小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第1章 青き春の章

第42話<姦夢>






「まぁ……確かに、ベルさんに、性別を超越して惚れられるなんて……すごい野望だ」
「…………」
「常人じゃ天才を計り知れないって言うし……お、俺みてぇな凡人が、ボスを理解するなど、そんな烏滸がましい事は……」
「今夜は飲もうぜ、な?」

 ハンスは焼酎の瓶を傾けると、バルシャのコップに零れるほど注いだ。





「……だからよぉ」

 ナタンは溜息をつきながら、手にしたグラスを振る。既に半分以上酒は飲まれており、カラカラと氷が、パシャパシャと酒が鳴った。

「別に、男が好きってわけじゃねぇんだ」
「黙れガチホモ」

 アクセルは鼻で嘲い、ワインの小瓶を銜えると、そのまま三口ほど胃に収める。飲まずにはいられないのだ。

「だから、そうじゃねぇんだ。俺だって、普通に女に欲情するんだぜ? そして男は、たった一人、お前だけだ。一番欲情するのがお前で、そしてお前が偶然にも男だった。それだけだ。淫夢でもお世話になるし」
「世話した覚えはない。次そんなもん見たら、出演料取るからな」

 飲まなきゃやってられねぇ、と、アクセルが酒を大量に持ち込んだせいで、二人とも既に顔を真っ赤にしている。
 ミシェルは机に突っ伏し、アニエスはちびちびとワインを啜っていた。スルトは特に話に加わることもなく、黙々と杯を重ねている。フラヴィは面白そうに成り行きを見守っていた。

「……何でだろうなぁ?」
「ん?」

 机の上に寝そべり、伸びをしながら、ナタンが零す。

「ベル。何でお前は、そんな女みてぇな顔立ちなんだ?」
「クレームは製造元に言ってくれ」

 アクセルにとって自らの容姿は、非常に重宝するものであった。男と女、どちらとも取れるような中性的な顔立ちに、見る者に警戒心を抱かせない柔らかさ。それは表でも裏でも、様々な面で役立った。

 無愛想に頬杖を付くアクセルを、ナタンは改めて、しげしげと眺めてみる。気怠げなその様子は、少年にとっては本心からのものだろうが、どうしても、幼い子どもが精一杯大人の真似をしているように見えてならない。

「何というか、あれだな。ベル君は……」

 据わった目に赤い顔のアニエスが、グラスをふらふらと左右に揺らす。そして少し視線を天井に向けると、思い至ったかのように、人差し指でアクセルを指した。

「ひぃひぃ言わせてみたくなるんだよな」
「あっ、それそれ!」
「普段余裕ぶって、自分の方が格上だって感じの顔してるしさぁ」
「その仮面を引っぺがして、俺色に染め直してやりたいっ、つぅか」
「何を二人で盛り上がって……」

 騒ぐアニエスとナタンに、溜息をつくアクセル。
 その時突然、がばっと、ミシェルが顔を上げた。

「兄さん」
「うおっ!? な、何?」

 早々に酔い潰れてくれたことに安心していたが、まさか復活するとは思わなかった。肩を震わせた拍子に、ワインが少し零れる。ミシェルはしゃっきりと背筋を伸ばし、顔をアクセルに向けた。

「私も……言っていい?」
「……何を?」
「兄さんにしたい事。兄さんにして欲しい事。兄さんとしたい事。私が見たい事。兄さんに見せて欲しい事。兄さんに見て欲しい事。兄さんに……」
「だ……だめ」
「そう」

 断られると、あっさりミシェルは机に突っ伏し、また静かになる。導火線の無い爆弾を抱えているようで、アクセルは戦慄にも似た恐怖を覚えた。

「あっ、ナタン兄! 私は今、天才的なアイディアを閃いたぞ!」
「お、何だ何だ」

 アニエスはふふんと鼻を鳴らし、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「つまり、ベル君は女の方がいい。いや、女であるべきだ」
「おう、その通りだ」
「だったら、話は早い。ベル君が、女になるマジックアイテムを作ればいい。それを使えば、ほら、ナタン兄も……」
「お前さては天才だな!?」

 こちらに視線を向ける二人に、アクセルは冷たい目を返す。

「……ナタン。言っとくけど、それが完成したとしたら、まずナタンを女にするからね。そして性的な意味で痛めつける」
「くっ、突っ込むか突っ込まれるか、究極の選択だな。……あ、いや、別にそれでもいいんだ。俺の目的はお前に惚れられることなんだから、性別なんてどうでも……」

 既に日付は変わっていた。長々と続いている議論は、あまりにも不毛だった。

「本当に、びっくりするほど情けないな。要するに、誰が僕の出口を入り口にするか、ってことだろ?」
「いやベル君、それは違うぞ。もろちん私は、そっちに興味が無きにしもあらずだが、主に前にも用がある」
「はいはい、じゃあ誰が僕の下半身を支配するか? ……駄目だ、泣きそう」

 言葉通りアクセルは俯き、軽く目頭を抓む。

 普段はおくびにも出さないが、アクセルにとってナタンは、何者にも代え難い存在だった。彼が自分から離れず、今もここでこうして生きてくれていること、それがとても嬉しい。最早、彼以外をボスの座に据えるなど、考えられない。

「……どうかしたか?」
「……え?」

 ふと目を開けると、ナタンが至近距離で顔を覗き込んでいた。

「あ……いや……」

 暫く見つめ合っていた二人だが、やがてアクセルの顔が紅潮する。そしてそれを自覚したらしく、少年は顔を背けた。

「おっ、おい! アニエス! 俺やっぱ、脈ありだぞ!」
「なっ、何言ってんだ!?」
「だってお前、今、照れただろ!? 照れたよなぁ!?」

 顔を更に近付け、詰め寄ってくるナタンを両手で抑える。

 正直に言えば、その通りであった。あ、イケメンだ、と思い、思わず照れて顔を背けてしまった。前世で孤独だった頃の呪縛とも言える。
 しかし、それを正直に言うわけにはいかない。顔に見惚れてしまった、など、特に今の状況では言える筈も無い。

「なぁ! つまりお前、俺に対して特別な感情を抱いてるってことだろ!」

 意味合いは違えど、それも正解であった。

「そうなると、つまり、お前は俺に……」

 興奮気味に近づいてくるナタンを、アクセルは床に引きずり倒す。そして机の上に飛び乗ると、呼吸を整えるように息を吐いた。

「……決めた。作ってやる、性転換のマジックアイテムを……」

 こちらを見上げてくるナタンに向かって、人差し指を突きつける。少年は事務室を見回し、高らかに宣言した。

「そして! ナタンも、バルシャも、スルトも、ハンスも、マルセルも、全員女にしてやる! ここを、本当に女だらけにしてやる!」
「なっ、何ですと!?」
「何で俺らまで!?」

 手を挙げず、話合いにも参加していなかったバルシャとハンスが、揃って抗議の声を上げる。完全に、とばっちりだった。

「うるさいっ、僕はもう決めた! そしてここを僕のハーレムにすれば、突っ込むのは僕だけ! 僕の出口は出口のまま、一生安泰! 元・野郎どもの処女を、残らず僕が喰ってやる! どいつもこいつも、アヘ顔ダブルピースにしてやる! お前ら揃って、僕の下であがきやがれ!」

 宣言を終えた途端、二度三度頭を揺らしたかと思うと、アクセルはそのまま机の上に倒れ伏した。








 目が覚めると、ベッドの上だった。既に夜は明けていて、窓の外を飛び回る雀たちが、シーツの上に影を遊ばせている。

「くっ……」

 呻きつつ、アクセルは起き上がった。結構な量の酒を入れた筈だが、そこまで不快感は無い。

(昨夜、あれから……あれ、どうなった?)

 宣言した後の記憶が、無い。ぼんやりと、そのまま意識を失ってしまった事は覚えている。恐らく誰かがベッドまで運んでくれたのだろう。
 起きようと床に下りた時、ノックの音が響いた。

「はい?」
「私です、バルシャです」
「ああ、どうぞ」

 伸びをしつつ入室を許可する。しかしふと、頭の中で今の声を反芻した。バルシャの声が、いつもより高い気がしたのだ。

「失礼します」

 再び、高音。ドアが開き、バルシャが入ってきた。

「おはようございます、ベルさん。早速で申し訳ないのですが、事務室で今後の……」
「バルシャ?」
「はい?」

 アクセルに名を呼ばれ、彼は……いや、彼女は聞き返した。

 髪はオールバックであるし、鼻っ柱を横断する真一文字の傷もバルシャのもの。しかし、その上の睫毛が妙に長い。顔立ちも丸く柔らかく、声は妙齢の女性のそれで、何よりその胸には、明らかな膨らみがあった。
 しげしげと身体を、上から下まで観察してくるアクセルに、バルシャはやや頬を紅潮させると、そっと、右手で左の二の腕を掴んだ。

「ど……どうかされましたか?」
「あ、いや、別に。事務室だね、すぐ行くよ」
「はぁ……それでは……」

 怪訝そうな表情をしつつ、バルシャは一礼して後、退室した。

 アクセルは急いで化粧台の鏡の前に立つと、様々に角度を変えつつ、自らの顔や身体を確認する。最後に寝間着の中に手を突っ込み、股間にその有無を確かめた。そして結果は、“有”。
 一瞬安堵したが、バルシャは確かに、女性だった。

(……まさか……)

 自分の頬を、思い切り抓り上げてみる。

(……痛くない。なんだ、夢か。よかったよかった)

 必死の思いで性転換のマジックアイテムを作り上げ、それで男性陣を残らず女体化させた……そんな未来に繋がってしまったのかと危惧したが、どうやらただの夢である。勢いであのような宣言をしてしまったが、流石に本心だったわけでは無いのだ。
 夢だと分かり安心すれば、この世界に興味が湧いた。バルシャが女。頼れる秘書が女であるからには、ナタンも最早、自分に対して性的興味など持つはずが無い。何しろ、絶好の位置に美女がいるのだから。

 寝間着を着替え、部屋を出て、真っ直ぐに事務室へと向かう。一度深呼吸し、そして笑みを浮かべると、アクセルはドアを開いた。

「おはよう、ナタン!」
「ああ、ベル。どうした、今朝はやけに機嫌が……」
「……うん。まぁ、予想はしてたけど」
「え? 何が?」

 椅子に腰掛け、膝を組む女。ややウェーブのかかった髪に、整った顔立ち。スラリと伸びた足に、少なくともバルシャよりは膨らんだ胸部。

「……ナタン」
「何だ、どうした?」
「別に。それじゃ、会議を始めようか」
「ああ。来週の義理事なんだが、俺の名代として……」

 性別が転換している以外は、全ては至って通常通りだった。会議の様子も、皆の役割も。ただ、男が女になっているだけ。

(しかし……美人だな)

 アクセルは改めて、ナタンの横顔を見つめた。

(イケメンは女になっても美女なのか? 何だかムカつく)

 真面目そうな雰囲気のバルシャに対し、体育会系といった印象のナタン。あれこれ考えるより、ひたすらに突き進むのが似合っていそうだ。
 視線に気付いたらしいナタンと、目が合う。目を背けたのは、今度はナタンの方だった。

「…………」
「…………」

 アクセルが音を立てて椅子から立ち上がると、彼女は肩を僅かに震わせる。

「……おい」

 アクセルはナタンの前に立つと、その顔を覗き込んだ。必死で顔を背ける彼女の、僅かに見える頬が、紅潮している。

「どうした、ナタン。何故顔を背ける?」
「い……いや、別に」
「まさか、とは思うけど」
「…………」
「こんな年端もいかない少年に、本気で、性的に欲情しているわけでは無いよな?」
「ばっ」

 馬鹿な、と言いかけ、振り向いたナタンだったが、そこでアクセルと目が合う。瞳に映った己の姿が見える、そんな距離だった。

「…………」

 ナタンの顔が更に赤くなり、そして視線は横に逸れた。

「……ガチじゃん、お前」
「う……」
「え、何。幼子に性的な悪戯とかしてみたいわけ? それで戸惑う少年とかに、わざと密着して反応を楽しみたいわけ? 青い果実の無垢な新芽を味わいたいわけ?」
「くっ」

 反論する言葉が見つからず、そして反論自体も出来ないのだろう。ただ耐えるナタンの、苦渋に満ちた表情が、実に爽快である。現実世界で、あれほど攻撃されたからというのもあるだろうが。
 ひょっとしたらナタンは、男だろうと女だろうと、虐められている時が一番いい顔をするのでは無いか。そんな考えが生まれてしまう。

「どうなんだ……ナタン」

 未だ顔を背け続ける彼女に手を伸ばし、指先を、そのうなじに這わせる。ナタンは鳴き声を上げ、身体を縮めた。石のように肌が硬くなる。

「どうなんだ、ナタン。こうやって、触れられたいのか? この少年の指に、色々な事をさせたいのか? されたいのか?」

 背を向けていても、必死に何かを耐えようとする様子が手に取るように分かり、アクセルは微笑と共に囁く。近くにバルシャがいることなど忘れ、彼は底意地の悪い笑顔のまま、ナタンを弄る。
 しかしその時、手首を掴まれた。

「あ」

 調子に乗りすぎた、と後悔しても、遅い。あっという間に振り回され、アクセルは机の上に押し倒された。女とはいえ、体格が違いすぎる。

「バルシャ、抑えろ」

 更にアクセルを驚かせたのは、そのナタンの命令に、バルシャが大人しく従ったことだ。両手を掴まれ、頭の上で封印される。

「大人をからかう悪い子どもには……お仕置きが必要だよねぇ」

 両手をバルシャに任せ、ナタンは机の上に飛び乗ると、アクセルの上に馬乗りになる。

(何だこれ……何で現実よりヤバイ状況に!?)

 一縷の望みを託すため、バルシャを見上げた。だが、彼女は静かに首を振る。

「バルシャ、助けて! 解放してくれ!」
「その……先ほど、私の身体を舐めるように見つめられたことが、少し……」
「え!? あっ、謝る! 謝るからっ、ごめんなさい! 放して下さい!」
「いえ、それは別にいいんですが。実は私も、興味あるんです。虐められる側に回った時の、あなたの表情が……」

 味方はいなかった。
 男を全て女にすれば、自分一人は安全だと考えていた。しかしこのような事態に陥り、そんな甘い幻想は打ち砕かれる。更に、とんでもない方向へと進んでしまっていた。

「ご……ごめんなさい」

 落ち着いて考えてみれば、元は男とはいえ、二人とも美女である。しかし落ち着けない。ここが夢の世界であるということすら意識の外にあるアクセルは、ただ混乱し、絶望し、必死に許しを請うた。
 その表情を見たナタンは、ハッとしたように動きを止める。

「ベル……あんた……」
「もう、本当にごめん。全面的に僕が悪い。謝るから、何でもするから、解放して……」
「……あたしは悪くない」
「そ、そうだナタン! お前は何も悪くない! ただ僕が、うっかり調子に乗ってしまっただけだ!」
「あんたが悪い。そんな、普段じゃあり得ないような、気弱な顔をするあんたが悪い」
「え?」

 弱みを見せたのは、完全に逆効果だった。情欲の焔に油が注ぎ込まれ、ナタンはアクセルのベルトに手をやると、カチャカチャと金具を外す。

「何してんだぁ!?」
「あたしは悪くない。あんなエロい顔で許してくれなんて、これはもう完全に誘ってる。この年齢であんなおねだりをするなんて、ベル、恐ろしい子」
「恐ろしいのはお前だ! え……エロい顔!? 嘘だろ!?」
「いいから、ほら、天井の照明あるだろ? あれを見つめてるんだ。そしたら、いつの間にか終わってるから……」
「待てぇぇぇ!!」

 火事場の馬鹿力だった。勢いを付けてバルシャから両手を取り戻し、更に身体を暴れさせ、回転しつつ机の下へと脱出する。
 本能だった。この危機的状況から脱出しなければならない、その意志が、身体に力を与えた。誰に教えられたわけでも無い、非常に効率的な方法で、肉体を解き放った。
 アクセルは這い蹲るようにして事務室のドアを開ける。そしてズボンの位置を直しつつ、室内に向かって怒鳴った。

「ばっ、ばーか! ばーか! エーロ、エーロ、エロ女ども! エロいんだよボケェ!」

 捨て台詞と共に、アクセルは走った。決して振り返らずに。振り返ったその瞬間、襟を掴まれてしまうような気がして。
 角があれば曲がった。階段があれば下りた。開いた窓があれば飛び降りた。
 必死で走り続け、そして走れなくなった頃、アクセルはようやく立ち止まる。裏庭だった。

(……夢じゃねぇか)

 呼吸を整えていると、ようやくその事実に思い至った。これは、所詮夢の世界の出来事なのだ。目を覚ませば、霧のようにかき消える。

(俺は……何を必死に)

 全ては、自分の精神が作り出した幻影。それに怯えるなど、滑稽以外の何者でも無かった。

「どうした? 騒がしかったが……」

 背後から、声を掛けられた。女の声だが、勿論記憶に無い。この夢の方向性が定まっているとすれば、声の主の正体も、粗方予想はついた。
 意を決して、振り返る。恐れる必要は無い、所詮は夢の世界だと、自分自身に言い聞かせて。

 少女がいた。灰色の髪をツインテールにして、口元には不敵な笑み。目は鋭く、勝ち気。腕を組み、尋ねるように首を傾げている。
 その後ろに立つのは、長身の女性。ぼんやりと、眠たそうな目でアクセルを見下ろしている。

「ハンスと……マルセル……?」

 二人組であるからには、そうだろう。確認するように、アクセルは呟いてみた。

「どうしたどうした、アクセル。何だその顔は。同じ風属性として、私は非常に悲しいぞ。まるで、何かから逃げてきたような……」

 アクセルは無言で、ツインテールの少女の頭に右手を置いた。

「にゃぅっ!?」

 完全に予想外の行動だったらしく、妙な声と共にハンスは肩をすくめる。アクセルはそのまま、右手を地面と平行に移動させ、自分へと近付ける。右手は、アクセルの額に当たった。
 少年は憐れむような視線で、少女を見下ろす。

「……ちっさ」
「んなっ、何だと貴様ぁ!?」
「いや、けど僕、十歳だよ。いくら何でも、それより背が低いなんて……」

 元々のハンスも、決して長身と言えるような背丈では無かったが、この世界では更に酷い。

「吹き飛べ貴様ぁっ!」

 抜き打ちの鋭さは、確かにハンスである。しかし魔法が放たれる直前、アクセルは急いで少女の杖を奪い取った。
 スクウェアクラスのメイジであろうが、杖が無ければ何も出来ない。

「かっ……返せ! 返せぇ!」

 アクセルが高々と掲げた杖を取り戻そうと、ハンスが必死にジャンプする。しかしそれに合わせて彼も背伸びをするので、到底届きそうにない。前世のペットショップで見た、ひたすら跳躍してガラスを引っ掻くハムスターを思い出し、図らずも癒されてしまった。

「返せってばぁっ、もぉ!」

 泣きそうな顔をしながら、ハンスが殴りかかってくる。しかし夢の中であるので、勿論痛みなど無い。いや、現実世界であっても、この筋力ならば大した攻撃力は無いだろう。

「……ほーれ、ほーれ」
「ちょっとぉ! やめてよぉ!」
「お?」

 暫くハンスを虐めていると、不意にアクセルが持ち上げられた。

「よっ、と」

 いつの間にか近づいていたマルセルが、少年を抱え上げている。彼女は相変わらず長身で、ちょうど母親のように抱っこされた。
 マルセルが、困ったような笑顔でアクセルを見つめてくる。

「その、返してあげてくれないかな、姉貴の杖。お願い?」
「……うん、いいよ」

 男の時は、やたら騒がしい男だったが、女であれば不思議な包容力がある。幼稚園や保育園で働かせればいいかもな、と、そんな感想が出た。
 アクセルも素直に杖を手放す。ハンスが下で、慌ててそれを受け取った。

「よ、よーしマルセル、でかしたぞ! そのまま抑えておけ! そのガキに、一つキツイお灸を据えて……」
「えー、姉貴、やめようよ。もういいでしょ?」
「黙れデカ女! こういうガキはな、犬と一緒で、痛くなければ覚えない! 大人の務めとして、時には体罰も……」

 マルセルの腕から下りたアクセルは、ハンスの目の前に立つ。そして膝を僅かに曲げ、敢えて目線を合わせた。

「意地悪してごめんね、お嬢ちゃん」
「……よぉしっ、わかった! ここで死ねぇ!」

 ハンスが怒りに任せて杖を振り上げた刹那、熱風が撒き上がった。それに続き、火炎の竜巻が現れる。

「「えっ!?」」

 ハンスもアクセルも、揃って上空を見上げた。バサリとマントを翻しつつ、誰かがアクセルの隣に着地する。

(……でかい)

 ハンスと見比べているせいか、その大きさに圧倒された。身長はマルセルと同じくらいだが、何より目立つのは、シャツを突き破ろうかという胸。三桁はありそうな、巨大な膨らみ。その上に、端正な顔が乗っていた。右目は眼帯で塞がれているが、残った深紅の左目が、静かに、ハンスを見下ろしている。

(……まさか……いや、けど……)

 胸筋がそのままあの膨らみに変換されたのだとすれば、あり得ない話では無い。何より白い髪で、眼帯で右目を隠しているなど、一人しか思いつかない。

「……な……何だっ、こらぁ!」

 ハンスが闖入者を見上げて怒鳴るが、それが虚勢であることは明らかだった。声も足も、身体も、全て震わせている。

「ベルを、虐めていた」

 静かに、彼女はそう告げる。

「なっ、何を見ていた!? 虐められていたのは寧ろこっち……」
「違う。お前は、ベルを、虐めていた」

 疑問では無い。確認では無い。
 彼女の声は、有無を言わせぬ冷たさがある。それが事実だというような。

 性別が違っていても、やはり、スルトはスルトであった。

「もし、本当にベルがお前を虐めていたのだとしても……私はお前に嫉妬する」
「……はぁ!?」
「ベルの人生の中で、例えほんの数秒だけでも、お前だけに構っていた時間が存在するということ。それが私には、何よりも羨ましい。この上なく妬ましい」

 スルトはメイスを握り締める。それが振り下ろされれば、ハンスなど、虫けらのように無惨に潰されてしまうだろう。

「どちらがいい? 私の怒りに殺されるか、私の嫉妬に殺されるか」
「ふざけ……」
「質問を変える」

 一切の反論も許さず、ハンスの鼻先にメイスを突きつける。そして彼女は相変わらず冷たい視線で、少女を射た。

「外側から焦がされたい? 内側から焼かれたい? ……どっちがいい?」

 スルトは真剣だった。冗談では無く、本気で、ハンスを焼き尽くそうとしている。
 その場にいる全員が、それを悟った。何れも才能あるメイジ、これほど莫大な殺気に気付けない者はいない。

「…………」

 ハンスはそっと、杖をベルトに戻す。そして一つ咳払いをすると、震える指先をスルトに向けた。

「きょ……今日はこのくらいにしといたらぁ!」

 一言、それだけ叫ぶ。急いで背を翻し、マルセルと共に、一目散にその場から脱出した。
 追いかけようとしたスルトの足を、アクセルが慌てて止める。

「え、えーっと、スルト、ありがとう! 大丈夫だから!」
「……でも、ヤツはまた貴方に杖を向ける。せめて、両手を焼き切るくらいしておいた方が……」
「怖っ! そこまでしなくていいから! ほらっ、仲間に杖を向けるスルトなんて、僕も見たくないし!」
「……わかった」

 勿論夢の中であるが、流石にそのような光景は見たくない。それはただの悪夢である。
 漸く落ち着いてくれたスルトに溜息をつきながら、アクセルは改めて、彼女を観察した。

 筋肉質、と言うほどでは無い。筋肉と呼べるものは、恐らく全て胸部へと移動したのだろう。手足もスラリとしており、モデルのようだった。長く伸ばされた白髪は、頭の後ろで一つに結い上げられている。

「……興味があるの?」
「え、何が?」
「私の身体に」

 単刀直入に告げられ、思わずアクセルは目を見開いた。スルトは平然としたまま、首を傾げている。

「え……何で……?」
「胸ばかり見ていたから」
「くっ……!」

 反論出来なかった。巨乳を言うよりは、もはや魔乳である。それでいて垂れ下がっていたりはせず、シャツの上からでもはっきりと分かる頂点が、斜め上を向いている。

(落ち着け、俺……。相手はスルトだぞ。あの無茶ゴリラの。ガチムチ最強スルトだ。こんな乳房は、所詮は俺の心が生み出した幻影で……)

 突然、スルトは微笑んだ。いや、微笑みというよりは、嬉しそうに笑った。

「ど、どうした?」
「嬉しいから。ベルが、私に特別な感情を抱いてくれたことが。私を、特別な目で見てくれたことが。……ねぇ、ベル」

 スルトが静かに歩み寄る。

「貴方に触れて欲しいの。貴方を全身で感じていたいの」

 彼女の言葉は、どこまでも正直であった。ただ、感じたままを、普通なら恥じらって包み隠すようなことを、惜しげもなくさらけ出す。アクセルに対しては、隠し事をするという発想すら無いかのように。

「一つに溶け合うまで、ずっとずっと、抱き合っていたい。貴方の一部になりたい」

 そしてその純真な言葉は、アクセルにとって最強の口説き文句だった。告げられるたびに、彼の脳裏にその光景が浮かぶ。スルトの欲望が、アクセルの欲望として再生される。少年は思わず、両手で顔を覆い隠した。耳まで真っ赤に染まっていることはわかっているが、彼女の純真さの前に、為す術を知らなかった。

「ベル……」

 耳朶に熱い吐息がかかるほど、スルトは近づいていた。

「お願い……一つに……」
「うっ……おおおおおおおお!!」

 遂にアクセルは、絶叫した。








「…………」

 目を開け、自分が眠っていたことを知った瞬間、アクセルは跳ね起きた。周囲を見回せば、まだ事務室での酒盛りは続いている。

「起きたか」
「えっ!?」

 すぐ後ろに、スルトが座っていた。アクセルは思わず椅子から転げ落ちる。

「どうした、大丈夫か?」
「……何で、僕、スルトによりかかって」
「寝込みを襲われる心配があったからな。……迷惑だったか?」
「いや、ありがとう」
「魘されたり、笑ったり、色々していたが、夢でも見ていたのか?」
「ああ、うん。いい夢のような悪い夢のような……」

 単純だが、一言では言い表せない夢だった。男としてはいい夢だったのだろうが、割り切れるものでは無い。
 アクセル復活に気付いたのか、バルシャが小走りに近づいてきた。

「ね、ねぇベルさん! さっきの、嘘ですよね!? そんなマジックアイテム作れませんよね!?」
「触るな裏切り者ぉ!」
「ええっ!?」

 縋るバルシャの腕を振り払い、アクセルは吐き捨てる。ボスに従うのは彼の役目であるが、今は許せなかった。

「おいっ、ナタン!」
「え?」

 アニエスと何かの話題で盛り上がっていたナタンは、すっかり酔いが回った顔で振り向く。

「まずは、さんざん酷い事言ってごめん。少年を愛するのは、別に異常でも何でも無い」
「えっ、まさかの理解!?」
「と言うか……僕も、他人の事言えないんだよなぁ。ブリジットや準にゃんはセーフだとしても……ぴことちこもセーフ……だけど、うん、一度とはいえ鏡音レンで……くそっ、僕の方がよっぽど変態じゃないか……!」

 前世で死ぬ時、パソコンの中身を整理する暇など無かった。自分の隠された全てが詰め込まれたあの箱を、周囲はちゃんと葬ってくれただろうか。もし白日の下に晒されていたとすれば……。
 頭を抱えて唸り出したアクセルを、皆、不思議そうに眺めていた。

「とっ、とにかく! 性転換計画は中止する。実行すれば、更に酷い状況になりそうだという結論に達したから」
「んじゃあ、俺がお前に突っ込んでいいのか?」
「駄目に決まってるだろバカ! 何でそうなる!」
「しかしそうなると、俺は生涯童貞だな」
「……バルシャぁ!」

 アクセルは不必要なほどの大声を張り上げると、バルシャを呼ぶ。

「いいか、特別任務だ」
「……イヤな予感しかしないんですが」
「ナタンに童貞を捨てさせろ」
「ほらやっぱり!」
「最悪の場合は、バルシャを女にする。ナタンの童貞に責任を持て」
「最悪ってレベルじゃない! で、出来ませんよねぇ、ベルさん! そんな人知を越えた所業、いくら何でも無理ですよねぇ!?」
「……うふふ」
「出来るんですかぁ!? 嘘だと言ってください、ねぇ!」

 ゆらりと、ナタンが立ち上がる。

「つまりこれは……ベルで童貞を捨てたい俺と、他の女で捨てさせたいベルの、一騎打ちになるな?」
「ああ、その通りだ」
「うああ、何て情けない一騎打ち。……それに巻き込まれる私の情けなさといったら」
「ナタン。お前が勝てば、僕も大人しく股を開こう。だが僕が勝てば、諦めろ」
「よし、いいだろう。その時は俺も、女バルシャの処女で我慢する」
「何で私の扱いそんな酷いんですか!? いくら何でも、そんな奪われ方はイヤですよ!」
「うるさい、連帯責任だ。ナタンをこうなるまで放っておいたバルシャが悪い」
「知ってりゃ放ってませんよ! いやちょっと、本当に待っ」
「いざ、尋常に」
「勝負」
「誰か二人を止めてぇぇぇ!!」

 バルシャの人権を犠牲にすることによって、アクセルとナタンの戦いは、ようやく休戦となる。
 そしてイシュタルの館には、平和と日常が戻った。



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