……」とか言いながら、夕陽の中、涙を拭って黒幕を倒しに向かう……。
……何だか、笑えなさすぎる想像だ。
いや、じゅうぶん無駄死にだし。
それくらいなら……。
……原作キャラを庇って……出来れば女の子の胸で、惜しまれながら死ぬ。
あり、か? それはそれで。よし、その時には“可愛い顔が台無しだぞ”とでも言ってから死のう。いや、“いい女になれよ”も良い。“死ぬ前に一発ヤラして”は……キャラを選ばないと、引かれる可能性が……まぁ、冗談だと理解してくれる相手なら、言ってみようか。
いつの間にか、思考が随分脱線していた。
こちらを見上げる男は、目を見開き、呆然とした顔のまま。流石にそろそろ、名前くらいは知っておきたいのだが。
いやその前に、こちらが名乗るのが常識だ。しかし、今アクセルと名乗るのも……。じゃあ、ミドルネームで……。
「ベル、と言う。そう呼んでくれないかな?」
右手を自分の胸に当てながら、アクセルはそう言った。
「キミの名前は?」
ようやく、男は答えてくれる。
「……ナタン」
……むぅ……結構イケメンだな、畜生が。
無精髭が生えているし、殺意に満ちた表情だったので気付かなかったが、今の呆然とした顔をよく見れば、二十歳手前か。老け顔だとしても、高校生くらいだろう。
髪は少しクセがあるらしく、微妙にウェーブがかかっている。
「ナタン、か。……傭兵の数は、知ってる?」
「え?」
「今、バルビエが雇ってる傭兵だよ」
「……確か……七人」
「成る程、七人の傭兵か。生意気な数だ」
アクセルは隣のホテルを見上げ、鼻で嗤った。
「それで、今もまだ七人かい?」
「……いや……今は……六人」
ナタンの視線が、脇腹にナイフが突き立ったままの死体に移る。
その隣で失神しているがっかり男勝りは、多分再起不能だろう。となれば、残りは五人。ホテルの正面入り口の見張りが、四人だった。ならば、残り一人は中か。そして恐らくは、バルビエの傍に。
いや、ナタンも、“確か”と言っていた。この傭兵もどきの女の子だって、つい昨日雇われた可能性もある。断定は出来ない。数え間違いだとして、あと二人か三人くらいはいると、覚悟しておこう。
「立てる?」
「ああ……何とか、な」
攻撃されていたのは、背中。確か、背面は前面の五倍の強度があると、バキで見た覚えがある。だんだん回復してきたのか、ナタンは壁に手をつきながら立ち上がった。
「怪我は?」
「……なさそう、だ」
地面を見たまま、彼はふぅと溜息をつく。そして……
「……ありがとよ」
こちらを見ずに、ナイフを拾い上げた。しかし、彼はアクセルの方へと向かって歩き出す。勿論、襲いかかるつもりではない。そのままアクセルの横を擦り抜け、裏口のドアに手を伸ばし……。
「あ?」
自分の後ろに、順番待ちのように並んだ少年を振り返り、じっと見つめる。
「……何なんだ、坊主」
「いや。僕も、こっちに用がある。偶然だね?」
「……いいか……坊主。俺は、これから……人を……」
人を殺しに行く。そう言おうとしたのだろうが、彼は、背後の少年の殺人を目撃している。
「出来るの? 初めてなんでしょ?」
アクセルがそう言ったのは、半ば確信があったから。普通、ここまで情報を得れば、ナタンが人を殺したことがないと、完全に結論づけられるだろうが……もしかしたら、と、そんな気もあった。
ナタンが言葉に詰まったところを見ると、本当に初めてで間違いなかったが。
「……遊びじゃねぇんだ。バルビエはともかく、傍には恐らく、傭兵のリーダーがいる。そいつは……」
これを言えば、大人しく帰ってくれるだろう……ナタンは、そう考える。
「メイジだ。ラインクラスのな」
ナタンとて、勿論メイジに勝つ自身があるわけではない。為す術もなく殺されるに決まっている。
そう……ナタンは、殺されるために来た。バルビエの身体に、傷の一つでも付けてやるために。それが叶わずとも、顔に唾でも吐きかけてやる。
流石にアクセルも、目の前にいるのが、自殺志願の鉄砲玉だと悟った。それに付き合わせるつもりはない、と、そういうことだろう。
「ラインクラスの……メイジ」
「ああ、そうだ。だからさっさとおうちに」
「そういうことは、早く言ってくれ」
ナタンの脇を擦り抜けて、アクセルはさっさとドアを開けた。
死ぬ覚悟をしていたとはいえ、突然の出来事に、ナタンは慌てる。
「さて。どこにいるんだろ」
「お……おいっ、待て! 何してんだっ、坊主!」
「静かにした方がいいよ。貸し切りとはいえ、従業員は大勢いるだろうし」
冷静な口調で告げられ、ナタンはまたしても、呆然とし……結局、少年のあとに付き従った。
少年は、“早く言ってくれ”と、確かに言った。普通そういうのは、ドアを開けて中に入ってからの台詞だろう。
ナタンの自分を見る目が、得体の知れない化け物か何かを見るそれになったことは、アクセルの理想通りだった。
そう。突如として現れた、得体の知れない子ども。このインパクトは大きい。
ナタンが慌てるほど、アクセルは反比例して冷静になっていった。
「しかし……おかしいね」
「な、何がだよ?」
「従業員すら、誰もいない」
「……そりゃ、バルビエが貸し切ってるから……」
「いくら何でも、全員でバルビエを世話してるってわけでもないだろう。みんな暇で、スタッフルームで休んでいるのだとしても……」
廊下に放置されたワゴン車を、とんとんと叩く。
「ここまでだらしないものかな? だとしたら、街一番のホテルなんて、大袈裟すぎる」
もっと探索すれば、どういうことかはっきりするのだろうが、アクセルは階段を上っていく。外から見た時、最上階のスウィートルームだけ、雨戸が閉まっていた。
あまり時間をかけすぎて、ナタンが冷静さを取り戻してしまうのも、おいしくない。
最上階に到着した。雨戸が閉まっていたのは、たまたま改装中だったから? いや、バカと何とかは高いところが好きなものだ。それに、折角ホテル丸ごと貸し切りにするのだから、一番上等の部屋で過ごしたいに違いない。少なくとも、自分はそうだ。
スウィートルームの、重厚そうな扉に耳を押し当てる。果たして、話し声が聞こえた。
アクセルはナタンを振り向く。
「うん。やっぱり、ここにいるね」
「バルビエも……か?」
「さあ。ちょっと見てみようか」
「え?」
鍵はかかっておらず、ドアは簡単に開いた。
中にいたのは、三人。
でっぷりと太った、ごてごてした衣服の男。恐らく、商人バルビエ。
軽装の鎧を身につけた、精悍そうな中年男。恐らく、例の傭兵のリーダー格。
もう一人。椅子に縛り付けられた、初老の男。その太腿には何本もの針が突き刺さっており、顔は腫れ上がっている。拷問されていたということは、すぐに分かった。
それは、開くはずのない扉だった。
バルビエ、メイジの男が、信じられないようなものを見る目をしている。拷問されていた初老の男は、荒い息を吐いているだけ。
二人の目線の先、ドアの隙間にいるのは、一人の……若草色の髪の、少年。
「…………」
「…………」
「…………」
やがて、少年の顔が隠れていき……再び、ドアは閉じられた。
「それっぽいのがいたよ、ナタン」
「な……な……」
怒りすら通り越し、顔を真っ青にして口を開閉させるナタン。流石に意地悪しすぎたかと、アクセルは反省した。
「あ、閉めない方がよかった? そうだね……ここじゃ何だし、入ろうか」
再び……今度はドアを全開にして、アクセルが部屋の中へと歩き出す。ナタンの手を引いて。
「……ど……どういうことですかっ、モリス!」
メイジの名前らしい。バルビエは、傍らに立つ彼を怒鳴りつけた。
「は……いえ……どういう……?」
モリスも、状況が掴めていない。
たった今、雨戸を少し押し上げ、正面玄関を見張る四人の部下達を見下ろしたばかりなのだ。
あの四人が無事ならば、残るは、裏。モリスの部下の内、一番の手練れを張り込ませた。一番の足手纏いも一緒だが。
しかし、それしか考えられない。こんなことなら、あの間抜けな小娘を雇うべきではなかったのだが、それはそれ、バルビエの趣味。このホテルでの目的を遂げたら、飽きるまで弄り、どこか娼館にでも売るか、適当に放り捨てるつもりだった。
「ナタン」
アクセルは、立ち尽くしている彼に声を掛ける。
「あのメイジを片付ける。少し待ってて」
「……え?」
ナタンが止める間もなく、アクセルはモリスへと歩み寄った。
誰の目にも見えていないが、彼の周囲には現在、風の精霊が渦巻いている。流石に四系統を一度に、は無理だが、一系統だけならば、何とか制御できていた。
風を選んだのは、戦闘やトラブルが起きた場合、一番応用力が高いから。
(頼むよ……皆)
精霊達に意識を集中させる。
やがて、モリスの目の前に立った。相手が何か言おうとしたが、アクセルはそっと右足を上げ、モリスの左足を蹴る。もっとも、爪先が当たったのは鉄の脛当てで、何のダメージも無いが。
さながら、ノックをする時のように。
コンッ……コンッ……コンッ……
続けざま、三回。何をしてるのか、欠片も理解できず、モリスはじっと少年の頭を見つめる。
「わからないか?」
アクセルはモリスを見上げ、首を傾げた。その表情がどこか、嘲りを含んだものであることに気付くのに、少しの時間を要す。
続いて……
腕を伸ばし、人差し指を丸め、少し高めの位置にある鼻先を、ピシッと弾いた。
「売ってるんだけど……喧嘩を」
モリスの顔が、歪む。
腰に差していた杖を引き抜き、横薙ぎに払った。激昂しているとはいえ、その動きは素早い。何の用意もしていなかったら、きっとあの杖に、頬を殴られていただろう。
(案外……早かったな、キレるの)
まだ声変わりもしていない、年端もいかぬ少年。その幼い声による嘲りは、発火装置として十分だった。
もし、逆の立場だったら……自分も激怒していたかも知れないと、アクセルは頭の片隅で考える。
「このっ、小僧がぁぁぁ!」
振り抜いた姿勢のまま、モリスは詠唱を始めた。杖をアクセルへ向けようと、動かす。
先ほどの横薙ぎを、バックステップで避けたアクセルは、風の精霊に意識を集中させた。無属性の精霊とブレンドし、右拳へと収束させる。
モリスが構える杖の先に、火球が出現した。
(フレイムボール……火のラインクラスか)
もしも水のメイジだったなら、仲間に引き込む可能性もあった。しかし、既にアクセルを攻撃する意志を示している以上、アクセルにとってモリスは、実験台でしかない。
と言うより、メイジ……しかも、同じラインクラスの相手は初めてなので、手加減をする余裕も、度胸もないが。
別に、難しいことはしない。
ただ、風の力を解放するだけ。それならば、無詠唱で十分。
目の前には、力を強め続ける火球。どうするか。このまま、相手がこちらへ向けて飛ばすのを待ってもいいが……。
いや、まだ実験だ。それに、さっさとした方がいいだろう。
前方……火の球体に向かって、跳躍。右腕を首に巻き付けるようにして、左耳の近くまで右拳を引く。
着地すると同時に、火球を裏拳で殴りつけた。インパクトの瞬間、収束させていた風の精霊を、一気に解放する。
放たれようとしていた火の玉は、床と水平に弾き飛ばされ……三メートルほどしたところで、嘘のようにかき消えた。
モリスの顔から、憤怒が消えていく。その様は、ひどく間抜けなものに思えた。
両足の裏に、先ほどと同じように、風を起こす。ふわりと、アクセルの身体は宙に浮いた。フライと同じようなものだが、それよりも遙かに簡易。
跳び上がりつつ、身体の上下を入れ替える。唖然としたモリスの顔が、こちらを追った。
そして、モリスの顔が、天井まで向いた時……その顔を、そっと、両手で包む。
(痛いな……)
右手の甲が、若干の火傷を負っていた。もっとタイミングを正確にすれば、無傷で弾けただろう。やはりいきなり、飛んでくる火球を弾き飛ばすなどという無謀をしなくて、よかった。
また、風の精霊を……足の裏のそれを意識して、解放。
部屋の中に、グショリという音が響く。
石造りの床だが、もしも板張りだったら、下の階まで突き抜けていたかも知れない。
モリスの後頭部は、床にたたきつけられ、絨毯にぬるっとした血液を零していた。その彼の頭の両側には、彼自身の脛当てがある。
モリスの身体は、腰の辺りで二つ折りにされていた。
出来るだけ、派手な殺し方をしよう……そう思ったからこその、行動。
アクセルが、永遠に凍り付いたままであろうモリスの顔から両手を離し、腰を曲げて足を床に置いた時、バルビエは尻餅をつき、その肥満体を震わせ始めた。
「ひ……」
何の緊張もない、アクセルの顔が向けられた時、バルビエの股間が濡れ、湯気が立ち上った。
それが、裏口のあの娘を連想させ、アクセルは流石に顔をしかめる。少女の失禁で興奮するような性癖はないつもりだが、それでも、こんな醜悪なものを見せられるよりはマシだ。
急いで窓、そして雨戸を突き破り、大声を出せば、入り口にいる傭兵たちが気付く可能性もある。
しかし、今のバルビエにはその選択肢はなかった。いや、選択肢はあっても、頼りのメイジが二つ折りにされたことで、彼もまた、完全に心をへし折られていた。
「ナタン」
アクセルは後ろを振り向くと、突っ立ったままの男に声を掛ける。同じく放心状態だった彼は、はっとしたように意識を戻した。
さて……しかし、今のこのナタンに、人を殺せるのか。
噴水を横切った時なら、出来ただろう。裏口に踏み込んだ時なら、出来ただろう。見張りに蹴りつけられている時なら出来たはずだ。
だが、彼の目の前にいるのは、もはや何の……何の武力も持たない、太った男。
己の欲望を満たすためなら、平民の命など、吹けば飛ぶ塵屑同然と思っていた悪の権化というヤツも、既に巨体を震わせるだけの、肉の塊。
(少し……調子に乗りすぎたか?)
自分が……アクセルが、である。
ナタンの心に、出来るだけ強い衝撃を与えようとしたのだが、それも度が過ぎたか。あまりに衝撃が強く、彼の中の殺意まで踏み潰してしまったのではないか。
バルビエの姿は、あまりにも憐れなのだ。
もう、ここまで哀れな存在になり果てたのなら、殺すこともないかも……。
そんな事を考え、そして何もしないままでいることを決めたのなら……その時は、自分がバルビエを殺す。
ナタンは……出来れば、殺したくない。そして、協力して欲しい。
どうなのだろう、ナタンは。未だ動かない。
……わかった……後、一押し。ほんの、一押しだけ。
それでも……無理なら……。
アクセルは人差し指を、そっと、バルビエに向けた。
彼の口から発せられたのは、ただ一言。
「報いを」
ナタンの視線が、アクセルへと向けられる。そして、バルビエにも。
スゥ……と、小刻みに震えていた瞼が静止し……目線が定まる。
アクセルの駄目もとの一押しは、彼の心を押し出した。
隠していたナイフが、コートの内側から姿を現す。その握りを確かめるように、数回、指が動いた。ゆっくりと、踏みしめるようにしてバルビエに近づき……。
「ひっ、やっ、やめっ、やめろォォォ!」
バルビエは、絞り出したような絶叫を上げると、ナタンに背を向けて、這って逃げようとする。腰が抜けたのか、立ち上がることもなかった。逃げ場が無いことなど、バルビエも理解しているだろうに……。
絶叫に呼応するかのように、ナタンが飛びかかると、その背にナイフを突き刺した。その場に両膝を付くと、再びナイフを振り上げ、二度、三度、四度……一心不乱に、刃を突き立てる。
やがて、バルビエがピクリとも動かなくなり……そして、ナタンは続けられなくなったのか、ぜぇぜぇと荒い息を吐きながら、ナイフを落とす。石造りの床で、乾いた音を響かせた。
「……お美事」
もっと気の利いた台詞を言えるようになりたいものだ。
アクセルは、椅子に縛り付けられている、初老の男に向かった。
酷い有様だ。太腿に突き刺さっているのは、小枝ほどの長さの針。殺し屋イチの、変態組長が持っていそうなアレ。とりあえず、それらを全て引き抜く。
あとは、へし折られた指。腫れ上がった顔。
しかし……失敗だった。水の個性を持つ精霊、というか魔力は、全て祭壇に解放してしまっている。勿論、減った魔力は時間と共に回復するが、今の無属性魔力がほとんどの自分では、大したヒーリングも使えないのだ。
こんなこともあろうかと、密かに入手しておいた、治癒の秘薬。早速その出番が来たことを、喜ぶべきか恐れるべきか。
薬を飲ませようと、瓶の蓋を開けた時、ナタンが歩いてきた。
振り向いたアクセルは、彼の雰囲気の違いを感じる。とはいえ、曖昧なもので、その詳細まではわからないが……。
そう……例えるなら……“兄貴の言葉が心で理解出来た”ペッシになっている。
「……どうだった? 初めて人を殺した感想は?」
「別に……。思ってたより、全然……大したことは、ねぇ」
うん。やはり、ペッシだ。
流石に、まだ顔を青くしているが……それは、余韻のようなものだろう。
「手伝って。この人、そこのソファに寝かせるから」
「……ああ」
素直に、手を貸してくれた。鍛えてるとはいえ、こういう単純な力仕事は、流石に未だきつい。
初老の彼は、見たところホテルの従業員。こんな年齢のボーイなど見たことがないので、支配人か、それに近い人物なのだろう。
薬は問題なく効果を発揮したが、目覚めるにはまだ、大分時間がかかりそうだ。近くのテーブルにあった水差しを持ち上げ、今更ながら右手の火傷に注いでいると、ソファの手すりに腰掛けたナタンが口を開く。
「……これからどうすんだ?」
これから……?
それを聞くということは、少なくともアクセルを、自身より上に見ている証拠か。
「そうだねぇ」
アクセルはそっと、窓に近づき、雨戸を僅かに動かす。しかし既に眼下には、見張りの四人の姿はなかった。
(……まさか)
スウィートルームの、開放された扉。その、更に向こう。階段の方から、忙しない足音が聞こえてきた。
「とりあえず、残りの四人を片付けてからにしよう」
向かってきているのは、四人の傭兵。奴らがよほど怠け者でない限りは、無断で持ち場を離れたりはしない。つまり、その四人が、持ち場を離れる必要があると判断したこと。
見た限りでは無人だったが、もしかしたら未知の傭兵が、一部始終を見学していて、慌てて報せに行った、という可能性も、まぁ……数パーセントは、ある。
しかし、普通に考えれば、裏口の死体が見つかったか、意識を取り戻した娘が報せたか。
……そうだよ、死体だよ。すっかり忘れてた。
ナタンに、自分をいかに非常識な存在であると見せるか、それに気を取られすぎて、死体の始末を失念していた。近くにゴミ箱もあったんだから、隠し様もあっただろうに。いくら狭い路地とはいえ、誰も通らないと考えるのは、あまりにも楽観的過ぎる。
次からは、もっと慎重に行動すべきだ。今回の失敗は、自分を都合よく印象付けようとしての失敗という、何ともお粗末なもの。
ナタン、と声を掛けようとしたが、既に彼はナイフと……メイジが装備していた剣を、それぞれの手に握っている。テンションが上がっているだけか、それとも、傭兵を殺さなければ自分が死ぬと、冷静に判断したからか。
どちらにしろ、仇を討ち果たしても、まだナタンは、生きることを捨ててはいない。
良い結果だ……と、アクセルは内心満足しながら、階段に向かって走り出した。足音は、更に大きくなっていく。
ちょうど、階段の向こうに誰かの頭が見えた時、アクセルは跳躍した。
咄嗟に見えたのは、一列になって駆け上がってくる、四人の傭兵達。その先頭の男が、思わず立ち止まり、驚いたようにこちらを見ている。
その傭兵は、反射的に両腕で防御しようとするが、その間を擦り抜けるようにして、アクセルの両足が顔面に叩き付けられた。いくら子どもの身体とはいえ、30?近い物体が顔面に衝突したら、耐えられるものではない。そのまま、後方の三人を巻き添えにする形で、五人は団子のように転がり落ちていった。
階下まで、何とか下敷きにならないように転がり落ちた後、アクセルはいち早く体勢を立て直すと、団子状態の傭兵達から距離を取る。近くにあった花瓶を持ち上げると、とりあえずこちらに一番近い頭に目がけて、ぶん投げた。
「……おぉぉぉおおおおっ!」
それが砕け散った時、階段の上から、雄叫びを上げつつナタンが落下してくる。傭兵達をクッションにしつつ、彼も素早く起き上がると、引っかかった鎧を外そうともがく彼等に、剣を振り下ろした。
斬る……のではなく、叩き付ける。傭兵達を、まるで一個の物体としか見ず、ほとんど半狂乱となって剣で殴りつけた。忽ちにしてそこら中が血の海となり、もはやどれが生きていて、どれが死んでいるのかもわからない。
「……さて。もういいだろう」
全体的に見て動かなくなった団子に、未だ剣を振り下ろし続けているナタンを、そっと落ち着かせる。彼は剣を握ったまま、隣の壁に背を預け、先ほどと同じく、荒い呼吸を繰り返した。今回は、精神的なショックはほとんど無いらしい。
ドロップキックと花瓶投げしかしていなかったアクセルは、ナタンからナイフを取り上げると、四つの首をそれぞれ順番に突き刺し、止めを刺す。
あっさりと片づいてくれたが、まだ終わりではない。
「さて……そこの、キミ」
バレていないとでも思っていたのか。植木の陰の少女は、ビクリと身体を震わせたが、やがて……バッと飛び出し、背筋を伸ばした。
「フフフ……まさか、見破られていたとはね」
(これはひょっとして……ギャグでやってるのか?)
ナタンを見てみるが、彼も困惑しているらしい。命のやり取りで血を燃やした後に、冷や水を浴びせられたような……そんな表情だった。
少女は腰に手を当て、引きつった笑みを浮かべている。彼女の中では、余裕たっぷりの笑みのつもりなのか?
「なかなかやるじゃないか、君達」
「……一つ聞いていいかな?」
「フフフ、何かな?」
「何で、目、つぶってんの?」
そう。
ふんぞり返る少女は、しっかりと目を閉じていた。
「……実は、私はすごい糸目なのだよ。これでもちゃんと見えている」
「ふぅん。じゃあ、これ何本?」
「なんぼん? ……フフフ、簡単だ。三本だろ?」
……。
ひょっとして、“なんぼん”と聞いたから、“いっぽん”や“にほん”でもなく、“さんぼん”だと思ったのか?
彼女の脳みそは、実にどうでもいい所で、どうでもいい方向に働いているらしい。
「残念。六本でした」
まぁ、勿論、指を上げてみせたりもしていないのだが。
「……フ……フフフ……騙したな?」
「ああ、何て言うか……何て言えばいいんだ、すごい面倒。さっさと目を開けてくれないか?」
「フフフ、何故私が、君の言葉に従う必要が?」
「……。ところで、傭兵さん達が生き返って、すごい目でキミを睨んでるんだけど」
「えっ!?」
少女はようやく目を開け、そして……血塗れの肉団子と化した、四人の先輩達を目にして……軽く蹌踉めくと、壁に手をついた。
「貧血? 大丈夫?」
「…………フフフ、貧血だと? 何を馬鹿なことを……。血で血を洗う、数多の戦場を潜り抜けてきたこの私が、死体を見たくらいで貧血? 何を馬鹿な……」
(うおぉぉぉぉぉぉっ、もうっ、イライラするぅぅぅぅ!!)
年齢は、アクセルより少し上ぐらいか。
まぁ、美少女だとは思う。にっこり微笑んでくれれば、可愛げもあるだろうが、今はとにかくムカついて仕方がない。
「そうか……。安心したよ。ベテランの傭兵さんなんだね?」
「フフフ、ベテラン? 違うな、少年よ。そんじょそこらのベテラン如きと一緒にされるなど、そんな不愉快極まりないことは……」
両足は震えてるし。
さっきより一層強く目を瞑ってるし。
顔は真っ青になってるし。
冷や汗らしきものはダラダラと流れてるし。
「……。それじゃ、そろそろ死んでくれないか?」
「え?」
「傭兵は、あとはキミ一人だけなんだろ?」
ナイフを振って、血を払うと、アクセルは突進した。少女はそっと、恐る恐る片目を開ける。
狙いは、喉もと。表情を固まらせる少女に構わず、最後に一歩踏み込むと、ナイフの切っ先を顎の下へと滑り込ませる。
勿論、突き刺しなどせず、ギリギリで停止したが。
「…………」
表情を作ることすら出来なくなった少女は、ぺたんと、その場に女の子座りで崩れ落ちる。
「ひ……」
その顔が、くしゃくしゃに歪んだ。
「ふぇ……ぇ……ふぇええええええんっ」
少女は両手で顔を押さえ、決壊したかの如く泣き出した。
(何というか……あれだな。アニエスにヘタレを足して、そこから更にアニエスを引いたような……そんなキャラか)
再び、少女が座り込む床に、なま暖かい液体が広がっていく。
(……つぅかよく見れば、そのズボン、俺のじゃねぇか。まぁ、別に惜しくはないけど……)
路地裏で気絶する前、あんなに出してたのに……ぐっしょりと濡れた自分のズボンを見ていると、アクセルは溜息をつきたくなった。
「さて、ナタン。これからのことだけど」
「えっ!? ちょっ……“それ”放置なのか?」
「いい加減、疲れた。それでこれからだけど、無かったことにしようと思ってる」
「……どういうことだ?」
「ここでは、誰も死ななかった。貸し切っていたバルビエは、もうしばらくこの街に逗留することになるし、雇っていた傭兵たちは雇用を打ち切られ、どこかへ行ってしまった。そういう結末だよ」
協力……してくれるよね?
微笑みながら、アクセルがそう尋ねてみると……ナタンは、何故か震えながら、一度大きく頷いた。
七日後。ゼルナの街の執政庁を、二人の男が訪れた。
「主・バルビエの代理で参りました。ナタン、と申します。よろしく」
「お初にお目にかかります。ホテル『初月の館』の、ローランと申します」
身なりのいい平民。そして、アポ無しの平民がその日に対応されたということは、それなりの財力と、権力を持っているということ。
応接室にいるのは、来訪者であるナタンとローラン、そして、リーズと名乗る若い女性、更に、未だ椅子の背もたれを向けたままの、領主代理。
派手ではなく、堅実な金のかけ方をされた服装に身を包んだナタンは、精悍な美青年といったところ。
ローランも、初老ではあるが、未だ未だ体力の衰えを感じさせない佇まいで、礼儀正しい老紳士。
未だ男というものを知らないリーズは、若干頬を染めて戸惑っている。
「それで、ご用件は?」
「この街の東地区の、再開発の提案です」
ナタンが取り出した書類の束は、その表紙に、『ゼルナの街の東地区における再開発計画書』と記されている。
東地区というのは、この街の最下層、澱みのような場所だ。城壁と無許可の建築物によって、満足に陽の光が差し込まず、職を失った人々や、障害を持つ者たちが追いやられている。更には、各地からの浮浪者たちが集まり、勝手に住居を造ってしまっており、それが城外にまではみ出している。あたりには悪臭がたちこめ、そんな地区の門番など誰もやりたがらず、門番までもが最下層の兵士。
可もなく不可も無いこの街の、不可の部分を、丸ごと押し込めたような、掃き溜めの如き地区。
そこが生まれ変わるのなら、魅力的な提案だ。
しかし……。
「これは……どういうことですかっ!!」
リーズは激昂した。それは、計画書の出来がどうのではなく、ただ、女としての部分の拒絶反応。
その計画の中心となるのは、娼館……つまり、風俗店だった。東地区を一大繁華街に作り変え、そこを特別行政区とする。
この街の娼婦は、夜の街に立つ者がほとんど。草むらや裏路地に入れば事の真っ最中だった、というのも珍しくない。組織が結成され、縄張りを管理し、彼女たちは上納金を納める代わりに、その地区で客を確保することが許される。
当然、その日暮らしの生活であり、老後のことなど一切考慮されてはいないし、彼女たち自身もしていない。
「ローラン殿! あなたもあなたです! 由緒正しきホテルの主でありながら、何故このようなは……破廉恥な考えに協力を……!」
顔を真っ赤にするリーズは、計画書を領主代理の机に叩き付ける。
タンッ
やがて聞こえてきた物音に、リーズはハッと振り返った。
椅子の背を向けていた少年が、くるりと振り返り、机に向き直り、書類の上に判を押印したのだ。
「……若様ぁぁぁぁ!?」
「え? な、何? 駄目だった?」
若草色の髪の、貴族の少年は、驚いたようにリーズを見る。
「そっ、それっ、最終許可の判じゃないですかぁぁ! 何でっ、それ押しちゃうんですか!? そういうのは、こちらでよく吟味した上で……っていうかそもそもっ、そんな計画、認められません!」
「えー。でも、困ってる人、助けなくちゃ。この人たちの話を聞いてると、結構いい考えかなー、って」
「しっ、しかしっ、こんなっ、破廉恥なっ……」
「破廉恥……何が?」
「なっ、何が!? 何がって、その……」
「そう言えば、ショーフさんとかショーカンとか……どういう意味?」
「いやっ、あのですね……その、あの……」
怒りではなく、困惑で顔を真っ赤にしたリーズは、ブツブツと俯く。
少年が、ちらりと来訪者の方を向くと……驚愕して目を見開くナタンと、叫ぼうとした彼の口を押さえるローラン。少し驚いた顔をしていたローランは、すぐに表情を戻すと、少年の合図に従い、軽く挨拶して退室した。
質問攻めから解放されたはいいが、肩を落とし悄然と去っていくリーズを見送ると、アクセルは平民の変装をして執政庁から抜け出し、彼等との待ち合わせ場所へと向かった。
場所は、酒場『風と雨の舞踏亭』。その片隅のテーブル。
「……これからは、様付けで呼びゃいいのか? “ラヴィス様”」
「女性を困らせるのは、あまり感心出来ませんな」
皮肉混じりのナタンに、呆れた様子のローラン。二人のテーブルに腰掛けると、アクセルは軽い食事を注文した。
まだ昼間だというのに、酒場は騒々しい。
「騙してたのは悪かったけどさ。文句は言わないでね?」
「ふふ、わかりました。恩人のお言葉なら、従いましょう」
「おいっ、爺さん! それでいいのか!?」
あの時、バルビエに拷問されていた老人は、ホテルのオーナー、ローランだった。
何のことはない、彼が個人的に所有していた骨董品を、バルビエが欲しがったという……ナタンと同じような理由。
ホテルマンなら、信頼できる人種じゃないのか。そう思ったアクセルは、彼も仲間に引き込んだ。
あっさりと不問にしたローランに不満をぶつけるナタンだが、特に損はしなかったという諭すような言葉に、不承不承ながら黙った。
「……僕はね。お飾りの代官でいるつもりはないよ」
アクセルは話し出す。
「お飾りと思われるのはいい。でも、本当の飾り物になるつもりはない。いずれ、ラヴィス子爵領は僕のものとなる。今から、この領土を磨いていきたいんだ」
「その為の、再開発計画か?」
ナタンの言葉に、軽く頷いた。
再開発の発案者は、十歳にも満たない少年。
「人間の最も大きな欲求は、三つ。食べること、寝ること、そして性的なもの。この性欲を利用して、東地区を発展させていく。何しろ、あそこの土地はやたら安い。やがて、旅人たちの間でここが有名になっていき、この街に多くの金を落とすことになる。雇用問題も、改善されるだろう」
「ふむ……」
「そう言えば、ここからはまだ話してなかったね? 勿論、娼館を中心にするとはいえ、客は男だけではない。賭場や、様々な娯楽施設も作る。たくさんの雇い口が出来ることになるだろうけど、大きな問題は……」
「治安の悪化」
「そう、その通り。流石ローラン。金が動くってことは、それを手に入れようとするヤツが出てくる。この一週間、娼婦の元締めたちと交渉してきたけど、あいつらみたいなのが、どんどん街に入ってくることになる」
「いや、あれ交渉か?」
この一週間の、日常生活のような暴力沙汰を思い返したのか、ナタンが顔を引きつらせる。特に反論する材料も気持ちもないので、アクセルは黙殺した。
「領主の兵士たちでは、間に合わない。いや、逆に取り込まれる兵士も出てくる。人の出入りの監視を強化する方法もあるけど、それは発展の足枷になりかねない。そこで、この街の裏の顔役を、ナタンにする」
要するに、この街に根を張る、強固なヤクザ組織を結成、それをナタンに纏めさせる。
「非合法の、治安維持組織。ファミリーの結成さ。この街に落ちるのは、金だけではない。娼婦相手の会話、賭場での会話……膨大な情報がもたらされる。それらを収集し、整理。情報と、暴力、金。東地区の全てを支配するのは、実質ナタンであり、僕でもある。……わかりやすく、僕の目的を言うと……この街の表と裏、全てを握ることさ」
現代社会で言えば、市長がヤクザの親分を兼任するということ。
「僕は、あまり目立つつもりはない。せいぜい、可もなく不可も無しの、何の変哲もない置物領主。そう思われてる方が気楽だし」
「……恐ろしいガキだな。お前は」
「しかし、楽しくもありますなぁ。一介のホテルのオーナーで終わると思っていましたが、人生の終盤で、こんな面白いことに関われるとは」
顔を強張らせるナタンに、初老の顔に似合わぬ笑みを浮かべるローラン。
「そう、これは陰謀さ。この先、この街を支配するのは、ここにいる三人。“表”の“官”である僕に、“表”の“民”であるローラン、そして“裏”を管理するナタン。昔……遙か遠くの場所で、義兄弟の契りを交わした三人の男達がいた。それは桃の園だったし、契りの盃ももっと上等だったらしいけど……。ここが、僕らの桃園、ということになるかな」
アクセルは、水の入ったコップを持ち上げた。
「乾杯しよう。まずは、東地区の発展の成功を願って。そして……僕ら三人の、明るい未来に」
「そう言えば、あの失禁してた小娘は?」
「いや、小娘って。お前より年上だろうに。……あいつなら、ローランのホテルで寝てるぜ。どこにも行く当てがないらしいし。一応、宿泊料金はツケってことにしてるけど」
「ふぅん……。まぁ、戦力にはならなくても、人手が足りてないのは現実問題だし。あの小娘も、行く当てがないなら、それなりに役には立ってくれるかな?」
「小娘小娘ってなぁ……」
「だって、名前知らないし。あれから一週間、特に気にも留めてなかったし」
「アニエスだとよ」
「…………………………え?」
「名前聞いたら、アニエスって言ってた」
嘘だろ承太郎