小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第2章 朱き夏の章

第8話<雌雄一対>






 グラモン伯爵家の現当主であるナルシスの機嫌は、殊の外良好である。毎朝丁寧に櫛を通す金色の頭髪は、流石に年齢のせいで白いものも混じってはいるが、若い頃と同様、絹のように輝いている。老いて尚盛んな精を、薄鋼のような身体の内側に隠し、そのスカイブルーの瞳には妖しい光が眠っていた。

「ふはははは」

 革張りのソファに深く身体を預け、少年のように笑う元帥の前で、若草色の髪をした壮年の男は、困ったような笑顔を浮かべていた。

「その……今回の一件は、何と言いますか……」

 ラヴィス子爵はナルシスの機嫌の良さに安堵しつつも、困惑している。今回の一件というのは、事件と言うよりは珍事なのだ。
 クリストファー、と、ナルシスはラヴィス子爵の名を口にする。

「いやいや。よくやった、流石はグラモン家の娘だ。と、喜ぶべきことなのだよ。私にとっては」

 ゼナイドがアクセルの唇を奪った、例の一件である。
 男っ気どころか色気すら見えなかった長女・ゼナイドであるが故に、ナルシスにとっても驚きで、その驚きが喜びに下駄を履かせている。
 グラモン伯爵家は、由緒正しいトリステイン王国の貴族でありながら、その気質はどちらかと言えばゲルマニアに近い。武門であるが故か、命の儚さに於いての見方は、他のどの貴族よりも現実的だった。だからこそ、生を楽しみ、それにおける諸々のことを楽しむ。グラモン家にとって人生とは、生きるものではなく生き抜くものなのだ。
 一族に於いてゼナイドは、異質な人間と言える。名誉に興味を示さず、淡々と、冷徹に物事を進める。装飾や寄り道、無駄や遊びといったものが無い。元々がそんな人間であり、それを変えられぬと周囲が……特に父であるナルシスが感じ取った為、その性質に更に拍車がかかった。

「……さて、と」

 笑い声を納め、ナルシスはワイングラスをテーブルに戻す。

「無理か?」

 そして一言、ラヴィス子爵に対してそれだけを尋ねた。

「さぁ……どうなのでしょうか」

 子爵は相変わらず苦笑いを浮かべたまま、言葉を濁す。

 司祭であるアクセルは、勿論のこと結婚など出来ない。その彼を結婚させるならば、まず先に還俗させるしかない。
 ナルシスはラヴィス子爵にも内密で、アクセルの情報を集めさせている。未だ十四の若干ながら、その社交性は文字通り、大人顔負けだった。
 魔法の腕はラインクラス。よくある早熟型らしく、より上の成長は期待できないが、それでも十分に及第点だ。アクセルを評価するとすれば、寧ろそれ以外の面にある。
 口が堅く、受けた恩は必ず返す。しかし融通が効かないということは無く、密かに金を貸し出したり、表に出せない問題の解決を手伝ったりもする。聖職者でありながら下世話に通じ、一を聞かされれば十を心得るかのように、敢えて説明を求めない気遣いが出来る。酒に強く剣の腕が立ち、音楽や詩などの芸術に通じ、出来過ぎなほどに教養がある。かと思えば砕けた性根の持ち主で、他家の使用人やメイドにまで評判がいい。
 何より、父クリストファー、母オデットという、美男美女の容姿を受け継いでいる。
 そう、些か出来過ぎだ。貴族社会に必要なあらゆる要素を詰め込んだ、理想的な人間だった。

「……欲しいなぁ」

 子どものように、グラモン伯は呟く。既にアクセルは、自ら進んで弟に嫡子の座を譲っており、還俗さえさせれば、婿に迎えるのに何一つ問題など無い。ゼナイドに足りない部分を補って余りあるアクセルは、グラモン伯にとって是非とも迎え入れたい人間なのだ。

「およしになった方が宜しいかと」

 忠告のようにそう言ったラヴィス子爵の顔には、未だ苦笑いが貼り付いたままだが、その裏に何かが隠されていることは感じ取れる。
 グラモン家の長女・ゼナイドとの婚姻は、弱小貴族にとっては有頂天に届きそうなほどの幸運であるが、それは普通の貴族の場合である。家系の特性故、それを素直に喜ばないことはグラモン伯にも理解出来るが、ラヴィス子爵の貼り付けられた表情の裏には、また別の要因が存在した。

「アクセルは、怪物です」

 実の息子に使用する名詞ではない。だが、グラモン伯は眉一つ動かすことはなかった。

「それを言うなら、ゼナイドもまた怪物だ。私の首飾りが欲しいからと言って、わざわざオークを殺しに行った程だぞ」
「違うのです」

 首を振るラヴィス子爵の顔から、漸く苦笑いが剥がれ落ちる。

「違う……とは?」
「ゼナイド様は、まだ私にも理解出来ます。家族のために、グラモン伯爵家のために。しかしアクセルは、実の父にすら理解出来ない存在なのです」

 五年前……ラヴィス子爵は、アクセルと対峙した。
 原因は、アクセルによる領地の改造である。変えてはならぬものを変え、全てを己一人の手中に収めようとした。
 結果的にはラヴィス子爵の勝利で終わったとはいえ、一歩間違えれば、アクセルは実の父親を殺害しただろう。
 確かに、肝は冷えた。実の父親と平民のヤクザ者……その選択で、躊躇った様子もなく、血の繋がらない平民を選んだ実の息子に。

(……違う)

 ラヴィス子爵は否定する。
 確かに、肝は冷えた。だが、それだけだ。たったのそれだけ。
 あの時のことは、まだ理解できない範囲では無い。理解が及ぶのだから、怪物とは呼べない。

 アクセル・ベルトランが怪物となったのは、あの後だ。

「アクセルは……」

 そう名付けたのは、ラヴィス子爵。
 しかし現在、その名を持つ息子は、その名を与えた父の範疇にいない。
 それは最早、ただ一個の怪物の名前だ。

「……破滅の怪物です」

 子爵が結論を言い終える頃、ナルシスは顎に指を添え、部屋の窓から双月を見上げていた。常にそこにある月は、勿論昨日今日で変わりはしない。しかし昨夜と違って見えるのは、それを見る人間に理由がある。

「……もしも……」

 双月を見上げたまま、彼は呟く。

「もしも、ゼナイドとアクセルがぶつかれば……どうなるのだろうな」
「…………それは、二人が戦えば、ということでしょうか?」
「それもある。しかし、それだけではない。ぶつかれば、だ。怪物同士なら、決着はつかない。例えどちらかが命を落とそうが、それは決着などではない。だがもし、アクセルが怪物で、ゼナイドが怪物ではないのなら、勝つのは……」

 ぎゅるり、と、二つの月が蠢いたような気がした。

「より、自己というモノを……エゴを、貫いた方だろうな」








 エスターシュ大公の事件は、三、四十年前にまで遡る。
 当時“英雄王”と称えられたトリステイン国王、フィリップ三世は、獣王の如き体躯の偉丈夫で、軍人や民衆からの人気も高かったが、治世に優れてはいなかった。それを自覚していた王は、エスターシュ大公を宰相と位置づけ、彼の政治能力を大いに頼った。
 しかし、彼……エスターシュ大公は確かに有能ではあったが、善良ではなかった。年齢は三十を過ぎたばかり、野心に溢れていた。その辣腕はあらゆる方面にて遺憾なく振るわれ、衰退しかかっていたトリステイン王国に再びの繁栄を取り戻させたが、その後その辣腕は、国内での専制を確立させるという野望にて発揮される。それこそが、己の功績に対する正当な報酬であると考えていた。
 しかしその野望も、当時未だ新米だった烈風カリンを初めとする魔法衛士隊の活躍によって潰え、エスターシュ大公は莫大な財産の殆どを剥奪され、またその身柄も、小さく削られた自領へと永久に軟禁される。死罪は免れたが、誰を訪ねることも出来ず、また誰かから訪ねられることも無く、有り余るほどの余生の中、屋根裏のネズミのように息を殺して過ごさねばならなかった。
 そして一年前、エスターシュ大公の病死が報告され、同時期に謎の火災の噂が出た後も、屋敷に近づく者はいない。金目のものなど残っている筈も無く、また屋敷にかけられた呪いの噂もあり、野盗や乞食といえど立ち寄ることはなかった。

「…………」

 朽ちかけた土壁に、片方だけしかない鉄柵の門扉。流石に大公の実家だけあり、広大な敷地を持つ邸宅だが、それがかえって一層の寂寥感をもたらす。
 愛剣『牙(クロ)』を背負うゼナイドは、その屋敷の重厚な扉の前、石段の上に、まるで番犬のように立っていた。両腕を組み、視線は百メイルほど前方の、敷地の内外を分ける門扉へと向けられている。敷地の彼方此方に篝火が焚かれ、夜の闇を焼いていた。
 びゅう、と風が吹き、火の粉が妖精のように舞い上がり、消える。
 ゼナイドの出で立ちは、決戦のそれである。頭に鉢金を巻き、手足には鋼鉄の防具。軽装に見える胴体には、鎖帷子を着ている。防具の内側や腰にナイフを仕込み、また拳銃を隠し持っていた。杖は既に右手にある。トン、と、その杖で肩を叩いた時、目的の人間が姿を見せた。
 百メイル先……もはや本来の役割を果たしていない門扉の前に、黒い人影が見える。

(……来たか)

 『遠視』の魔法を用い、更によく姿を確認する。いつかの夜と同じく、黒装束を纏い仮面で表情を隠した“怪人フーケ”が、文字通り影のように佇んでいた。

「…………」
「…………」

 距離にして、百メイル。『遠視』の魔法を使っているとはいえ、流石にそこまで判別出来る筈が無いのだが、視線の重なりをゼナイドは感じていた。自分は今、彼と通じ合っているのだと。

 しかし、フーケはふらりと身体を倒すように、横へと歩く。その姿は、土壁の向こうへと隠れた。

「……!?」

 まるで、幻か何かのように。

「待て……」

 届く筈も無いのに、ゼナイドは呟く。まるで彼が、夜の闇に融けて消え去り、永久に会えなくなるような気がして。

「っ!」

 次の瞬間、真横から何かが飛んでくる。咄嗟に両腕を交差させ、ゼナイドはそれを防いだ。
 門扉からではなく土壁を乗り越え、気配を隠して一直線に駆けてきたフーケの右足が、その交差点に叩き付けられる。フーケは舌打ちして跳び下がると、その場で拳を構えた。
 ゼナイドは腕を静かに下ろし、肩から飛び出ている柄に手を掛ける。安堵からか、期待からか……胸が高鳴り、大声で叫んで手足を振り回したくなった。

「…………?」

 ふと、フーケの握られた拳が、ナイフを包んでいるのに気付く。素手での戦闘を得意としている筈だが、今回はどうやら勝手が違うようだ。
 ゼナイドはゆっくりと腕を動かし、悠々と背中の『牙(クロ)』を引き抜いて見せた。ぶんっ、と一度振り回し、そしてフーケの背を向けると、彼の足下を狙い薙ぎ払う。当然のようにフーケは跳躍して避けるが、ゼナイドの手からあっさりと長剣が零れた。
 彼女は空振りの勢いを利用して二回転目に入り、一歩距離を詰めると、後ろ蹴りを放つ。フーケは片手で蹴りを受けつつ、もう片方……ナイフをゼナイドへと向けた。ナイフから『マジックアロー』が放たれようとするが、ゼナイドはその切っ先を杖で逸らす。

「…………??」

 違和感は、明らかだった。
 距離を取って着地したフーケ。ゼナイドは地面に転がる長剣を蹴り上げ、握り締めると、上段から振り下ろす。フーケは顔面を狙ってナイフを投げつけるが、彼女は首を捻って避けると、素手となった相手に向かって刃を振り下ろした。

「貴様は誰だ?」

 ザンッ

 為す術もなく……そんな形容が、これ以上無いほどに当てはまる。左肩へ食い込んだ刃は、そのまま左腋へと通過した。左腕を切り離されたフーケの身体が、その場へと崩壊する。
 ゼナイドに避けられたナイフが、屋敷の窓ガラスを突き破った。

「貴様は……誰だ?」

 再び尋ねつつ、ゼナイドは傍らにしゃがみ込む。切断面からの出血は、殆ど無かった。

 違和感が大きすぎた。動きの精度や練度、全てに違和感を感じ取れた。
 フーケにしては、遅すぎる。フーケにしては弱すぎる。フーケにしては鈍すぎる。
 彼女は無造作に腕を伸ばし、仮面を剥ぎ取る。

「……!」

 見覚えのある青白い顔が、濁った瞳で夜空を見上げていた。

「どういうことだ……」

 ミスタ・コラス……いや、元徴税官のアキャール。フーケを呼び出す囮として利用し、そしてフーケに持ち去られた首が、そこにあった。恐らく身体は、誰か別人のものなのだろう。首筋をぐるりと一周する形で、縫い目が走っていた。
 何故、こんなものが動き、自分を攻撃してきたのだろうか。
 それを考えるより早く、ゼナイドは杖を向けた。

「『アースハンド』!」

 地面から伸びた手が黒装束の襟を掴み、そのまま蛇のように上空へと向かう。彼女は地面にしゃがみ込み、マントで身体を覆った。
 次の瞬間、十メイルほど上昇した死体が爆ぜる。仮面を取れば、発火装置が動くように細工してあったのだろう。仕込まれた火薬が爆発し、死体を細切れに吹き飛ばした。

「…………」

 肉片がへばり付いたマントを脱ぎ捨て、ゼナイドは立ち上がる。爆発によるダメージは無い。
 怪人フーケからの、メッセージとも言えた。
 死体を弄り、死体を動かす術を持ち、死体を道具のように扱う。そこに、死者への敬意など存在しない。
 そんな事を行える種類の人間なのだという、自己紹介。

「諦めると……思うのか。この程度で。この程度の闇を飲み込めぬと……」

 長剣を改めて背中に納め、呟くと、ゼナイドは走り出す。石段を飛び越え、扉を蹴破ると、薄暗い内部へと怒鳴った。

「レディ! ジュリー! フーケは、既に侵入している!」

 ゼナイド達がこの邸宅へ来たのは、早朝。しかしフーケは、アクセルは、少なくともそれより前から忍び込み、息を殺して隠れていたのだろう。

(私としたことが……)

 その程度の奇策は、予想できて当然だった。予想できなかったのは、平常の自分ではなかったから。

 再び、二人の妹の名を叫ぶ。返事は無い。代わりに、奥の方から何かが割れる音が聞こえた。
 玄関を走り抜け、がらんとした食堂へと突っ込む。そこで三度、名前を呼ぼうとした時、応接室の扉が倒れた。

「くっ……」

 ジュリーだった。倒れた扉の上を転がり、何とか立ち上がると、ショートソードを構える。
 その隣に、ゼナイドが並んだ。

「! 姉さん……」
「いたんだな?」
「ええ」

 ちらりと、ジュリーの表情を確認する。遭遇して間もないだろうが、彼女も、フーケの恐ろしさを感じ取ったのだろう。刃を握り締め、額には冷や汗が浮き出ている。
 足音が無い。気配も乏しい。扉の無くなった穴から、黒装束に身を包む仮面の何かが、陰からわき出た幽霊のように現れる。
 予め屋敷中に設置しておいたマジックライトが、その仮面を明らかにした。

「怪人フーケだな!?」

 怯えを押し隠そうとするかのように、ジュリーが叫ぶ。

「……そウだ」

 仮面の下から聞こえてきたのは、人の声ではなかった。猫の舌のようにざらついた、嵐の狭間の音。

「……!」

 斬りかかろうとしたジュリーを、静かにゼナイドが抑える。

「怪人フーケ。何故顔を隠す?」
「…………」
「怪人フーケ。何故声を偽る?」
「…………」

 いつかの、再現のようだった。
 呆れと苛つきを心の内側に折り込み、アクセルは一歩を踏み出す。

「レティ」
「……?」

 ふと、ゼナイドが言う。単語の意味は分からない。分からないまま、アクセルは更に一歩を踏み出す。

「……やれ」

 聞き逃したわけではない。確かに、遙か後方で、何かを打擲するような音がした。その音の正体を推理しようとした時、同じ音が、今度はぐっと近くで鳴った。
 刹那、アクセルはゼナイドとジュリーに背を向けた。それと同時に、短く何かを呟く。ゼナイドとジュリーがそれぞれ左右に飛び退き、その二人の間を、アクセルの身体がスリングショットのように抜けていった。

「ッ……!?」

 腕を交差させた姿勢のまま、その身体は食堂の壁に叩き付けられる。
 例えるなら、バリスタの直撃を受けたかのような衝撃。それを行った者は、先ほどまで自分が立っていた場所にいる。

(……レティ……レティシアか……)

 ゼナイドの呟きの意味と、彼女の二つ名の意味が同時に理解できた。
 火のように真っ赤な頭髪は短く切り揃えられているが、後頭部に一房、尻尾のように伸びている。身長は、ゼナイドより少し低いくらいだが、十分に長身と言えた。しかしそれ以上に目を引くのは、軽装の鎧から伸びる、足。草原を駆ける四足獣を思わせるその足は、削り出された水晶のようであり、しなやかに疾る鞭のようであり、また大鎌のようでもあった。
 槍の石突きでの、渾身の刺突を保った姿は、白煙を吐き出す旋条銃を連想させる。

(確かに、“長足”。……まずいな)

 恐ろしい速度だった。二つ名はまた、どんなに距離が離れていようが瞬時に詰める、その速さをも意味している。さながら縮地だった。

 レティシアは腰を上げ、槍を引くと、空いた手の人差し指とその視線で、未だ壁に張り付いているアクセルを突き刺した。

「貴様が、“怪人フーケ”だな!?」

 鈴のように凛とした声だった。その声色が、彼女の槍のような真っ直ぐの気性を表している。

「顔を隠して人殺しなど、外道のすることだぞ!」
「……ヒヒヒ……そリゃア、外道デスからネ……」

 茶化すように笑うアクセルだが、彼が内心で察知した、イヤな予感は正解だろう。このレティシアもまた、ゼナイドとは違う意味で厄介だ。技量的には勿論、人間としての相性という意味でも。

「その不遜な物言い……益々もって気に食わん!」
「アンタの時代劇みタイな物言いモ、なカなかなモンデスがネぇ」

 壁に背を預けたまま、アクセルは腕を組んだ。レティシアが正面から槍の穂先を向け、右にはショートソードを構えるジュリー。左には、腰に差していた細剣を抜き払ったゼナイド。

「“三人一殺”……必殺の構えデスか。こリゃ、本当ニ必殺さレテしまイソうでスねェ」

 野晒しの髑髏が風に吹かれるかのような、不気味な笑い声。人間の言葉でありながら、それは生きた人間の声では無い。
 もしかしたら、あの仮面の下は、かちゃかちゃと鳴る白い骸骨なのではないか……自然と脳裏を過ぎるその想像に、ジュリーは震えそうになった手に更に力を込めた。

(落ち着け……)

 自らに言い聞かせると共に、理由を思い起こす。こうして、怪人フーケに刃を向ける理由を。
 この男は、怪盗フーケの物語を汚したのだ。

「レティ、ジュリー」

 怒りに流されるままのジュリーが、一歩を踏み出そうとした時、ゼナイドが口を開く。

「手足の二、三本を潰しても構わない。こいつを、戦闘不能にしろ」

 先ほどのレティシアの突きが、もしも石突きではなく穂先で行われていれば、勝負は決していただろう。
 殺せ、とは、ゼナイドは言わなかった。

(……成る程。“怪人フーケ”を生け捕れると……そう思っているわけか)

 既に十分に承知している事情でありながら、いざそれを突きつけられた時、アクセルの心に沸々と怒りが湧き出した。
 頭に血が上るが、思考能力が落ちたわけではない。自己暗示に似た、テンションの上げ方。

「さア……」

 アクセルは呟いた。

「遊ぼウゼ」

 次の瞬間、アクセルの身体が壁にめり込み、そして通り抜ける。

「え!?」

 思わず声を上げたのは、ジュリー。だがすぐに彼女も、二人の姉と同様、何が起きたのかを理解する。
 壁に、ちょうど一人分ほどの穴が空いていた。『錬金』の魔法で壁を崩し、向こうの廊下へと抜け出たのだろう。

「逃げられっ」
「待て」

 止めたゼナイドを、信じられないというようにジュリーが睨む。

「逃げたわっ」
「それはない。誘いだ」
「……何でわかるの?」
「私と同類だからだ」
「はぁ?」

 呆れたジュリーに構わず、ゼナイドはその場に跪き、床に手を当てる。土メイジの特性として、地面や床の厚みを感じ取れることが挙げられるが、同様に、床を伝わる振動も感知できる。

「……早速、失敗だったな」

 建物を介して伝わってくる歩幅、速度。ゼナイドは首を振った。

「どうやらヤツは……怪人フーケは、この屋敷を知り尽くしている」
「どういうこと? エスターシュの身内ってこと?」
「それは分からない。だが、今日一日調べただけの私達の方が、少々不利かもな」
「有り得ません!」

 眉間に皺を寄せて怒鳴ったのは、レティシア。

「こちらは三人、姉様もおられます! 勿論油断するつもりはありませんが、小官たちが有利なのは事実です! その第一の理由は、姉様がいらっしゃる事! 第二の理由は、三倍の戦力差がある事! 第三の理由は……」

 ジュリーはこっそりと、姉二人に気付かれないような小さな溜息をつく。
 常々思っているのだ。先ほど怪人フーケにも馬鹿にされたが、この下の姉の、勿体ぶった芝居がかった言葉遣い。どうにか改善されないものかと。
 相変わらず怒鳴るような声で話すレティシアを、ゼナイドはそっと掌で制した。

「レティ。一つ聞きたい。石突きとはいえ、ヤツはお前の渾身の突撃を喰らった筈だ」
「…………」

 途端に、彼女の表情が曇る。視線で説明を促す姉に、レティシアは先ほどとは打ってかわって、そっと、囁くように言った。

「……特に、防具などを装備していた形跡はありません。あの黒装束の下は、生身だった筈です。しかし、骨は勿論、肉が驚異的に硬くて……」
「魔法か?」
「わかりません。いくら鍛えても限界がある筈ですし……。考えられるのは『硬化』の魔法ですが、しかしそれを自分自身にかけるなど……」
「……有り得るかも知れんな」
「そん……な……」
「それ程の敵だと思え。ヤツは怪物……?」

 ふと、違和感に気付く。戦闘状態であるのに、ふらりと、ジュリーがたたらを踏んだ。レティシアも、何かを追い払うように首を振っている。

「! 『ウィンド』っ」

 即座にゼナイドは杖を振って風を起こし、周囲に漂う眠りの霧を散らした。
 目視できないほどに弱い『スリープクラウド』を重ね、ゆるやかに眠らせる繊細な技術。時間さえかければ、クラスが上だろうと耐えられない。

「……そうだったな」

 アクセルは逃げはしない。彼は、こちらを敗北させるために来ているのだ。

「レティ、ジュリー! 回復次第、私を追え!」

 未だ完全に眠気が抜けきっていない二人に言い捨て、ゼナイドは霧の源を追う。いや、足の裏から感じるアクセルの振動を。
 廊下を抜け、玄関から二階へと駆け上がる。寝室のドアを蹴破ると、目的の相手がいた。

「…………」

 黒装束のアクセルが、一度手招く。そして静かに、両の拳を構える。

「いくぞっ」

 思わず、ゼナイドは叫ぶ。待ちきれなかった。鼓動が高鳴り、体中を巡る血液が一斉に熱を帯びる。アクセルもまた、こちらへ一歩を踏み出した。

「!?」

 しかしその振動は、前方からではない。横から伝わった。

「鏡かっ」

 初歩的な罠であるが故に、自身でも呆れるほどあっさりと引っかかってしまう。いや、ここまで来て焦らされるとは思わなかったのだ。姿を現したアクセルに、正攻法だと決めつけてしまった。
 構えた細剣が、側面から来襲したアクセルの蹴りによって弾き飛ばされる。ゼナイドは空になった右手を拳に変え、迎え撃つが、その手首を彼に掴まれる。
 ゼナイドの目の前で、アクセルは右手を振り上げた。

(右手を切り落とす)

 彼がそう決めたのは、先ほど、ゼナイドが二人の妹に言った時だった。手足を潰しても構わない、と。

 殺すわけにはいかない。殺せばグラモン一族が、麾下の“飛虎軍”が、血眼で犯人を捜す。そうなった時、逃げ切れる保証は無い。
 腕の一本でも切り落とせば、負けを認めるだろう。それでも向かって来るなら、片足を切り落とす。
 ゼナイドを傷つけることに於いて、アクセルは自身驚くほど冷静だった。

「『密葉』」

 アクセルの右手がエメラルドグリーンの光に包まれ、それが刃を形作る。
 鋭さは、五年前の比ではない。より薄く、より強靱に。削るようにして研ぎ澄ました。

 躊躇いなく振り下ろされたその刃は、ゼナイドの効き手を切断する筈だった。

「『ブレイド』」

 ジュリンッ

「!?」

 アクセルが驚いたのは、刃が止められたことでは無い。刃が止まった時の、砂利が擦れるような音。

「……言っただろう、“怪人フーケ”」

 ゼナイドが咄嗟に伸ばした左手が、アクセルのマジックブレイドを止めている。
 彼女の左手が、ライトブラウンの光に包まれていた。その光が幅広の刃を形作り、文字通りにアクセルの刃を、刀身の三サントほどで食い止めていた。

「私とお前は、似ていると」

 ゼナイドは左手の『ブレイド』を解除する。アクセルの解除が、一呼吸遅れた。

「そう焦るな。そう急くな」

 彼女の左手が、アクセルの首を掴む。

「がァっ……!」
「夜は長いぞ」

 跳躍するように走り出す。目の前の鏡に、アクセルの身体が叩き付けられた。鏡が粉砕され、周囲に大小の光が舞う。

「っ……!」

 背中の痛みは、大したことは無い。
 アクセルは鏡の破片の一つを手に取り、斬りつけるが、ゼナイドは後方に飛び退がった。

「ごほっ……!」

 仮面の隙間から血が伝う。握力により、喉が潰された。
 口に広がる鉄臭さが、鼻孔から抜ける。

 アクセルの喀血を確認すると、ゼナイドは細剣を蹴り上げ、再び右手に握った。

「さぁ、怪人フーケ……。最高の夜にしよう」


-54-
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