第2章 朱き夏の章
第7話<片想い>
あの誕生会でゼナイドが行ったのは、アクセルが最も嫌がることだった。
“目立つ”……それはアクセルにとって、恐るべき事態である。狙い通りに目立つのは構わないが、意図しないことで目立ってしまえば、それは予想外の悪い結果を引き起こす。
グラモン家の長女が、司祭でもあるラヴィス家の長男の唇を奪ったという噂は、翌日には出席者の友人の親戚の使用人の家族にまで広まっている有様だった。暇を持て余していた貴族にとって、それは格好の餌食であり、そこかしこでその珍事についての情報交換がなされている。そしてそれは、噂と言うよりは事実であった。
「いや本当に、聖女アガーテもかくや、という美貌で……」
「女が男に? 逆ではないのか?」
「すごかったですわ……。お二人とも、片時も離れようとはせず……」
「それで、二人は熱い抱擁を交わし、手を繋いで庭園の奥へと……」
今まで、全くと言っていいほど人前に姿を現さなかった、ゼナイド・ド・グラモン。
既に在俗司祭の資格を受け、大人から頼られることも多いアクセル・ベルトラン。
渦中の二人が二人であるだけに、噂は事実から独り立ちし、すくすくと成長していった。
「……まっさかぁ」
一人、噂を笑い飛ばした人物がいる。
「あのゼナイドと、あのアクセルが? あり得ないでしょ」
エレオノールは愉快そうに身体を揺すりながら、ジュリーに応えた。
「…………」
ジュリーはじっと、エレオノールを見つめる。
確かに、笑い飛ばしてはいる。満面の笑みだ。だが、彼女の手から羽ペンが落ちていた。
「何、どうしたの?」
相変わらず、その満面の笑みのまま、エレオノールはペンを拾うためにしゃがみ込む。しかしその笑顔は、ジュリーに向けられたままだった。
若干の恐怖を覚え、少女は顔を強張らせる。
エレオノールはジュリーの顔を見つめたまま、手探りでペンを探し始めた。
「あのねぇ、アクセルは在俗とはいえ司祭なのよ? あいつ、女に対する自制は人一倍強いんだから」
そわそわと、絨毯の上を掌が泳ぐ。そうしているうちに、かつんと、彼女の指先が椅子の脚に衝突した。
「つっ……」
一瞬顔を歪ませるが、それでもその笑顔は崩れない。
若干、であった恐怖が、むくむくと膨らみつつあることを自覚しながら、ジュリーは一つ咳払いをした。
「キスしたのは……姉さんよ。いえ、あれはもう、唇を奪ったって感じね」
「……ひょっとして……」
「そう。私もあの場にいて、はっきりとこの目で見たから」
そう告げながら、ジュリーの脳裏にもあの晩の光景が蘇る。
楽団にいたアクセルを連れ去り、ダンスを始めたその美女を、ジュリーは目で追う。二人が揃ってベランダに出た後は、他の何人かの客達に混じり、密かに彼等の様子を窺った。
手元に杖はなく、あったとしても、窓越しのこの距離で会話を盗み聞くのは、事実上不可能だろう。アクセルも女も、揃って庭園の方を向きながら、何事か話していた。
その女は突然アクセルの顔を持ち上げ、接吻する。それは本当は強引なものであったが、盗み見ている者たちにとっては、幻想のように美しい所作に思えた。
ジュリーはただ、ガラス玉のような目でそれを見つめていた。
やがて女が離れる。アクセルが呼び止め、振り返る。そしてまた、女は彼に背を向ける。
その女がゼナイドであると気付いたのは、客達の噂話が耳に入ったのではなく、室内に戻った彼女が、ちらりとジュリーに視線を送った時だった。
(何で……?)
頭に浮かんだ疑問は、それのみ。何に対しての何故なのか、それすら自覚できないでいる。
一体自分は、何を知りたいのだろう。
ゼナイドがアクセルとダンスをした理由か。ゼナイドがアクセルにキスをした理由か。ゼナイドが去り際、自分に視線を向けた理由か。
それを知った所で、何もならず、どうしようも無いというのに。
それを知った所で、自分がすることなど無いというのに。
「つまり……ゼナイドが、アクセルに惚れてるってこと?」
「……そうとしか」
「あり得ない、あり得ないって」
ようやく指先が羽ペンに行き着き、エレオノールは立ち上がる。その笑顔はヒマワリか何かのように、常にジュリーへと向けられていた。
「いい、ジュリー。ゼナイドに限って、それは無いわ。そりゃ確かに、最近恋したとか相談されてはいたけど、アクセルと出会ったのはその後だし。そもそも武将みたいなゼナイドが、アクセルに惚れるなんて思う? あんな細身で、弱々しくて、女に対して強く出られない軟弱者なんて。男らしさの対極にいるようなヤツよ。たまに、頭に花とか挿してたりするし、自分用の化粧道具なんて持ってるし。あ、あと、私の我が侭にイヤな顔一つせず付き合うし、こっちがわざと難問を吹っかけても、何だかんだで了解するし。いちいちやかましいと思えば、途端に静かになるし。人を小馬鹿にしたような態度だし、かと思えばいきなり真剣になって、もう理解不能だし。大酒飲みだし、争いごとは嫌うし……。そう、そうよ、あり得ない。ゼナイドがアクセルを? あり得ない、有り得る筈が無いって。そう思うでしょ、ジュリー?」
「え、あ、はい」
迫力に押され萎縮していた少女は、思わず肯定してしまう。
「うんうん、そうよね。ジュリーもそう思うわね。何たって妹なんだし、姉のことはよく知ってるもんね? 逆に、アクセルがゼナイドに惚れるってのもあり得ないわ。そういう色事に全く無関心だからこそ、司祭なんかになったわけだし。実際、私がちょっとくらい誘惑しても……」
「え? 誘惑したんですか?」
「は? してないわよ、するわけないでしょ」
「え、でも、今……」
「どうしたの、ジュリー? 頭大丈夫?」
「…………」
かつて無いほど、とてつもなく理不尽なことを言われている……そう感じるジュリーだったが、口に出さない。完全に、エレオノールに呑み込まれていた。下手なことを口にすれば、自分の身に、とてつもなく理不尽な不幸が降りかかることを予想して。
だが、彼女とて軍人の娘。膝の上の手を握り直し、ありったけの勇気を胆の底から絞り出した。
「ひょっとして……」
「ん、どうしたの?」
「ひょっとして、エレオノール。貴女、アクセルのことが……?」
敢えて最終までは言わず、ジュリーは前屈みになり、彼女の顔を覗き込む。ちょっとした、意趣返しのつもりだった。
「…………」
エレオノールは笑顔を納め、じっとジュリーを見つめ返す。先ほどから半回転したような無表情に、思わず目を背けたくなるが、それでも少女は粘った。
「…………ば……」
睨み付けられていると思っていたが、そうではなかったらしい。
「何をそんな馬鹿言ってんの? 本当に頭大丈夫?」
それだけ言うと、エレオノールはジュリーに背を向け、壁際の本棚を漁り出した。何か探しているように見えて、探してはいない。ただ適当に、背表紙を眺めながら場所を入れ替えていた。
「……好きなの?」
溜めに溜めた最期の一言を、今更になって、ジュリーは口にした。
「好きなんだ?」
「だから、好きとかそういうんじゃないの。ただの同志よ」
「嫌いじゃないのよね?」
「そりゃ、嫌いじゃないけど……」
面倒そうな口調でありながら、何かを押し隠そうとしているようにも思える。
何故だろうか。
どちらかと言えばエレオノールは、ジュリーにとって畏怖の対象の一人であった。その彼女を、困惑させている。自分の視線が、言葉が、好奇心が。それは本来なら、とてつもない快感……下克上のような優越感を感じて当然であるのに、期待したほどにそんな感動を得ることは出来なかった。
寧ろ、心が曇っていく気がする。払っても払っても、空しいほどに掻き消えてくれない薄黒い靄が、ジュリーの胸のあたりを包んでいた。
(……何だろ、これ……)
触れて確かめようとするかのように、ジュリーは慎ましい胸に掌を乗せてみる。しかし、何一つとして変化など無かった。
ノックの音が響き、エレオノールは思わず振り返る。どうぞ、と、冷静を装った声で告げると、ドアが開くと共に、重厚なブーツの音がした。
「え、ゼナイド……」
姉の名に、ジュリーは思わず振り返る。
先日のパーティでの装いを匂わせることも無い、実に色気のない格好のゼナイドが、無表情でドアを閉めるところだった。
「ど、どうしたの?」
噂の渦中の人物であり、先ほどまでの会話の主人公。その彼女を前に、エレオノールは愛想笑いを浮かべた。
「いや……相談の、礼を言いに来た」
「……お礼?」
「ああ。どうやら、私は本当に恋をしたらしい」
「……誰に?」
「アクセル・ベルトラ」
言い終わらないうちに、エレオノールはゼナイドの両肩を掴んだ。
「あのね、ゼナイド」
「どうした?」
「それは恋じゃないわ」
「先日と、言ってることが真逆では?」
ゼナイドは不思議そうに首を傾げる。
「あれは忘れて。あれは、私の間違い」
「いや、間違いではない。今思えば、あの相談の前に……私は、アクセルに一目惚れしていた」
胸に置いていた掌を拳に変え、ジュリーは唇を固く結ぶ。そうしていないと、この薄黒く不吉な靄が、言葉となって口から溢れ出てしまいそうだった。
「……一目惚れって……」
ぴくりと、エレオノールの左頬が痙攣する。彼女は溜息をつくと、ゼナイドの肩を掴んだまま、諭すように言う。
「あのね……ゼナイド。アクセルは、司祭よ。結婚なんか出来ないのよ?」
「いや、それは違う。在俗司祭のうちに結婚しておけば、離婚の義務は生じない。三百年ほど前にも、実例がある。もし無理だとしても、還俗させればいい」
荒技である。しかしその荒技を、ゼナイドはいとも簡単に行ってしまう。
「アクセルは……私のことが嫌いだそうだ。面と向かってそう言われても、私は嫌いにはならなかった。だから、向こうに惚れさせるしかないだろう」
エレオノールの引きつった顔を前に、彼女は淡々と告げた。
「よりにもよって、“あの場所”ですか……」
マザリーニは羊皮紙を巻き上げ、元通りに封をする。差出人の名前は記されていないが、誰が送りつけたのかは明白だった。
「思い出しますね。“怪人フーケ”の誕生を」
マザリーニの言葉に、アクセルは何も返さない。
少年の露わになった肌には、珠の雫が滲み出ていた。それがつるつると肌の上を滑り、やがてズボンへと染み込んでいく。
手首と足首、そして肩のリングは、装飾具ではない。ランダムで重量化の魔法『ヘヴィネス』と軽量化の魔法『ライトネス』を組み替える、拘束具だった。身体にかかる負荷自体が、作成した本人にも予想できないタイミングで極端に変化し、その変化の中で姿勢を保たねばならない。既に、二時間が経過していた。
「……グラモン伯に全てを打ち明ける、という方法もあります」
無言のままのアクセルに、彼はそう提案してみる。
「ダメでしょう。実の父親が止めたところで、ゼナイドは止まりません」
喋ったと思えば、一刀両断するような否定の言葉だった。
「ゼナイドは、僕が自分と似ていると言いました。もし逆の立場なら、僕は決して、フーケに手心は加えません。雁字搦めにして、忠実な番犬……奴隷にするでしょう」
「…………」
「ゼナイドを叩きのめします。もう、二度と関わりたくないと思わせるくらいに。徹底的に叩きのめして……あとは、相手が僕より諦めが良いことを祈ります」
どんな政治的方法を用いたとしても、ゼナイドは諦めない。
それでもたった一つ、針の糸穴ほどに小さいものではあるが、諦めさせる方法は勝利することだ。圧倒的に勝利し、例えこの先、何百何千と争ったとしても、勝てる筈がない……それほどの印象を与えなければならない。怪人フーケは、自分などが扱いきれる代物ではないと。制御不能の怪物だと。
グラモン伯に話を通す、その方法を否定したアクセルだが、一定の有効性は認めている。それでも反対したのは、この問題をこれ以上大きくさせない為だった。
ゼナイドの狙いは、怪人フーケをグラモンの私軍『飛虎軍』に引き入れること。だとすれば、まだギリギリで、貴族の子どもの争いで済む。
マザリーニは更に深く椅子に腰掛けると、傍らのハーブティーのカップを持ち上げた。
「……ミスタ・コラスの正体は、元徴税官のアキャール。そして、彼の阿片の隠し場所は……」
「…………」
「盲点でした。一年前のあの事件以来、あそこは幽霊屋敷となっていた筈ですから」
「ええ。てっきり、水路を利用して運搬していると思い込んでいました」
ガチャン、と錠が外れる音と共に、アクセルの足下に半分に割れたリングが落下する。未使用時の重量は、せいぜい本くらいのものだろう。
アクセルは天を仰いで深呼吸すると、椅子の背もたれからタオルを引き取り、頭に被った。
「……因縁を感じますよ、僕は。ゼナイドは知らないでしょうが、怪人フーケが生まれた場所を指定してくるなんて」
汗を拭い、シャツに袖を通す。
「勝ちます。それ以外にありません」
マザリーニは頬杖をつき、ちらりと、アクセルの横顔を見上げた。
“悪逆のサンディ”を作り出したのは、あくまで国王に対する牽制であり、それ以外の動機はない。
アクセルが隠密としての仕事を申し出てきた時も、断った。確かに、トリステイン王国での人脈に乏しいマザリーニにとって、彼のような得難い切り札は魅力的である。
だが、それを受け入れるわけにはいかなかった。彼は未だ、年若い少年なのだ。友人と遊び、恋愛に現を抜かし、たくさんの幸福を享受すべきなのだ。誰からも理解されず、誰からも祝福されない、裏通りの闇の住人になるには恵まれすぎていた。
そう思いながら、結局は一年前の“あの事件”にて、マザリーニは自らの禁を破ってしまった。彼が望んだこととはいえ、決して受け入れるべきでは無かったというのに。
確かに、アクセルは有能である。彼のような人材など、二人といない。
だがマザリーニは、それに執着するつもりは無かった。ゼナイドがアクセルを欲しているのならば、自分との関係を断ち切らせ、彼を『飛虎軍』に入れても構わないと考えていた。彼女ならば、少なくとも自分などよりは、アクセルに真っ当な道を歩かせてやることが出来るだろうと。
アクセルは、ひょっとしたら自らの中に潜む、本当の気持ちに気付いていないのではないか。いや、無意識のうちに気付いているからこそ、それを敢えて潜ませているのかも知れない。
後手に回ることを嫌うアクセルが、素直にゼナイドの申し出を受けた……それが、マザリーニには意外だった。少なくとも真正面から、まともに相手をすることなど無いと考えていたのだ。
「……少しお聞きしたいのですが、貴方はゼナイド・ド・グラモンをどう思っているのです?」
「え? 大嫌いですけど?」
尋ねてみれば、即座にそんな答えが返ってきた。
その大嫌いな相手の提案に、アクセルは易々と乗ってしまった。大嫌いだからこそ、真正面から叩き潰す……彼が反論するとすれば、そのような言葉を使うだろう。
しかし、一つだけ言えることは、アクセルはゼナイドを信用しているということだ。
指定された場所へ行けば、『飛虎軍』の全軍が待ち構えているかも知れない。アクセルが到底脱し得ない、何重もの罠が張り巡らされているかも知れない。そうでなくても、王国軍が手ぐすね引いて待っているかも知れない。
どう考えても、ノコノコと出て行くのは愚行なのだ。
(それでも行くのはつまり……“信用”があるから、か)
この期に及んで、アクセルがゼナイドの口を封じようとしないのは、政治的な理由だけでは無い。恐らく最も大きな理由は、ゼナイドに対する信用だろう。彼女は怪人フーケの正体を他言していないという、物理的にも状況的にも乏しい確信。
(そして、ゼナイドも、彼を信用している)
マザリーニは、二人の間の、一種の信頼関係を発見した。もっとも、それをアクセルに指摘したところで、彼は絶対に認めようとはしないのだろうが。
コンコンッ
聞き慣れたノックの音に、マザリーニは振り返りつつ入室を許可した。
「失礼します、ご主人様」
このメイドも、随分と長く仕えてくれている。仕え始めたのが、確かアクセルと初めて出会った頃だったので、既に数年は経ていた。
「どうかされましたか?」
「はい。アクセル様に……」
「僕にですか?」
アクセルはタオルを肩に掛け、メイドの元へ向かう。彼女が差し出す手紙を受け取ろうとした時、ピタリと彼は停止すると、そっと上目遣いに見上げた。
「あの、間違っていたら申し訳ないんですけど」
「なんでしょう?」
「何か、不愉快なことでもありました?」
「ありましたけど?」
あっさりと答えて見せたメイドは、笑顔ではあるがやはり冷たいものを潜ませている。その冷たさを敏感に感じ取ったアクセルだが、取りあえず手元の手紙を開封し、目を通した。
「……うぇっ!?」
「どうされました?」
奇声に驚き、マザリーニは腰を浮かす。アクセルは呆然と立ち尽くし、手紙に記されていたたった一文を、何度も確認した。
「ど……どうしましょう。王立図書館へ、今後は立ち入り禁止って……」
「何かしたのですか?」
「してませんよ! 決まりは全て守ってますし、返却が遅れたこともありません。……ああ、すごいショックです。ある意味、ゼナイドの一件に匹敵するくらい……」
余人ならいざ知らず、アクセルにとっては大きな損害だった。世界最高峰の蔵書量を誇る王立図書館は、彼のような研究者にとって、最高の書斎でもある。
「……呼び捨てですか?」
「え?」
相変わらず冷たい声のメイドに、アクセルは思わず顔を引きつらせる。
「私のようなメイドにすら敬称を付けるアクセル様が、女性を呼び捨てにするなんて……初めてです」
「え……いや、それは……」
こんな顔をする人だっただろうかと、アクセルは慌てた。不良が捨て猫を拾うのとは逆の理論で、自分が女性を呼び捨てにすれば、相当の悪印象を与えてしまうらしい。
「と、とりあえず、リーヴルさんに会ってきます。理由を聞き出して、早く許して貰わないと……!」
結局、逃げるように部屋を飛び出すことしか出来なかった。メイドの脇を擦り抜け、ドアを急いで閉めると、慌ただしく階段を駆け下りていく。
彼が去った後、マザリーニは溜息をつくと、未だ表情を変えないメイドを呼んだ。
「くれぐれも言っておきますが、他の客人にあのような態度は取らないように」
「勿論です。アクセル様だからこそ、です」
「……それはそれで、彼が憐れですが……」
付き合いが長いとはいえ、本来はあのような態度を貴族に取れば、鞭を振るわれても文句を言えない。そう脅しをかけたつもりだったのだが、どうやら彼女はこの数年で、少し図太くなってしまったようだ。
「……あまり、彼を軽蔑しないように」
「軽蔑ですか?」
心底意外だという顔で振り向かれ、マザリーニも首を傾げた。
「……司祭の癖に、易々と唇を奪われる隙があったことですが?」
「もしかして、私がそれで軽蔑していると?」
「違うのですか? リーヴル殿も恐らく、同様に……」
「大外れです」
馬鹿馬鹿しくなったように、メイドは首を振る。
「……アクセル様も折角敏感なんですから、あとは……あのネガティブさと自信の無さが改善されれば……」
「? ネガティブはともかく、彼は寧ろ自信過剰なところがあるのでは?」
「失礼ですが、ご主人様。私が言いたいのは、それとは方向違いです」
「そうなのですか?」
「そうなのですよ」
ゼナイドが愛用の長剣『牙(クロ)』を持ち出しているのを見て、ジュリーは息を呑んだ。全長はゼナイドの身長に近く、柄を肩から出せば、鞘の先は膝裏にまで届く。
何度も敵を切り裂いてきた剣だが、その中に人間が含まれることは無かった。それによって命を散らすのは、いつも人間以上であり、人間以外の存在だった。
今、ゼナイドは、その刃を初めて人間相手に使おうとしている。
彼女は両手で剣を握り締めると、高々と掲げ、そして切っ先が地面に触れる寸前まで振り下ろす。ただそれだけの動作にも関わらず、そこには一種の恐怖があった。その軌道を阻めば、何もかもが殺されてしまうような……。
「本当にっ……」
恐怖をはね除けようとすべく、ジュリーは少し声を大きくした。
「本当に、怪人フーケが来るの?」
「……ああ」
短く答え、ゼナイドは今度は横凪に振り払う。燭台の蝋燭の灯火が切り離され、宙を舞った。それは瞬く星のように舞い上がると、ひらひらと舞い降り、再び蝋燭に命を点す。
衛士隊ですら捉えられない怪人フーケの動きを、姉がどうやって知ったのか。それをジュリーが想像することは不可能だったが、ただ一つ彼女が知っていることは、この姉が口にした場合、既に全ての仕掛けが済んでいるということだった。
「通報はしていない。……我々が、三人で捕らえる」
「……三人?」
首を傾げるジュリーが、その意味に思い至った時、甲高い音が響く。鉈で樹木の枝を打ち落としたようなそれは、少し離れた場所にある、実物大の木人形からだった。短槍が、その頭を貫通している。
また、暗闇から槍が飛び、今度はその胸を貫く。夜の世界にまた、あの音が響き渡った。
「“鉄人”のゼナイド、“長足”のレティシア、“大轟”のジュリー」
グラモン家の三人の名を呟き、ゼナイドは刃を振るう。
「三人で、“怪人フーケ”を打ち倒す」
ザンッ、と音を立て、彼女は長剣を地面に突き立てた。
三対一である。が、決して容易ではないと……ゼナイドは確信していた。
長剣と、自分。ちょうどこのくらいの距離が、アクセルの……怪人フーケの間合いである。
素手での戦闘ならば、フーケに分があった。どのような逸脱した鍛練を積んだのかは想像も出来ないが、あの拳の強靱さは脅威である。打撃だけではなく、組み手……それも、自分にとって未知の技術に長けている。殴られるか、蹴られるか、投げられるか。この間合いならば、自分は圧倒的に不利だ。
(……しかし……)
アクセルは、ゼナイドを嫌いだと言い、拒絶した。
確かにこの間合いに近寄らなければ、早々敗北することは無い。しかしそれは、見方によっては自分が突き放されることになる。つまり、アクセルの拒絶を受け入れてしまっていることになる。
ゼナイドは一歩を踏みだし、更に長剣に近づいた。吐息を受け、剣の柄が僅かに曇る。
(この距離か……)
拒絶のために、フーケは突き放そうとしてくるだろう。それがフーケの望みならば、退がるわけにはいかない。フーケを手に入れるためには、フーケの間合いより更に内側へと踏み込まなければならない。フーケをこの腕に掻き抱くためにも。
ゼナイドは右手を伸ばし、『牙(クロ)』の柄を握り締める。
「……場所は?」
背後のジュリーが、震えを押し隠して尋ねてきた。
ゼナイドは夜空を見上げ、静かに呼吸を繰り返す。冷たい空気が肺を満たし、自らの猛りを鎮めてくれるかのようだった。
「幽霊屋敷。かつて大公だった“失墜のユニコーン”……エスターシュ邸だ」