第1章 青き春の章
第4話<邂逅弐>その2
(ヤッベェ! 思ったより強かった!?)
せいぜい、パシッ……くらいの力で良かっただろうに。
マチルダは床に倒れ伏したが、左頬を押さえつつ、こちらを見つめる。
その瞳にあるのは、怯え。今更ながら、両者の力関係を理解したのだろう。魔法も使えない今となっては、マチルダが例え数人いようが、バルビエのビンタで弾き飛ばされる。
奴隷市場も、売り物に傷を付ける筈はないし、もしかしたらビンタされた事など、殆ど無かったのかも知れない。
別室から見守っていたらしいティファニアが、慌てて駆け寄ってきて、マチルダの身体を支える。いや、支えているつもりなのだろうが、ほとんど抱き付いているようなものだ。彼女も同じく、バルビエに怯えた瞳を向けている。
「……むほほほ、お馬鹿さんですねぇ」
心の中でマチルダに謝りながら、バルビエは再び笑った。安心してくれるかも、と淡い期待を抱いたが、その笑い声も、恐怖を焚きつける油にしかならなかった。
「仮に、ここで私を殺したとして。逃げられるとでも思っているのですか?」
いや、逃げてもいい。何も、二人の心を無視してまで、縛り付けておこうとは思わない。良心がどうのこうのと言うよりは、二人になるべくプラスな印象を持っていて欲しいという、少々情けない理由ではあるのだが。
しかし、逃げ出すにしても、成功させて欲しいのだ。
「お嬢さんだけならともかく、そちらの妹さんは、お耳が大変目立ちますよ? このホテルの敷地から逃げ出したとしても、お二人とも、よく知らない街の中で、どうやって逃げるのですか? どうやってご飯を食べていくのですか? 一体どこで安心して眠るのですか?」
やはり、そこまでは考えていなかったのか、マチルダは俯いた。
「……せめて、確実に逃げ出せるようになってから、お逃げなさいな」
アクセルが立ち上がると、二人は震え出しながら、様子を窺う。
「では、そろそろ私はベッドに行きますよぉ。お二人も、お部屋にお戻りなさいな。明日には、この街を出ますから、ちゃんとご飯は食べておいて下さいね? それでは、おやすみなさい……」
バルビエの身体を、別の個室へと移動させる。そしてそのまま、ベッドの上に寝転んだ。
(……説教臭いのは嫌いなんだけどなぁ……)
これで、あの二人も大人しくしていてくれる筈……だ。多分。
ひょっとしたら、また殺しに来るかも知れないが、彼女の力では、内部のアクセルにまでは届かないだろう。
何か用心の為にしておくべきか、とも考えたが、マチルダもそれほど愚かではない。
(寝よ)
そのまま、アクセルは目を閉じた。
翌朝、起きてから鏡を見てみるが、バルビエの身体には傷一つなかった。
(まぁ、あったら困るんだけど)
取りあえず、隣の……二人が寝ているであろう部屋へ行く。
「むほほ、入りますよぉ?」
少し待ったが、返事は無い。そっとドアを開けて見ると、粗方消えた食事と……。
(……そっか)
部屋は、無人だった。マチルダも、ティファニアもいない。
このままバルビエの奴隷でいる危険性と、二人きりで逃げる危険性……それらを比べての結論か。それにしても、やはり、浅慮だと思うが。
(追うか? 流石に知らんふりも出来ないぞ?)
考えていると、ナタンがやって来た。
「おや、ナタンさん。どうかされましたか?」
「お客さんだ」
ナタンに続いて、顔に真一文字の傷のある男が入ってくる。奴隷市場の者だと名乗った。茶でも用意しようとしたが、彼はそれを丁重に断る。
「私は、ただの使いとして参りました」
「むほほ。それで、ご用件は?」
「昨日の競売の、2番。あなたと最後まで争っていたお客です。我々は、彼にあなたの情報を漏らしました」
そこまで言われた時、だいたいの見当はついたが……アクセルは、黙って聞き続ける。
本来、決して漏らす筈のない情報。しかし、主催者側が人質を取られ、バルビエの……更に言えば、バルビエが落札した二人に関する情報を、漏らしてしまったという。
2番の客の名前は、商人ドリューブ。彼は奴隷市場の責任者を人質にすると、主催者側の人間達に命じ、ホテルからマチルダとティファニアを盗み出させた。
「盗み出したのは、私です」
「ふむ……」
傷の男は、淡々と告げた。バルビエの指が、顎に添えられる。
「ちなみに、人質というのは……あなたがたのボスで?」
「はい。昨日、道化師に扮していた進行役です」
彼が、責任者だったらしい。
「今、ドリューブは?」
「既に街の外に。ドリューブに雇われているのは、メイジ二人に傭兵が六。ボスは自分を見捨てるように告げましたが、次のボスは未だ決まっておりません。組織の混乱を避けるため、知っているのは上層部のみ。大々的に手下を動かすことは出来ません」
「ボスは、未だドリューブに?」
「はい。何人かで追っていますが、どうやら近くの森の中を通るらしく……」
「成る程」
「私からは、以上です」
そして……。傷の男は、素早く……しかし、何の違和感も感じさせないような動作でナイフを取り出すと、その切っ先を、自分の胸へと向けた。
アクセルが、バルビエの手を操作してナイフを止めることが出来たのは、その予感があったから。
あまりにも、男は喋りすぎた。自分の組織の内情まで。
「お……おいっ」
ナタンが慌てて、男のナイフを取り上げた。
「本来、客の情報を漏らすことはない……。それが漏れてしまい、あなたは礼儀として、この私に情報を漏らした。しかし、情報を漏らした者を、生かしておくわけにはいかず……ですか? そして、何も知らない手下達が、あなたの死体を処理すると?」
そう言いながら、アクセルはペリーコロさんを思い出していた。
傷の男は、黙っている。流石に全てではなくとも、大部分は当たりなのだろうな……そう思いながら、アクセルは再び笑い出す。
「むほほ……。命がけの礼儀には、命がけの礼儀で返さないといけませんねぇ。ナタンさん」
「ん? 何だ?」
「追いかけますよぉ、泥棒さんを」
バルビエに情報を漏らしたのは、その男の独断だった。勿論、彼もただ何が起こっているのかということを説明に来ただけで、ドリューブへの対処、ボスの救出を期待していたわけではない。
追っているのがバレれば、人質であるボスの身も危ない。しかし、それはあくまであちらが脅威を感じるからであって、相手との戦力差に明らかな分があれば、そんなこともないだろう……ということで、バルビエは一人、馬を走らせた。ナタンや組織の人間たちには、森に潜みながらついて来てもらう。
「むほほほほ、見つけましたよぉ。泥棒さんたち」
森を抜け、平原に出たところで、バルビエは彼等の馬車の前に飛び出した。肥満体のバルビエだが、実質皮膚と服と、アクセルを足した重さしかない。相手も、気付いていたがスピードを読み違えていたらしく、馬車は軽く滑りつつ停止した。
馬車は二台。前の一台に乗っているのが、傭兵たち。御者を含めて六人。後の一台に乗っているのが、恐らくドリューブ、マチルダ、ティファニア、ボス、そして二人のメイジ。
傭兵達が動き出し、後ろの馬車からメイジ二人、そしてドリューブが飛び出し……あっという間に、バルビエに武器を向けた。
「ドリューブさん、いけませんよぉ。人のものを勝手に持って行っちゃ」
さて……メイジが二人か。二人の周囲に渦巻く精霊を見てみると、どうも、乱雑な印象を受ける。十中八九ドットクラス、そうでなければラインクラス。間違っても、トライアングルなどではないだろう。まぁ、根拠は乏しいのだが。
傭兵達は……弓を構えているのが一人、剣を構えているのが四人。もう一人は槍。少々広がり、こちらを包囲している形になっているので、魔法で一掃というのも難しい。
いつも通り、まずは、会話からスタートすることにした。
「おーい、お二人さーん。処女はまだ無事ですかねぇー? ついでにボスさんもー」
後ろの馬車にいるであろう二人に、冗談交じりにそう声を掛けてみるが、失敗だと気付いた。二人とも、喋れない。それに、理解できるのかどうかも怪しい。
開け放たれた馬車から、三つの顔がのぞいていた。周囲の状況を確認しようとしたマチルダ、ティファニアと……あとの老人と言っていい年齢の男は、話に聞くボスだろう。
自分を無視されたことに気分を害したのか、ドリューブが口を開いた。
「お前がバルビエか?」
「むほほ、そうですよぉ。あのお二人は、あなたには少々手に余るのではないですかねぇ? 大人しくお返し願いたいのですが」
もしかしたら、ドリューブはアルビオン王国の手の者で、二人の素性を知っているのではないか……そんな予想も浮かんだが、それならば競売の時、借金をしてでも購入しようとした筈だ。いくら何でも一介の商人と一国では、資金力が違いすぎる。
「殺せ」
ドリューブは、会話に付き合わなかった。
バルビエだと確認した後、僅かに口元を歪ませ……一言、告げる。
矢が空気を切り裂き、バルビエの胸に突き刺さった。
「ぐっ……」
バルビエは小さく呻きながら、身体を傾ける。そして落馬すると、横たわったまま動かなくなった。
「ドリューブ様。ヤツの持ち物、頂いても?」
「好きにしろ、それに早くな。出来るだけ、森から離れたい」
いくら人質を取っているからとはいえ、このまま組織が指をくわえている筈がないのは、当然のことだった。メイジ二人が相手だろうが、彼等は死に物狂いで反撃に出る。恐らくは、既に森の中に潜んでいるだろう……ドリューブはそう考えていた。でなければ、バルビエが単騎で来る筈がない。何らかの作戦を立てていたのだろうが、交渉も会話もせずにさっさと殺せば、相手の予定は大きく狂うことになる。
バルビエというのが、相当の商人であることも知っていた。だからこそ、バルビエ自身には手を出さなかったのだが、こうも早く情報が漏れてしまったのなら、仕方がない。寧ろ、文句を言ってくる人間が一人減ったことを喜ぶべきか。
当初のドリューブの予定では、このままレオニー子爵領を抜け、組織の手の届かない場所まで逃げることになっていたが……。
その時、森から一騎、飛び出してきた男がいる。右手に片手剣、左手には手綱。
そして、それに続くようにもう一騎。弓に矢をつがえた、顔に傷のある男。
「……おい、さっさと片付けろ」
傭兵達は、バルビエの死体漁りに忙しいだろう。ドリューブは、メイジ二人にそう告げた。
たかが二人の平民。それに対するのは、二人のメイジ。
もしも、森に大勢が隠れていて、それらが一斉に飛び出してくるのであれば、人質を盾にする発想も出ただろう。しかし……そんな面倒なことをする気にはならなかった。
ただ、手早く、殺してしまえばいいだけだ。
ドリューブは、自分の馬車へと戻っていく。
もはや、あの貴族の娘とエルフの娘は、自分の所有物だ。
何をしようと、誰も咎める者などいない。
傭兵達には、少なくない金を払っていることだし、彼等が通報する筈もない。
奴隷市場の人間たちも、縄張りとしているのはたかが一つの街だけ。
馬車に近づいたドリューブは、マチルダとティファニアの表情に、違和感を覚えた。
二人とも、呆然と、どこかを見ている。それは決して、自分に向けられているものではない。
おかしい、と、ドリューブは思う。
今、あの娘達の視線を集めているのは、自分であるべきだ。抵抗できない強者となった自分を、貴族が、エルフが、怯えに満ちた瞳で、恐る恐る……その一挙手一投足を窺いながら、身を縮めているべきなのだ。
「おいっ!」
怒りを露わにしながら、ドリューブは怒鳴った。ふとこちらを振り返るメイジ二人に、お前らに言ったのではないと、心の中で毒突く。
それでも、マチルダもティファニアも、瞳すら動かさなかった。彼女たちは……いや、その傍にいる人質も、じっと同じ方向を見つめている。
そしてそこで、ついさっきこちらを振り返ったメイジ達も、呆然として彼方を見つめていることに気付き……。
ドリューブは、ついにそちらを振り向いた。
「……やってくれたね、全く」
聞き覚えのない、少年の声。それが発せられたのは、尻餅をついたり武器を構えたり、様々な反応をしている傭兵達の中心に立つ、バルビエの“内部”からだった。
胸に矢を生やしたまま立つバルビエの身体が、脱ぎ捨てられた衣服のように萎んでゆく。そして、彼の背中を幼い両手が突き破り……バルビエだったものが完全に地面に落ちると、そこには一人の少年が立っていた。
「“帰り”も、使わなくちゃならない道具なのに……」
アクセルは足下のバルビエを眺めながら、右手の杖で軽く自分の首を叩く。
(杖……!!)
何が起こったのか、理解など出来はしないが……決してドリューブの味方側ではないであろうメイジが一人、出現した。それだけは、全員が分かった。
子どもである。そう、まだ幼い子どもであるが、メイジの恐ろしさなど言うまでもない。
反射的に叫ぶ。
「おいっ、一人はあのガキを……」
ドリューブに雇われたメイジの一人はその命令を受け、急いで駆け出そうとして……転倒した。傷の男が放った矢が、左の太腿に刺さっている。更に矢が放たれ、それはうなじへと突き立ち、メイジの口から血塗られた鏃が飛び出した。
もう一人のメイジは、仲間の死を見て心を引き締める。弓を持つ騎馬にファイアボールを放ち、落馬させると、既に目の前に接近していたもう一騎に向き直った。
「おらぁっ!」
「『ブレイド』!」
騎乗したナタンがすれ違いざま、屈むようにして振り回してきた刃を、メイジは杖を剣とすることで防ぐ。
メイジはナタンを後回しにして、バルビエの中から現れた少年に向かおうとしたが、ナタンはすぐに馬から飛び降り、再びメイジに斬りかかる。
再びブレイドの魔法を唱え、近づきすぎたその男に応戦するメイジは、罠であったことを悟った。
ナタンは決して、退がらない。メイジがどれだけバックステップ、サイドステップを組み合わせて距離を取ろうとしても、執拗に食いついてくる。離れようとはしない。
剣もそうだ。ナタンが剣で攻撃すると、メイジは魔法剣で受けるが、反対にメイジがさっさと男を切り捨てようとしても、身体を捻って避けるか、軽く弾いて反らすか。決して、“受け太刀”に回ろうとはしない。受け流すのではなく、例えば直角に刃を受けてくれれば……剣で魔法剣を受け止めようとしてくれれば、その剣ごと叩き斬ってやるのに。
少年のメイジという、予定外の敵が出現したというのに、そのメイジはナタンに対処するしかない。勿論、こんな距離で魔法を使おうとすれば、刹那に致命傷を受ける。
(こいつは……何で向かってくる!?)
メイジは、混乱していた。
仮にも武器を持つ者同士、互いにタダでは済まない。一生モノの怪我を負っても、何の不思議も無い。
ある程度慎重になるのが定石だろうに、この平民はまるで刃を恐れない。メイジの振るう魔法剣に怯えない。
(この、平民の男が強い……?)
一瞬頭に浮かんだ疑問を、メイジはすぐに打ち消す。自分と違い、この男はまともに剣術の訓練をしたことなどないのだろう。その証拠に、男の身体には次々と切り傷が増えているのに対し、自分はまだ、二カ所ほどしかやられていないだろう、と。
いくら平民とはいえ、この状況で剣の腕の差を認識しないほど愚かではない筈。
(なら……何で……メイジであるこの俺に近付ける……?)
メイジは、己が気迫負けしていることに遂に気付かなかった。
何故これだけ痛みを与えているのに、ナタンは動きを鈍らせないのか。何故これだけ斬りつけても、自分は一度も強烈な一撃を食らわせていないのか。
何故……メイジである自分だけが、後退っているのか。
そう……彼が、自分が後退っていることに気付けたのは、人質達が乗る馬車の車輪に、背中をぶつけた時だった。
(俺が……退がっていた? いや、それより……もう……退がれ……)
目の前の男が、剣を横薙ぎに払う。
左脇腹に達しようとするその刃を、メイジは右手の魔法剣の切っ先を地面に向けつつ、受ける。衝撃に備えようと力を入れるが、刃と刃が接触した時、そのあまりにも軽すぎる感触に違和感を覚え、驚愕した。
驚愕したのは、宙に浮いた相手の剣を見て……相手が、剣から手を離したことを知った故。
(剣と剣の戦闘で……剣を……手放して……?)
ナタンは、メイジの……防御しようと、身体の左側へと移動していた右手首を、右手で掴む。そして左拳を握りつつ、その中の人差し指と中指の第二関節を尖らせると、振りかぶらないまま、メイジの右腕の上を滑るように真っ直ぐ、喉を突いた。
「……!こっ……」
痛みと衝撃に、メイジの口が開く。耳には、持ち手を失った剣が、地面に落ちる音が届いた。
(喉を突かれ……詠唱できるのか……いやまずは……魔法剣で……)
混乱しかける中、右手の魔法剣を手の中で回転させ、男を斬りつけようとしたが……メイジの右手の中で、くるりと杖が回っただけだった。
既に、魔法の刃は消え去っている。
(そうだ……まだ……左手が……ナイフが……確か……腰に……)
しかし……そのメイジの左手は、予定とは別の方向に動く。
互いの右手を封じたままで、ナタンの左フックが脇腹に突き刺さり、痛みと苦しみに思わず停止……そして、視界に広がるナタンの額を、反射的に防ごうとした。
ゴッ……
「……っひっぃっ……」
メイジの左手は遅く、顔面に頭突きを浴びた。鼻血により、口の奥が鉄臭くなる。目は涙で滲み、なかなか視界が回復しない。
その闇の中、左手首が握られたのがわかった。
ナタンは何度も何度も、額を叩き付ける。メイジの頭は、後ろの馬車の板壁と、前から迫るナタンの頭との間を、何度も何度も往復した。
両手で捕まえている相手の両手から、徐々に力が失われていくのを感じたが、ナタンは構わず額を叩き付ける。
やがて、ナタンの額が割れ、顔も髪も血達磨となり……体力が続かなくなった時。ナタンはようやく頭突きを止め、相手のメイジのボロボロの顔面を確認する。
その時、馬車の中の……ティファニアと、目が合った。
ハーフエルフの少女の感情は、容易に確信できる。恐怖だ。
「……は……ははっ、はっ……」
息が出来ない。苦しい。
ナタンは崩れるようにして倒れ込むと、地面に大の字に寝転がった。
(……俺、今、どんな顔になってんだろ……)
相当に酷いのは、鏡がなくても分かる。
(しかし、なぁ……エルフに怖がられるって、俺……)
恐怖の対象である存在が、怯えた視線を向けた。それも、自分に。それが何だか、とてつもなく痛快なことに思えて、ナタンは笑顔を作る。顔を掌で軽く撫でると、そこにはべっとりと血が付いていた。
(こりゃ、子どもも泣き出すぜ……)
視界の端で、アクセルが杖を振っているのが見えた。取り囲んでいた傭兵達の最後の一人は、首筋から血を噴出させつつ、地面に転がる五人の屍への仲間入りを果たす。
(ハッ。そうだよな……あのガキの方が、よっぽどの化け物……か)
このまま眠ってしまいたくなり、ナタンはそっと、目を閉じた。
しかし次の瞬間、彼の身体に衝撃が走る。何かが、覆い被さるようにして落ちてきたのだ。
「!?」
続いて、打撃音。どうやら本当に眠り掛けていたらしく、ナタンは急いで意識を引き戻し、目を見開く。
また、あの妙な移動法を使ったらしく、いつの間にかすぐ傍に来ていたアクセルと、彼に顔を蹴飛ばされて転倒するドリューブ。
打撃音が“あれ”で……それなら、今、自分の身体に落ちてきた“これ”は?
「……!?」
急いで起き上がり、自分の上にのし掛かっていた老人を助け起こす。
「……チッ、遅かったか」
アクセルの忌々しそうな舌打ち。老人の背に、ナイフが突き刺さっていた。
(……バカか俺はっ!)
ナタンも、歯を軋ませる。
ドリューブを、完全に意識から外していた。所詮戦闘員ではない、何もしないだろうと。
しかし……ドリューブは既に、恐慌の直中にいた。自分の敵であるナタンを、無我夢中で消そうとしたのだろう。
一太刀でもドリューブに浴びせていれば、結果は変わっていたかも知れない。なのに、あんな状況で眠ろうとするなど……気を抜くなど……。
「……落ち着けや、坊主」
猿轡を外された老人は、上体を起こすと、叱るように告げた。
死が近づいているというのに、その声には一種の威厳のようなものがあり……昨日の道化師と、本当に同じ人間なのか疑わしくなった。
アクセルが駆け寄り、ヒーリングを施す。いつの間にか、ドリューブの背に剣が突き立てられていた。
すぐにナイフが抜け、傷は塞がっていったが……アクセルは表情を変えないまま、溜息と共に立ち上がった。
「……やっぱり、分かるもんなのか? メイジには」
「ああ、まあね」
老人の問いに、少年は軽く返す。
ガン……と呼ぶべきなのか、果たして本当にガンなのかは分からないが、この老人が病気で、既に余命幾ばくもないことは分かった。傷は治ったが、僅かに残ったダメージが最後のダメ押しを行ったらしく、生命力は着実に低下している。
そのことを薄々勘付いていたのだろう、老人は「そうか」とだけ呟き、次に声を張り上げた。
「バルシャ! 来いっ」
反応したのは、先ほど落馬したまま気を失っていたらしい、顔に傷のある男。さながらバネ仕掛けの人形のように跳ね起きると、全速力で駆け寄ってきた。
「ボスっ、ご無事で!?」
「いや、そろそろ死ぬな」
詰め寄る男……バルシャという名の彼を、少し煩わしそうに押しやりながら、老人は他人事のように言う。
「……負けたな」
ふと、噛み締めるように呟いた。
「客の情報を漏らし、客の購入した品を盗み出し……まったく、負けた負けた。人生の最後の最後で、こんな醜態を晒すとは。あの世で先代に殺される」
「……な、なぁ、爺さん」
「黙れ坊主、邪魔をするな」
ナタンを黙らせ、頬杖を付く。
「そう言えば、バルシャ」
「はっ」
「後継者の問題が……まだ片付いてなかったな」
「はい」
「折角だ、コイツにする」
老人が見もせずに指した先にいたのは……ナタン。
「……はぁ!?」
「だから黙れ。何度言わせんだクソ坊主が」
「け……けど……」
「こんな大失態やらかした以上、組織は終いよ。新しいボスの元、生まれ変わる必要がある」
「じゃあ、俺じゃなくても誰か」
「いいや、お前だ」
老人は首を振った。ナタンは加勢を求めるようにバルシャを見るが、彼はじっと老人の話に集中している。一言一句たりとも、聞き逃すことのないように。
「……昔の話だ。ワシは奴隷を救いたかった。だから奴隷商人を殺し、運ばれていた奴隷を解放しようとした。しかし、彼等は奴隷になるしか生きる道は無かった。だから買われて来たんだ。逃げれば当然、故郷の家族が責任を負わされる。青臭い正義感に走ったガキの、よくある話だが……そのガキは捕えられ、仲間に加えられて……いつの間にか、奴隷市場を仕切っていた。その頃にはもう、“怒り”を忘れていた」
「怒り?」
「そうだ、怒りだ。怒ることを忘れれば、心が凍っていく。怒れないヤツには、未来が無い。希望が無い。夢も無い。笑えねぇことに、奴隷を扱う自分たちまで、奴隷になっちまった。このバルシャ達だってそうだ。見ず知らずのヤツに、理不尽にぶん殴られたって、怒りはしねぇ。ただ、ボスの命令だけを聞く、人形みてぇなもんだ。……そんなのが上に立っちまったら、また、今回みてぇなことが起きる。客よりボスの身を優先するなんざ、あっちゃならねぇ」
「……その、怒りがありゃいいんなら、尚更俺じゃなくていいじゃねぇか」
「ああ、そうだな。けどな、この場にいる中で、お前以外に誰に任せろって?」
「消去法かよ……」
「そうだ、消去法だ。だが……お前は、青臭い。こっからの人生、何度も何度も怒りを持つだろう。怒ったってどうにもならねぇもんはどうにもならねぇし、現実は変わらねぇ。けどな、その怒りに身を焦がし、苦しんで……それでも、怒りを忘れるな。燃やし続けろ。死ぬまでだ。そうすりゃ、お前は……負け犬達を……導…………」
徐々に……老人の声が、弱まる。
「くそ……まだ……まだ、あるというのに……侭ならん、な……。バルシャ、お前達で……この男を……助けてや……れ」
そっと、瞼が閉じる。バルシャに向けられていた指が、膝の上に降りる。
老人の身体は、二度と動くことは無かった。
一方的だった。
縁もゆかりもないナタンを指し、後継者になれと告げて、老人は息を引き取った。
「……なぁ、ベル」
老人の身体を抱いたまま、ナタンはアクセルを見上げる。
「何?」
「……俺に……何をさせようってんだろな、この爺さんは。見ず知らずの俺を、命を捨てて庇って……恩に思うなら、後を引き継げっていうことか?」
「好きに取ればいいんじゃないかな。こんな場所でも、遺言は遺言だ。それも、命を掛けた言葉。ナタンが真剣に考えた結果なら、その人も許してくれる……と、思うけどね」
どちらにしろ、アクセルにとっては悪くない提案。
役に立つ人員が増えるし、あちらの組織のノウハウも吸収出来る。
これで、ナタンに後を引き継げと命令すれば、彼は……。
しかしついに、アクセルはナタンに任せた。
この場でそのような事を告げることが、何かを冒涜するものだと感じて。
「……わかったよ、爺さん。まとめて、有り難く……俺の“家族”にさせてもらう」