小説『大切なもの(未定)』
作者:tetsuya()

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佳代は博と相談した結果、文江に病名と余命を告げることにした。隠し通すという選択肢もあったけど、大事なことは包み隠さず伝えてあげるほうがいい。

 文江は病名を告げられると、ごめんねと涙を流す。真に迫ったときの涙は映画などとの作り物とは違い、感極まるものがある。これまでに流した文江の涙は鬱陶しいとばかり思っていたが、今回は真珠の涙と同じくらいの価値がある。

 文江の泣き崩れる姿を見ていると、伝えない方がよかったのかなと後悔した。病気を知って一番苦しむのは本人であることが抜け落ちていた。

 この世には知ったほうがいいことと、知らないままのほうがいいことの二つある。知らぬが仏という諺があるように、知らないからこそやっていけたりもする。

 二人は言動が与える影響をもう少し考える必要もあった。ほんのちょっとのすれ違いで、死を決意してしまうことがあるくらい心は脆い。自分では大したことないと思っていても、相手の取り方によっては取り返しがつかなくなる。失ったものは二度と戻ってこない。
 
 早速、伝えたことが悪い方向に出る。入院費を払えないのを危惧した文江は、今すぐに首を吊って自殺すると言い出した。私なんか生きていてもしょうがないとやけになっている姿は、これまでつもりにつもったストレスを一気に爆発させているようだった。生きるために我慢する必要がなくなると、わたしもこうなってしまうのかな。

 文江の意思を尊重して、ほんの一瞬だけ死なせてあげようかなと思ったものの、すぐに止める。佳代のわがままにすぎないかもしれないけど、長く生きて欲しい。大切な人をすぐには死なせたくない。普段ないがしろにしただけに説得力にかけるかもしれないけど、思いをできるかぎり込めて伝えた。

「私はお母さんに一日でも長く生きて欲しいと思ってる。お願いだから首を吊るなんて考えはよして」

 博もすかさず続く。声に非常に強い意志が込められていた。

「そうだよ。ここまで育ててくれた最大の恩人に、長く生きて欲しい」

 二人の言葉を聞いても文江の心は変わらない。死ぬといって訊かなかった。

 文江の心には母親としての責務を果たしていないのに、娘や息子に借金を背負わせることに強い抵抗があるのだろう。三食塩粥生活を強いたり、オモチャも満足に買ってやれなかったのに、最後は借金を背負わせて死ン出しまう自分にふがいなさを感じているようだった。

 アパートで自殺することが正義だと決め付けている母に、自殺したらアパートに払うお金の方が高くなることを伝える。人が死ぬ時に、お金の話をすることは論外ではあるが、自殺を思いとどまらせるために止むを得まい。

 それを訊いた母はアパートでの首吊り自殺は思いとどまったものの、事態は全然よくならなかった。別の方法で自殺すると言い出した。

「お金が問題になるんならトラックや車に惹かれて死ねばいいんじゃない。電車だと遺族が大変になるものね」

 佳代は強く首を横に振る。到底許容できない。殺人幇助と同様で、人を轢けば罪に問われ、人生を棒に振ることとなる。トラックや車の運転手の人生を壊す選択肢を思い描くのはやめてほしい。彼らにだって守るべきものがある。

 それを伝えると、今度は安楽死したいと言い出した。死ぬ方法をよく次々と思いつけるな。何が一つにすがりついたときの人間の執念はすさまじい。

 佳代はどうにかして死ぬのを思いとどまらせたい。たとえ数ヶ月から一年であっても生き続けてほしい。死ぬのはいつだってできるけど、生きるのは今しかできない。命を簡単に捨ててほしくない。

 文江を育ててきた両親や祖父母だってそう思っているだろう。

 産んだ娘に自殺される苦しさを分からないから、知ろうとしないから、自ら命を絶とうとする。他人の苦しさ、思いやりを本当にわかろうとするのであれば、一本の藁にしがみついてでも生きようとする。

 意固地になって自殺しようとしている母親を見て、年間三万人の自殺者は何を考えているのだろうかと、無性に腹が立ってきた。ちょっと苦しかった、思い通りにいかなかっただけで自殺を決意するなんてとんでもない。目が見えない、耳が聞こえない、義足、片手が動かないなどの重度の障害を抱えていても、立派に生きようとする人もたくさんいる。

 死ばかり考えている文江を見て、あえて突き放してやろうかと思った。死にたいのであれば死ねばいいといってやりたい。どうして生きたいと思わないのだろうか。

 危ない方向に進んでいるのをいち早く認知した、佳代は冷静になるために大きく深呼吸する。苛立ったまま発言すると、声に出てしまいかねない。落ち着け落ち着けと脳に命令した。

 一呼吸おいたあとで、佳代は文江にお金の心配をしなくてもいいから、生きるよう説得した。

「入院費のことは心配しなくても大丈夫。私が責任持って支払うようにする。コツコツと給料を貯金してきたもの」

 緊急事態に備えて貯金しておいた、預金通帳を見せると、文江は目の玉が飛び出すかのようにビックリしていた。まさか百万円以上も貯金しているとは夢にも思っていなかったのだろう。

 佳代に最低限の支払い能力があることを知った文江は、自殺を思いとどまり、非を詫びた。

「迷惑かけるね。何もしてやれなかったのにこんなに立派に育ってくれて嬉しいよ。私は最高の娘と息子をもててよかったよ」

 文江は地面に泣き崩れる。彼女の背中を優しく撫でながら、これまで育ててくれてありがとうと伝えた。人生で一番温かくて優しい声が発せられていた。

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