小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第1章 青き春の章

第4話<邂逅弐>その2



(ヤッベェ! 思ったより強かった!?)

 せいぜい、パシッ……くらいの力で良かっただろうに。

 マチルダは床に倒れ伏したが、左頬を押さえつつ、こちらを見つめる。
 その瞳にあるのは、怯え。今更ながら、両者の力関係を理解したのだろう。魔法も使えない今となっては、マチルダが例え数人いようが、バルビエのビンタで弾き飛ばされる。

 奴隷市場も、売り物に傷を付ける筈はないし、もしかしたらビンタされた事など、殆ど無かったのかも知れない。

 別室から見守っていたらしいティファニアが、慌てて駆け寄ってきて、マチルダの身体を支える。いや、支えているつもりなのだろうが、ほとんど抱き付いているようなものだ。彼女も同じく、バルビエに怯えた瞳を向けている。

 「……むほほほ、お馬鹿さんですねぇ」

 心の中でマチルダに謝りながら、バルビエは再び笑った。安心してくれるかも、と淡い期待を抱いたが、その笑い声も、恐怖を焚きつける油にしかならなかった。

 「仮に、ここで私を殺したとして。逃げられるとでも思っているのですか?」

 いや、逃げてもいい。何も、二人の心を無視してまで、縛り付けておこうとは思わない。良心がどうのこうのと言うよりは、二人になるべくプラスな印象を持っていて欲しいという、少々情けない理由ではあるのだが。
 しかし、逃げ出すにしても、成功させて欲しいのだ。

 「お嬢さんだけならともかく、そちらの妹さんは、お耳が大変目立ちますよ? このホテルの敷地から逃げ出したとしても、お二人とも、よく知らない街の中で、どうやって逃げるのですか? どうやってご飯を食べていくのですか? 一体どこで安心して眠るのですか?」

 やはり、そこまでは考えていなかったのか、マチルダは俯いた。

 「……せめて、確実に逃げ出せるようになってから、お逃げなさいな」

 アクセルが立ち上がると、二人は震え出しながら、様子を窺う。

 「では、そろそろ私はベッドに行きますよぉ。お二人も、お部屋にお戻りなさいな。明日には、この街を出ますから、ちゃんとご飯は食べておいて下さいね? それでは、おやすみなさい……」

 バルビエの身体を、別の個室へと移動させる。そしてそのまま、ベッドの上に寝転んだ。

 (……説教臭いのは嫌いなんだけどなぁ……)

 これで、あの二人も大人しくしていてくれる筈……だ。多分。
 ひょっとしたら、また殺しに来るかも知れないが、彼女の力では、内部のアクセルにまでは届かないだろう。
 何か用心の為にしておくべきか、とも考えたが、マチルダもそれほど愚かではない。

 (寝よ)

 そのまま、アクセルは目を閉じた。





 翌朝、起きてから鏡を見てみるが、バルビエの身体には傷一つなかった。

 (まぁ、あったら困るんだけど)

 取りあえず、隣の……二人が寝ているであろう部屋へ行く。

 「むほほ、入りますよぉ?」

 少し待ったが、返事は無い。そっとドアを開けて見ると、粗方消えた食事と……。

 (……そっか)

 部屋は、無人だった。マチルダも、ティファニアもいない。
 このままバルビエの奴隷でいる危険性と、二人きりで逃げる危険性……それらを比べての結論か。それにしても、やはり、浅慮だと思うが。

 (追うか? 流石に知らんふりも出来ないぞ?)

 考えていると、ナタンがやって来た。

 「おや、ナタンさん。どうかされましたか?」
 「お客さんだ」

 ナタンに続いて、顔に真一文字の傷のある男が入ってくる。奴隷市場の者だと名乗った。茶でも用意しようとしたが、彼はそれを丁重に断る。

 「私は、ただの使いとして参りました」
 「むほほ。それで、ご用件は?」
 「昨日の競売の、2番。あなたと最後まで争っていたお客です。我々は、彼にあなたの情報を漏らしました」

 そこまで言われた時、だいたいの見当はついたが……アクセルは、黙って聞き続ける。

 本来、決して漏らす筈のない情報。しかし、主催者側が人質を取られ、バルビエの……更に言えば、バルビエが落札した二人に関する情報を、漏らしてしまったという。
 2番の客の名前は、商人ドリューブ。彼は奴隷市場の責任者を人質にすると、主催者側の人間達に命じ、ホテルからマチルダとティファニアを盗み出させた。

 「盗み出したのは、私です」
 「ふむ……」

 傷の男は、淡々と告げた。バルビエの指が、顎に添えられる。

 「ちなみに、人質というのは……あなたがたのボスで?」
 「はい。昨日、道化師に扮していた進行役です」

 彼が、責任者だったらしい。

 「今、ドリューブは?」
 「既に街の外に。ドリューブに雇われているのは、メイジ二人に傭兵が六。ボスは自分を見捨てるように告げましたが、次のボスは未だ決まっておりません。組織の混乱を避けるため、知っているのは上層部のみ。大々的に手下を動かすことは出来ません」
 「ボスは、未だドリューブに?」
 「はい。何人かで追っていますが、どうやら近くの森の中を通るらしく……」
 「成る程」
 「私からは、以上です」

 そして……。傷の男は、素早く……しかし、何の違和感も感じさせないような動作でナイフを取り出すと、その切っ先を、自分の胸へと向けた。

 アクセルが、バルビエの手を操作してナイフを止めることが出来たのは、その予感があったから。
 あまりにも、男は喋りすぎた。自分の組織の内情まで。

 「お……おいっ」

 ナタンが慌てて、男のナイフを取り上げた。

 「本来、客の情報を漏らすことはない……。それが漏れてしまい、あなたは礼儀として、この私に情報を漏らした。しかし、情報を漏らした者を、生かしておくわけにはいかず……ですか? そして、何も知らない手下達が、あなたの死体を処理すると?」

 そう言いながら、アクセルはペリーコロさんを思い出していた。

 傷の男は、黙っている。流石に全てではなくとも、大部分は当たりなのだろうな……そう思いながら、アクセルは再び笑い出す。

 「むほほ……。命がけの礼儀には、命がけの礼儀で返さないといけませんねぇ。ナタンさん」
 「ん? 何だ?」
 「追いかけますよぉ、泥棒さんを」





 バルビエに情報を漏らしたのは、その男の独断だった。勿論、彼もただ何が起こっているのかということを説明に来ただけで、ドリューブへの対処、ボスの救出を期待していたわけではない。

 追っているのがバレれば、人質であるボスの身も危ない。しかし、それはあくまであちらが脅威を感じるからであって、相手との戦力差に明らかな分があれば、そんなこともないだろう……ということで、バルビエは一人、馬を走らせた。ナタンや組織の人間たちには、森に潜みながらついて来てもらう。

 「むほほほほ、見つけましたよぉ。泥棒さんたち」

 森を抜け、平原に出たところで、バルビエは彼等の馬車の前に飛び出した。肥満体のバルビエだが、実質皮膚と服と、アクセルを足した重さしかない。相手も、気付いていたがスピードを読み違えていたらしく、馬車は軽く滑りつつ停止した。

 馬車は二台。前の一台に乗っているのが、傭兵たち。御者を含めて六人。後の一台に乗っているのが、恐らくドリューブ、マチルダ、ティファニア、ボス、そして二人のメイジ。
 傭兵達が動き出し、後ろの馬車からメイジ二人、そしてドリューブが飛び出し……あっという間に、バルビエに武器を向けた。

 「ドリューブさん、いけませんよぉ。人のものを勝手に持って行っちゃ」

 さて……メイジが二人か。二人の周囲に渦巻く精霊を見てみると、どうも、乱雑な印象を受ける。十中八九ドットクラス、そうでなければラインクラス。間違っても、トライアングルなどではないだろう。まぁ、根拠は乏しいのだが。
 傭兵達は……弓を構えているのが一人、剣を構えているのが四人。もう一人は槍。少々広がり、こちらを包囲している形になっているので、魔法で一掃というのも難しい。

 いつも通り、まずは、会話からスタートすることにした。

 「おーい、お二人さーん。処女はまだ無事ですかねぇー? ついでにボスさんもー」

 後ろの馬車にいるであろう二人に、冗談交じりにそう声を掛けてみるが、失敗だと気付いた。二人とも、喋れない。それに、理解できるのかどうかも怪しい。
 開け放たれた馬車から、三つの顔がのぞいていた。周囲の状況を確認しようとしたマチルダ、ティファニアと……あとの老人と言っていい年齢の男は、話に聞くボスだろう。

 自分を無視されたことに気分を害したのか、ドリューブが口を開いた。

 「お前がバルビエか?」
 「むほほ、そうですよぉ。あのお二人は、あなたには少々手に余るのではないですかねぇ? 大人しくお返し願いたいのですが」

 もしかしたら、ドリューブはアルビオン王国の手の者で、二人の素性を知っているのではないか……そんな予想も浮かんだが、それならば競売の時、借金をしてでも購入しようとした筈だ。いくら何でも一介の商人と一国では、資金力が違いすぎる。

 「殺せ」

 ドリューブは、会話に付き合わなかった。
 バルビエだと確認した後、僅かに口元を歪ませ……一言、告げる。

 矢が空気を切り裂き、バルビエの胸に突き刺さった。

 「ぐっ……」

 バルビエは小さく呻きながら、身体を傾ける。そして落馬すると、横たわったまま動かなくなった。

 「ドリューブ様。ヤツの持ち物、頂いても?」
 「好きにしろ、それに早くな。出来るだけ、森から離れたい」

 いくら人質を取っているからとはいえ、このまま組織が指をくわえている筈がないのは、当然のことだった。メイジ二人が相手だろうが、彼等は死に物狂いで反撃に出る。恐らくは、既に森の中に潜んでいるだろう……ドリューブはそう考えていた。でなければ、バルビエが単騎で来る筈がない。何らかの作戦を立てていたのだろうが、交渉も会話もせずにさっさと殺せば、相手の予定は大きく狂うことになる。
 バルビエというのが、相当の商人であることも知っていた。だからこそ、バルビエ自身には手を出さなかったのだが、こうも早く情報が漏れてしまったのなら、仕方がない。寧ろ、文句を言ってくる人間が一人減ったことを喜ぶべきか。
 当初のドリューブの予定では、このままレオニー子爵領を抜け、組織の手の届かない場所まで逃げることになっていたが……。

 その時、森から一騎、飛び出してきた男がいる。右手に片手剣、左手には手綱。
 そして、それに続くようにもう一騎。弓に矢をつがえた、顔に傷のある男。

 「……おい、さっさと片付けろ」

 傭兵達は、バルビエの死体漁りに忙しいだろう。ドリューブは、メイジ二人にそう告げた。
 たかが二人の平民。それに対するのは、二人のメイジ。
 もしも、森に大勢が隠れていて、それらが一斉に飛び出してくるのであれば、人質を盾にする発想も出ただろう。しかし……そんな面倒なことをする気にはならなかった。
 ただ、手早く、殺してしまえばいいだけだ。

 ドリューブは、自分の馬車へと戻っていく。

 もはや、あの貴族の娘とエルフの娘は、自分の所有物だ。
 何をしようと、誰も咎める者などいない。
 傭兵達には、少なくない金を払っていることだし、彼等が通報する筈もない。
 奴隷市場の人間たちも、縄張りとしているのはたかが一つの街だけ。

 馬車に近づいたドリューブは、マチルダとティファニアの表情に、違和感を覚えた。
 二人とも、呆然と、どこかを見ている。それは決して、自分に向けられているものではない。
 おかしい、と、ドリューブは思う。
 今、あの娘達の視線を集めているのは、自分であるべきだ。抵抗できない強者となった自分を、貴族が、エルフが、怯えに満ちた瞳で、恐る恐る……その一挙手一投足を窺いながら、身を縮めているべきなのだ。

 「おいっ!」

 怒りを露わにしながら、ドリューブは怒鳴った。ふとこちらを振り返るメイジ二人に、お前らに言ったのではないと、心の中で毒突く。
 それでも、マチルダもティファニアも、瞳すら動かさなかった。彼女たちは……いや、その傍にいる人質も、じっと同じ方向を見つめている。

 そしてそこで、ついさっきこちらを振り返ったメイジ達も、呆然として彼方を見つめていることに気付き……。

 ドリューブは、ついにそちらを振り向いた。

 「……やってくれたね、全く」

 聞き覚えのない、少年の声。それが発せられたのは、尻餅をついたり武器を構えたり、様々な反応をしている傭兵達の中心に立つ、バルビエの“内部”からだった。

 胸に矢を生やしたまま立つバルビエの身体が、脱ぎ捨てられた衣服のように萎んでゆく。そして、彼の背中を幼い両手が突き破り……バルビエだったものが完全に地面に落ちると、そこには一人の少年が立っていた。

 「“帰り”も、使わなくちゃならない道具なのに……」

 アクセルは足下のバルビエを眺めながら、右手の杖で軽く自分の首を叩く。

 (杖……!!)

 何が起こったのか、理解など出来はしないが……決してドリューブの味方側ではないであろうメイジが一人、出現した。それだけは、全員が分かった。
 子どもである。そう、まだ幼い子どもであるが、メイジの恐ろしさなど言うまでもない。

 反射的に叫ぶ。

 「おいっ、一人はあのガキを……」

 ドリューブに雇われたメイジの一人はその命令を受け、急いで駆け出そうとして……転倒した。傷の男が放った矢が、左の太腿に刺さっている。更に矢が放たれ、それはうなじへと突き立ち、メイジの口から血塗られた鏃が飛び出した。

 もう一人のメイジは、仲間の死を見て心を引き締める。弓を持つ騎馬にファイアボールを放ち、落馬させると、既に目の前に接近していたもう一騎に向き直った。

 「おらぁっ!」
 「『ブレイド』!」

 騎乗したナタンがすれ違いざま、屈むようにして振り回してきた刃を、メイジは杖を剣とすることで防ぐ。
 メイジはナタンを後回しにして、バルビエの中から現れた少年に向かおうとしたが、ナタンはすぐに馬から飛び降り、再びメイジに斬りかかる。

 再びブレイドの魔法を唱え、近づきすぎたその男に応戦するメイジは、罠であったことを悟った。
 ナタンは決して、退がらない。メイジがどれだけバックステップ、サイドステップを組み合わせて距離を取ろうとしても、執拗に食いついてくる。離れようとはしない。
 剣もそうだ。ナタンが剣で攻撃すると、メイジは魔法剣で受けるが、反対にメイジがさっさと男を切り捨てようとしても、身体を捻って避けるか、軽く弾いて反らすか。決して、“受け太刀”に回ろうとはしない。受け流すのではなく、例えば直角に刃を受けてくれれば……剣で魔法剣を受け止めようとしてくれれば、その剣ごと叩き斬ってやるのに。
 少年のメイジという、予定外の敵が出現したというのに、そのメイジはナタンに対処するしかない。勿論、こんな距離で魔法を使おうとすれば、刹那に致命傷を受ける。

 (こいつは……何で向かってくる!?)

 メイジは、混乱していた。
 仮にも武器を持つ者同士、互いにタダでは済まない。一生モノの怪我を負っても、何の不思議も無い。
 ある程度慎重になるのが定石だろうに、この平民はまるで刃を恐れない。メイジの振るう魔法剣に怯えない。

 (この、平民の男が強い……?)

 一瞬頭に浮かんだ疑問を、メイジはすぐに打ち消す。自分と違い、この男はまともに剣術の訓練をしたことなどないのだろう。その証拠に、男の身体には次々と切り傷が増えているのに対し、自分はまだ、二カ所ほどしかやられていないだろう、と。
 いくら平民とはいえ、この状況で剣の腕の差を認識しないほど愚かではない筈。

 (なら……何で……メイジであるこの俺に近付ける……?)

 メイジは、己が気迫負けしていることに遂に気付かなかった。
 何故これだけ痛みを与えているのに、ナタンは動きを鈍らせないのか。何故これだけ斬りつけても、自分は一度も強烈な一撃を食らわせていないのか。

 何故……メイジである自分だけが、後退っているのか。

 そう……彼が、自分が後退っていることに気付けたのは、人質達が乗る馬車の車輪に、背中をぶつけた時だった。

 (俺が……退がっていた? いや、それより……もう……退がれ……)

 目の前の男が、剣を横薙ぎに払う。
 左脇腹に達しようとするその刃を、メイジは右手の魔法剣の切っ先を地面に向けつつ、受ける。衝撃に備えようと力を入れるが、刃と刃が接触した時、そのあまりにも軽すぎる感触に違和感を覚え、驚愕した。
 驚愕したのは、宙に浮いた相手の剣を見て……相手が、剣から手を離したことを知った故。

 (剣と剣の戦闘で……剣を……手放して……?)

 ナタンは、メイジの……防御しようと、身体の左側へと移動していた右手首を、右手で掴む。そして左拳を握りつつ、その中の人差し指と中指の第二関節を尖らせると、振りかぶらないまま、メイジの右腕の上を滑るように真っ直ぐ、喉を突いた。

 「……!こっ……」

 痛みと衝撃に、メイジの口が開く。耳には、持ち手を失った剣が、地面に落ちる音が届いた。

 (喉を突かれ……詠唱できるのか……いやまずは……魔法剣で……)

 混乱しかける中、右手の魔法剣を手の中で回転させ、男を斬りつけようとしたが……メイジの右手の中で、くるりと杖が回っただけだった。
 既に、魔法の刃は消え去っている。

 (そうだ……まだ……左手が……ナイフが……確か……腰に……)

 しかし……そのメイジの左手は、予定とは別の方向に動く。
 互いの右手を封じたままで、ナタンの左フックが脇腹に突き刺さり、痛みと苦しみに思わず停止……そして、視界に広がるナタンの額を、反射的に防ごうとした。

 ゴッ……

 「……っひっぃっ……」

 メイジの左手は遅く、顔面に頭突きを浴びた。鼻血により、口の奥が鉄臭くなる。目は涙で滲み、なかなか視界が回復しない。
 その闇の中、左手首が握られたのがわかった。

 ナタンは何度も何度も、額を叩き付ける。メイジの頭は、後ろの馬車の板壁と、前から迫るナタンの頭との間を、何度も何度も往復した。
 両手で捕まえている相手の両手から、徐々に力が失われていくのを感じたが、ナタンは構わず額を叩き付ける。

 やがて、ナタンの額が割れ、顔も髪も血達磨となり……体力が続かなくなった時。ナタンはようやく頭突きを止め、相手のメイジのボロボロの顔面を確認する。

 その時、馬車の中の……ティファニアと、目が合った。
 ハーフエルフの少女の感情は、容易に確信できる。恐怖だ。

 「……は……ははっ、はっ……」

 息が出来ない。苦しい。
 ナタンは崩れるようにして倒れ込むと、地面に大の字に寝転がった。

 (……俺、今、どんな顔になってんだろ……)

 相当に酷いのは、鏡がなくても分かる。

 (しかし、なぁ……エルフに怖がられるって、俺……)

 恐怖の対象である存在が、怯えた視線を向けた。それも、自分に。それが何だか、とてつもなく痛快なことに思えて、ナタンは笑顔を作る。顔を掌で軽く撫でると、そこにはべっとりと血が付いていた。

 (こりゃ、子どもも泣き出すぜ……)

 視界の端で、アクセルが杖を振っているのが見えた。取り囲んでいた傭兵達の最後の一人は、首筋から血を噴出させつつ、地面に転がる五人の屍への仲間入りを果たす。

 (ハッ。そうだよな……あのガキの方が、よっぽどの化け物……か)

 このまま眠ってしまいたくなり、ナタンはそっと、目を閉じた。

 しかし次の瞬間、彼の身体に衝撃が走る。何かが、覆い被さるようにして落ちてきたのだ。

 「!?」

 続いて、打撃音。どうやら本当に眠り掛けていたらしく、ナタンは急いで意識を引き戻し、目を見開く。
 また、あの妙な移動法を使ったらしく、いつの間にかすぐ傍に来ていたアクセルと、彼に顔を蹴飛ばされて転倒するドリューブ。

 打撃音が“あれ”で……それなら、今、自分の身体に落ちてきた“これ”は?

 「……!?」

 急いで起き上がり、自分の上にのし掛かっていた老人を助け起こす。

 「……チッ、遅かったか」

 アクセルの忌々しそうな舌打ち。老人の背に、ナイフが突き刺さっていた。

 (……バカか俺はっ!)

 ナタンも、歯を軋ませる。
 ドリューブを、完全に意識から外していた。所詮戦闘員ではない、何もしないだろうと。
 しかし……ドリューブは既に、恐慌の直中にいた。自分の敵であるナタンを、無我夢中で消そうとしたのだろう。
 一太刀でもドリューブに浴びせていれば、結果は変わっていたかも知れない。なのに、あんな状況で眠ろうとするなど……気を抜くなど……。

 「……落ち着けや、坊主」

 猿轡を外された老人は、上体を起こすと、叱るように告げた。
 死が近づいているというのに、その声には一種の威厳のようなものがあり……昨日の道化師と、本当に同じ人間なのか疑わしくなった。

 アクセルが駆け寄り、ヒーリングを施す。いつの間にか、ドリューブの背に剣が突き立てられていた。
 すぐにナイフが抜け、傷は塞がっていったが……アクセルは表情を変えないまま、溜息と共に立ち上がった。

 「……やっぱり、分かるもんなのか? メイジには」
 「ああ、まあね」

 老人の問いに、少年は軽く返す。
 ガン……と呼ぶべきなのか、果たして本当にガンなのかは分からないが、この老人が病気で、既に余命幾ばくもないことは分かった。傷は治ったが、僅かに残ったダメージが最後のダメ押しを行ったらしく、生命力は着実に低下している。
 そのことを薄々勘付いていたのだろう、老人は「そうか」とだけ呟き、次に声を張り上げた。

 「バルシャ! 来いっ」

 反応したのは、先ほど落馬したまま気を失っていたらしい、顔に傷のある男。さながらバネ仕掛けの人形のように跳ね起きると、全速力で駆け寄ってきた。

 「ボスっ、ご無事で!?」
 「いや、そろそろ死ぬな」

 詰め寄る男……バルシャという名の彼を、少し煩わしそうに押しやりながら、老人は他人事のように言う。

 「……負けたな」

 ふと、噛み締めるように呟いた。

 「客の情報を漏らし、客の購入した品を盗み出し……まったく、負けた負けた。人生の最後の最後で、こんな醜態を晒すとは。あの世で先代に殺される」
 「……な、なぁ、爺さん」
 「黙れ坊主、邪魔をするな」

 ナタンを黙らせ、頬杖を付く。

 「そう言えば、バルシャ」
 「はっ」
 「後継者の問題が……まだ片付いてなかったな」
 「はい」
 「折角だ、コイツにする」

 老人が見もせずに指した先にいたのは……ナタン。

 「……はぁ!?」
 「だから黙れ。何度言わせんだクソ坊主が」
 「け……けど……」
 「こんな大失態やらかした以上、組織は終いよ。新しいボスの元、生まれ変わる必要がある」
 「じゃあ、俺じゃなくても誰か」
 「いいや、お前だ」

 老人は首を振った。ナタンは加勢を求めるようにバルシャを見るが、彼はじっと老人の話に集中している。一言一句たりとも、聞き逃すことのないように。

 「……昔の話だ。ワシは奴隷を救いたかった。だから奴隷商人を殺し、運ばれていた奴隷を解放しようとした。しかし、彼等は奴隷になるしか生きる道は無かった。だから買われて来たんだ。逃げれば当然、故郷の家族が責任を負わされる。青臭い正義感に走ったガキの、よくある話だが……そのガキは捕えられ、仲間に加えられて……いつの間にか、奴隷市場を仕切っていた。その頃にはもう、“怒り”を忘れていた」
 「怒り?」
 「そうだ、怒りだ。怒ることを忘れれば、心が凍っていく。怒れないヤツには、未来が無い。希望が無い。夢も無い。笑えねぇことに、奴隷を扱う自分たちまで、奴隷になっちまった。このバルシャ達だってそうだ。見ず知らずのヤツに、理不尽にぶん殴られたって、怒りはしねぇ。ただ、ボスの命令だけを聞く、人形みてぇなもんだ。……そんなのが上に立っちまったら、また、今回みてぇなことが起きる。客よりボスの身を優先するなんざ、あっちゃならねぇ」
 「……その、怒りがありゃいいんなら、尚更俺じゃなくていいじゃねぇか」
 「ああ、そうだな。けどな、この場にいる中で、お前以外に誰に任せろって?」
 「消去法かよ……」
 「そうだ、消去法だ。だが……お前は、青臭い。こっからの人生、何度も何度も怒りを持つだろう。怒ったってどうにもならねぇもんはどうにもならねぇし、現実は変わらねぇ。けどな、その怒りに身を焦がし、苦しんで……それでも、怒りを忘れるな。燃やし続けろ。死ぬまでだ。そうすりゃ、お前は……負け犬達を……導…………」

 徐々に……老人の声が、弱まる。

 「くそ……まだ……まだ、あるというのに……侭ならん、な……。バルシャ、お前達で……この男を……助けてや……れ」

 そっと、瞼が閉じる。バルシャに向けられていた指が、膝の上に降りる。
 老人の身体は、二度と動くことは無かった。



 一方的だった。
 縁もゆかりもないナタンを指し、後継者になれと告げて、老人は息を引き取った。



 「……なぁ、ベル」

 老人の身体を抱いたまま、ナタンはアクセルを見上げる。

 「何?」
 「……俺に……何をさせようってんだろな、この爺さんは。見ず知らずの俺を、命を捨てて庇って……恩に思うなら、後を引き継げっていうことか?」
 「好きに取ればいいんじゃないかな。こんな場所でも、遺言は遺言だ。それも、命を掛けた言葉。ナタンが真剣に考えた結果なら、その人も許してくれる……と、思うけどね」

 どちらにしろ、アクセルにとっては悪くない提案。
 役に立つ人員が増えるし、あちらの組織のノウハウも吸収出来る。
 これで、ナタンに後を引き継げと命令すれば、彼は……。

 しかしついに、アクセルはナタンに任せた。
 この場でそのような事を告げることが、何かを冒涜するものだと感じて。

 「……わかったよ、爺さん。まとめて、有り難く……俺の“家族”にさせてもらう」

-6-
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