小説『アナト -眠り姫のガーディアン-』
作者:那智 真司()

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(やっぱり私なんかじゃ無理ね。)

そう思ったとき、スッと美咲の杖を持っていない方の手が持ち上がる。

とくん…

同情心とか哀れみとか、そんなものをまるで感じさせない自然さが、その手に触れるように、美咲の心にも触れてくる。

とくん…

「こうしていれば、大丈夫かな?」

とくん…

気負うでも恥ずかしがるわけでもなく、そして、意識してではない真心のこもった雄也の声。

とくん、とくん、とくん、

世界が塗り替えられていくような感覚に、心地よい鼓動の高鳴りを感じる。
今は嬉しくても泣くべきときじゃないと思った美咲は、春の訪れに花々が一斉に開くような笑顔と、雄也の手をぎゅっと握り返す事で答えた。

「美咲も、愛ちゃんと一緒だねー♪」

その声に見やれば、愛子がつないだ両方の手を嬉しそうに振っている。 こんな時に真っ先にからかってくるはずの由紀奈と晃司も、雄也と美咲の二人を眩しそうに見つめながら、愛子のされるがままにしていた。


「んじゃぁ雄也さん。俺たちが案内するからはぐれないようについてきて。」

「ああ、頼むよ。」

「美咲姉さんも、しっかり見習い神父さんと手をつないではぐれないようにね。」

「うん。」

「愛ちゃんも案内するーっ。」

そう言って由紀奈と晃司の手をぐいぐいと引っ張って歩き始める愛子。
二人はほどほどに愛子のスピードを調節してやりながらついていく。
雄也がゆっくりと手を引いてくれる。 
つないだ手のぬくもりが、美咲の心を幸せに彩っていく。

(この幸せがずっと続けばいいのに…。)

そう思いながらみんなと一緒に、ターミナルビルへと入っていった。

 ◆

(あれが…、本当にあの男なの?)

洋子がそこに居たのは紛れもない偶然だった。土地勘のない場所での仕事の時は、ターゲットから程よく離れた所に宿を取り、数日をかけて周辺の地理を把握するのが習慣で、どれだけつまらない仕事と思っても、その几帳面さや臆病さを失ってはこの世界で生き残る事が出来ないと知っていたからだ。

だから今回もこのターミナルビルの裏手に宿を取り、たまたま朝食がてらコーヒーを飲みに入ったこの店の前をターゲットが通るという偶然も起こり得るのだ。
その事はさして問題でもない。 ターゲットが居たからすぐに行動を起こす事もないのだから。

(あれではまるで、何処にでも居る平凡な、ただの男じゃない…。)

そう、問題はターゲットの隣に居た男。 相沢雄也のことだ。
まるで信じられない光景だった。
マシーンと称するに値する男に微笑が浮かんでいたのだから。

わずか10歳にしてその手を血と硝煙のにおいに染め、『眠り姫』の命を守るためだけに、他者の命を狩り続けた存在。
まるで自分を死地へ追いやるかのような危険な任務を好み、悉くを生還してきた男。
15歳の頃にはこの世界で知らないものは居ないほどの暗殺者の顔に、誰一人として表情を見た事がなかったからだ。

(その氷のような瞳で見られただけで、ゾクゾクとさせてくれたほどだったのに…。)

洋子は『眠り姫』の死が、雄也のリミッターをはずし、さらに冷酷な死神へと変貌させるものだと思っていた。
それが、目の前を通り過ぎた雄也はまるで、何かから解放されたかのように平凡な人としての時間を生きている。

(…そう。 …解放ね。)

洋子はニヤリとした。

(いいわ。 貴方の全てを私のものにしてあげる。 貴方を縛る鎖は私が用意してあげるわ。)

新しい遊びを思いついたような子供の瞳。

(せめて明日の貴方の相手、貴方をこの世界に引きずり込んだあの男の始末ぐらいは自分で何とかするのよ。)

くつくつと笑う。
その眼に薄暗い炎を瞬かせて、雄也の背中を見送った。

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