小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第二章 朱き夏の章

第4話<“鉄人”ゼナイド・ド・グラモン>







“何故、人は争うのですか?”

 グラモン家の長女ゼナイドが、そんな質問を家庭教師に向かってしたのは、六歳の頃だった。
 優等生とは言い難かった。真面目に取り組みはするが、彼女はよく、自分だけの世界に閉じこもってしまう。魔法の練習中だろうが、食事中だろうが、パーティーの最中だろうが、どこか遠い目をして、すぐに考え込んでしまうのだ。
 あまりに無口だった為、家庭教師は試しに、考えていることを口に出すよう指導した。その試行は、意に反して彼女の骨髄にまで染み渡り、彼女の本質の一部となった。

“何故、人は死ぬのですか?”
“魂とは何なのですか?”
“人の心はどこに宿るのですか?”
“怒りは何色をしているのですか?”

 善意だろうと悪意だろうと、子どもが大人を困らせる質問をするのは、古今東西に同様である。しかしゼナイドが他の子どもと違ったのは、諦めなかったことだ。家庭教師がどれほど言葉を尽くし、教科書の次の課題へと進ませようとしても、彼女はたった一人で考えた。夜を燃やし、朝を焼くかのように、ひたすらに考え続けた。
 口数少なく、表情にも乏しいゼナイドを愚鈍と評したのは、家庭教師だけではなく使用人達も同様だった。

 十一歳の頃、父親のコレクションの中で見つけた、オーク鬼の牙で作られた首飾り。それが無性に欲しくなった。遊ぶ間も惜しんで考えることに徹していたゼナイドは、当然、普段は滅多におねだりなどしない。そんな彼女がねだれば、もしかしたら、父親はそれを譲ってくれたかも知れない。
 しかしその時、父親は不在だった。そしていたとしても、彼女にねだるつもりは無かった。
 今の自分で扱えそうな武器は、ナイフと金槌。その二つを持ち、二日掛けて森の奥に進んだゼナイドは、風下からオーク鬼に近づくと、ナイフを脳天に突き刺し、更に金槌で深々と叩き込んだ。
 牙を取ろうとした時、一匹のオーク鬼が姿を現す。殺したオーク鬼より、一回りほど大きい。そのオーク鬼は棍棒を振り上げ、絶叫と共にゼナイドに襲いかかってきた。
 ゼナイドは森の中を逃げ回りながら、木を削って弓とし、少しずつオーク鬼を傷つけていった。頭上から突き刺し、トラップを仕掛け……。しかし片目を失っても、足を折っても、オーク鬼は止まらない。ゼナイドを追いかけ、殺そうとする。一日近くが経過した時、ついにオーク鬼は諦め、逃げたようだった。地面には道標のように、オーク鬼の血が塗りつけられている。這い蹲りながらどこへ行くのかと、ゼナイドはその血を追跡した。
 オーク鬼は、ゼナイドが殺したオーク鬼の傍らで息絶えていた。互いの手が握りあわされていた。
 自分が初めに殺したオーク鬼が妻で、襲いかかってきたのが夫だった。そしてその妻は妊娠して、胎内には四匹の赤子がいた。
 ゼナイドはただ、オーク鬼の牙が欲しかっただけだ。一匹を殺せばよかっただけだ。しかし失われた命は、六つ。一つを得るために、六つを殺した。
 ゼナイドはオーク鬼の夫婦の死体から、それぞれ一つずつ牙を取ると、丸一日かけて穴を掘り、埋葬した。
 自分が延々と考え続け、それでも出せなかった答えに、少し近づけた気がした。世界が少しだけ、明るくなった。

 一週間近く行方をくらませていたゼナイドが帰ってきた時、父であるグラモン伯爵は、すぐに叱りつけることが出来なかった。オーク鬼二匹を討ち取り、流石はグラモン家の子だと浮かれる周囲に同調したわけではない。息を呑み、文字通りに絶句していた。
 伯爵が感じたのは、期待と危惧。確かにゼナイドの才能は、グラモンの家を背負って余りあるものである。しかしそれ以上に、危ぶんだ。この長女は、世に戦乱をもたらしかねない怪物だと。
 ゼナイドが魔法学院に入らず、全ての教育を家庭教師に行わせ、また社交界にも出なかったのは、全てグラモン伯爵の思惑だった。グラモン軍の総帥としたのも、全ては、このゼナイドという娘の生活を、グラモン伯爵領内にて完結させるため。

 彼女に野望や、野心といったものは無い。ただあるのは、欲望だった。欲しくなれば、手に入れずにはいられない。それが人間だろうと、物だろうと、技術だろうと。

 怪人フーケと名乗る人間が貴族を殺し始めた頃、ゼナイドはすぐに捕まるだろうと考えた。歴とした貴族を殺し、その財産を奪い取るなど、国家の威信に関わる問題だ。そのような問題を解決するためならば、当然、国家の暗部が動き始める。そうなれば、闇にて始末されるだろう。
 怪人フーケによる犠牲者が四人になった頃、ゼナイドは異常を確信する。ただの、童話から抜け出してきた愉快犯などではない。怪人フーケは、それ以外の何かだと。
 殺された人間の共通点を、彼女は徹底的に調べた。自らが動かせる全ての力を行使し、ひたすらに情報を集めた。そして五人目の犠牲者が出た時には、彼女の手は謎の薬にまで届いていた。人の快楽を支配し、それに依存させるという、恐るべき薬に。
 ゼナイドの行動は素早かった。捜査線上に浮かび上がったミスタ・コラスを確保し、保護の代償に協力を強要した。彼女の興味を引いたのは、その謎の薬ではなく、怪人フーケ。ミスタ・コラスは、怪人フーケを誘き寄せるための生き餌だった。

「……国家の威信に関わる問題であるのに、国家が動かない。ならばつまり、お前は国家の支柱に飼われている存在。私は今、それを確信している」

 物欲が満たされなければ、人はその不満を、何かで代替しようとする。しかしゼナイドは違った。代替など出来ない。彼女の欲望は、代替品では満たせない。

「お前の目的は、魔の薬を滅ぼすことか? ならば、我々が争う理由など無い筈だ」

 ゼナイドの当初の目的は、この怪人フーケの主人に辿り着き、その繋がりをグラモン一族の利益とすることだった。
 しかし、対峙した時、彼女は気付く。怪人フーケは、自分の命を脅かすほどの力を持つ人間であると。それに気付いた時、無性に欲しくなってしまった。

「……動けないだろう?」

 既にその怪人フーケは、地面に蹲っている。痺れは全身に広がり、自分の意志で動くことは出来なくなる。後遺症をもたらすような毒ではなかった。痺れは、二十分から三十分ほどで回復する。

「だが、喋ることは出来る筈だ。今からお前の仮面を外す。イヤならそう言ってくれ」

 顔を隠していることから、見られてはならない顔だということは明らかだった。尤もゼナイドが見たとしても、殆ど社交界に出ない彼女にわかる筈はない。しかしそれでも、調べれば分かることなのだ。

「いいか? 取るぞ……」

 だがゼナイドにとって、怪人フーケの素顔などどうでもいい。怪人フーケの価値は、その技術にある。

 手を伸ばそうとした時、ゼナイドの背筋に悪寒が走る。

「……?」

 周囲を見回すが、勿論、動く者はいない。怪人フーケも毒が周り、指一本も動かせない状態だ。
 何一つ障害は無いというのに、直感が警報を鳴らす。仮面を取るというそれだけの行為が、猛獣の口に手を差し込むような危険であると告げている。
 仮面を外そうとした者に対するトラップが仕掛けられているのか。そう考え、軽く『ディテクトマジック』を使用してみるが、有害な結果は出なかった。

(……念を入れるか)

 距離を取り、ゼナイドは杖を向ける。手で仮面を外すのを避け、『錬金』により、仮面を崩すことにした。

「『錬金』」

 その時、本が持ち上がった。ちょうど、杖からフーケの仮面を隠す位置。スクウェアクラスの『錬金』を受けた本が、砂となって崩れた。
 怪人フーケの身体が、地面の上で回る。そしてそのまま右足で、ゼナイドに向かって砂を蹴り飛ばした。

「!?」

 動けないはずのフーケが、いとも簡単に動く。ゼナイドは左手で砂を弾き、再び杖を向けた。

「『アースハンド』」

 地面から腕が伸び、フーケに向かう。しかし、フーケは左手で地面を弾くと、その手から逃れた。ゼナイドはフーケを追い、更に『アースハンド』を連発する。地面から次々と伸びる腕を、フーケは猫のように身体を捻って避け続ける。
 まるで、麻痺毒など綺麗に洗い流されてしまったかのように。

(いや、それ以前に……動きのリズムが……)

 動きは寧ろ、先ほどより遅くなっている。にも関わらず、捕らえることが出来ない。まるで別人のように、動きの癖が変貌を遂げていた。
 フーケは逆手に握っていたナイフで『アースハンド』を切り裂くと、ドアを蹴破り、地下室から脱出した。

「!」

 ゼナイドは細剣を拾い上げると、フーケの後を追う。既に地下通路にはおらず、階段を駆け上がる軽快な足音が聞こえてきた。

「どうやって動いた? どうして動ける?」

 疑問を口にしながら、ゼナイドは階段に向かう。が、上から木箱が転がり落ちてきた。
 時間稼ぎならば、立ち止まれば逃げられてしまう。

「『錬金』」

 木箱の一部を土に変化させ、打ち砕く。しかし、三つ目に転がってきた木箱には通用しない。ゼナイドは頭を下げ、それを避けた。通常の木箱かと思えば、意地の悪いことに『固定化』の魔法をかけたものが混ぜられている。彼女は『アースハンド』で木箱を受け止めると、そのまま力任せに押し返した。
 地上へと駆け上がり、周囲を窺う。二階の窓が破壊されているが、木箱を転がしてきたのだから、あそこまで辿り着く時間は無かった筈だ。

「さて……私ならどうする?」

 ゼナイドは考え始めた。

「外に逃げたと見せて、追っ手が外に出た隙に別の出口から逃げる。その為に、どこかで息を殺している。……しかし、それも少々在り来たりな気がするな。…………!」

 一つの可能性へと思い至り、ゼナイドは踵を返すと、先ほど上がってきた階段を駆け下りる。
 そもそも怪人フーケの目的は、この場から逃げ出すことでは無い。目的はただ一つ、ミスタ・コラスだ。

(落ちる木箱の中に隠れて、私と入れ違いに地下へ戻った……。三番目の、固定化がかけられたあれか。その後も木箱が転がり落ちてきたことを考えると……『念力』を使ったか)

 地下室のドアを蹴破り、中へ飛び込む。
 倒れ伏すミスタ・コラスの顔の上に、仮面が乗せられている。それを手に取り、持ち上げてみると、彼の顔は無かった。首から上、頭が持ち去られていた。
 背後で物音がするが、ゼナイドは振り向かない。自分がフーケの思惑に嵌まったことは明らかだった。今更追いかけても、もう届かない。フーケは目的を果たし、逃げた。

「…………てっきりメイジ殺しかと思っていたが、これで確定した。あいつはメイジで、貴族だ」

 ゼナイドはフーケの仮面を懐に収め、代わりに葉巻を取り出す。カットし、杖の先で火を付け、紫煙を吐き出した。そしてミスタ・コラスの、首のない死体を見下ろす。

「協力すれば命を助けてやると言ったが、すまない、無理だった。泉下の仲間とよろしくやってくれ」

 やはりゼナイドは、怪人フーケを諦められない。自分から逃げおおせたという事実が、彼の能力の高さを示している。手に入らなかったことが、その期待と欲望を更に膨らませた。
 欲しい、是非とも欲しい。欲しくてたまらなくなる。
 膨らむ欲望を押し止めようとするかのように、ゼナイドは自分の胸を掴む。しかしその口元には、幼い笑みが浮かんでいた。








 黒い獣が、彼女を奪った。あの悪魔に、奪われてしまった。
 自分は何も出来ず、ただ呆然としていただけだった。

 黒い獣が全てを奪う。自分が大切にしている、全てを奪ってしまう。そして最期には、自分は独りぼっちになってしまう。


 残された時間は、あと八年……


 長生きしたかった。出来るだけ長い時間を生きて、色々なことをして、色々な思い出を作りたかった。
 しかし、違った。自分は、自分の願いの矛盾に気付かなかった。それはひどく単純なことだったのに、それがわかったのは、失った後だった。


 残された時間は、あと七年……


 もう二度と、看取りたくはない。もう二度と、見送りたくはない。
 長生きして、自分の大切な人々に看取られて死にたい。しかし長生きすれば、自分が看取る側になってしまう。自分の大切なものが、次々と旅立ってしまう。
 長生きなど、願うべきではなかった。大切な人々など、気付くべきではなかった。
 二つの夢は、同時に成り立たない。


 残された時間は、あと六年……


 どちらの夢を取るのか。自分でそれを選ばなくて済んだのは、ひょっとしたら幸福なことなのかも知れない。片方の夢が閉ざされた時、残る一つの夢を、迷うことなく掬い上げることが出来た。
 自分にとって本当の不幸は、死ぬことなどではなく、孤独に死ぬことだった。
 長くなくてもいい。残り時間がはっきりと示されたなら、そのゴールまで、精一杯に突き進めばいい。休むのは、死んでからいくらでも出来る。
 時間がない。時間がない。時間がない。
 眠っている暇などない。躊躇している暇などない。恐れている暇などない。怯えている暇などない。負けている暇などない。


 残された時間は…………








 快晴の朝だった。小鳥が歌い、カーテンの隙間から差し込む光が煌めく。
 ベッドの上で身体を起こし、アクセルは腕を振り回す。

「…………」

 アクセルが眠るのは、一週間に一度、六時間ほど。そうなるように訓練した。眠れば夢を見てしまう。彼にとって眠りとは、安息の時間ではない。
 一週間ぶりの深い睡眠の余韻を振り払いつつ、彼はベッドから転がり出る。何度か大あくびをしながら着替えを終え、顔を洗って身支度を済ませ、食堂へと向かった。

「おふぁ……ようございます……」

 目を擦りながら、テーブルにつく。この屋敷の主であるマザリーニは、教会に行っていてまだ来ない。挨拶したのは、朝食の用意をしているメイドだった。

「おはようございます、アクセル様。朝食は……」
「ああ、マザリーニ枢機卿が戻られてからで」
「はい。畏まりました」

 欠伸をしつつ、アクセルは今朝発行された新聞を広げる。軽く目を通してみるが、昨晩の事件を窺わせる記事は見当たらなかった。そう思ったが、アクセルは苦笑する。前世とは違うのだ。そんなに早く記事になるわけではない。

(それにしても、昨夜はひどい目に遭った……)

 怪人フーケの仮面など、その気になればいくらでも作れるが、ゼナイドの手に渡ったのは不味い。一応、変声機などのオプションは全て取り除いておいたが、彼女の能力を考えれば、何かしらの情報を引き出されてしまう恐れがある。
 ゼナイドの情報を集めることも重要だった。とにかく、二度と顔を合わせたくは無い。ラヴィス子爵家はラ・ヴァリエール公爵派の貴族であるが、その繋がりはあくまで当主たちの間のみ。アクセルはグラモン領にもヴァリエール領にも行ったことは無く、あちらがこちらに来たことも無い。両家の家族構成などは知っていても、詳しい情報は持っていなかった。

(グラモン家の子どもは、長女ゼナイド、次女レティシア、三女ジュリー、そして末っ子で長男のギーシュ。原作と違って、上三人が女。……くそっ、はっきり言って、女だと思って油断してた。ジュリーも大して危険では無かったし。長女ゼナイドは、殆どグラモン領から出ないってことだったのに、何でトリスタニアにいるんだ? 次女レティシアは軍属だし、グラモン家の三姉妹、全員がトリスタニアにいるってことか。まさか、次女まで危険人物ってことは無いよな? 暫く“怪人フーケ”は休業するか……。捕まれば、元も子も無いし……)

 メイドが淹れてくれた紅茶を啜り、新聞を捲る。毎日発行されているわけではないが、新聞社の発行日はずらされており、最近の社会の動きを知る上で重要な情報源となる。

(ん……特に無いか)

 新聞をたたみ終わった時、ちょうどマザリーニが入ってきた。

「あ、お帰りなさい」
「どうです、身体の具合は?」

 部屋着のボタンを留めながら尋ねる彼に、アクセルは両肩を回してみせる。

「ええ、もうすっかり」
「まったく、気を付けて下さい。あなたが捕まれば、私も腹を探られるんですから」
「……はっきり言って、驚きました。“鉄人”ゼナイドが、あんな怪物だったなんて」

 メイドが朝食を運んでくるが、他言するような使用人ではない。てきぱきと準備を進める彼女を横に、アクセルは畳んだ新聞をテーブルの上に置いた。

「で……わかりました? ミスタ・コラスの正体」
「これから朝食だというのに……」

 アクセルの言葉に、マザリーニはあからさまに顔を歪める。

「アクセル殿。夜中にたたき起こされて、いきなり生首を見せられたことは?」
「ないですね。僕、いつも見せる側なんで」
「……現在、調査中です。素性がわかるまで少しかかりますが、貴族ではないでしょう。それよりも、ゼナイド殿に尋ねた方が早いのでは?」
「いやです。はっきり言って、二度と会いたくないです。殺すわけにもいきませんし、殺さずに済ませる自信もありません」

 アクセルはカップを持ち上げ、三杯目の紅茶を啜った。

 ミスタ・コラスを殺したことは、愚策である。彼が所有する阿片の隠し場所、仕入れ先、それらを聞き出すことが出来なくなった。だが、あのままミスタ・コラスを生かしておけば、またゼナイドが現れる。餌に食いついた魚のように、彼女に釣り上げられてしまう。

 少年はカップを戻すと、こめかみを抑え、苦悩に満ちた溜息を吐き出す。

「とりあえず、ミスタ・コラスの正体が判明次第、ヤツの家を捜索します。第一の目標は、阿片の廃棄。仕入れ先の調査を行いたいのですが、出来なければ諦め、第二のミスタ・コラスが現れるのを待ちます」

 アクセルの結論を聞き終えたマザリーニだったが、難色を示す。アクセルが怪人フーケとして捕らえられれば、当然、日頃から親しくしているマザリーニにも累が及ぶ。そうなった時の言い訳は用意されているが、トリステインに味方が少ないマザリーニにとって、怪人フーケ……アクセルは、得難い刃なのだ。

「……ゼナイド殿は、既に阿片の保管場所を聞き出しているかも知れません。彼女の狙いが怪人フーケならば、彼女はそれを利用するでしょうね」
「ええ。当然、彼女の次の餌はそれでしょう。しかしゼナイドは、別に阿片を守ろうとしているわけではありません。僕とゼナイドの間に、争う理由など無い筈なんです。ただ、ゼナイドが怪人フーケを手に入れたいだけで。恐らく相当量の阿片が隠されているでしょうし、人目に付かず運び出すのは困難だとすれば、移動はさせないでしょう。保管場所にて、怪人フーケを待ち構える筈です」
「だとすれば、こちらが調べなくても、同じ方法で……新聞の広告欄にでも、招待状を出すでしょうね。素直に本当の隠し場所を示すとも思えませんが……」
「とりあえず、今は動けません。待っていれば、ゼナイドはグラモン領に帰ってくれるかも知れませんし……。危険かどうか判断するのは、新しい展開になってからにします。場合によっては僕も、一度ラヴィス領に帰るとしますか」

 極端に素早く動くか、極端に遅く動く。ゼナイドの裏をかくには、そのどちらかしかない。アクセルが選びたいのは前者だが、手掛かりが無い以上、それは不可能。下手に彼女に近づけば、逆に見破られる恐れも大いにある。

「……今回の滞在中に、始末をつけたかったんですがねぇ……」

 アクセルはふて腐れたように唇を尖らせ、天井を見上げる。そのような拗ねた仕草だけは、年相応だった。








 ゼナイドと酒を共にした者ならば、誰でも驚く。
 皆が真っ赤な顔をして騒ぐ中、彼女がいくら盃を重ねても、その顔は上気しない。反対に、どんどん青白くなっていく。黙々と盃を重ね、自分が満足したところで、ピタリと止める。もっとも、そこへ至るまでの量は尋常ではないが。

「ブハハっ……」

 男の笑い声。ゼナイドは盃を空にすると、ちらり、その男に視線を向けた。
 ゼナイドとその男の他は、客は誰もいない。それどころか、店主も店員もいない。潰れた酒場なのだから当たり前だが、そこをこの男は買い取り、大量の酒を持ち込んでいた。誰にも邪魔されることはない、彼による彼だけの、彼にとっての楽園のような場所。
 ゼナイドの視線にニヤつきながら応え、男はワインを呷った。

「いや、気にするな。“悪逆のサンディ”を思い出しただけだ。ヤツも、やたら酒に強かったな……。お前と違い、すぐに顔を真っ赤にするのだが、それからが長かった……」

 男は懐かしむように目を細める。初老になるその顔には、深い皺が刻まれていた。年齢より老けて見えるのは、彼が世間の暗い部分を見つめ続けてきたからか。太陽の光を浴びる小麦畑のようだったであろう髪は、既にその色素を大分失っていた。

「……聞かせて頂けますか? バッカス殿」

 機械的な口調で尋ねてくるゼナイドに、再び彼は笑った。

「そうだな。もう、二十年……いや、三十年か、そのくらいの昔になる。我がトリステイン王国に男子はついにお生まれにならず、マリアンヌ女王様おひとり。現国王ジェームズ一世陛下が、アルビオンより参られた。しかし……陛下が見初められたのは、マリアンヌ様ではない。アミアスだった」
「アミアス……。赦された吸血鬼」
「そうだ、我が戦友でもあるぞ?」

 愉快そうに、彼はワインを注ぐ。言ってはならないこと、明かしてはならないことを口にする快感に、酒によるそれより泥酔していた。

「さぁ大変だ、困った困った。アミアスをどうするか? ロマリアが黙って見過ごしていたのも、英雄王フィリップが恐ろしかったからだ。しかし、その英雄王が御隠れになれば? ジェームズ一世陛下は、英雄王のように無理を通せるか? それこそ無理ではないか? ……そこで、だ。アミアスには、攫われて貰うことにした」
「…………」
「その絵図を描いたのは、当時トリステイン王国に招聘されて間もない、マザリーニ枢機卿……。いや、当時はマザリーニ司教だったな。ヤツは“悪逆のサンディ”という悪党を仕立て上げ、アミアスを攫わせ、隠した。愛妾を寝取られた、そんな噂を流したのもマザリーニよ。ジェームズ一世陛下に対し、無言の圧力をかけたわけだ。……この私がそれを知ったのは、大分後だった。マザリーニは頑なに口を閉ざし、仲間達もアミアスを心配していた。私はやっとの思いで“悪逆のサンディ”に辿り着いたが、アミアスは本気でサンディに惚れ、また自分が隠された理由も理解していた。何も言えなかったさ。その後も私は二人を追い、サンディを捕縛しようとしたが、悉く……爽快なほどあしらわれてな。最期は二人で酒を飲み、別れた。それが文字通り、最期だった。ヤツの故郷で葬式があげられたと聞いた時は、何故だろうな、胸に風穴が空いたようだった」

 ひび割れた木製のテーブルに肘をつき、バッカスは誰かと乾杯するかのように盃を持ち上げる。ギィ、と、古い椅子が呻き声を上げた。

「そう言えば……数年前に、アルビオンのモード大公が、一族もろとも処刑されたが……実際には、反逆罪ではないだろう。モード大公は、エルフを愛妾にしていた、そんな噂がある。笑い話にもならんが、私は直感した。アルビオンの王族には、愛の対象として亜人を見る血でも流れているのか? 噂は恐らく、事実。それが明らかになりそうだった為に、モード大公は処刑された。遺児が密かにアルビオンを脱出した、そんな噂もあるが、そっちの噂はただの噂だろう」
「何故、そう言いきれるのですか?」
「アルビオンには、『ダークナイト』があるからだ。奴らからは逃げられんよ。アルビオン国王の寝室に潜み、国王の密命を受けて動き、王族殺しも肯定される怪物……。さながら夜の帳の如く、得体が知れん。……一度、私も手合わせしたことがある。勘違いからの、不幸な誤解だったが。相手の名は、確か……マムルート。そんな名前だった。ヤツの扱う技術は、我々の魔法より遙かに魔法らしい。そして思い知った。トリステインの暗部の弱小っぷりを」

 バッカスの舌は、するすると滑らかに回る。
 誰にも言えなかったのだ。誰にも理解されず、親友にすら明かさず、彼は与えられた使命に忠実に生きてきた。
 初めて自分の正体へと辿り着いたゼナイドは、バッカスにとって、ぽっかりと口を開けた穴蔵なのだ。

「かつて……親友すら欺き、闇を見つめてきたこの私も、もう老いた。弱小だった暗部は、益々弱小になった。外からの攻撃に精一杯で、内側を顧みる余裕などないのだ」

 なみなみと杯に注いだワインを、彼は一息に飲み干す。

「暗部が必要とされなくなるのは、構わない。結構なことだ。だが、滅ぼされるのは駄目だ。それはトリステインの瓦解を意味する。それには我慢ならない」
「……昨夜、怪人フーケと対決しました」
「ブハッ、ブハハハハハッ!」

 バッカスの笑いの理由は、二つ。一つは、自分の愚痴を一刀両断するように却下した、ゼナイドの非情さ。

「突然訪ねてきて、何かと思っていたが……そうか、それが本題か。ここにお前がいるというなら、逃がして貰えたらしいな?」
「恐ろしい相手でした。今までの、誰よりも。……恐らく、あれが全力ではないでしょう」
「怖いか?」
「はい」
「もう会いたくないか?」
「いいえ」
「ブハァッ……。いいぞ、いいぞ。それでこそグラモンの血筋、それでこそナルシスの娘だ」
「……益々、欲しくなりました」
「出来るさ。……サンドリヨン、ナルシス、カリン……仲間達ですら気付かなかった、この私の正体に気付けたお前だ」

 皺が彫り込まれた顔に、更に皺が増える。まるで孫の成長を喜ぶ好々爺のように、バッカスは無邪気に笑っていた。

「怪人フーケは、つまるところ悪逆のサンディよ。裏の仕事をするなら、悪党である方が都合がよい。そして私の知る限り、そんなものを使うのはただ一人だ」
「……マザリーニ枢機卿」
「ブハハ。さながら、二代目のサンディか。それでどうする? 狙うのはマザリーニか、フーケか」
「枢機卿にカマをかけても、逃げられるでしょう。直接、フーケを狙います」

 一瞬、ゼナイドの顔が怪物のように見えた。それはただ、蝋燭の灯火が揺らめいたから、それだけなのかも知れないが。

「誘き出す手立ては?」
「ここに……」

 彼女が懐から取り出したのは、フーケの仮面だった。無機質なそれで顔を覆い隠し、二つの穴に瞳を宿す。

「ブハハハッ、成る程成る程」

 バッカスは頬杖を付いた。

「いいぞ、ゼナイド。出来ることなら、お前に暗部を取り仕切らせたいくらいだ」
「興味はありません」
「ブハァッ。だろうな」

 ゼナイドという人間を突き詰めてみれば、家族愛へと行き着く。
 全てはグラモン家のため。全ては仲間のため。
 国家も世界も、彼女の前には大した意味を成さない。世界のためにグラモンを犠牲にするくらいならば、世界を潰す。

「痛っ……?」

 それまで笑っていたバッカスは、蜂にでも刺されたのかと、右手を灯火にかざす。が、暫くすると杯やつまみを巻き込み、床の上に大の字に倒れた。

「な……何だ、一体」
「これが本題です」

 見下ろしてくるゼナイドの右手には、紐を通されたオークの牙がある。バッカスは彼女を見上げ、初めて不機嫌な表情になると、舌打ちした。ゼナイドに対してではなく、自分自身に向けたものだ。

「くそっ、本当に老いたものだな……」
「この痺れ薬を刺した後も、フーケは自由に動きました。何故ですか?」
「……うーむ」

 寝転んだまま、彼は唇を尖らせて考え込む。

「……強力な解毒剤を持っていたか」
「それ以外では?」
「毒に免疫があったか」
「そこまでは私も考えました」
「ふむ。では……誰か……または、何かに操られていた?」
「……成る程」

 踵を返し、ゼナイドは立ち去ろうとする。

「待て」

 その背をバッカスが呼び止めたのは、介抱を求めたからではなかった。

「もしも、三つ目が正解だったなら、相手が一人だと思うな。一つの中の二つは、場合によっては二つの中の二つより厄介だ」
「理解しています。私も、妹たちの手を借りましょう」
「ああ、それがいい。……お前に“長足”のレティシアまで加われば、万に一つも負けは無いだろう」
「…………」

 初めて、ゼナイドは不愉快そうな顔を見せる。“鉄人”の二つ名を持つ彼女の“穴”は、正しくそれだったのだが、バッカスは気付かないふりをした。



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