小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第2章 朱き夏の章

第11話<眠らぬ化猫、感じぬ猛虎>






「ふふふ」

 ベッドに寝そべり、枕を支えにして上体を起こしている彼女が、笑った。
 かつては閉月羞花と讃えられた美貌は、随分と様変わりしてしまっているが、それでもその笑顔は、紛うこと無き彼女のものだった。

「……どうしたの?」

 ベッド脇の椅子に腰掛け、慣れた手つきで桃の皮を剥く少年。しかしその顔は、無機質な仮面で覆われている。
 彼女はその枯れ枝のような指先を、ふるふると震わせながら伸ばし、窓の外へ向けた。巨樹の葉が、微かに細波のような音を立てている。

「今、そこの小鳥がね……枝の上で転んだの」

 そんな話は聞いたことが無いし、少年もあり得ないと思った。しかし彼女は、本当だと頑なに繰り返す。
 仮面の少年は早々に折れると、桃を小さく切り分けながら尋ねる。

「それで、転んだ後はどうなったの?」

 彼女は少年に微笑を向けた。

「痛い痛い、って、泣き出したの。でも大丈夫。あの子にも、ちゃんと仲間がいて、また立ち上がれたの」
「…………」
「すぐに駆けつけてくれる仲間もいれば、じっと見守ってくれる仲間もいたわ……。だから大丈夫。何も心配いらないから……」
「……桃が剥けたよ」

 少年は椅子から腰を上げ、白磁の皿に転がる桃を、爪楊枝で持ち上げた。

 開け放たれた窓から、太陽の香りに混じり、微かな花々の薫香が潜り込んでくる。

「あーん」

 小娘のように口を開け、彼女は運ばれてくる桃を待った。果肉は舌で押し潰せるほどに柔らかく、果汁が口を満たし、芳香が鼻孔を抜ける。
 次の桃を運んで貰おうと、彼女はまた口を開けた。そのうち、彼女の手はそっと忍びより、少年の仮面を外す。外された無機質な仮面が、ベッドの上に落ちた。
 少年は、その手を止めようとはしなかった。

「……」

 彼女は無言のまま、少年の目元を指の腹で撫でる。眼底が赤く、充血していた。恐らくこの少年は、また泣いたのだろう。泣き明かしたのだろう。

「綺麗な顔なのに……」

 彼女は相変わらず、その身を蝕む業病など存在しないかのように、笑っていた。
 心配させぬよう、涙の痕跡が見えぬよう、仮面で顔を覆い隠してしまった少年の健気さに、愛おしさを滲ませながら。

「……ん」

 そして彼女は、そっと、少年の唇に自分のそれを重ねる。ほんの一瞬、びくりと身体を震わせた少年は、拒絶も拒否もすることは無く、静かに身を委ねる。
 舌を入れるでもなく、啄むでもない。互いの思いを打ち明け、ようやく相思相愛になれた幼い男女が、それぞれの初めてを捧げ合うかのような、淡く清い純愛に似た口づけだった。
 彼女の口に残る桃の香りが、少年の中にも流れていく。

「……お芝居ではたくさんしたけど……そうじゃないのは、初めてね」

 彼女は再び枕に背を預け、照れたように視線を落とした。

 売女……世間の人々がそう蔑称する、娼婦。彼女もまた、多くの男に春を売り、甘い言葉を交わし合い、その身を欲望の捌け口にしてきた。

「おかしいよね。娼婦の私なんかが……照れちゃうなんて」

 たまらなくなった。少年は思わず、彼女の腰に縋り付くように倒れ込む。そうせずにはいられなかった。
 彼女に涙は見せないという決心は、自分自身呆れるほどに脆く、浅はかだった。

「いかないで……お願いだから……リリーヌ……」

 嗚咽と共に、涙が溢れ出す。彼女はそっと、少年の頭に掌を乗せた。若草色の髪を軽く梳き、愛でる。

「いかないわ、どこにも」

 彼女は何度も、そう言ってくれた。





 ラヴィス子爵領、ゼルナの街。その東地区に君臨する娼館、『イシュタルの館』。娼婦達の纏め役であり、象徴とも言えるリリーヌの死は、静かで大きな衝撃を与えた。

 リリーヌの死によって、アクセルもまた、変貌を遂げた。

 深夜、絶叫が響く。気付いた仲間達がアクセルの自室に駆けつけた時、部屋は荒らされ、家具もベッドも破壊されていた。しかし、襲撃かと緊張が走ったのは、ほんの一瞬のことだった。やがて皆、この惨状は、崩れた家具の上で倒れ伏すように眠る部屋の主、アクセルによるものだと理解した。
 翌朝目覚めたアクセルに、記憶は無い。

 “夜驚症”だった。アクセルの年齢を考えれば、それは決しておかしなことでは無かったが、今まで彼と接してきた仲間達は、彼が晒されている強大なストレスを察した。

 その日から、アクセルの睡眠との戦いが始まる。アクセルは全ての人間を遠ざけ、一人地下に閉じこもった。どんなに身体を使い、どんなに頭を使って体力を消耗させても、いざ眠りに落ち、そして目覚めれば、自らが無意識のうちに振るった暴力の爪痕が、そこかしこに残っている。目覚める前と後で、周囲の光景が同じ時は無かった。
 ただの子どもならば、何も問題は無い。だが、アクセルの暴力は既に、子どもというステージを突破している。近くにいれば、その人間は高い確率で死亡してしまう。

 仲間に手を上げかねない自分が腹立たしく、憎かった。いっそ、四肢を切断してしまおうかとも考えた。絶望の中、命を絶とうと思ったことは、十指に余る。

 死ぬときは、愛する者に囲まれて死にたい……既にその夢の一片は、欠けていた。
 愛する者を得た今、ただ恐ろしかった。そのたった一片の欠点が、完璧だった筈の自分の夢を壊した。完璧ではなくなった夢は、病に冒された果樹のように、ゆるやかに死んでいくのではないか。次の一片が失われ、更にまた、別の一片が死ぬ。そうして、最期には夢を殺された自分だけが残る。

 恐ろしかった。突如、何の前触れもなく現れたあの“黒い獣”は、またある日、忘れた頃に現れるかも知れない。リリーヌを蝕むあの業病に、自分では何一つ手を出せなかった。そうして何一つ出来ないまま、彼女は命を落とすことになった。次に現れれば、また、夢の一片が食い殺されてしまうだろう。

 眠りに落ちて夢に絶望し、起きてまた絶望する。さながら、出口のない迷路をひたすらに彷徨い続けるような日々が続いた。

 夜驚症が収まり、睡眠が極端に深く短い体質となっても、アクセルの苦悩は消えなかった。

 残された時間は少ない。長生きしたくないと言えば嘘になるが、それでも大した問題とは思えなかった。問題は、自分の死後。この短い余生の中、また仲間を喪いたくは無い。そして、自分の死後も、仲間に生きていて欲しいと願った。

(どうせ、死ぬ)

 そんな自分に、何が出来るか。アクセルが出した答えは、“使い切る”ことだった。
 自分の才能も、能力も、全て吐き出し、使い切る。あの世へは、そんなものなど一切持って行かない。一切合切を使い切り、空っぽになってから死ぬ。

 その答えと共に、自分の気持ちも定まった。

 使い尽くして、生き尽くす。考えてみれば、単純なことだった。
 自分の全てを、ナタン達の為に捧げればいい。

 それこそが、アクセルの生きる意味となった。








「お強いんでしょう、ゼナイド様」

 娼婦が自分の前の席に腰掛けたのは、自分を男と勘違いしてのことではないと気付いた。

 娼婦は灰皿に置かれていた葉巻を摘み上げ、唇に挟む。ゼナイドはただ、その様子を横目で眺めていた。
 くたびれた……衣服や布切れに用いるような、そんな表現が似合う娼婦だった。美人ではあるが、既に老人のように疲れ切っている。生きること、それ自体にくたびれた女だった。

「もしも、私に貴女のような力があれば……どうなりましたか?」

 同じ葉巻だというのに、吐き出す人間によっては、ここまで妖艶さを増すということが新鮮だった。
 そのような妖艶さを身につけるような……否、身につけなければならなかったような人生に、女は疲れてしまっていた。
 ゼナイドの鼻孔は、別の、慣れ親しんだ香りを捉える。血と、死の匂い。

「ゼナイド様」

 そう呼びかけた女の唇が、紅を増す。

「私の死を以って、私の願いを叶えて頂けませんか? ……どうか……奴らの……死を……」





 大盗賊団『赤い三叉尾』の頭目、“大鍋”のサシャの、三十三回目の誕生日の夜だった。その盗賊団には、頭目の誕生日の日、年齢の数だけの処女を攫い、頭目に捧げるというイベントがある。どこか異国の地より伝えられた風習で、宗教的な意味合いが強い儀式らしいが、彼等にとってはその思想など、気に留める必要もない問題だった。女衒などから金で買うことは認められず、子分達は目を付けた女を自力で攫い、頭目の元へと届けなければならない。女達は処女でなくなった後、残らず売り飛ばされるが、最も良い女を連れてきた子分には、褒美としてその女が与えられる。手を抜く者はいなかった。

 誕生日当日、団の一番の新入りが連れてきた女には、皆が驚かされた。文字通り、星の数ほどの女を抱いてきたサシャですら、思わず感嘆を漏らした。

 透き通るような白い肌は、触れればひんやりと心地良い。月光によって照らし出されたその曲線は、地上に堕ちた女神とすら言える。

 最も良い女……それが既に決まっていることは、誰の目にも明らかだった。
 サシャは迷うことなく、その女に手を伸ばす。

 真に男を狂わせる女とは、人形のような女だという。人形は自ら動かず、ただされるがまま。しかし、勿論のこと人間である。男は何としても女を高め、その氷のような表情を崩さずにはいられなくなる。
 しかしその女は、どんな人形よりも人形のようだった。他の娘達が怯え、啜り泣く中、始終声一つ上げない。上げる様子も無い。

 最早、サシャの男としてのプライドの問題だった。何でも良かったのだ。快楽の嬌声だろうが、苦痛の呻きだろうが、何としても感じさせなくては気が済まない。

 何度、女の胎内に精を吐き出しただろう……。二十人の女を抱いても戦える彼は、ついに自らの敗北を認めなければならなくなった。

 膝をつき、息を切らせるサシャの目の前で、女はむくりと起き上がる。

 その途端、女を連れてきた新入りは、跪いて命乞いを始める。どうか殺さないでくれと。

「『錬金』」

 女がそう呟いた数秒後、その新入りの胸に、土から作り出されたナイフが突き立つ。
 女の手には、同じく『錬金』の魔法によって作り出された長剣が握られていた。

 彼等は漸く、理解した。
 自分たちは、この安眠をもたらしてくれる我が家の奥深くへと、人食いの虎を招き入れてしまったのだと。
 外敵を寄せ付けぬ筈の要塞は、逃げ場のない屠殺場と化す。体力を使い果たしていたサシャもまた、為す術など無かった。

 サシャが両腕を斬り落とされ、酒樽に背を預ける頃、既に生きている部下はいなかった。
 七十余人を斬り殺した女もまた、無傷というわけではない。しかし女は眉一つ動かさず、太腿を貫く矢を引き抜くと、サシャに目を向けた。
 断頭台で膝をついた時ですら、ここまで明確に、死というものを感じはしなかった。あの時、衛士隊と争ってまでボスである自分を奪還してくれた仲間も部下も、既に息絶えた。

 最早全ては終わった……そのことを悟ったサシャは、最期に呪いの言葉を吐き出す。

「いいかっ、女! お前の処女は、何処の馬の骨とも知れない、薄汚い盗人に奪われた! ざまあ見ろだ!」

 破瓜の血が流れたことから、未通女であったことは明らかだった。

「過去は絶対に変えられない! お前がこの先、誰を愛そうが、誰に抱かれようが、誰と結ばれようが……どう足掻こうとも! この俺が、お前の初めての男だ! よく覚えておけ、俺の顔を! この俺の死に様を!」

 その呪いの言葉を、女は全て受け止め……それでも尚、表情を変えない。
 代わりにたった一言、呟くように告げた。

「……わからない」

 その言葉を聞いた瞬間、サシャの顔は歪み、そして次の刹那には真っ二つに両断された。





 ゼナイドが恐怖したのは、全てが終わった後だった。

 それは、試練だった。己の心を揺さ振る為の。

 痛みを感じなくなったのは、いつからだったか……ともかく彼女は、そのことを単純に優位性とは捉えなかった。痛みは、自らを守る声なのだ。
 そして痛みを知らぬ自分に、他人の痛みなど理解できる筈が無い。
 そのことが、一体、どのような結果をもたらすのか……。

 盗賊による陵辱にも、ゼナイドの心は揺れなかった。その後の殺し合いにも。
 何一つ揺さ振られないことに、彼女は静かに恐怖した。

 あらゆる事が、“この程度”だった。それで済まされてしまう。自分の心は、苦悩も絶望もなく、難なく処理してしまう。
 自分は果たして、人に受け入れられるのか?

 オーク鬼の牙を持ち帰った時、使用人や父親の部下達は、口々に褒め称えた。流石は虎の子だ、流石はグラモンの一族だと。それが誇らしかった。自分が周囲に認められることが、嬉しかった。
 しかし父親だけは、無断外出を怒りもせず、ただゼナイドを見つめていた。
 父親のその視線の中に、自分への危惧や苦悩が含まれていたことに気付いたのは、使用人達の“化け物”という、自分への陰口を耳にした時だった。

 そうだ。誰も、褒め称えてはいなかった。誰も自分を、認めてはいなかった。
 皆はただ、恐れていただけだ。異質なものを。

 強くなる。それしかなかった。

 異国の書物を読み漁り、片手だけで鍬を握り畑を耕すような珍奇な行動も、全ては強くなる為だった。何もない空間で、一人拳を振り回すのも、強さを求めてだった。
 何故なら彼女自身、自分が強いとは思わなかった。強くないからこそ、傷つきたくないからこそ、無意識のうちに心を凍らせ、その心の奥底に蹲る本当の自分へと届かぬよう、遮断したのだ。

 “化け物”は、果たして人間の中で暮らせるのだろうか。人間でない自分が、少しでも人間らしく存在する為には、どうすればいいのか。

 陵辱される気持ちを、ついに彼女は理解できなかった。しかし、もしも妹が自分のような目に遭わされれば……それは絶対にあってはならないことだと感じた。
 弱ければ、負ける。負けるわけにはいかない。自分が殺したオーク鬼のように、全てを奪われてしまうのだから。

 優秀な人材を求めた。より強靱な武器を求めた。更なる力を欲した。

 家族が、自分を受け入れなくてもいい。自分はただ、自己満足が故に、家族に自分の全てを捧げ尽くす。
 敗北は許されない。あってはならない。家族を失わない為にも。

 勝つ以外の道など、選べる筈が無いのだから。








 繰り返し繰り返し

 どんなに傷つこうが

 どんなに傷つけられようが

 飽きもせず

 腐りもせず

 ただひたすらに

 何度も何度も

 決して諦めず

 決して満たされず

 ただただ

 “その時”の為だけに



 少年は、“その時”が来て欲しくないと思っていた。同類になど出会いたく無いと。

 女は、“その時”は来ないのだろうな、と、漠然とそう思っていた。分かち合う者などいないと。

 少年が欲さず、女が諦めていた“その時”とは、奇しくも同じ“この時”だった。








 “あしたのために”

 『リード・ランゲージ』の魔法で解読した文書には、まずそう記してあった。
 全ては、その言葉を気に入ったからだ。明日の為にすべきこと。明日の為に心得るべきこと。
 明日もまた、勝ち続けるために。
 書かれていることを頭に叩き込み、それ以来、延々と繰り返してきた。

 ゼナイドは習得した拳闘術を、しかし、自ら進んで使用することはなかった。確かに稀有なる術理とはいえ、それよりも剣や魔法を使用した方が効率が良い。妙な拘りなど持たず、その瞬間に於いて、最も有効な手段を以って戦闘に臨むべきだと、そう考えていた。

 だが、習得した技術は決して、最後の奥の手などではなかった。

 必要不可欠だったのだ。

 全ては“この時”の為に。

「……シィッ」

 短く、鋭く息を吐き出すと共に、拳が放たれる。

 何発殴ったのか。何発殴られたのか。
 答えは、全て“ゼロ”だった。
 アクセルの拳も、ゼナイドの拳も、一度もヒットしていない。

 リーチで勝るゼナイドが、どのようにフェイントを織り交ぜようが……破壊力で勝るアクセルが、どのような無茶な角度で攻撃しようが……一向に当たらない。互いに全て避け避けられ、弾き弾かれる。

(……際どいな)

 この、一挙手一投足の間合いに於いて、本来ならばゼナイドが不利だった。いくら訓練を積もうが、実戦での経験値が違いすぎる。
 にも関わらず、アクセルと渡り合えている理由は……。

(積極性か)

 いくら“怪人フーケ”の仮面を被ろうが、アクセルはアクセルであり、アクセルとしての問題から逃れることは出来ない。そのアクセルの事情として、ゼナイドを死に至らしめることは好ましくない筈だ。どれ程好戦的に振る舞おうが、もしも停戦の糸口でも見つければ、迷わず穏便に済ませようとするだろう。
 つまり、彼は未だ、本気ではなく……本気にはなれていない。

 そしてもう一つの理由は、ゼナイドの成長速度だった。
 拳闘術の、初めての実戦。初めての相手。それを得た彼女は、凄まじい速度で技術を取り入れ、修正し、錬度を上げていく。荒削りだった攻撃が、研ぎ澄まされるように鋭く、直線的に成長を遂げる。
 欲していた、願っていた栄養を与えられた植物が、劇的に生長していくように。彼女の身体は、その全てを一滴も逃すまいとしていた。

 ゼナイド自身、強い自覚があった。

 これ程に近くにいながら、互いの攻撃が当たらぬままの膠着状態。にも関わらず、不快には思わない。いや、寧ろ飛翔しそうな程の高揚と興奮があった。
 拳が空振る度に、自分の身体はまた一つ、研ぎ澄まされて軽くなる。防具は全て脱ぎ捨てたというのに、まだ自分には、余分なものがある。それが削ぎ落とされ、身体から剥がれ落ちていく感覚は、ゼナイドにとって禊ぎとも呼べるものだった。

 首を捻ると、アクセルの拳が頬を掠める。それと同時に、カウンター気味に繰り出したゼナイドの拳に、微かで確かな感触があった。彼の肌に、触れられるまでに成長したのだ。

(もっと……もっとだ)

 まだまだ研げる。まだまだ削げる。まだまだ伸びる。
 先の見えない坂を、彼女は一心不乱に駆け上がっていった。恐れも、躊躇いも無い。ただただ、いつか辿り着くであろう最後の景色を目撃したくて。

「……ふはっ……」

 突然、ゼナイドの唇から笑いが漏れ出した。
 歓喜と愉悦の笑み。記憶にないほどの快感に魂が震え、口から漏れた。

 その笑顔に、アクセルは愕然とした。

 ゼナイドの成長速度は才能の問題であり、大した障害でも無い。
 しかし……この笑みは、信じられなかった。ゼナイドにとっては初体験となる、拳での闘いだろうに、彼女にあるのは好奇心旺盛な子どもの勇気だ。先がどんなに暗い闇だろうと、一度決めれば突き進んでしまう。
 彼女はいつも、そうしてきたのだろう。六歳でオークを殺そうとするなど、尋常ではない。子どもの勇気は、幾ばくかの狂気を孕んだものだ。成長した今も、彼女はその狂気を持ち合わせている。

 終わらせようと、アクセルは決めた。

 ゼナイドは、拳での戦闘に熱中している。まるで初めて買い与えられた玩具のように。その熱は、当分冷めることは無い筈だ。
 決着は、一度も使用していない蹴り。二つの拳に漸く慣れてきた彼女に、受けることは出来ない。頭を狙い、一撃で意識を刈り取る。

 しかし……決着を付ける攻撃を繰り出すため、初めて、辛うじてではあるが殺気と呼べるものの蓋を開けようとした時。交わることのなかった二人の精神が、交差した。

 往々にして、悪機は連れ立ってやって来るものである。
 攻撃のコンビネーションに、蹴りを織り交ぜようとゼナイドが考え、実行したのは、アクセルが蹴りで決着を付けようと考えた直後だった。
 彼女の右拳を叩き落としたところで、アクセルは蹴りが襲いかかってくるのを知った。ゼナイドの浮き上がった右足は、既に放たれている。

(ハイキックか……)

 正確に、アクセルの左側頭部を狙った軌道である。左手は右拳を叩き落とし、間に合わない。このままでは、意識を刈り取られるのは自分の方だ。彼は身体の前に右腕を走らせ、右掌を広げ、その足首を掴もうとした。
 しかし、ゼナイドは膝に捻りを加える。

(ブラジリアンキック!?)

 直線だった爪先の軌道が、突如として弧を描き始める。一瞬怯んだアクセルは、対応できる範囲だと思い直し、首を刈るであろう蹴りを待ち構えた。
 そこで更にゼナイドは軸足を回し、腰を捻る。殆ど背を向けるような形だった。

「っ!」

 右の膝と爪先が、逆立ちしたようにほぼ垂直になる。爪先は真っ直ぐ、ツルハシのように振り下ろされた。
 右手で防御出来ず、左手も間に合わない。

「ぐぁっ……!」

 肩に突き刺さる爪先に、アクセルは呻きを漏らした。覚悟したとはいえ、激痛が走る。鎖骨を折られた。
 ゼナイドは更に、腰を落とすようにして爪先をめり込ませる。苦痛の叫びを上げつつ、アクセルはその場に跪かされた。

「っく……ぅ……!!」

 左肩を庇い悶絶する少年を、ゼナイドはただ待ち構えていた。
 狙ったわけではない。偶然の産物だということを、彼女自身知っている。このような“不幸な”結末など、自分が望んでいないことも。

 まだ足りないのだ。まだ続けたいのだ。

 しかし……アクセルは既に、次の作戦に出ていた。

「…………」

 十秒待ち、二十秒待った。それでも、アクセルは動かない。
 続きを急かすように名を呼ぼうとしたゼナイドの耳に、ちょろちょろと、小川のせせらぎのような音が届く。
 蹲るアクセルの足下から、湯気を上らせる液体が流れていた。黒装束の股間部分から、湿った光が反射されている。

「……!?」
「も……もう……」

 少年は顔を上げた。
 そこに、死体を弄り回す“怪人フーケ”の面影など無い。
 涙と鼻水を垂れ流し、額に脂汗を浮かせた、一人の子どもだった。

「ごめんなさい……許して……下さい……」

 自らが湿らせた地面に、額を擦りつける。ガタガタと体中を、大袈裟なほどに震わせ、消え入りそうな声で命乞いをしてきた。

 ゼナイドの心が、冷や水を浴びせられたかのように熱を失っていく。

「……ふざけるなっ」

 思わず、少年を蹴飛ばした。情けない悲鳴を上げるアクセルは、肩を庇って倒れ込む。

 自分がそうなのだから、相手もそうだと思ってしまった。アクセルも、この拳闘を楽しんでいるものだと。
 が、蓋を開けてみれば何ということはない、ただのゼナイドの独り善がりであることを、彼女は知った。彼女だけが望み、彼女だけが楽しみ、彼女だけが欲していた。

 アクセルは、本気で戦ってはいなかった。
 この戦闘を終わらせるため、このような擬態を用いる程に。やる気などなく、一刻も早い終結を願っていた。

 そのことに、ゼナイドは激昂していた。

 恐らく彼は、二度と、“怪人フーケ”にはならない。ゼナイドと、拳の応酬を行うこともない。全てを包み隠すだろう。
 アクセルは、今ではなく、後に政治的に決着を付ける。ゼナイドに諦めさせ、この戦闘を有耶無耶にする。

 そこらに転がる十把一絡げの、ただ不快感しかもたらさない厄介者……自分がそう認識されていることは、彼女にとって我慢ならないことだった。

 ゼナイドがアクセルとの間に望むのは、“唯一無二”の間柄。味方でも、敵でも構わない。ただ、相手にとっての“この世の中でのただ一人”になりたかった。させたかった。

 彼女は、禁を犯す。

 アクセルと唯一無二の仲間になれないのなら、彼の唯一無二の敵になるしかない。

 早く、急がなければならない。

 この熱を、“この時”を失ってしまわない為にも。

「……アレクサンドル・アンブロワーズ」

 その名を、ゼナイドが口にした時……大袈裟なまでに震えていたアクセルは、貝のように動かなくなった。
 ゼナイドは、更に踏み込んでいく。

「言っただろう。お前のことを調べたと。……お前は、誕生日には使用人達から贈り物をされるそうだが……その中の何人が、お前の弟に同じ事をしてやっているんだ?」

 彼が弟を大事にしているというのは、知っている。
 しかしそれは、弟を大事にしているのは彼くらい、という事でもあった。
 殆どの使用人は、アクセルと逆なのだ。

「お前の弟は、出来損ないだ」

 同じ事をゼナイドに言った者は、彼女の手で鼻を削ぎ落とされた。

「これ以上私を怒らせるなら、お前の出来の悪い弟を殺してやる。あの母親殺しをな」








「……そうか。そうなんだな……」

 ゆっくりと立ち上がったアクセルの顔には、また、あの無機質な“怪人フーケ”の仮面が張り付いている。立ち上がった拍子に割れ落ち、口元の大部分が露わになった。

 弟を大事にしているか、と問われれば、アクセルは迷い無く肯定する。だが今、弟を殺すと言われた時、弟の顔ではなくナタンの顔が浮かんだ理由を、彼は説明できるだろうか。

「ゼナイド。お前もまた……“黒き獣”か」

 アクセルは気付いた。
 このゼナイド・ド・グラモンの刃は、ナタンの喉元にも届き得る。
 彼女も……この女もまた、突如として自分の仲間を奪い去っていく、あの“黒き獣”なのだ。

 ならば、どうするか。

「ゼナイド。僕の負けだ」

 彼はまず、そう宣言する。改めて拳を構えるゼナイドだが、アクセルは仮面に右手の平を添わせ、呟き始めた。

「さよなら……ナタン」

 人生に、リセットボタンがあれば……。
 前世で、よくそんな妄想をした。

 もっとあの時、勉強していれば。もっと日頃から、身体を鍛えていれば。

 無意味な妄想と思いつつ、その妄想に耽っていた。

「さよなら、バルシャ。さよなら、フラヴィ」

 この、今の人生でも、もしもリセットボタンがあれば、自分は押すだろうか。

「さよなら、スルト。さよなら、クーヤ」

 自分自身驚くほど確実に、言える。“押さない”と。

「さよなら、アニエス。さよなら、ミシェル。さよなら、マチルダ。さよなら、テファ」

 例えこの人生が終わり、その後、何百何千と生まれ変わろうと、生き直そうと……

「さよなら、ハンス。さよなら、マルセル」

 例えこの人生が、一炊の夢だとしても……

「さよなら、スカロン」

 自分は決して、これ以上の人生を生きることは無い。

「さよなら……リーズ」

 間違いなく、最高の人生なのだ。究極の人生だったのだ。
 自分は、満たされているのだから。



 人の出会いが運命だというのなら、自分とゼナイドを巡り合わせた運命とは、何なのか。

 “最期の奉仕”

 アクセルの解釈は、それだった。
 このゼナイドを、ナタン達に近付けるわけにはいかない。

(こいつは……僕が、命を以って始末しておく)

 だから……最愛の仲間達……

(どうか……僕を、嫌わないでくれ……)








 牽制の、左のジャブ。それを打とうとしただけだ。

 ぱぱぱぁんっ

「……!?」

 しかし、蹌踉めいたのはゼナイドだった。一瞬思考が止まったのは、拳のダメージではない。
 今、自分は何発のパンチを受けたのか。それを数えようとした。

「くっ」

 再び左ジャブを打った時、わかった。

 一発目で、その左ジャブを弾き飛ばされた。
 二発目と三発目が、それぞれ左脇腹と右肩に当たった。
 四発目は、顔面に浴びた。

 アクセルの左腕はだらりと垂れ下がり、動く気配も無い。彼が動かしたのは、右腕ただ一本だけだ。
 ゼナイドの背筋に、戦慄が走る。拳の、あり得ない速度だけが理由ではない。この拳を操る少年の、仮面の裏に潜む“何か”を察した。
 鼻孔からだらりと垂れる血液を、彼女は拳で拭った。

「アクセル……お前は、一体……」

 一人で七十人を相手にした時も、ドラゴンと対峙した時も、幼い頃、オーク鬼を殺しに行った時も、遂に感じなかった純然たる恐怖。ゼナイドは初めて、己の内側から這い出てくるそれを目の当たりにした。

「ゼナイド」

 仮面から覗く口が動く。悪寒と恐怖心が混じる。
 相手が自分より強い……ただそれだけならば、恐怖心など感じる筈が無い。

「僕は、負けて死ぬ……。お前は……勝って死ね」

 目の前にいたのは、己の理解の及ばない“怪物”だった。



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