小説『アナト -眠り姫のガーディアン-』
作者:那智 真司()

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 ◆◆◆

(俺はそのあと、金がなくて入院もできないあの人の為に、意味もなく街中走り回ってたっけ。)

雄也は首を横にふる。

(いや、意味はあったな。 俺はあの夜に金を稼ぐ術を身につけたんだから。)

ギッ、ギッ、ギッ。廊下を歩くわずかな軋みを雄也の鋭敏な耳は捕らえる。
時計を見れば、いつのまにそんなに時間が過ぎたのだろうか、夜中の2時を回っていた。
襲撃の気配はないと思いはしたものの、確認の為にそっと扉を開けて様子を探る。
見れば向かえの美咲、由紀奈、愛子が使っている四人部屋のドアが開き、美咲が心配げな顔を、通路の奥へ向けていた。
その視線を追うと、ふらふらと歩く由紀奈の姿がある。
何事かと美咲に問おうとし気配を忍ばせて部屋から一歩踏み出すが、老朽の進んだフローリングは雄也の体重に不満を洩らすかのようにぎしっと鳴いた。
途端に、おびえた眼差しの由紀奈が振り返る。
そのうつろな眼は、この世ではないどこかを見ているようで、雄也は心が締め付けられるような思いがした。

「お父さんとお母さんがいないの。」

由紀奈がそう口にした瞬間、美咲よりも早く由紀奈のそばへと雄也は動いた。
なぜかは分からないが、自然と体が動いてしまったのだ。
由紀奈の感情は、決壊寸前まで高まっているように見える。
だが、こういう時にどうしていいかはまったくわからない。

困惑する雄也の胸にかけた十字架が、チャラリとなった気がした。

雄也は片ひざをついて由紀奈をそっと優しく、優しく抱きしめた。
そして、赤子をあやすように背中をぽんぽんと軽く叩いてやる。

「大丈夫だから。」

由紀奈の身体が一瞬強張るが、雄也の言葉を聞いたとたんにすがり付いてくる。
雄也は、もう一度「大丈夫だから。」と繰り返しゆっくりと由紀奈の背中をさすってやる。

由紀奈と会ってからほんの僅かな時間しか過ぎていない。
その中で、彼女はしっかり者という印象を雄也は受けていた。 由紀奈が、自己紹介や夕食のときに見せた無表情や、無感情な言動を冷たいと感じなかったのは、しっかり者を演じようとしている現われだったからかもしれない。 成長しきっていない不安定な心の中で、弟や妹の前で気丈に振舞おうと努力していた由紀奈と同じように、最愛のあの人もそうだったのかなという思いが胸中をかすめる。

(俺は、どうしようもなくガキで、あの人の気持ちを考えた事なんてなかったな…。)

由紀奈の悲しみが伝染したかのように、雄也の心も軋みをあげる。

ふわりと、まるで、天使の羽に包まれているような安堵感。
ぬくもりと、穏やかな鼓動が、すべての不安を溶かしていく。

「大丈夫だから。」

雄也と同じ言葉が、眼の見えない聖母の口からささやかれる。
気がつけば、美咲が雄也ごと由紀奈を、いや、二人をその胸に包み込むように抱いていた。

とくん、 とくん、 とくん、

それは雄也が10年ぶりに得た、安らぎの鼓動。

どれぐらいそうしていたかはわからない。

幼い頃に両親を亡くした由紀奈は、その事が理解できなかった頃に夜な夜な両親を探し求めて彷徨い歩いていた。 中学生になった今ですら、不安を強く感じたときには、さながら夢の中を彷徨っているように、両親を求めてしまう事があるのだ。 

ようやくそんな暗い夢の中から覚めた由紀奈が雄也の胸を押しのけた。
うつむき加減だったのでよくは見えないが、その顔は羞恥に染まっているようだ。
なにやらごにょごにょ言ってるようだったが、やがて キッと雄也を睨みつける。
気の弱い子供が向けられれば泣き出しそうなほどの視線に雄也がたじろぐと、それを尻目にぷいっとそっぽを向いて、

「美咲姉さん、ありがとう。」

美咲にだけ礼を言って自室へと戻っていく。
雄也はあっけにとられた。

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