小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第2章 朱き夏の章

第12話<敗北の夜明け>







 アクセルがあの男……ナタンを見出したのは、特別な理由や動機があってのことではない。ただ、自分が理想とした支配体系、その一翼を担わせる人間として、試用品のつもりで引き上げたに過ぎない。

 いつからだろうか……アクセルはそのことを思い出すたびに、己の愚かさに息が詰まるような気持ちを覚えるようになった。

 あの頃の自分は、理解していなかった。
 ここは確かに、物語の、幻想の世界だ。しかしそこに生まれ落ちた以上、自分もまた、その中のキャラクタの一人なのである。
 原作知識があろうが、単位は厳然たる“一人”でしかないのだ。

 ナタンほどのボスがいるだろうか。バルシャほどの人材がいるだろうか。フラヴィほどの纏め役がいるだろうか。スルトほどの戦士がいるだろうか。
 ただ一介の、たった一個のキャラクタでしかない自分が、果たして彼等の傍らに立つ資格など有しているのか。

 自分は、相応しく在ることが出来るのだろうか。出来ているのだろうか。
 ナタンの部下として。








(認めるよ……ゼナイド)

 “それ”を認めてしまうことは、アクセルの敗北だった。

(僕とお前は、確かに似ている)

 彼女はきっと、家族のためなら、赤子の丸焼きですら飲み込めるだろう。
 自分もそうだ。仲間達のためならば、実の父親だろうと殺すことが出来る。

 ゼナイドの聖域は家族であり、アクセルの聖域は仲間だった。

 その聖域を守るためなら、それ以外の世界など等しく無価値。
 二人とも、持っているのだ。“それ”さえ無事なら、“それ”以外などどうでもいい……そんな感情を抱くことが出来る“聖域”を。
 アクセルはゼナイドを忌み嫌い、同時に理解している。

 もしも、この限りなく広大な世界に於いて、ある日突然、予想すらしなかった、“自分と限りなく同種の存在”と顔を合わせることになれば、その人間はどう思うだろう。
 ほんの一例に過ぎないことは確かだが……ゼナイドは親近感を抱き、アクセルは嫌悪感を抱いた。
 二人の違いは何か?

(周囲の人間、だろうな)

 それがアクセルの結論だった。

 ナタンがいた。バルシャがいた。フラヴィがいた。スルトがいた。
 しかし彼等は、ゼナイドの周囲にはいなかった。

 明らかに自分より“下”の者は山ほどいるだろうが、果たして“対等”はいただろうか。
 溢れんばかりの才能と素質を持ち、体格にも恵まれ、常に先陣を切るゼナイドと肩を並べられる者など、そうはいない。皆、彼女の背を追うので精一杯だった筈だ。

 彼女は、敗北を知らない。絶望したこともない。

 常に勝利を重ねて生きて、そしてこれからも勝利し続けるだろう。誰一人として、彼女に敗北を教えられないまま。
 不自然なほどに完璧なのは、“仲間”と呼べるような存在がいなかったから。あらゆる全てを一人で背負い込み、また、その重荷に耐え続けることを可能とするポテンシャルを、不幸にも持って生まれてしまった。たった一度でも、自分が負ければ全てが終わる……一種の強迫観念に支配されているとも言える。
 “分かち合う”者がいないのだ。不幸も、苦しみも、喜びも、幸福も。

(出会いが違えば……或いは)

 過去は絶対不変のものだ。しかし、敢えてたらればの児戯に興じるならば、出会い方さえ違っていれば、絆を持つことも出来たかも知れない。
 ゼナイドは、偶然に発見した自らと同種の存在を、逃すまいとしてしまった。逃したくないあまり、力尽くという手段に出てしまった。

(……化け物、か)

 原作が始まれば、また別である。しかし今、この時代は、微睡みのような漫然たる平和の季節なのだ。戦乱の世ならばいざ知らず、ゼナイドはそんな時代に、戦士としての才能を持って生まれてしまった。
 孵化の時を間違えた恐竜のように、彼女は孤独だった。

(……安心しろ、ゼナイド。せめて僕が、一緒に死んでやる)

 アクセルにとってそれが、ここまで自分を求めてくれたことに対する、ゼナイドへの精一杯の礼だった。








 何千何万と拳を振り回すうちに、彼女は気付いた。拳の速度は、進化しない。ただ、相手を錯覚させる技術を磨くしかないと。
 最短距離を、最高速度で、一直線に……それこそが、究極の拳だと。

(何だ、これは……)

 そのゼナイドにとって、到底信じられるものではなかった。
 自分の拳が当たらないのは、先ほどまでと同様。だがアクセルの拳は、残らず浴びてしまう。そしてその彼の攻撃は、まるで稚拙なものだった。
 拳を握らず、ただ丸めた掌をぶつけてくるだけ。威力は弱まっており、感じる衝撃は明らかに劣化したものだった。軌道も滅茶苦茶で、直線ではなく、随分と遠回りをしてくる。
 しかし……その速度は、明らかに異質だった。
 “見えないように動かす”というのなら、理解できる。だが、そうではないのだ。単純に、早すぎる。まるで人間の限界を超えていた。

「…………」

 ゼナイドの手が止まる。すると、空白の時間が生まれた。

(やはり、そうか)

 アクセルが拳を繰り出すのは、全てゼナイドに反応してのことだった。
 ゼナイドが攻撃しようとすれば、その何倍もの手数で押し返される。軌道も滅茶苦茶で、技術や修練といった概念とは無縁の攻撃が、反射神経を凌駕するような速度で迫ってくる。

 その事に気付いたゼナイドは、停止し、じっとアクセルを観察した。

 仮面の奥の表情は、窺い知ることなど出来ない。
 今、彼はどんな顔をしているのだろう。どんなことを考えているのだろう。
 仮面を剥がそうと手を伸ばしたところで、また弾かれ、拳を浴びるだけだ。

(……軽すぎる)

 ただ、速度のみを追求したような打撃。だが、それならば、この無駄そのものの軌道は一体何なのだろう。

 この拳の正体に、皆目見当も付かない……というわけではなかった。しかし、彼女はどうしても、その見当から目を背けてしまいたくなる。

「……バカな」

 彼女は自分自身、無意識のうちに口にしていた。

 凡そ戦いというものは、目的を勝ち取るための手段だ。勝利を掴めなければ、当然のこと、その目的は果たせない。

(負ければ……全てが終わる)

 その戦いに命が賭かるというのも、珍しいことではない。無茶な道理ではない。
 命を賭けた戦いで勝利し続けてきたからこそ、今のゼナイドがいる。
 これまでの戦歴にて、印象に残る相手をかき集めていくと、全員が、命懸けで自分と相対していた。命賭けで勝利を掴もうとしていた。

 だからこそ、アクセルの行動が理解出来ないのだ。

 この少年はあろうことか、命を賭けるのではなく、命を捨てている。敗北して死亡するという未来を、自ら選んでしまっている。
 生きるか死ぬか、ではない。死を見ている。死へと突き進んでいる。

 諦めているのだ。生きて勝利し、生きることを。

「……バカなっ!」

 死ねば、負けだ。
 死ねば、終わる。
 死ねば、もう、大切な者を守ることも出来ない。

 衝動的に繰り出されたゼナイドの拳は、やはり、アクセルの右手一本で潰される。

 この軽さは、つまり、アクセルの命の軽さ。
 先ほどまでのような、魔法を利用した格闘ではない。しかしながら、どんな魔法よりも魔法らしい技術。

 人間にも、本能がある。
 その本能は、人を傷つける攻撃行動と、自らの身を守る防御行動、どちらをより優先させるか……答えは明らかに後者だった。パンチを当てられない素人でも、身の危険が迫れば、技術のあるパンチを防ぐことが出来る。そしてその動きの速度には、前者と後者では格段の差がある。
 どんなに強く死を念じたとしても、肉体的な、生物としての本能には逆らえない。その本能から解放されるのは、本当に死んだ時だけだ。
 しかしアクセルは、その本能を攻撃に利用している。自分に迫る拳を弾く、防御行動。それを無理矢理に、攻撃へと繋げている。
 死を願う心、生を求める身体……その二つは、非常に危ういバランスで並立している。

「……っ……!」

 あの時、オーク鬼を殺した時から、一体何度の戦いを経てきただろう。
 勝ち取るための戦いだった。生き残るための戦いだった。守るための戦いだった。
 しかし、その数多の戦闘の中に一度として、“死ぬための戦い”など含まれていない。そんな後ろ向きな、未来を放棄した戦闘など、あり得ない。

 決して引き下がらない女は、いつしか、後退っていた。無意識のうちに後退り、また、心でも引き下がることを求めていた。
 それを、アクセルは追撃しない。決してその場から動かず、辛抱強く口を開けて待つ捕食者のように、ただ待っていた。己に向かってくる者を。

 命を賭ける相手なら、何度も打ち倒してきた。しかし、勝敗が決する前から命を捨てる相手は初めてだ。

「…………」

 まるで、心が石臼で轢き殺されていくような感覚を覚え、ゼナイドは胸に手を当てた。鼓動が早まり、じわりと、体中から吹き出した汗が下着を濡らす。
 そう、自分は生きている。この鼓動が、そして……覚えのない感覚、つまりこの恐怖が、そのことの証明だ。

 ゼナイドの脳裏に、先ほどのアクセルの言葉が蘇る。

(既に……アクセルは、負けている……?)

 距離を離しても、アクセルは追ってこない。このまま、例えばトリスタニアやグラモン領にまで離れても、彼は決して追ってこないだろう。
 例え自分が口外するつもりがなくても、レティシアもジュリーも、いずれは目を覚ます。そうすれば、怪人フーケの正体は明らかとなってしまう。

(そう……なのか……?)

 呼吸が困難なのは、やはり恐怖のせいか。
 既に敗北した者から、自分はどうやって、勝利すればいいのか。

 正体が知られることも、このままゼナイド達に立ち去られることも、アクセルにとっては敗北の筈だ。
 何故、彼は動こうとしないのか。追ってこないのか。

「…………」

 いつしかゼナイドの背は、崩れかけた柱に寄り添っていた。既にアクセルからは、二十歩以上も離れてしまっている。
 彼女はそっと瞳を動かし、二人の少女を見た。アクセルとも自分とも離れている二人は、未だ覚醒する様子を見せない。

 アクセルにも、いる筈だ。ゼナイドにとってのレティシアやジュリーというような、大切な存在が。守るべき仲間が。
 死ねば、もう守れないのに……何故彼は、死を選んだのか? 彼は死を選んでまで、何をしたかったのか?

「!!」

 その時、さながら落雷を浴びたかのように、ゼナイドの身体をある思いが貫いた。

「……そう……なのか?」

 アクセルは、仲間を守る。ならばアクセルは何に守られ、その仲間は何を守るのだろう。
 アクセルは仲間を守り、仲間は仲間を守り、その仲間はアクセルを守る。
 この少年は、決して守るだけの存在ではない。守られるだけの存在ではない。

「……アクセル」

 その名を、呟く。彼が反応を見せないのは、遠すぎるからか。それとも声が小さすぎるからか。

「アクセル」

 少し大きな声で、十分届くような大きさで、ゼナイドは呼びかけた。
 そして一歩を踏み出す。ただそれだけの事に、酷く時間を要したのは、それが決して、勝利の可能性へと……未来へと繋がるものでは無いから。

「聞いてるか? もしも一つだけ、何でも願いが叶うなら、何がいい?」

 相変わらず反応は無いが、聞こえていない、ということはないだろう。

「私は、永遠の命だ」

 例えば、二人の妹を守るだろう。そしてその妹たちもやがて結婚し、子をなしたなら、その子も守るだろう。その子が子をつくれば、その子も守る。
 そうして、グラモン一族の末代を見届けたい。勿論、そのようなものが存在するのなら、という話だが。

「……少し、謙虚になろうと思うんだ」

 自分が死ねば、どうなるか。皆、泣いて悲しむだろうか。それとも、厄介払いが出来たと安堵の吐息を漏らすだろうか。
 どちらしにろ、一つ言えることは……自分が死んでも、自分が思っている程の大問題にはならない、ということだ。
 自分が死ねば、連鎖的に他の皆が死ぬというのは、思い上がりだ。彼等彼女らとて、互いに守り合い、助け合い、自分の抜けた穴を瞬く間に塞ごうとするだろう。

「アクセル。お前は、信頼しているんだな」

 仲間達を信じている。仲間達を認めている。
 だからこそ、彼は死を選べたのだろう。
 自分が死んでも、仲間達はそれを乗り越えていくだろうと。

「……見習うべきだな、私も」

 自分の歩んできた道に、何一つ誤りなどない……ゼナイドは岩盤のような自信を以って、そう口にすることが出来る。何一つとして、間違いなど無かったと。
 しかしその道は、決して一人で歩んできたわけではなかった。人が、呼吸できる喜び、五体満足の喜びを忘れているように、彼女もまた、その事を理解していなかった。

「……すまない。待たせた」

 ゼナイドが再びアクセルと対峙したのは、それから間もなくだった。

「……足が震えているのは、どうか勘弁して欲しい」

 口数が多いのは、今回ばかりは事情が違う。動揺を必死に押し隠そうとしている。
 自分は今正に、崖っぷちに片足で立っている。その先は、底の無い奈落だ。しかし、その一歩を……自殺のような一歩を、踏み出さなければならない。

「……私と、心中してくれるのか」

 アクセルの事情を考えれば、彼のこの戦闘体系はあり得ない。追う者を倒し、逃げるを追わぬ、こんなものは。
 それでも、アクセルは信じている、と言えるだろう。決して、ゼナイドが逃げ出さないことを。ゼナイドが自分と対峙することを。
 ふと、彼女はそのことに喜びを感じた。

「……するか。心中」

 この戦いに、未来は無い。
 この道の先が何処へ続いているのか、想像すら出来ない。
 求めるものなど、存在しないかも知れない。
 ただ一つ言えることは……この戦いが終わる時、アクセルは死ぬ。それはアクセル自身が決めた、彼自身の結末。

「その……結末まで……」

 言いつつ放たれた、ゼナイドの左ジャブ。しかし、牽制のためのその拳はあっさりと横から弾かれ、胸と頬に拳を浴びる。

「!?」

 驚愕と共に、ゼナイドは膝をついた。震える両手を自らの身体に回し、肩を強く握る。

(今……のは……まさか……)

 ゼナイドの痛覚は、何故失われたのか。
 怯まない為か。更なる強さを求めての故か。それとも、これから彼女が歩むであろう人生の凄絶を予感した肉体が、その生命を保とうとしたが故の変態か。
 しかし、その彼女のポテンシャルを以ってしてもどうにもならない、本当の意味での生命の危機……自殺という行為。そのことを察した肉体は、実に何年かぶりに、錆び付いていたバルブを回し、ゼナイドに痛みという概念を叩き返した。

(これは……!)

 跳ね起きるように立ち上がると、ゼナイドは拳を繰り出す。弾かれ、被弾しながら、それでも彼女は前に出た。
 衝突した部位から、痺れが、脳髄の奥にまで駆け込んでくる。しかしその痛みの信号が、彼女を苦しめることは無い。それは何より甘美で、とろけるような快感と判断された。錆び付いた痛覚は誤作動を引き起こし、間違った命令を下す。

「ふはっ」

 ゼナイドの感動は、爆発的に肥大化し、そしてそれは口から飛び出した。

「あはははははっ!!」

 血を吐きながら、涙を流しながら、狂った笑い声を上げながら……彼女は殴ることを止めなくなった。
 余さず、残さず吸収したいのだ。この感動を。この快感を。
 あらゆる全てが消滅した。この戦いの、あまりにも脆い結末への恐れも。勝利への執着も。家族や仲間、あらゆるこの世のしがらみが。

 たった一つ、“今”というもの、それだけを残して。

 目的など必要なかった。彼女の全身全霊は、この“過程”に注がれている。生も死も、使命も愛も信義も、思想も信条も神も悪魔も……どこかで、どこかへ脱ぎ捨てられた。
 限りなく虚無に近くなった身体で、彼女はただ、感じることだけに集中していた。

 次第に、ゼナイドの身体にも拳が当たらなくなる。二人の拳は空中で、蛇のように絡み合いつつ、互いで互いを殺し合っていた。

「もっとだ!」

 満足できなくなるのだ。快楽への欲求に、限界など無い。更なる快感を求めるゼナイドは、拳を常に限界まで加速させ、そして限界すら加速させていく。

「もっと……! もっともっともっともっともっと……もっとだ!」

 ぱきぃんっ……

 ついに、アクセルの手数をゼナイドのそれが上回り……仮面が割れた。落下しかける仮面から覗くアクセルの視線が、彼女と交差する。
 存外に理性的な瞳だな、と、ゼナイドはそう感じた。








 アクセルはこの技術を、喪失と敗北の『失敗拳』と名付けている。ただ、あの“黒き獣”を道連れにする為に、それだけの為に開発したものだった。
 ただ本能に従い、それに全てを任せる戦闘方法。だが、それを支える僅かな理性が、この事態を捉え、彼の意識は強制的に理性の側へと引っ張られた。

(ここまで……とは……)

 ゼナイドもまた、“壁”を突破してしまった。自分の領域まで達してしまった。

(早く……“無意識”に……戻らないと……)

 覚醒しては、駄目なのだ。この戦闘は、無意識という絶望の夢から覚めれば崩れてしまう。
 だが、遅い。鏡を見せられた獣のように、アクセルの意識は引きずり出されてしまった。

「……ゼナイドぉぉ!」

 右拳を掌にして、彼女の左の手首を掴む。残る右拳が、折れた鎖骨に再び突き刺さった。

「おおおおお!」

 痛みによる悲鳴を雄叫びに変え、腰を捻り、足を踏みしめる。動かない左腕を無理矢理、鞭のように振り回し、その手の甲で、ゼナイドの脇腹を打ち抜いた。しかし同時に、ゼナイドの二発目の右拳が、アクセルの顎を撃ち抜く。

(これは……、まずい)

 回転する景色に、脳を揺さ振られたことを自覚しつつ、アクセルはゼナイドに背を向ける。

(もっとだ……もっと……)

 肋骨をへし折られた苦痛と快感が入り交じり、そのどちらかによって倒れそうになりながら、ゼナイドはアクセルの右手を振り解く。

 一回転したアクセルが、再びゼナイドと対峙する時、彼の右拳は腰で構えられている。またゼナイドの解放された左拳も、限界まで引き絞られていた。
 一瞬、何と長く、濃密な時間なのだと、二人の想いが重なる。

(……何故だ?)

 アクセルの拳に、迷いが生まれた。

(何故、こんな時に出てくる? リリーヌ……)

 二人の拳が、真正面から衝突した。
 先ほどまでの、速度のみを追求したものではない。破壊力と攻撃力を併せ持つ、一撃必殺の拳。
 砕けたのは、ゼナイドの拳だった。
 しかし、アクセルの拳が開き、その掌がゼナイドの拳を包む。

「……!?」

 咄嗟に残る右拳を繰り出したゼナイドは、停止できない。左拳に『治癒』の魔法をかけてくれたアクセルの顔面を、渾身の力で殴り飛ばした。

「……何故……」

 ゼナイドの呟きに、返答は無い。

「……確かに、だ。リリーヌ」

 代わりに、まるで微睡みの言葉のように、アクセルの唇から誰かへの語りが漏れ出した。

「君の言う通りだ……女の子を……傷つけ……ちゃ……」

 そのまま、少年は地面へと崩れ落ちた。








 冷えた空気が、肺を満たす。闇夜が、僅かに鮮やかさを取り戻し始めていた。

「…………」

 ゼナイドは無言のまま、ポケットから葉巻を取り出し、銜える。隣のアクセルが、そっと親指を差し出してきた。その先に灯火が生まれ、葉巻に火を付ける。
 軽く紫煙を吐き出すと、彼女は呟く。

「改めてみると……見事に壊れたな」
「何が?」
「これが、だ」

 彼女は、腰掛けている屋根を叩く。ほぼ倒壊した屋敷の、僅かに無事な屋根に上り、アクセルとゼナイドは、紫がかる空を眺めていた。
 住人のいなくなった屋敷とはいえ、大公のものだった邸宅は、巨大なゴーレムによって玩具のように破壊されている。

「……一つ、聞きたい」
「何ですか?」

 頬杖を付くアクセルは、視線を動かさないまま、水筒の中身を呷る。

「一年前、ここで何があった?」

 一年前……謎の火災の噂は、ゼナイドも耳にしている。そして今回の一件で、アクセルが何らかの形でそれに関わっていることも理解していた。

「聞かないで下さい、胸くそ悪すぎることですから」

 思い出すのも忌々しい、と言う風に、少年は吐き捨てる。
 何となく、それ以上聞き込むのが憚られ、ゼナイドは黙った。その代わりに、葉巻を差し出す。

「ん……」
「ああ……」

 それを受け取りつつ、アクセルは水筒を差し出した。吸えるのか、と一瞬考えたゼナイドだったが、彼は慣れた様子で煙を吐き出す。
 彼女も、水筒の中身を一口飲み込んだ。

「……がはっ!?」

 投げ出された水筒は、予想していたアクセルの手で掴み取られる。喉を抑え、屋根の上で蹲るゼナイドは、震えながら咳き込んだ。
 葉巻を指で挟むと、アクセルは更に二口ほど呷る。

「……な……」

 漸く回復したらしく、彼女は起き上がり、涙を拭いながら愚痴った。

「何だ……それは……」
「酒です」
「酒……なのか……?」
「ええ。強さは、ワインの六倍程ですが」
「それは……酒では、ない……」

 断定すると、ゼナイドは葉巻を取り戻す。
 口直しのように煙を吸い込む彼女を尻目に、アクセルは右手の紙片を眺めた。保管されていた阿片は全て処分したが、結局、出所に繋がるような手掛かりは見当たらない。ただ一つ。麻袋に縫い付けられていた、この紙片を除いて。

 『S.G』……手掛かりは、何の変哲もないそのイニシャルだけ。

 紙片をポケットに突っ込み、アクセルは別のポケットから何かを取り出した。

「ゼナイドさん、これ」
「ん……?」

 空が白む。風が吹き、彼女の髪がふわりと広がった。

「これは?」

 手渡されたのは、紐を通した貝殻だった。特に仕掛けがあるわけではなく、ただの飾りらしい。

「くれるのか?」
「あげませんよ。ただ……」

 アクセルは屋根の上に寝転ぶと、水筒をチャポチャポと揺らす。

「……今の僕に、それを持つ資格があるのか……疑問ですから」

 ふと、ゼナイドは気付いた。恐らくこれは、彼にとって、重要な意味を持つものなのだろう。

「預かっておいて下さい。いつか、取りに行きますから」
「……何なんだ?」
「僕の魂です」
「そうか……。わかった」

 アクセルは水筒の口を締めた。

「さて、と……」
「もう行くのか?」
「ええ」
「……せめて……日の出まで……」

 そう言いながら、ゼナイドが伸ばした手が、さぁっと輝いた。山脈をよじ登った太陽が、世界に白光を撃ち飛ばす。彼女は僅かに目を細めた。

「……美しいな」
「そうですね。……負けた後でも」

 自嘲するように、アクセルは付け足す。彼は身体の土埃を払い落とすと、大きく伸びをした。

「アクセル」
「はい?」
「また……会えるか?」
「…………」

 怪訝そうな顔で振り返る彼から、ふと、ゼナイドは目を背ける。

「それ……僕に、選択肢があるとでも?」
「いや……その……な」
「当然でしょう。“それ”、早く返して貰いたいんですから」

 指さされた貝殻を、ゼナイドはそっとポケットに入れた。悪戯、というレベルではなく、本気で、返したくは無い気がした。

「……実家に戻るのか?」
「ええ、そうです。もう、トリスタニアでの用事も一段落しましたから」
「……そうか」

 水筒をベルトに戻したところで、再びゼナイドに呼ばれた。

「アクセル、忘れてるぞ」
「え? 何をですか?」
「……別離の接吻だ」
「はぁ?」

 眉を顰めて振り向くアクセルだが、それが本気だったのか、それとも冗談だったのか、ゼナイドの真顔からは判断できない。
 暫く彼女と目を合わせていたが、ふと、アクセルは笑いながら背を向けた。

「馬鹿言ってないで……頼みましたよ、二人の妹さん。それじゃ」

 アクセルの足が屋根から離れ、一瞬の後、土と靴底が擦れる音がする。

 輝きの世界を眺めつつ、ゼナイドは葉巻を握り潰す。そしてふと、気付いたように零した。

「……初めてだな……敗北したのは……」

 彼女は両手を持ち上げると、自らの両頬を叩いた。












(…………遅いなぁ……アクセル……)

 とある意識の愚痴が、誰に届くこともなく消えた。

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