小説『アナト -眠り姫のガーディアン-』
作者:那智 真司()

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晃司と別れた雄也は、宿舎と礼拝堂を繋ぐ廊下の窓から、蕾をつけはじめた桜の木を眺めていた。
礼拝堂との扉の向こうには美咲がいる。
中へ入って行かないのは、美咲が何か、歌っていたからだ。
扉を開ければその緩やかな旋律が壊れてしまいそうだから。
けして上手ではない。
声も小さく、ややもすれば途切れ途切れになる。
それでも雄也はその歌声を聴いていたかった。

    ◆

(結局あれから何も聞けなかったなぁ。)

美咲は歌いながらそんなことを考えていた。

(こんなことで、雄君と恋人同士になれるのかなぁ。)

雄也の事を知りたいという気持ちは雄也に惹かれ始めている現れかもしれない。
しかし、それよりも心の奥底から、それこそ本能的な部分と言って差し支えないところから『守ってあげなきゃ』という気持ちが焦燥感を伴って沸き上がってくるのだ。
それが恋心なのかは分からない。
ただ、焦れば焦るだけ空回りしてしまうのだ。

    ◆

雄也は、こんな穏やかな暮らしもあったのかと思う。
最愛の人が重い病に倒れて10年。
その莫大な治療費を稼ぎ、命を守るために数多の命を奪ってきた殺伐とした日々。
人を殺める事への罪悪感と、自分が失敗すれば最愛の人の命が失われるというプレッシャーは、雄也を常に蝕んできた。
しかし、最愛の人を失った瞬間に、張り詰めていた糸は切れてしまったのだ。
確かに最愛の人を取り戻すという強い気持ちと、プレッシャーはある。
だが、その手段が突拍子もなく、また、現実味のないもののため、実際のところ、雄也は途方にくれていたのだ。

    ◆

(眼の見えない、非力な私が、雄君の何を守るんだろう…。)

美咲は眼が見えないということ以外、まるっきり純真な女の子である。
だから、普通に恋愛にも興味があるしデートもしてみたいと思う。
でも、それは叶わぬ夢なんだろうなとも思っていた。

ラジオドラマなんかで得たデートのワンシーンを想像してみる。
映画を見に行くというのはそもそも想像できない。 ボーリングやゲームセンターなんかも同様である。
お花見や動物園、花火やナイトパレード。 遊園地の観覧車で、彼が『綺麗な景色だね』と声を掛けてきても、美咲にはその景色は見えない。
愛し合う二人は、ただ傍にいるだけで幸せだというが、(こんな自分じゃ退屈させてしまうだけだろうな)と思ってしまうのだ。

美咲はたまらないぐらいの孤独感に身をすくめる。
寂しさや、切なさで胸が張り裂けそうになった。
一人で居たくないと思った。
部屋に帰れば妹たちがいる。
今日は由紀奈のベッドに潜り込んで、一緒に寝てもらおうと思った。

(こんな私に出来ることなんてないけど…、せめて…。)

部屋に向きかけていた意識と足を止め、教壇の奥にある十字架に向き直る。
美咲は、精一杯の気持ちを込めて、祈りの言葉をつむいだ。

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