第1章 青き春の章
第43話<演者>
イシュタルの館は、東地区を中心に既に強固な根を張っている。ここまで成長しているものを引き抜けば、地面も無事では済まない。
街、そして領地に対する経済的な貢献を考え併せた結果、やはり黙認しておくのが有益である。片田舎の土地を発展させるためには、あのような名物が必要なのだ。
それが、ラヴィス子爵の公式の判断だった。
反対する者は少ない。いや、ほとんどいないと言っていい。領地の発展は望むところであるし、何より彼等自身、甘い汁を吸っている。一度その味を知ってしまえば、役人達はそれを容易には断ち切れない。
人口が増加し、就労人口が増加することによって、税収が増加。そして税収が増加し、インフラにこれまで以上の資金をつぎ込めるようになり、街全体がその恩恵を受けた。街の道路を照らす『マジックライト』を使用した街灯は、住人の活動時間を押し広げ、それにより街は大いに活気づいた。より長い時間商売が出来るようになり、また夜道も安全なものとなったことで、経済が活性化。それは結果的に更に税収を上げ、インフラは街の外の街道整備にも及び、円滑な流通を実現し……。
街だけではない。領地そのものが、変わりつつあった。
娼館に決していい印象を持っていないリーズも、その変化の大元が、あのイシュタルの館にあることを認めざるを得ない。その変化が、歓迎されるべきものであることも。
「…………」
そして、更にその大元……あのイシュタルの館が出来る原因となった少年は、今、執政庁の机の上で椅子にもたれ、目を閉じ、静かに寝息を立てていた。
(……また……)
書類を届けに来たリーズは、居眠るアクセルを見て溜息をつく。
この領地を任された代官は、相変わらずの生活を送っている。いつものように泊まりがけで遊びに行き、仕事は殆どリーズに任せきり。しかし宿題もきちんとこなし、仕事をすれば並以上の速度でこなしてしまう。書類仕事などたまにしかやらない筈なのに、まるでどこかで経験でも積んできたかのように、実に手際よく片付けてしまうのだ。
「……若様」
そっと、リーズは囁く。しかし少年は起きない。
最近、彼が居眠りをしている場面をよく見かける。夜も遅くまで自室で何かをしている様子だった。寝坊することは無いのだが、こうやって暇が出来れば寝入ってしまう。
「…………」
リーズはそれ以上声を掛けることは無く、書類を机の上に置くと、傍らでじっと彼の寝顔を眺めた。
イシュタルのナタンが召喚された時、アクセルは援軍と言って、二人のメイジを連れ帰った。『疾風怒濤』と呼ばれるその傭兵は、後で調べれば凄腕として名が通っていたが、彼等は隣のレオニー子爵領で傭兵ギルドを始めたという。リーズとしては、出来れば守備隊に入り、イシュタルの館への抑止力になって欲しかった。
しかしそこで思い出されるのは、彼等を連れ帰った時の、アクセルの表情。それは、今まで自分に決して向けられなかったもの。邪魔だ、どけ、と、その思いが雷のように身体を貫いた。父親の危機に苦難を越えて駆けつけたのだから、いちいち気遣う余裕など無かったのも理解できるが、それでもあの顔に、あの目に射られた事を思い出すと、自分が知らない何かを垣間見てしまったようで、悪寒が走る。
イジドール以下、守備隊壊滅事件については、イシュタルの館の主立った人間全てにアリバイがあった事、また内部事情をよく知る者の犯行の疑いが出てきた為、迷宮入りとされた。真相はリーズも知らない。
ブランツォーリ司祭は急病により、ロマリアへと移送されたと伝えられた。元々存在感のある司祭でも無かった為、その消息に興味を持つ者はいなかった。
表面上は、いつもの日常が戻ったかのようにも見える。しかし確かに、変化はあった。
リーズの指先が、アクセルの頬に触れる。そしてすぅっと、肌の上を滑った。
リーズは自分自身の行動を、どこか夢でも見ているかのような気分で観察している。
子猫が傍にいれば、思わず撫でてしまうように。
赤子が伸ばしてきた手を、反射的に握ってやるように。
以前から整った顔立ちをしていたアクセルだったが、最近になって、その端正さに引力のような魅力を加えたようにも思える。無防備な姿を晒されれば、思わず触れてしまいたくなるのだ。
子どもの瑞々しい肌は、その内側に魔性のような魅力を包んでいる。もしも彼が女として生まれていれば、傾国の美女へと成長したのではないか、そんな可能性を想起させるほどの。
「……リーズ」
夢から現実へと引き戻されたようだった。気付けばアクセルは薄目を開け、眠たげな視線でリーズを見上げている。まだ彼がはっきりと覚醒しない内に、急いでリーズは手を離した。
「ああ、ごめん。寝てた」
アクセルは口の中に溜まっていた唾液を飲み込み、一つ欠伸をする。そして目を擦りながら、机の上に積まれた書類を手に取った。
「お疲れのようですね」
「うん、まぁ。本が面白くてね、ちょっと夜更かしし過ぎた」
当たり障りのない答えを返しつつ、少年は書類にサインを記す。いつもの書類仕事。渡された書類に目を通し、最終確認のチェックを付ける。
「……あの」
「え?」
アクセルは手を止め、リーズの次の言葉を待った。しかし一向に、彼女は口を開こうとしない。
「どうかしたの?」
努めて優しい声で、彼は尋ねてみた。恐らく、言い出しにくい事なのだろう。
「その……宜しければ……あの……」
自分相手に、彼女がここまで言い淀むのも珍しかった。何か願い事か頼み事だというのは見当が付いたが、そこまで大変な事なのだろうか。
アクセルは微笑んでみせる。何を言ってこようが、決して怒りはしない、そのことを保証しようとするかのように。
「その……」
リーズは顔を背けた。
「いえ。何でも……ありません……」
自室に戻ったリーズは、ベッドの上に身体を投げ出した。最近はそこまで忙しいわけでもないが、ひどく疲労している。
寝返って仰向けになり、額に手を当てた。熱は無い。今度は両手で顔を覆い、掌へと溜息を吐き出す。数秒ほどして、リーズはバネ仕掛けの人形のように跳ね起きると、化粧台へと歩み寄った。
「……うー」
苦悩に顔を顰めつつ、一番上の引き出しを開け、中から封筒を取り出す。既に開封しており、また、何度も出し入れを繰り返していた。
入っていたのは、一通の手紙、そして二枚のチケット。
「どうしろと……」
すべきことは単純かつ明瞭、そして簡単。チケットの一枚を、アクセルに渡せばいい。はいどうぞ、で済むことなのだ。
「そもそも何故私に……」
差出人は、イシュタルの館。更に手紙には、リリーヌより、と一言添えられていた。以前の立て籠もり事件の時のことも、彼女が一番人気の娼婦であることも知っていたが、何故彼女が自分宛にこんなものを送ってくるのか、全く見当が付かない。
イシュタルの館が新たに劇場を建設し、そこでの初公演が来週予定されている。そのチケットだった。手紙の文句は慇懃で、大切な方と是非いらして下さい、お待ちしております、と綴られている。
リーズがその気になれば、チケットがあろうが無かろうが関係ない。役人としての権限を振りかざし、検閲の名目で、いくらでも観ることが出来る。しかしこうやって招待券が贈られてくると、彼女はその権限を振るいにくくなる。妙なもので、チケットを使わなかったり、観劇しないという選択肢を逃げだと感じてしまうのだ。この招待券は、娼館の娼婦が生意気にも差し出してきた挑戦状、リーズの目にはそのように映っている。そして、それに応じないのは尻尾を巻くのと同じことだ、と。
しかし、ここで一つ問題がある。チケットは、何故二枚なのか、ということだ。
文官達とは、仕事のことくらいしか話さない。屋敷でも孤独がちだった彼女は、ここでも付き合いづらい人間だと思われ、やはり孤独がちだった。この執政庁の人間で、イシュタルの館からの金を受け取っていないのは、彼女くらいのものだろう。元貴族のメイジであるということも、それに拍車を掛けた。はっきり言って、友人と呼べる人間がいないのだ。リーズ自身、それに不満を感じたことはない。故に、友達を作ろうとも思わなかった。
チケットのもう一枚を渡す人間が、見つからない。査察や検閲という名目で、誰かを連れて行こうかとも考えたが、リリーヌの手紙には、大切な方と、という言葉がある。ならば、受けて立つしかない。
友達もおらず、勿論恋人もいない。必然的に、選択肢は領主の息子たるアクセルのみだった。だがしかし、彼を一体、どのように誘えばいいのか。いや、誘うことは出来る。至極簡単だ。そしてその簡単なことを行う勇気が、どうしても出ない。
リーズは化粧台の扉を開き、三面鏡をセットする。軽く指先で髪を梳き、咳払いをすると、チケットを鏡に向かって差し出した。
「……このようなものが贈られて来ました。無視してもいいのですが、奴らに軽んじられるかも知れません。娼婦達が行う演劇となると、風紀を乱す場面を挿入している恐れもあり……」
そこまで言いかけて、リーズは黙る。
暫く考え込み、やがて微笑むと、再びチケットを鏡へ向ける。
「若様。劇のチケットがあります。行きませんか?」
違う、と感じた。
「若様、来週の予定はもう? 宜しければ……」
これも違う。
「若様、観劇に行きましょう」
奇妙な所など何一つとして存在しない筈なのに、違和感が拭えない。
「…………」
リーズは腰を曲げ、首を傾ける。試しに、チケットで口元を隠してみた。
「……ねぇん、若様ぁ…………」
鏡の向こうの自分が、震え出す。
舌打ちし、リーズはチケットを鏡に叩き付けると、ベッドの中に潜り込み、丸くなった。
ラヴィス子爵夫人、つまりアクセルの母であるのだが、彼女の名はオデットという。年齢は未だ二十代半ばで、彼女自身の気質もあってか、娘という呼称が似合う女性だった。彼女が魔法学院を中退したのは、流行病により家族が皆死んでしまったから。
若々しく、温厚な婦人である。病弱と言うほどでもないが、身体がそれほど丈夫ではないことは確かだ。外出することもなく、メイド達と屋敷で過ごし、趣味の音楽に興じている。
リーズにとっては、アクセルと同じほどに話し易い相手だった。両親が既にいないリーズは、オデットを姉のように見ている。
「お帰りなさい、リーズ」
結い上げた若草色の髪が、朝日を浴びる草原のように輝く。オデットは柔らかい微笑みを浮かべ、リーズを迎えた。
家族を喪っているオデットにとって、メイド達もまた、家族のような存在なのだろう。使用人達に不満をぶつけることもなく、彼女がメイドを叱るのは、整然とした道理があるからだった。だからこそ、オデットは慕われるのだろう。
アクセルの優しさは、母親から受け継いだものではないか……リーズはそう感じた。
「お仕事はどう?」
「問題ありません。平穏そのものです」
それは事実ではあるが、リーズは決して、自分たちの力によるものだとは考えない。
全ては、あのイシュタルの館があるから。
彼等の活力は、一体どこから来るのか、それがリーズには分からない。理解できそうもない。
「……どうかしたの、リーズ?」
オデットが優しく尋ねてくる。ふと、アクセルを思い出した。
「いえ……その……」
リーズはちらりと、オデットの腹部に目を向ける。
赤子は十ヶ月で生まれてくるというが、妊娠半年でここまで大きくなるものなのだろうか。臨月と言われても信じられるだろう。
「大きいでしょう?」
「え、はい」
オデットに言われ、思わず正直に答えてしまった。
「アクセルの時より、ずっと大きいわ。この子ったら、まるで遅刻したみたいに急いでる」
オデットはそう言いながら、第二児の宮殿を撫でた。
(ダメ……か)
チケットの一枚を、オデットに渡そうかとも考えたのだが、胎児がここまで大きくなっていれば無理だろう。きっと、胎教にも悪い。オデット自身が言ったように、まるで何かの遅れを取り戻そうとするかの如く、赤子は急激に成長していた。
「それで話を戻すけど……何か困りごとが?」
「いいえ、そういうわけではないんです」
「そう?」
オデットは軽く首を傾け、微笑んだ。
「何かあるなら、アクセル、あの子をこき使ってやってね。あの子にとって、貴女は大事な人なんだから」
「そんな……」
俯いて首を振るリーズだが、少し嬉しかった。
結局アクセルに言い出せないまま、時間と日にちだけが過ぎていき、ついに初公演の日となってしまった。
やはりアクセルは、執政庁を留守にしている。
(……そうね。きっとお誘いしても、断られるに決まってるから……)
そもそも娼婦達が出演する演劇など、アクセルには毒にしかならないだろう。
自分にそう言い聞かせ、リーズは街の南へ向かう。
目的地の劇場は、すぐに見つかった。マジックライトの色取り取りの光が輝き、夕食を終えた人々が次々と集まっている。半分以上は、娼館の客だろう。
倉庫を繋ぎ合わせた劇場で、座席数が三百以上と、かなりの大きさである。そしてチケットが売り切れているということは、座席を埋め尽くす数の客が来ていることになる。その中の一人として、リーズは彼等に紛れた。扉が開き、人々が次々に吸い込まれていく。
「……ん?」
開場から開演までは時間があり、急ぐ必要もない。リーズはそっと行列から抜け出し、入り口の手前にあるチケット売り場へ戻った。
「ほんっとに、無いんですか?」
「ああ、無ぇよ。来週、また来ればいいじゃねぇか」
チケット売り場の窓口で、カウンターにしがみついてごねる、一人の少女がいた。外側に跳ねた葡萄色の髪に、可愛らしいワンピース。年齢はリーズより下で、十五くらいだろうか。観客にしては、幼すぎる。
「……一枚くらい残っては」
「チケットは全部捌けてる。何度言わせるんだ。とにかく、今日は大人しく帰ってくれ。
「一枚くらい残っては」
「おい何だ、ひょっとして言葉通じてねぇのか?」
窓口の男は、言うまでもなく貝殻紋の男だろう。チケットは大半が招待券と前売り券で占められていた筈だが、どうやらそれを知らずに、この少女は当日券を購入しようとしたらしい。
「でも、初回は今回だけなんですよ?」
「そりゃそうだな」
「これを逃せば、もう処女公演は永久に見られないんですよ?」
「正論だな」
「ロストバージンは、今夜だけなんですよ? それを私に見逃させるなんて、あなたは悪魔の使いか何かですか?」
「……ひょっとして嬢ちゃん、真面目に相手しちゃだめな類の人間?」
男が辟易しきった所で、リーズが声を掛ける。
「……貴女、そんなに見たいの?」
「はい。例え、失明しようとも」
間髪入れず、大真面目に返事をされて、リーズは怯んだ。その一言を聞いた男は、無言で窓口のカーテンを下ろす。
マジックライトに照らされた顔に、見覚えがあった。少し前、『揺れる天窓』亭という店で立て籠もり事件に巻き込まれた、給仕の少女だ。名前は確か、モニク。
リーズはハンドバッグの中を探り、余分だったチケットをモニクに差し出す。殺気とも呼べるものをはらんでいた少女の雰囲気が、見る間に柔らかくなった。
「え……これ……」
「ちょうど、一枚あるの。あげるわ」
「ありがとうございます!」
モニクは、疑いもしない。リーズが呆れるほどあっさりと信じ、満面の笑みで頭を下げた。
「ほ、本当にありがとうございます! 私、モニクっていいます。これから貴女を、神様と呼ばせて頂きます!」
「……少し、警戒が足りないんじゃないかしら?」
「大丈夫です! 貴女がガチレズで、これから事あるごとに私を呼び出して性的かつ変態的な奉仕を強要したとしても、悔いはありません!」
「……あら、暗くて足下が見えないわね。そうだ、これを燃やせば……」
「えぇ!? 何故ですっ、神様! 黄金水までなら受け入れる覚悟なのに!」
「もうチケットあげるから、金輪際会話しないでくれる!?」
チケットをモニクの顔面に叩き付け、リーズは駆け足でその場から離れる。慈悲心を仇で返され、気分は最悪だった。
外観は倉庫を繋ぎ合わせただけあって、少々不格好であったが、内部はしっかりとした造りである。軽食を売る売店や、バーカウンターもあった。
(……特に、いかがわしいものは無し)
談笑する人々を冷徹な視線で撫で、リーズは指定座席へ向かう。どうやらVIP席だったらしく、二階へ通された。
個室のように扉があり、ベランダから舞台を見渡せるようになっている。恐らく貴族や金持ちが、少人数でくつろいで楽しむための座席なのだろう。
「あ……。お先です神様、ありがとうございます。すごくいい席ですね」
扉を開けたリーズは、己の浅はかさに絶望した。
(私のアホ……。ペアのチケットじゃないの……)
今更退出するわけにもいかず、終幕までこの少女と、二人きりで観劇しなければならないのだ。
溜息をつきながら、リーズは椅子に腰を下ろす。レストランのようなテーブル席で、ワインと軽食が用意されていた。自分のグラスにワインを注ぎ入れ、彼女は一口飲み込む。グラスをテーブルに戻したところで、モニクが口を開いた。
「あの……先ほどは、すみませんでした」
申し訳なさそうに肩を縮め、モニクは頭を下げる。どうやらあれは、気の迷いのようなものだったらしい。暫く無言でその頭を見つめていたリーズだったが、再び溜息をつくと、首を振った。
「別にいいわ。もう気にしてないし」
「あ、ありがとうございます! だから……」
「ん? だから?」
「や、やっぱり、黄金水は勘弁して頂きたく……」
「モニク」
リーズはワインが注がれたグラスを、人差し指でこつこつと叩く。
「ここにグラスがあるわね?」
「あ、はい」
「以後、私を不愉快にさせるようなことを言ったら、これをあなたの口に突っ込んだ上で、膝で思い切り顎を蹴り上げるから……そのつもりで」
「…………」
ようやく静かになり、開幕のベルが鳴った。
演目は、『春の果て』。リーズも以前、読んだことのある物語だ。農民の娘とシュヴァリエとの、身分を超えた恋愛。最期には領主から逃げ切り、二人はいつまでも幸せに暮らす。いかがわしいシーンなどは無かった筈だが、それでも娼婦達が行う演劇である。人気獲得のために、何かしらは仕込んであるだろう。
緞帳が上がった舞台は、暗闇だった。その中心を、マジックライトの円形の光が照らす。明らかになったのは、座り込む黒髪の少女だった。
農民の娘らしい、色がくすんだ粗末な衣服。かなり幼い気がするが、あの少女がヒロインなのだろう。
しかし驚いたのは、その少女の幼さではない。少女の両目を覆う、包帯だった。リーズは手摺りを握り、舞台を見つめる。少女が盲目など、そんな設定は原作には無い。
観客の驚きを余所に、少女はそっと顔を上げる。
<Voici que le printemps, ce fils léger d'avril,
ソプラノの歌声。
雪解け水のように澄み切った音だけが、舞台を流れていく。
<Beau page en pourpoint vert, brodé de roses blanches,
<Paraît leste, fringant et les poings sur les hanches,
<Comme un prince acclamé revient d'un long exil.
春の訪れの歌。しかし花を摘む少女は、決して楽しげではない。少女の雰囲気からは、失望や諦念といったものが窺える。
<Les branches des buissons verdis rendent étroite
<La route qu'il poursuit en dansant comme un fol;
<Sur son épaule gauche il porte un rossignol,
<Un merle s'est posé sur son épaule droite,
舞台袖から、一人の騎士が姿を現す。金色の髪を後ろへ撫でつけ、額帯を巻いている。
その騎士はそっと木陰にもたれ、少女の歌声に聞き入る。
<Et les fleurs qui dormaient sous les mousses des bois
<Overent leurs yeux où flotte une ombre vague et tendre
<Et sur leurs petits pieds se dressent pour entendre
<Les deux oiseaux siffle et chanter à la fois;
<Car le merle sifflote te le rossignol chante.
<Le merle siffle ceux qui ne sont pas aimés,
<Et pour les amoureux, languissants et charmés,
<Le rossignol prolonge une chanson touchante.
見事な歌声だった。ソプラノもそうだが、何より声量がある。
歌い終えた後、ふと、少女は左右に顔を向けた。そして人の気配を感じ取ったように、騎士へ向き直る。
「どなた……ですか?」
「失礼した、お嬢さん。私の名は……」
騎士は颯爽とマントを翻し、少女へと歩み寄る。
上演時間は二時間。休憩を挟まず、その二時間はあっという間に駆け抜けていった。
原作から所々改変された設定。煌びやかな衣装に身を包む、個性豊かな登場人物達。次々と、奇術のように入れ替わっていく舞台。そして、飛び交う魔法。
物語は、決して後味のいいものではない。ラストすら改変され、海へ身を投げた娘の後を追い、若きシュヴァリエも我が身を投げ捨てる。後には、二人のいない世界が残される。
胸がしめつけられる……そのような表現があるが、正しくそれだった。
リーズは無意識のうちに胸に手を当て、衣服の布を握り締める。息苦しかった。心臓が真綿で締め付けられたかのように、窮屈な思いをしている。
何故こうなったのか。どうして、二人は死ななければならないのか。
最期まで、二人の生存を信じていた観客達。彼等の希望は、下りてくる緞帳と共に潰えた。誰もが、リーズと同じ気持ちだっただろう。
しかし、やがてちらほらと拍手の音が聞こえ、それは瞬時に万雷の喝采へと変わる。
所詮は娼婦達のお遊び……そう考えていた観客達は、既に舞台の彼女たちが役者ではないということを忘れていた。
イシュタルの館主催の歌劇、初回公演は、大成功としか言い様がなかった。
終幕後、モニクは悄然と肩を落としていた。
「悔しいけど、凄い敗北感です……。私も……アリスみたいに、リリーヌ様と……接吻を……」
少女の呟きは、リーズにとっていずれも理解できない類のものであったが、もとよりそれ以上関わり合いになるつもりもない。トボトボと去っていくモニクを見送り、リーズもグラスに残っていたワインを飲み干し、席を立とうとした。
「今宵はよくお越し下さいました……リーズ様」
しかし、一人の女が姿を現す。舞台衣装の騎士服のままのリリーヌだった。
彼女とは初対面であるが、その所作の優雅さ、涼しさに、リーズは思わず萎縮しそうになる。舞台を見ていても感じたことだが、恐らく礼儀作法は貴族に劣らぬほど身につけているのだろう。戦闘の場面でも、さながら本物の騎士のように鋭く剣を振るっていた。
「……娼婦の演劇、期待はしていなかったけど……とりあえず、風紀的には問題なさそうね」
本当に萎縮してしまわないよう、リーズは身体に力を入れる。リリーヌは反対に、憎たらしいほど柔らかい物腰だった。
「舞台から見ていました。モニクをお誘いになったのですね」
「ええ。大切な領民よ」
「……てっきり、アクセル・ベルトラン様といらっしゃるのかと」
そのリリーヌの微笑みが、何故か癪に障った。微笑の奥に隠された何かが、ちらりと垣間見えたような気がしたのだ。
リーズは相変わらず硬い表情のまま、返す。
「若様に、低俗な歌劇など見せられるわけがないでしょう」
真相は、決して知られてはならない。リーズは腕を組む。
リリーヌはその言葉に怒るでもなく、二階席から見える舞台へ目を向けていた。彼女の白く細い小指の腹が、その果肉のような唇を撫でる。紅を引くかのような動作に、思わずリーズの動悸が速まった。
ふと、再びリリーヌが微笑む。
「“大切な方と……”。覚えておられますか、私の手紙を?」
「……ええ。それが何か?」
「大切な人がいるというのは、素晴らしいことですね。その人のためなら、何でも出来そうな……どこまでも行けそうな、素晴らしい気持ちが得られます。私はてっきり、リーズ様の大切な方は、アクセル様だと思っていたのですが……」
「当たり前よ。決まっているでしょう」
一瞬、口を噤みかけたリーズだったが、急いで肯定する。その質問に、妙な意味は含まれてはいない筈だ。自分にとってアクセルが大切な存在だというのは、立場的にも、至極当然のことなのだ。
「では、どうしてアクセル様をお誘いにならなかったのです?」
リリーヌは微笑んだまま、リーズに向き直る。その微笑みに、何故か、恐怖に近い感情を抱いた。
「だから言ったでしょう。若様にお見せするには……」
「そう言えば、失礼ですがアクセル様のお名前、少々珍しいですね」
言葉を遮られ、気分を害すリーズだったが、そもそも先ほどの発言を繰り返そうとしていただけだ。軽く溜息をつくと、彼女はリリーヌの疑問に答える。
「不思議なことではないわ。ラヴィス子爵家は、元を辿ればオクセンシェルナに行き着く。だから子どもには、オクセンシェルナ系の名前を付けることもある」
「そう言えば……私の大切な人も、珍しい名前をされているんですよ?」
「…………?」
「アクセル、と」
その言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。
数秒後、リーズは組んだ腕の指先に力を込め、動揺を悟られまいとする。そして努めて冷静な声で、尋ねた。
「それは、どういう意味かしら?」
「そのままです。私の大切な方のお名前は、アクセル……。恐らくその名前の方は、この街にはお一人だけでしょうね」
「どういう……ことかしら?」
動揺に、怒りが混じる。予想すらしていなかった告白に、自分の中の何かが破裂してしまいそうになる。
「それも、そのままの意味です……」
リリーヌの微笑みは崩れない。再び彼女は、指先でその濡れた唇を撫でた。その行動の意味は、リーズにはわからない。しかしそれを知った上で、リリーヌはそれを行っていた。また更に、リーズにもその事だけはわかる。
「私の夢は、アクセル様に見初められることなのです」
気付けばリーズは、個室を飛び出していた。
走りはしない。早足で廊下を突き進み、階段へ向かう。そして階段を三段ほどおりたところで、そっと後方を窺えば、リリーヌが微笑みのまま見送っていた。それを無視し、リーズは未だ残っていた観客達の群れをかき分けるように抜け、開放されたドアから外へと飛び出す。冷たい夜風が、ざわりと頬を撫でた。
「…………」
リーズはそこで、歩みを緩める。普段の歩みより遅かった。その歩みは更に遅れ、やがて街の中央、噴水の広場で止まる。
リーズは噴水の縁に腰掛けた。
「……何で……」
彼女は両手で顔を覆う。そして自らの膝を抱えると、そこへ顔を埋めた。何故自分がこうなっているのか、自身ですら説明できない。彼女は暫くの間、そうやって嗚咽を押し殺していた。
「えーっと、お疲れ様! すげぇ大成功だった! 本当に驚いた! 来週もよろしくな! では乾杯!」
そそくさと挨拶を済ませ、ナタンが音頭を取る。娼婦達の声が、それに重なった。
劇場の控え室には、リリーヌやギャエル、マノン、そしてアリスなど、出演した娼婦達が集まっている。初公演の成功を祝い、ささやかではあるが酒と食事が用意された。反省点や失敗した箇所について話し合う者もいれば、ただ喜びに浸る者もいる。
一人、少し離れた場所に腰掛けるアリスは、喜びというよりも感慨に耽っているようだった。
「……お疲れ様」
「あ、リリーヌさん。お疲れ様です」
ギャエル達の輪から離れたリリーヌが、アリスの隣に腰を下ろす。二人とも、暫く無言だった。
「何だか……少し、気恥ずかしいというか」
照れたように、アリスがはにかむ。
リリーヌとのキスシーンを思い出しているのだろう。
「あら。キスは初めてだったの? てっきりテファ達と……」
「出来ませんよ、いくら何でも。ですから私のファーストキスは、リリーヌさんということに……」
そこで、アリスは固まる。二人の背後では、試しにカツラを被ってみたナタンが、皆に変だと笑われていた。
アリスは一つ咳払いをする。
「ええと。まぁ、女の人で言えば、リリーヌさんがファーストですね」
「ふふ。じゃあ、責任は取ってあげないとね」
リリーヌが笑った。つられて笑うアリスだったが、ふと気付いたように、彼女に向き直る。
「そう言えば、びっくりしました」
「何が?」
「リーズが来てたんですよ。てっきり、こういうのには興味ないと思ってたんですけど」
「リーズさん……。執政庁の代理をしている?」
尋ね返すリリーヌに、アリスはワインを含みながら頷いた。
「舞台袖で包帯を直してる時、ふと見上げたら、二階席にいたんです」
「へぇ。そうなの」
リリーヌは顎に手を当てる。アリスは驚いたと繰り返しながら、再びワインを呷った。
「明日でも、どうだったか感想を聞いてみましょうか」
「……やめておいた方がいいんじゃないかな? こっそり見に来たみたいだったし。何で知っているのか、って話になりそうだし」
「んー、確かに。私も、何も聞いてませんでしたし。リーズが言い出すまで、知らない振りをしておくべきかも知れませんね」
「それがいいと思うわ。……さ、もう一杯」
「ありがとうございます」
リリーヌはワインの瓶を持ち上げ、アリスのグラスに注ぐ。またワインで満たされたグラスを、アリスは彼女に差し出した。
「では、改めて。お疲れ様でした、リリーヌさん」
「ええ、アリス。お疲れ様……」
そっとグラスを接触させ、リリーヌは身体を倒すと、アリスの耳元で囁いた。
「お疲れ様……アクセル」