小説『大切なもの(未定)』
作者:tetsuya()

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本屋に着くと、佳代の心の中はメルヘンの世界に突入した。脳内で勝手にバラが咲いている。ときたまではあるものの、勝手に口が開いて独り言をつぶやいてしまうこともある。

 職業を紹介しているコーナーに向かう途中で、大好きな作家の本の新作を発見する。佳代が心から尊敬している作家の一人で、食事で貧しかったころに何度も励ましてもらった。

 今日発売された新作を、すごい勢いで手にとってすぐさまレジに向かう。どうしても今日中にこの本を読み終えてしまいたい。活字を読むペースがあまり早くない彼女は、明日に持ち越しになってしまう。そんなのはイヤだ。やれることはやれるうちにすませておきたい。今日の一番の優先順位におとりでた。 

 本を手に急いでとったためいかんせん勢いが強すぎた。本を数冊地面に落としてしまう。さすがに放置しておくわけにはいかないので、きちんと整列をして、レジに向かった。急いでいるためか、歩調がかなり早かった。

 視野も狭くなっていたため、またもや失敗してしまう。今度は人にぶつかって転んでしまった。立ち上がった彼女は、メタボリック体型で小太り、眉の太い、あごがつっぱっている、四十くらいの男性に、丁寧に頭を下げて謝り、すぐさま歩き出す。早く本を入手したい。

 本に意識を奪われていた彼女はレジでも、大失態を犯しそうになった。七百五十円の小説に、五千円札で支払ったまではいいのだが、お釣りを受け取らずに、本屋をあとにしようとしたのだ。店員が追いかけてきてくれて、おつりを渡してくれたからいいものの、おつりを見てみぬ振りする店員なら、四千二百五十円をひったくられるところだった。

 誰にも少なからずあると思うけど、あるものに熱中してしまうと周りが見えなくなってしまいがちだ。我を忘れて怒り出したり、いきなり笑い出したりと自分の世界にのめりこんでしまう。結果、やってはいけないことをやってしまう。

 罪のない子供などに手を出してしまったり、目の前のものに八つ当たりして一生を失った人も少なからずいるだろう。スポーツで贔屓のチームが負けたときにものを投げつける、性欲を抑えきれずにセクハラ発言をするのも立派な犯罪だ。相手に訴えられれば人生が終わってしまう。しかも最近は以前に比べて訴えられやすい環境も整っており、細心の注意を求められる御時世になってきた。脳内を上手くコントロールすることが求められる。

 帰る途中で職業探しのことをようやく思い出す。これも最新作に意識を奪われていたがためにおきたことだ。

 それについては、また今度でいいやと自分にいいきかせた。本屋に戻るのは面倒臭い死、緊急を要するわけではない。私はまだまだ若いし、少しくらいロスしてもやり直せる。大好きな作家の本を右手に、ルンルン気分で家に向かう。先ほどの失敗もすべて忘れていた。

 家に着くと、トイレを済ませて小説を読み始める。本屋もいいけど、自宅でゆっくり読書するのもまたいい。誰の視線もない場所で、一人の世界を楽しむ。これほどの贅沢はない。

 きちんとした給料をもらうようになってからは、月に三千円程度、本に投資している。自由に使えるお金があるからこそ、パワハラなどの精神的苦痛に耐えられる。少しくらい派手にお金を使わないとストレスばかりたまってしまう。 

 一ページずつゆっくりと読み進めていく。味わい深い描写、人間一人ひとりの心理をきっちりと描かれていて奥深い作品に、彼女の心は奪われていく。感動の場面では鼻を大きく啜ったり、辛い場面では××がんばれと応援していた。

 読書に熱中した佳代は一度も休憩を挟むことなく、四時間ほどかけて小説を読み終えた。

 この本を読んでいて、佳代は本の素晴らしさを改めて知った。そして、自分も世に素晴らしい小説を送り出したいという気持ちを強く持つようになった。

 小説家という職業に安定性はないけど、ベストセラーを送り出せば印税によって超大金持ちになれる。大量のお金に囲まれた自分を想像し、佳代は涎をたらしてしまった。

 先ほどから何をやっていると思っている方もいるだろう。一人世界は気持ち悪いと説教したくなった方もいるだろう。

 人間はそもそも非完全な生き物だ。スケージュールどおりにしか動かないロボットではない。予定変更や、失態は日常茶飯事だ。

 今度は自己正当化するなと説教するのであれば、人生で失敗したことは一度もないのですかと訊かせてもらいたい。パチンコなどのギャンブルにはまる、好きな人に神経を全部奪われて仕事や学校行事に集中できない、麻薬やセクハラで人生を台無しにする、ちょっとした演技をする人に騙される、あとあとに不要なものを買う、財布を落とす、余計な一言で人間関係をギクシャクさせる、など理性を抑えられていない行動をとって失敗を繰り返しているはずである。インターネット上のトレーディングカードに数十万もつぎ込む、たった一人の相手に六億円も貢ぐ、ストーカーになるなど、本来なら間違っている多くの行動をやめられないなどもそれに当てはまるだろう。

 刑務所にぶち込まれて懲りたはずの性犯罪や麻薬などの再犯率が極めて高いのは、人間の学習能力の低さを如実に示している。脳は隠された麻薬に包まれているといっていい。執着心にもとても弱く、感情を煽られるとすぐに乗ってしまったり、一つのことしかみえなくなったりするのもしょっちゅうだ。

 それらを含めて意志が弱いとばっさり切り捨てるのであればつまらない人間だ。やめたくてもやめられないことはたくさんある。間違っていても修正できない部分もたくさんある。どうしてもやめなければいけないところは修正していくべきであるが、人生に大きな影響をもたらさないのであれば広く認めあっていけばいい。許容できる価値観を広くすることで、お互いの欠点を補いたい。犯罪に該当せず、他人に迷惑もかけないのならある程度は許されるべきものだと思っている。重箱の隅を突くような度量の狭い人間とはお付き合いしたくない。

 少しかっとなってしまったようだ。佳代は心を入れ替えて、小説を書いてみることにした。思い立ったらすぐに行動しないと、三日もすればやらなくなってしまう。

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