小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第2章 朱き夏の章

第16話<混沌の街にて>


「……で?」

 グラスの中でくるくると、蜂蜜色の水面が揺れる。それなりに激しい動きだが、一滴も零れてはいない。いつもの潰れた酒場で、いつものボロ椅子に腰を下ろすバッカスは、唯一と言っていい訪問者に続きを促した。

「一年前の、エスターシュ大公の病死。それについて、お聞きしたい」

 ゼナイドはワインを呷ると、流し目でバッカスを見る。

「何でそんなことを?」
「では、逆にお聞きします。何故、理由を?」

 普通の質問ならば、バッカスの返答は早い。しかし、彼は理由を尋ねてきた。つまりその質問は、彼にとって、普通の範疇にはない。
 言葉の裏で、バッカスは聞くなと言っているのだ。
 それを理解していながら、ゼナイドは引き下がらない。彼の忠告に悪意はなく、旧友の娘に対する思いやりからのそれであることを理解した上で。

「……話題を変えないのなら、俺はお前の亡骸を担いで、ニヴルヘイムを目指すことになる」

 しかし、バッカスは変わらず頑なだった。嘘はつかず、頑固に秘密を守る。拷問したところで、吐くような人間ではない。

「そこまで、憚られることなのですか?」
「…………」

 特に言葉を返さず、バッカスはグラスを空けた。

「……もう一つ、お聞きしたいことが」
「おう、何だ?」

 ゼナイドが諦めれば、途端に彼は機嫌を直す。ゼナイドとて、エスターシュ大公の一件にそう簡単には近付けないと察していた。そしてその重大性は、彼女の予想を超えていることも。

「ラヴィス子爵領、ゼルナの街。そこにある娼館、『イシュタルの館』についてです」
「……ほう」

 片側の唇を歪に吊り上げ、バッカスは相槌を打った。

「ご存じですか?」
「ああ、知ってる」
「お願いします」
「あの子爵領の発展を裏から支える、非合法な組織の根城だ。ボスは、ナタンという男。補佐にバルシャという男がいたんだが、そいつは一年前に死亡して、現在は妹が跡を継いでいる。バルシャ2、と呼ばれているな」
「一年前、ですか」

 ゼナイドは含みを持たせてそう言ったが、バッカスは気付かぬ振りをする。椅子がギシリと呻き声を上げ、大柄な二人に抗議した。

「表向きには、ラヴィス子爵領のみの縄張りだが、相当に周囲へ根を張っている。支配下へ収める、と言うよりは、他の組織をそのまま残して、構成員を一新させた上で、協力体制……連合のような形で影響力を強めているな。まぁ、上下関係ははっきりしているようだ。中心国家と属国に例えられる」
「……強いのですか?」
「ふむ、そうだな。その質問には答えたくないな」

 分かり易い返答と言えた。

「お前は知らないだろうが、とにかく、あの子爵領自体が異質と言える。この数年で、あの片田舎は知る者ぞ知る巡礼地となった」
「ラヴィス子爵の長男、アクセル・ベルトランが、領主代行となってから、ですか?」

 暫しの沈黙の後、諦めたかのように、バッカスは溜息混じりで頷いた。

「そう……。今、あのゼルナの街は、四つに分けられる。リーズという、アクセルの元家庭教師が領主代行を務める、執政庁の“北区”。『イシュタルの館』、その他風俗店が集まる“俗界東区”。在俗司祭アクセルを始め、ブリミル教の関係者が集まる、『聖アガーテ修道圏』を中心とする“聖界西区”。ホテル『初月の館』のある“商会南区”。東のヤクザと西のブリミル教が対立し、その間に北の役人と南の商人が立つという、秩序と混沌の並び立つ街だ。ただ、南区の商人達は、街の発展を支えてきた東区に好意的だし、北区と西区は貴族としての繋がりがある。事実上、斜め線が入った状態だな」

 そこまでで一度言葉を切り、バッカスは蜂蜜酒を呷る。そしてグラスをテーブルに置いた時、彼はふと、思い至った。

「……ゼナイド。この程度の情報、お前も既に集めている筈だ。何でわざわざ聞きに来た?」
「貴方がアクセル・ベルトランについてどれ程知っているか、それを確かめるためです」

 バッカスは唇をへの字に結ぶ。そうやって、会話を止めたいという意志を示した。が、ゼナイドは更に追求する。

「バッカス殿。貴方は、怪人フーケの正体をはっきりと知っていた。アクセルという存在の特異性についても。私とアクセルの戦いを止めず、寧ろそれを望んでいたところを見ると、貴方は、怪人フーケを終わらせたかったのではないか? 私はそう思う。貴方は、アクセルがこれ以上、裏の仕事に手を染めないうちに」

 ゼナイドは咄嗟に言葉を切る。拳も、刃も、魔法も出なかったが、それでもバッカスははっきりと、殺気を飛ばしてきた。ゼナイドですら、口を閉ざす程の殺意を。

「……旧友の娘よ。あまり、この俺に幻想を抱くな」

 こちらに背を向けてしまった彼の表情は、確認できない。

「いいか、ゼナイド。これからもし、アクセルを殺すか生かすか、そんな選択を迫られる時が来たならば……迷い無く殺せ。俺が責任を持って、後始末をする」
「……!?」
「あいつはいいヤツだ。生きていて欲しい。だが無理なのだ。生かせば、多くの者達が不幸になる。国家が瓦解するほどに、多くの人間が、だ」

 未だ満たされたままのグラスを持ち上げると、バッカスはそれを傾け、つぅ、と、糸のように床に垂らす。淡い灯火で煌めく黄金色の糸は、床を黒く染めていた。

「惜しい。惜しいが、殺さねばならない。俺は所詮、裏のドブ浚いだ。因果なんてもんは、気にしちゃいない。あいつは悪くないんだが、悪くなくても殺さなけりゃならん。そして、アクセルを殺さねばならない羽目になったのは……その原因を作ったのは、間違いなく、俺と俺の仲間達だ。つまり、お前の父親が原因でもある」
「どういうことですか?」

 険を増した顔のまま、ゼナイドはグラスから手を離す。返答次第では、攻撃を仕掛けるつもりだった。

「三十五年前の不始末さ。なぁ、ゼナイドよ。グラモン家かアクセルか、お前は一体、どちらを選ぶんだ?」
「…………」
「大事なもんなんて、一つにしとけ。その方が、悲しまなくて済むからな」








 芳しい香りが、意識を現実へと誘う。嗅覚に続いて覚醒した聴覚が、小鳥の囀りのような音を発見し、それが笑い声だということを認識する。
 瞼を上げれば、我が家のベッドの上。
 小さく呻き声を上げて身体を起こすスカロンは、枕元のカーテンを引き開ける。攻撃のように鋭い光が飛び込み、思わず顔を背けた。どうやら、既に昼らしい。

「……んむっ」

 首を振って意識を支え、用意されていた部屋着に袖を通す。夜が明ける前に寝床に入ったので、ぐっすりと眠れた。一瞬、もう少し余分に眠ろうかとも考えたが、腹の虫に起こされるに決まっている。
 寝室から出て、一階への階段を中程下りたところで、キッチンから声が聞こえた。

「お。うまいうまい」
「当たり前よ。私、もう12になったんだから。一人前のレディだわ」
「そうだね、ごめん」

 女の子の声と、男の子の声。片方は娘だと知っているが、もう片方は違う。

「…………」

 階段の手摺りに、稽古用の木剣が立て掛けてある。スカロンの右手は、実に自然な動作でそれを掴んだ。そうする以外の選択肢など存在しないかのように。軽く首を鳴らし、鼻で嗤うように息を吐く。

 何をしているのだ、この馬の骨は。
 ここで、何をしている?
 ボス・ナタンから頂いたこの私の家で?
 私と娘が寝起きするこの家で、私の娘に、何をしている?

 次の瞬間、堰を切ったように怒声が溢れ出した。

「……うちのっ、ジェシカにぃぃぃぃ!」

 キッチンに飛び込む。包丁を握っていた娘が、反射的に振り返った。目標は、その隣で背を向けたままの少年。いや、つまりは、男。

「何をしているぅぅぅ!!?」

 問答無用で振り下ろされた木剣だが、その威力は彼の力量の場合、真剣と遜色ない。

「こっちの台詞だよ」

 呆れたように振り向いた少年は、恐ろしい攻撃を両手で挟み取る。止められたことに対する驚きではない。驚いている暇は無かった。下着の中に氷を突っ込まれたかの如く、冷静さが復活する。
 頭に巻いたペンタゴン柄のバンダナから、僅かに若草色の髪が飛び出ている。その下の空色の瞳が、失望と嘆息を以って、少年の心情を実に雄弁に教えくれた。

「……おはようございます」

 たっぷり十秒ほどの猶予の後、表情を変えぬまま挨拶をしたスカロンの頬を、一筋の汗が流れる。

「ご飯、もう出来るから。顔洗っといで」
「……はい」








 昼食の席でも、相変わらずスカロンは悄然としていた。

「……いつまで気にしてるの?」
「しかし……」
「寝起きの悪さくらい、もう十分に理解してるって」

 そう言いって笑いながら、アクセルは水差しを手に取る。
 この少年が恐ろしく多忙であることは、スカロンとてよく知っている。そんな忙しさの中、こうしてジェシカの様子を見に来て、共に料理をしてくれるのだ。自分の祖父と彼が親友とはいえ、ここまで気に掛けられれば、流石に恐縮である。歴とした貴族であれば、尚更に。
 貴族を襲えば、その場で一族皆殺しは当たり前なのだ。それでも笑って許すこの少年は、やはり常の貴族とは違う。

(……いや……)

 スカロンは、心の中で否定した。
 この少年は、貴族として異質なのではない。人として、異質な存在なのだ。

「いやぁ、しかし。ジェシカも、オムレツ作るの上手になったよねぇ」
「でしょ? もう卵なんて、片手で割れちゃうんだから」

 ジェシカと談笑するアクセルを見ていると、あの光景が浮かぶ。男達を嬉々として生き埋めにしていたあの少女と、この少年は、紛れもない同一人物なのだ。

 始め、この少年は、領主代行としてこの街にやってきた。そしてその日に、ナタンと出会い、彼をヤクザ組織のボスにすることを決めた。確かその頃は、未だ九歳。十にも満たない少年の発想ではない。さながら、怪物だ。
 しかしその怪物は、流れてきた自分を受け入れ、信用し、姪の命を救ってくれた。

「ねぇ、聞いてる? パパ」
「え?」

 思わず、間の抜けた声を返す。気付けば呆れ顔のジェシカと、困り笑いのアクセルが、揃って自分を見ている。

「いや……その……」
「もう、まだ寝惚けてるの? 今度、この街にサーカスが来るんだって」
「無名だけど、パフォーマンスはすごいって噂だよ。『バロックワーク・サーカス』だって」

 ジェシカはテーブルに身を乗り出すと、目を輝かせた。

「アルビオンのサーカスって、すごいんでしょ!? 右の鼻の穴から入った蛇を、左の鼻の穴から出したり! 檻の中の動物が、女の人になったり! 投げたナイフを、歯で噛み止めたり!」
「そうそう、ハルケギニアで一番っていうよね。『アトミック・サーカス』とか、有名なのは半分以上アルビオンのサーカスだし」
「行きたい! ねぇ、パパ、いいでしょ?」

 殆どテーブルの上に上っていたジェシカを叱り、スカロンは渋い顔をする。娘は可愛いが、自分が連れて行ってやれるかは分からない。

「ねぇ、いいでしょー?」
「ちょ……」

 ジェシカの真似のつもりなのか、アクセルまで首を傾げてきた。戸惑うスカロンには構わず、二人揃って、首を傾げたままにじり寄ってくる。

(この人は……!)

 アクセルが、このような年相応の仕草をしてくると、非常に戸惑うのだ。スカロンにとっては恩人であり、上司にも当たる。そのアクセルから言われれば、拒否はし難い。彼もそれを知った上で、意地の悪い真似をしてくるのだ。

「……わかった。行っていい」
「やった! テファも誘おっと!」
「ただし。一人では動かないこと。ちゃんと前もって私に言うこと。周囲の迷惑になるような行動は……」
「また始まった」
「こら、ジェシカ」
「はいはい、わかってるわよ。お行儀よくしてるってば」

 手早く皿を片付け、ジェシカは耳を塞ぐ真似をしながら逃げ出した。席を立とうとしたスカロンだが、溜息をついて座り直す。
 ふと、アクセルを目があった。

「……いつもいつも、すみません」
「ん? 何が?」
「お忙しい中、ジェシカを気遣って頂いて」
「気にしないでよ。いい子だし、テファの友達でもあるしね」

 ニコニコと笑いつつ、アクセルは林檎を切り分ける。シュルシュルと帯状の皮が、途切れもせず皿の上に重なっていった。

「そうだ、スカロン。ちゃんとお店にも顔出しなよ? 君が店長なんだから」
「そのことなんですが、やはり、他の誰かに任せるわけには……」
「駄目。君は他の皆と違って、娘さんがいるんだ。金はいくらでもあった方がいいだろ?」
「しかし……」
「うるさいよ。ネガティブで後ろ向きなのは、僕だけで十分だ」

 アクセルの断固とした言い方に、スカロンも、それ以上口を挟めなかった。








 昼食後、スカロンは貝殻紋の羽織に袖を通すと、専用の警棒を腰のベルトに差し込む。枝分かれしたような奇妙な形のそれは、通称『ディマン』……正式には『テンハンド・フォー・エイトレス』という名の、“傑作卿”の作品だった。図案を出したというスカロンの祖父、そして実際に形にしたアクセルの二人は、そのどちらでもなく、“ジュッテ”と呼んでいる。
 羽織の前を結び、スカロンは自宅のドアを閉めた。

 ゼルナの街は混沌としているようで、しっかりと区分けがされている。東区の……イシュタルの館の関係者であるスカロンの自宅は、南区と東区の境目の辺り、新築が並ぶ住宅地にあった。親子二人で住むには、十分すぎるほどの住居である。

「おう、おはようさん」
「おはようございます」

 庭木に水をやっていた、隣の老人と挨拶を交わし、彼は通りの流れに加わった。

 ゼルナの街の噂を聞きつけた人々は、トリステインのみならず、ハルケギニア中から集まってくる。ある者は学問を志し、ある者は酒池肉林を夢見、ある者は今晩の夕食と寝床を求めて。ここはブリミル教の聖域でもあり、また裏通りの住人の集積地でもあった。さながら選別作業の如く、人々は己の目指すものによって、東西南北へと振り分けられていく。貴族は北へ、聖職者は西へ、ヤクザ者は東へ、商売人は南へ。人々の毛並みは、それぞれの中心地へ行くほど一層濃密になっていく。

 小道を使い、最短距離で向かうスカロンは、やがて街中央の噴水広場からイシュタルの館へと続く大通りに出ると、屋台村の前に差し掛かった。

「貴様っ、一体何をしておるか!」

 声のした方向へと顔を向ける前から、貴族の怒声であることは予想できる。そして振り向いてみれば、事実そうだった。
 マントを風に靡かせる中年の貴族が、座り込む少年を睨み付けている。状況を見るに、焼き鳥を買い食いしようとした少年が貴族にぶつかり、その服にタレが飛び散ってしまったのだろう。震え、物も言えないまま青ざめる少年を前に、貴族は既に杖を抜いていた。

 良く言えばおおらか、悪く言えばいい加減なアクセルと接していると忘れそうになるが、これが貴族なのだ。彼は少年を私刑に処す権利を持ち、少年はそれに服す義務がある。

(まずいな)

 足早に近付きながら、スカロンは腰に手を回し、ディマンの柄を握った。とにかく、貴族の行動を阻止しなければ少年が危ない。
 その時、不意に周囲が暗くなった。いや、暗くなったのは、スカロンが陰になったからだ。彼の身長を軽々と飛び越えた一人の女性が、その目の前に降り立つと、そっと貴族によりかかり、杖を握る手に自らの指を添える。驚いて振り向く貴族に、銀髪の彼女は深紅の瞳で笑いかけた。

「お大尽様、どうかなさったので?」
「な……何だ貴様は」
「あら、もしかして」

 彼女はぐいと、息を嗅がんばかりに顔を近付ける。

「貴族様は、今朝、この街へ到着されたばかりですね?」
「む」

 当たっていたらしく、貴族は唇を結んだ。

「何故分かったのかって? それは勿論、貴族様からタララの香りがしたからですわ。南街道の道端に咲き乱れる、タララの花……。あら? だとすると、もしかして徒歩で?」
「あ、ああ。そうだが……」

 途切れずに続く言葉の嵐に、貴族は怯む。その動揺につけ込むように、彼女は更に続けた。

「まぁまぁ、それは大変お疲れ様でした。しかし貴族様、素晴らしい健脚をお持ちでいらっしゃる。ここだけの話なのですがね? 貴族の方は皆様、馬車か馬でいらっしゃって……下世話なんですが、ほら、ね。足腰が弱いと、アッチの方も。その点貴族様、もしや、相当にお強いのでは?」
「……まぁな。改めて、誰かに言う程ではないが……」

 段々と気をよくしてきたらしく、貴族の顔に余裕が見える。

「それはそれは! でしたら、一つ肩慣らし、いや腰慣らしなどどうでしょう?」
「どういうことだ?」
「まずは、ほら、この先の個室付きの浴場でさっぱりして、ね?」
「ほう。それは?」
「長旅の疲れを、ゆっくり取って頂いて……。一人、娘がお手伝いするんですが、そこで……と、ここからは、ちょいとお耳を拝借」

 声を潜め、彼女は貴族の耳で囁き始める。

「何? ……ほう、口で? ……そこまで……!?」
「ええ。ちょうど、お召し物も汚れてしまいましたし……あ、いや、失礼しました。しかしですねぇ、貴族様。ここでは服なんて必要ない時間の方が多いですよ? 何しろ、今お話ししたのはほんの序の口。朝から晩まで、晩から明け方まで、ご存分に……」

 既に貴族の視界に、未だ震えている少年など存在しなかった。期待に顔を赤くし、機嫌良く立ち去る貴族の背を見送ると、銀髪の女性は少年を振り向く。

「何だい、あんた。さっさと逃げればいいんだよ、こういう時は」

 ロングスカートを折り曲げ、少年と目線を合わせる彼女は、ポケットから飴玉を取り出すと、彼の手に握らせる。

「ま、次から気をつけな。ちゃんと前見て歩きなよ」
「あ……ありがとう」

 ふと、柔和な笑みを浮かべ、少年の頭をかき回す。頭を下げ、何度も礼を言って走っていく少年を見送ると、彼女は今度は、スカロンの方を向いた。

「……手」
「え、あ……」

 未だ、ディマンの柄を握ったままだったことに気付き、スカロンはバツが悪そうに羽織を直す。

「ったく。何でもかんでも、力尽くってわけにはいかないだろ?」
「……返す言葉もありません、フラヴィ殿」

 そう言いながら、スカロンは内心、無理だと思った。無愛想な自分には、あのような八方丸く収める接客は不可能である。
 フラヴィは腰に手を当て、呆れたように溜息をついた。

「あんたもいいかげん、愛想の一つでも覚えなよ。慣れりゃ、自然に出来るからさ」
「……ベル殿にも、同じことを言われました」
「やれやれ。あいつも何考えてんだろうねぇ? 自分の店の一つを、あんたに任すなんてさ」
「フラヴィ殿からも、口添え頂けませんか? 私には無理だと、分かり切っています」
「あ、それは駄目」

 縋るような思いで頼んでも、フラヴィは実にあっさりと手の平を返す。

「しかし、今……」
「まぁ、反対っちゃ反対だけどねぇ。ベルにだって、何かしら考えはあるんだろうさ。というわけで、諦めな。あたしがベルを止められる訳ないし」

 スカロンは項垂れた。考えてみれば、ボス・ナタン以外の誰が、あの少年を止められるのだろう。

「それにしても……珍しいですね、こんな昼間に」
「あたしだって、完全に夜行性ってわけじゃないさ。……まぁ、昨夜から仲間と飲み会してて、これから寝るんだけどね」
「身体を壊しますよ」
「甥っ子が生意気言ってんじゃないよ。……って、そうか……そうだったね。あんたはアタシの甥っ子で、アタシはあんたの伯母さん、か。…………はぁ」
「自分で落ち込まないで下さい」








 “泉の蒼き舞踏”亭

 その看板の前に立つたびに、スカロンの肩は重くなり、足取りは鈍くなる。溜息の一つや二つ、身体の外に追い出さずにはいられなかった。

「……失礼する」

 努めて硬い声で告げ、彼は店の中へと入った。

「あ、店長! 久しぶり」

 近くにいた娘が、無邪気に駆け寄ってくる。スカロンが思わず後退りそうになったのは、その格好にあった。
 花びらをあしらった飾り付きのサンダルは、構わない。しかしこの制服は、いつ見ても大問題だろう。下着も何も付けず、制服のエプロン一枚だけ。しかも布地は薄く、乳房の先端ははっきりと浮き出て、隠れようともしない。後ろを向けば勿論、背中から太腿にかけて、布など一切無い。

「……何か羽織りなさい」

 出来るだけ他の場所へ視線が向かないよう、スカロンは怖い顔をして、自分の娘とほぼ変わらない年齢の少女を睨む。その視線が虚勢であることは、店員の娘全員が知っていた。

「えー? でも、これが制服ですしー」
「やめろ!」

 エプロンの裾を持ち上げようとした少女の動きに、思わず声が出るが、足の付け根にうっすらと生えた産毛は、視界にはっきりと焼き付いてしまった。

 喫茶店、と言っていいのだろうか。紅茶やハーブティー、そして軽食を取り扱ったこの店の最大の特徴は、言うまでもなく特殊な制服だった。確かに、全裸ではない。隠すべきところは何とか隠せているし、客が店員に触れることは禁止されている。ただ、思わず大事なものを着忘れて、うっかり薄手の布地を使ってしまっているだけだ。
 アクセルがこの店を考え、そして始めたのが九歳の頃だと聞いた時、たちの悪い冗談だと彼は思った。

(……一体、どこからこんな発想が……)

 スカロンは目を閉じ、腕を組み、顔を強張らせる。

「店長? 店長?」
「……何だ」
「新人の面接があるんですけど、お願いしますね」
「……ベル殿に言え。あの人の店だ」
「でもオーナーは、店長に任せるそうですよ? “スカロンならいい娘を選ぶだろう”って」

 頭を抱え、その場に座り込みたくなった。
 一つ咳払いをして、彼は薄目を開ける。不思議そうにこちらを見上げる少女と目を合わせたまま、諭すような口調で切り出した。

「いいか。私には、君と同じくらいの娘がいる」
「そうですね」
「そして私は、君たちに、制服を着て接客しろ、と指導するわけだ」
「そうですね」
「どう思う? 自分と変わらない年齢の少女に、そんな格好をさせる父親を」
「どうでもいいですね」
「何でそうなるんだ!」

 声を荒げるスカロンだったが、少女はエプロンの裾を掴むと、思い切り上に持ち上げる。今度は足の付け根から胸部まで、全て露わになった。

「ぶふぉっ!?」

 吹き出し、スカロンは顔を背ける。近くのテーブルについた手が、ぶるぶると震えていた。

「もー。店長、いい加減慣れてくださいよー。そんなんじゃ、やっていけませんよ?」
「こ……この……!」

 自分が店員たちに呆れられ、からかわれていることは理解している。

(何だ? ベル殿は一体、私に何の怨みが?)

 そんなものは無い、ということも理解しているが、勘繰らずにはいられないのだ。

(まさか、ただの嫌がらせか!? 戸惑う私を見て、密かに嗤っているのか!?)

 案外、それが正しい気もしてくる。

「……オーナー、言ってましたよ? あんまり駄々こねるようなら、店長に羽織だけで接客させるって」
「そっ、それで一体誰が得をすると言うのだ!?」

 間違いなく、それが正しい気がした。


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