小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第二章 朱き夏の章

第5話<昼下がり>







「さて……どうぞ」

 彼はレイピアの剣先を、猫じゃらしのように揺らす。そうやって相手の攻撃を誘い、受け流してしまうという戦法は、ジュリーがリオネルから聞いた通りだった。
 ジュリーはショートソードを逆手に構え、静かに腰を落とす。そして地を蹴り、アクセルとの距離を一息に詰めた。
 攻撃が捌かれてしまうという話だが、それが使えるのは、攻撃にスピードがある場合のみだろう。逆手の刃を彼我の間で寝かせ、それを押し付けるようにジュリーは迫る。アクセルは手首を回し、レイピアを胸の前で、その背筋のように真っ直ぐに立てた。

(一気に押し潰す……)

 それがジュリーの狙いだった。
 が、二人の刃が十字に交差した刹那、アクセルの上体が大きく傾く。受け止めるでもなく、交差点をレイピアの根本へと滑らせていった。
 レイピアの鍔元の護拳は知恵の輪のような複雑な形状で、そこに相手の刃を巻き込んでへし折ることも出来るが、それは相手もレイピアを使用している場合のみである。ジュリーの持つ幅広のショートソードで、そのようなことは出来ない。

(一体何を考えて……)

 咄嗟にそう思ったジュリーだが、考える暇は無かった。ショートソードの刃にレイピアの装飾護拳が噛みつく。無謀にも、へし折ろうと更に捻りを加えるアクセルに混乱するが、彼女は柄を握り締め、逆に装飾護拳を砕こうと、同じく捻りを加えた。
 しかしそこで、アクセルはレイピアから手を離す。

 キィン……

 甲高い音が響いた時、ジュリーは動けなくなる。アクセルが右手でジュリーの手首を掴み、左手のミセリコルデを彼女の首元に突きつけていた。

「……参った」

 武器を手放して虚をついたアクセル。彼の行動を卑怯などと罵ることは出来ない。
 ジュリーはショートソードに絡みついたレイピアを返すと、左手を腰に当てた。

「本当に、一歩も動かないのね」
「ええ」

 アクセルはレイピアを腰の鞘に戻し、左手のミセリコルデをくるりと回す。その、小さな刺突用の短剣は、本来なら安楽死の為のものである。戦場で重傷を負い、苦痛に藻掻く仲間をこの世から救うための。
 そしてそのようなものを所持しているアクセルが、ブリミル教の世界にて何を狙っているのかは明らかだった。

 剣の修行の相手になって欲しいと言ってきたジュリーに、アクセルは快く応じた。教会の裏庭を借り、二人剣を交える。

 細い身体の割に、アクセルは殆ど動かない。その“大樹”という二つ名の通り、まるで足の裏から根が生えているかのように、ジュリーでは一歩も動かすことが出来なかった。

 昼近くになり、太陽が鐘楼の高さまで持ち上がった頃、タオルで汗を拭きながら、ジュリーは放置されたままの石材に腰を下ろす。結局アクセルから一本も奪うことは出来なかったのだが、彼女の顔には微笑みが浮かんでいた。

「ありがとう、付き合ってくれて」
「いえいえ」

 アクセルは首を振る。息を乱していない彼を見ていると、やはり少し悔しい。

「……珍しいわよね。私も貴方も」
「何がですか?」
「剣なんか振り回しちゃって……」

 魔法を至高とする貴族社会において、剣は下賤の道具だった。それはあくまで、魔法を使えない平民の武器だった。更に言えば、魔法以外を用いて戦うのは邪道なのである。
 貴族で剣を扱おうとする人間は、当然のように少数派であった。三百年の歴史を持つバラデュール剣友会も、その歴史に見合うだけの名声は持たない。そしてそのような組織に加入していなければ、剣の修練を積む機会などない。

「……アクセル殿はやはり、魔法学院には入らないの?」
「呼び捨てで構いませんよ、ジュリーさん。僕は年下なんですから」

 アクセルは近くの岩に腰掛け、レイピアを傍らに立て掛けた。そして、彼女の質問に答える。

「もう少ししたらロマリアへ行き、聖堂騎士の試験を受けます。その後は司教試験を受け、合格次第、故郷に戻ろうかと」

 アクセルは既に、在俗司祭の称号を得ている。
 そしてそのことを思い出した時、ジュリーは改めて彼の顔を見た。
 整っている。ふと微笑めば、女が見惚れてしまうほどに。彼が胸元をはだけ、女性の耳元で愛を囁けば、大抵の女は虜にされてしまうだろう。すれ違えば、そこにふわりと涼やかな風が流れるような、そんな雰囲気を持っていた。
 しかし、彼は司祭である。生涯独身を貫き、女を断つ聖職者である。まだ女を知らない年齢で、何故そのような決断をしたのだろうか。表向きに……とはいえ、女を抱くことは許されず、アクセルは死ぬまで結婚をすることは無い。

(噂は本当なのかしら……)

 彼がマザリーニ枢機卿の愛玩動物であるという噂は、ジュリーの耳にも届いている。そして噂の意味が理解出来る程には、彼女はその方面に通じていた。

 更に言えば、彼女はその方面に多大な関心を寄せている。

 聖堂騎士は、言うまでもなく男のみ。自分の父親なら、そのような環境にいれば発狂してしまうだろう。若く精力溢れる男達なのだから、当然女遊びもするだろうが、大っぴらに出来る筈も無い。何より金もかかる。
 そしてそんな環境にいれば、性欲の発散を仲間内で済ませようとすることは不思議ではない筈だ。

(特に……こんな女っぽい顔の少年が……)

 彼の剣技の腕は、確かに大したものである。だが当然、先輩の中には彼以上の腕前の者もいるだろう。そうでなくとも、一度に数人に襲いかかられてしまえば、彼の腕力で太刀打ち出来る筈もない。

(男にも穴はあるんだし……)

 本当にマザリーニ枢機卿に開発されているのだとしたら、まだ救われる。
 だがもし、そのような事実がなければ彼は……。

(……何だ、この悪寒は!?)

 アクセルは鳥肌の立つ身体に、その原因を探ろうとする。が、悪寒の原因が何も言わずに自分を見つめ続けるジュリーであることはすぐに分かり、若干顔を引きつらせた。

「あの、ジュリーさん?」

 経験上、この悪寒を与える相手が碌なことを考えていないことは知っている。再度アクセルに呼びかけられ、彼女は白昼夢から醒めたかのように目を見開いた。

「どうかしましたか、ジュリーさん」
「私? いえ、私はどうもしないわ。寧ろアクセル殿、貴方は大丈夫?」
「……何がです?」
「え、その、ナニかが……」

 言い淀む彼女の声を押し潰すように、正午の鐘が鳴り響く。殆ど反射的にジュリーは立ち上がると、ビッと襟を正した。

「アクセル殿、昼食に行きましょう。奢るわ」
「え、でも……」
「この前のお礼と、あと今のお詫び。さあ、早く」
「お詫び……?」

 聞き返したアクセルの言葉も、鐘の音に払われる。ジュリーに突かれるようにして、アクセルは繁華街へと向かった。








「…………」

 エレオノールが立ち止まったのは、テラス席の一つに腰掛ける、ゼナイド・ド・グラモンを発見したから。だがそれは、幼馴染みとの再会に驚いたからではなく、広大な平原で幻の珍獣を発見したかのような、物珍しさ故だった。
 グラモン伯爵領から滅多に出ないゼナイドは、顔を殆ど知られてはいない。

「ちょっと、どうしたの?」

 エレオノールの口から飛び出したのは、再開を喜ぶ声でも、旧交を暖める声でも、挨拶ですらなく、疑問。この女が領地から出るなど、きっと何か異変が起こったのだと。
 ガタガタと向かいの席に座った彼女をちらりと見返し、

「久しぶりだ。エレオノール」

 と、ゼナイドはそれだけ告げる。そして義務としての挨拶は終わったとばかりに、再び本に視線を戻した。そのような人間だということは分かり切っているので、エレオノールも気分を害すことは無い。
 テーブルには牛乳の入ったグラス、そして灰皿の上で靄のような煙を立ち上げる葉巻。だが、見慣れないものもある。テーブルの端に積み上げられた、数冊の本だった。

「……『怪盗フーケ』のシリーズ? アリス・ムーンライトの?」

 ジュリーをバカにしたエレオノールだが、彼女とて、嫌いなわけではない。いや、この物語を嫌える娘などいるのだろうかと思っているが、それでもゼナイドが興味を持っているのは意外だった。
 ゼナイドが広げている本の表紙を見れば、既に最新刊まで読み進んでいる。

「……ミルク、もう一杯」

 本から目を離さず、彼女はたまたま近くを通りかかった給仕に告げる。

「サンドウィッチと紅茶」

 ついでにエレオノールも昼食を注文した。初めて入る店だが、こう見えて舌が肥えているゼナイドが居座るくらいだから、味は期待して良さそうだ。
 若い給仕が立ち去った後、エレオノールは積まれている本の一冊を手に取る。

「でも……ゼナイドが、こんな童話に興味があるとは思わなかったわ」

 茶化すように言うエレオノールだが、かと言ってゼナイドの嗜好を把握しているわけではない。口数が少なく、愛想もない彼女である。エレオノールのように子どもの頃からの知り合いであれば話も別だが、敬遠されがちな人物なのだ。当然他人と会話する機会も殆ど無く、嗜好を尋ねられたことも無いだろう。よって、満足のいく回答を得られるはずもない。

「興味を持つ機会があった」

 一言、それだけゼナイドが返してくる。エレオノールはただ、ふぅんと鼻先で応じた。
 しかし彼女にとって予想外なことに、ゼナイドは更に話しかけてくる。

「エレオノール。聞きたいことがある」
「え? 何?」
「この怪盗フーケと、衛士隊長ラファエルの関係なんだが……これは恋なのか?」

 質問の意味を理解するより、その質問が本当に現実のものなのか、それを反芻する時間の方が長かった。
 本を膝の上で広げたまま、エレオノールは瞬きを繰り返す。

「……どうなんだ?」

 重ねて尋ねられ、ようやく白昼夢ではないと悟った。

「まぁ……そうね」

 そんな気の抜けた返事を、十数秒かけてエレオノールは絞り出す。
 意外と言うよりは、あり得ないと表現すべきかも知れない。この“鉄人”ゼナイドが、色恋沙汰について口にするなど。彼女にとっての男の価値は、どれ程に有能か、それだけなのだ。どれほど強いか、どれほど賢いか、どれほどグラモン家の役に立つか。さながら審査員のように能力を測定するだけで、そこに恋愛感情など介在する余地はない。家族愛は有り余るほどに持っていても、男女間の情愛など、どこかへ忘れてきてしまったような女なのだ。
 ゼナイドは本から顔を上げ、エレオノールを見つめる。

「む。怪盗フーケが経営する店の常連が、ラファエル。ラファエルは女主人が怪盗フーケだとは知らず、好意を抱いている。一方、怪盗フーケは自分を追う衛士のラファエルに、密かに好意を抱いている。それでいいな?」
「え、ええ。そうね」
「怪盗フーケは、常連客と衛士ラファエルが同一人物だとは気付いていない。……常連客なら、名前くらい把握しておくものでは?」

 準備運動を始めた身体が温まってくるかのように、ようやく、エレオノールは調子を取り戻してきた。随分とのんびりだったが、ようやくこのゼナイドも、思春期というものに突入したのではないか。そんな事を考えつつ、広げた本をテーブルの上に乗せる。

「常連客とはいっても、ラファエルは名乗ってないの。フーケも顔は知ってるけど、名前までは知らないわね」
「……これだけ足繁く通っていて、ラファエルは何故名乗らない?」
「恥ずかしいからでしょ」
「ラファエルという名前が?」
「いや、あのね……」

 長丁場になりそうだと、エレオノールは椅子に座り直した。そういった心の機微も描かれている筈だが、ゼナイドには理解できなかったらしい。

「ラファエルは、女主人のフーケに惚れてるの。仕事の時以外は、彼はとても内気で、引っ込み思案なの。フーケに話しかけられたら、思わず逃げてしまうくらいに」
「……そんなヤツはいないだろう」
「童話に細かな突っ込みを入れちゃダメ。それでフーケも、変な客だとは思いつつ、常連さんだから大切にしているわ。一方でフーケも、衛士のラファエルに恋心を抱いている」
「フーケは盗人で、ラファエルは衛士だろう? 自分の邪魔をする者なのに、何故恋心を?」
「そういう損得勘定が働くものじゃないのよ、恋愛は。えーっと……確か……」

 エレオノールは机の上に身を乗り出すと、積まれている本をぐいと持ち上げ、その中から一冊を取り出す。

「そうそう、これ……。第四巻で、悪徳商人の罠にはまったフーケとラファエルが、協力して敵に立ち向かう場面があったでしょ? 二人は片手同士を手錠で繋がれながら、敵に勝利する」
「……ラファエルは、戦闘終了後に気絶したフーケの仮面を何故剥ぎ取らない? 何故、捕まえなかった?」
「ラファエルは、衛士としてのプライドを賭けてフーケを追ってるのよ。それは確かに、そこでフーケを逮捕しておくべきだったとも言えるわ。でも、フーケがいなければ自分が死んでいたのも事実。うーん、言葉で説明すべきことじゃないんだろうけど……要するに、借りを作ったままじゃ我慢がならなかったの。盗みをしても人は殺さないフーケは、彼にとっては上級の盗賊。こんな場所で易々と終わって欲しくはなかったんでしょうね。次はない、とフーケを逃がしたことで、フーケもラファエルに対する評価を変えたわ。良民から搾り取ることしか頭にない政府、汚職を平気でやる上司……そんな環境に葛藤しながら、それでも世間の人々を守ろうとするラファエルに、尊敬の念を抱くようになるの」
「尊敬が恋愛感情に変化したのか?」
「……ま、まぁ、そうとも言えるわね」

 ふと、エレオノールの声が潜まる。ついつい熱が入って、童話の中の恋愛を雄弁に語ってしまったという羞恥心は、ゼナイドには理解できない類のものであった。
 運ばれてきたサンドウィッチを、照れ隠しに頬張るエレオノールを見つめながら、ゼナイドは本を畳む。

「ところで、エレオノール。まだ聞きたいことがある」
「何かしら……?」
「私は今、ある一人の男のことを考えている」
「またいつもの人材蒐集癖?」

 普段のゼナイドがそんなことを言い出す時、それは決して色恋沙汰などではない。目を付けた人間を、力尽くででもグラモンの軍団に引き入れる時だ。

「寝ても覚めても、その男の事しか考えられない。決して不快ではないが……。ただ、いつものそれとは違う気がする」

 エレオノールは、次のサンドウィッチに伸ばしかけた手を止めた。

「違うって……どんな風に?」
「その男にも、私と同じようになって欲しいんだ」
「……つまり?」
「寝ても覚めても、私のことを考えていて欲しい。私だけを見ていて欲しい。私だけに興味を持っていて欲しい。そして出来るだけ長い間、同じ時間を共に過ごしたい。そんな気分だ」

 バシィ、と、エレオノールは平手でゼナイドの肩を叩く。避けるまでもない攻撃だったが、ゼナイドは不思議そうに彼女を見返した。
 エレオノールは満面の笑みを浮かべている。

「それは……間違いないわ。恋よ」
「そう、なのか? これが?」
「ええ、そうよ。多分、初めての気持ちなんでしょうけど……。例えば、そうね。あなたと私が、揃って彼を食事に誘った時、その彼があなたを断り、私の方についてきたら?」
「…………」

 ゼナイドは腕を組み、暫し瞑目する。

「…………」

 一通りのシミュレーションが終わったのか、彼女はふと双眸を開いた。

「何と言えばいいのか……。心が、ザワつく」
「益々もって、恋よ。それは」
「何故そんなに嬉しそうなんだ?」

 不思議そうに首を傾げるゼナイドだが、ふと妹の姿に気付いた。

「ジュリー」

 通りに向かって彼女がそう呼びかけたことで、エレオノールも振り返る。どこかで昼食をとろうと繰り出してきたのだろう、アクセルを連れたジュリーが、呼び声に反応してこちらを振り向いていた。
 ジュリーは少し、苦そうな顔をする。年齢的に反抗期だから、という理由もあるのだろうが、彼女は姉のゼナイドが苦手なのだ。剣の腕も、魔法の腕も、身長も、更には女性の発現たる胸も、全てが劣っている。
 逃げられないと、早々に観念したのだろう。アクセルに一言二言告げると、ジュリーはゼナイドとエレオノールが座る隣のテーブルに歩み寄り、腰を下ろした。

「……久しぶり、姉さん」
「オールド・オスマンから聞いたのだが、魔法学院を休んでいるそうだな」
「…………」

 ジュリーは黙ったまま、給仕が持ってきたメニューを広げる。エレオノールは身体を動かし、アクセルの耳元に顔を近付けると、「まるで父親みたいね」と囁いた。自己紹介の機会を逃したアクセルは、確かに、と頷く。

「何か不愉快なことでもあったのか?」
「別に」

 メニューに視線を向けたまま、ジュリーは短く答える。

「では何故?」
「別にいいでしょ。進級に必要な出席日数は把握してるし、授業にも遅れてないわ」
「魔法学院に通う意義は、それだけではない。将来必要になる各家との交流を学ぶ場でもある」
「それくらいわかってるわよ。私も、考えなしにサボってるわけじゃないの」

 ゼナイドを父親のようだ、とエレオノールは評したが、厳父というわけでは無さそうだ。反抗期の娘に手こずる、接し方を模索する父親と表現した方が適しているかも知れない。

「……? って、ああっ!」

 突如として、ジュリーが声を上げた。視線の先には、テーブルの上に積まれた本。

「姉さんっ! それ、私の本!」
「ん……ああ、借りさせて貰った。魔法学院に寄ったついでに、お前の部屋から……」
「何勝手に人の部屋に入ってるのよ! 姉妹だからってねぇっ、やっていい事と悪い事が……!?」

 立ち上がりかけたジュリーだが、すとんと座り込む。何かに思い至ったようで、震えながら、祈るような瞳をゼナイドに向けた。

「あ……あの、姉さん。ひょっとして……これの後ろにあった……」
「ああ、これの事か?」

 ゼナイドがテーブル脇の鞄を漁り、黒い装丁の本を取り出して見せた時、ジュリーの祈りは絶望へと変わる。

「童話にしては、随分過激な……」
「……ッ!」

 ジュリーは飛びかかるようにして、その本をひったくった。

(……確かに。寄りによって、あれはきついな)

 素知らぬ顔をするアクセルだが、何しろ著者である。その著者ですら羞恥のあまり読み返すのに苦労するという、ある意味で歴代最高傑作の一冊なのだ。もうこの際ナタンでもいいか、と、そんなことを考えてしまうほどに性欲が膨れあがってしまった時に、一気に書き上げた、隔離すら必要なほどの危険物。性に興味を持ち始めた、そんな年齢の娘が読むには激しすぎる内容だが、まさかジュリーが手に入れていたとは思わなかった。

(あー……そう言えば俺も、前世であったっけ。オナニー中に力尽きて寝て、翌朝母親に……。いや、そっちじゃないや。しかし……何で母親って生き物は、息子が必死で隠してたエロ本を探し出して、わざわざ机の上に置くんだろ? 褒めろってか?)

「……信っじらんない、もう!」

 黒い装丁のその本を、ジュリーは自分のバッグの中へと突っ込む。その声で我に返ったアクセルだが、彼女に手首を掴まれた。

「行こうっ、アクセル殿! こんな無神経な女、相手にしてられないわ!」

 今のジュリーの気持ちが、他人事とは思えないほどによく理解できる。アクセルは何も言わず、彼女に従って席を立とうとした。

「待て」

 だが、それをゼナイドが阻む。阻むと言っても、魔法を使ったわけでも、手で押さえつけたわけでもない。ただ一言、命令した。待て、と。

(やはり、怖いな)

 その言葉には、鉄鎖のような拘束力がある。言霊と呼ぶべきものなのだろう。

(大丈夫だ)

 アクセルは自らに言い聞かせた。
 今の自分と怪人フーケを結ぶものなど、何一つとしてない。今の自分は、ただのラインクラスのメイジだ。

「誰だ。名乗れ」

 非はアクセルを無視していたゼナイドにあるのだが、それは彼女に対して何の抑制にもなりはしない。紹介しようとしたエレオノールを制し、ゼナイドは虎のように鋭い視線をアクセルに向けた。自己紹介をしろ、ということだろう。

「……ご挨拶が遅れました」

 アクセルはゼナイドに向き直ると、柔和な微笑みを作り、恭しくお辞儀をした。

「ラヴィス子爵家の、アクセルと申します。ジュリーさんの姉上の、ゼナイド様ですね? 以後、お見知りおきを……」
「付き合っているのか?」
「え?」

 思わずアクセルは聞き返す。彼女のこの鋭さが、妹の交際相手を警戒してのもの、ただそれだけならば、ひとまず安心できるだろう。

「んなっ……何言ってんの! 違うに決まってるでしょう!」
(……すげぇ力一杯に否定したな。まぁいいんだけど)

 アクセルが答えるよりも早く、彼の背中のジュリーが怒鳴った。

「……そうか」

 椅子を引き、ゼナイドが立ち上がる。そしてテーブルを回ると、アクセルの目の前に立った。

(やはり、大きい)

 改めてアクセルはそう感じる。前回は狭い室内での戦闘だったが、屋外ならば、このリーチの長さは脅威だろう。レイピア、ブロードソード、ナイフ、スピア……一通りの武器の扱いは習得しているに違いない。更には、メイジとしてのランクもスクウェアクラス。グラモン伯爵家の長女であるという事実も考え合わせてると、出来ることなら二度と遭遇したくない相手だった。

「アクセル……在俗司祭のか?」
「はい。よくご存じで」

 慌てることなく、アクセルは微笑む。

 カシャン

 乾いた音が聞こえた。アクセルが視線を下げると、テラス席の板敷きの上に、装飾具のようなものが落ちている。よく見ると、オークの牙だった。

(あれか……)

 麻痺毒が仕込んである、例のブレスレット。即効性の麻痺毒で、冒されれば“彼女”に任せればいいとはいえ、それに頼るのも危険だった。ゼナイドほどの相手ならば、二度目か三度目あたりでカラクリを見破られる恐れがある。
 位置からして、ゼナイドの袖口から落下したのだろう。

(ん、落下? 確かこのブレスレットは、子どもの頃のものだ。今のサイズに合う筈が無い。なら、何故袖口から? わざと落とした?)

 一瞬、何か悪い予感が走るが、不自然な振る舞いは出来ない。

「落ちましたよ」

 そう言いつつ、アクセルは腰を折り、オーク牙のブレスレットを拾い上げた。
 が、指がブレスレットに触れた瞬間、ゼナイドの掌が彼の臀部を掴む。

「ふぇ?」

 あまりに理解不能な行動に、アクセルは妙な声を漏らした。男の尻など揉んで、彼女は一体何がしたいのか。
 が、次の瞬間、

「っぁ……!!?」

 未経験の衝撃に、アクセルはその場に崩れ落ちた。

「えっ!?」

 何が起きたのか、同じく理解できないジュリーが、慌ててアクセルの傍らにしゃがみ込む。彼は自らの臀部の間に手を当て、床で身体を震わせていた。
 だんだんと状況が掴めてきたジュリーは、まさかと思いながらも、ゼナイドを見上げる。彼女は掌を広げ、その中指をクイと動かした。

「キツいな。枢機卿相手に使い込んでいるという噂だったが……どうやら、デマだったようだ」

 淡々と、納得したように呟く姉に、何と言えばいいのか出てこない。唖然とするジュリーは、身を起こしたアクセルの肩を、ハッとして掴んだ。

「…………」

 アクセルは無言のまま、ゆっくりと、生まれ出でて間もない四足獣のように足を震わせながら、テーブルの端を掴んで立ち上がる。

(よし。この女、いつか殺そうか)

 そう思っても、悟られるわけにはいかない。

「し……失礼します……」

 引きつった笑みを滲ませ、アクセルはジュリーに肩を借りた。

「……姉さん。何と言えばいいのか、今は思いつかないけど……私は、今までにない程に怒ってるから」

 ジュリーは振り向かないまま、そう告げる。ゼナイドを適切に罵倒する言葉が、彼女の語彙の箱のどこをどうひっくり返しても見つからなかった。ジュリーと、彼女に肩を借りるアクセルは、そのまま通りへと消えていった。

「えと……何? え、何があったの?」

 全てはゼナイドの背に隠されている。何が起きたのか、何一つとして把握できてないエレオノールの向かいに、再びゼナイドは腰を下ろした。そして彼女は、懐から羊皮紙を取り出すと、封を解いてそれをくるくると広げる。
 そこに列記されている名前は、半分以上が横線を引かれている。それはつまり、チェックが済んだことを表していた。

 ゼナイドは考える。初対面の相手にあんなことをされて、怒り出さない男がいるものかと。

「…………」

 彼女はペンを取り出す。列記されている名前の中からアクセル・ベルトランを見つけると、横線は引かず、その名前の左横に丸印をつけた。

「今まででは……一番怪しいな」

 オーク牙のブレスレットを見たときに、彼の顔に表れた、驚きとは別の感情。それもまた、ゼナイドの勘に引っかかる。
 あんなことをされて、文句の一つも飛び出して当然であるのに、彼は何故、穏便に済ませたのか。

「怪しいって、何が?」

 最後のサンドウィッチを持ち上げつつ、好奇心から尋ねてくるエレオノールに答えず、ゼナイドは無言で羊皮紙を丸めた。



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