第3話 〜 そこにある真実はひとつ(3)
あっという間に日曜日の夜である。
この日の潤太は、二階にある自分の部屋で、描き上げた風景画の細かい部分を色づけしていた。
その絵は、以前香稟と一緒に行った代々木公園の風景である。
彼はあの時の情景を思い浮かべながら、一筆一筆慎重にカラフルな色を入れていた。
「ふぅ。やっぱり現地じゃないとうまくいかないもんだなぁ...。」
彼はこの絵にうまく色づけできず、少し不服そうである。
「よし、この辺はもう少し濃い色にしてみるかっ!」
気合いを入れて、両手を高々と振り上げた潤太。
机に向かう彼の視界に、壁掛け時計の長針が飛び込んだ、まさにその時だった。
「あっ、そういえば!」
彼は逸らした視線を、もう一度壁掛け時計へ向けた。
「し、しまった!もう10時30分じゃないかっ!」
そうである。今夜は、夢百合香稟がパーソナリティを務める、例のラジオ番組が放送される日だったのだ。
「わわっ、約束しておきながら、聴かなかったらマズイよ!」
彼は持っていた絵筆を投げ出して、慌てて自室のベッドへと飛び込んだ。
枕元にあるラジカセを手にして、彼は机へと運ぶため急旋回した、まさにその瞬間!
『ガツン!』
慌てていたことが、彼にあまりにも悲しい不幸を招いた。
「わぁ!?」
ラジカセは、勢いよくベッドの柱に叩きつけられて、その反動で彼の手から投げ出されて、そのまま床へと落下してしまったのだ。
「おいおい、だ、大丈夫かぁ!?」
彼はすぐさまラジカセを持ち上げて、無意味にも、壊れていないかどうか呼びかけた。
「ぎゃあぁ!!」
ラジオを見るなり、彼はムンクの叫びのような仕草で、轟く奇声を上げた。なんと、ラジカセのアンテナが、落下したショックで折れ曲がってしまっていたのだ。
彼は慌ててラジカセを机に置くと、電源を入れてラジオモードに切り替えた。
かすかなノイズ音と共に、意味不明な声がスピーカーから聞こえてくる。
彼は、JPS放送局の周波数に合わせてみたが、ノイズ音ばかりで香稟の声らしきものは聞こえない。
「ちくしょ〜!壊れちゃったな、こりゃ。」
彼は腕組みして、立ちつくしながら考え込む。どうすればいい!?彼は必死に打開策を練った。
「あ、そういえば拳太がいるじゃないか!」
彼は怒濤のごとく自室を飛び出し、隣の部屋である弟の拳太の部屋を訪ねた。
「おい拳太、入れてくれ!」
「何だよ!?」
「いいからここを開けろぉ!」
拳太は眠そうな顔して、自室のドアを開けた。
「何か用かい?オレもう寝るとこなんだけど...。」
「あ、ああ、あのさ...!」
「ハッキリしゃべりなよ。何そんなに慌ててんの?」
潤太は息を切らせて、強めの口調で訴えかける。
「おまえのラジカセ、今すぐ貸してくれないか!?ボクのヤツ、ついさっき壊しちゃってさ、どうにもならないんだよ!」
拳太は顔を掻きながら、苦笑いで答える。
「あ、そう。実はさ、オレのも壊れてんだよね。このまえ本棚の上から落ちちゃってから、どうも調子が悪くてさ。アハハハハ。」
潤太は、拳太の胸ぐらを掴んで怒鳴り散らす。
「笑い事じゃねぇ!キサマ、こういう時に限って、どうして壊すんだよ、このやろう!」
「な、何他人事みたいに言ってんだよ!自分だって、ついさっき壊したんだろうがぁ!」
潤太はもうダメだと諦め、その場にひざまづいてしまった。
「...どうしよう、約束したのに。」
彼はうなだれながらも、このまま諦めきれないのか、ラジオを聴く方法を必死になって模索する。
ラジオが聴ける場所...。ラジオが聴ける場所...?ラジオが聴ける場所...!
「そうだっ!あそこがあったんだぁ!!」
潤太は勢いよく立ち上がると、一目散に階段を駆け降りていった。
「な、何なんだよ兄貴のヤツ...?」
不可解な行動の潤太に、思わず首を傾げる拳太であった。
『ドタドタドタ!』
廊下をさっそうと駆け抜ける潤太。
彼は玄関の靴箱の上から、銀縁のカギを持ち出し外へと飛び出した。
彼の向かう先は、彼の父親の乗用車が止めてある庭先の車庫だった。
持ち出したカギでドアを開けて、運転席へと乗り込んだ彼は、乗用車のエンジンをかけた。
「えっと、これか。」
彼は焦る思いで、ラジオの電源スイッチを押して、バンドボタンで周波数を合わせてみた。
かすかに女の子の声がスピーカーから流れてくる。
「...そういう...。で、よろしく...。それでは一旦CMです。」
途切れ途切れに聞こえたその声は、聞き覚えのある、夢百合香稟の美声そのものであった。
「よかった...。」
ホッと胸をなで下ろす潤太。時刻はすでに、車内のデジタル時計で10時53分を表示していた。
ラジオのCMが終わり、軽快な音楽と共に、香稟の声が聞こえてきた。
「はーい。それでは、最後のコーナー、題して、香稟の最近の話題、の時間でーす。」
「まいったな、もう終わりじゃないか...。」
彼は座席にもたれかかって、両手を後頭部にあてる。
彼のうつろな視線は、乗用車のフロントガラス越しに映る、おぼろげな満月に向いていた。
途方に暮れる彼を後目に、香稟の語らう声だけが、車内に弾むようにこだましている。
「えっとですね。今夜は、ついこの前知り合った、あたしのお友達についてお話しようと思います。」
「......。」
潤太は目を閉じて聴いている。
「そのお友達はね、とってもきれいな風景画を描く人なんです。」
「...!」
潤太は目を見開いて、ガバっと起きあがる。
彼の耳は、一瞬にして像の耳のように大きくなった。
「何でも絵を描き始めたきっかけは、北海道に旅行へ行った時に、ある絵描きさんに自作の絵を見てもらったら、いい評価をもらったことだそうです。そこで、本格的に絵を描き始めたとのことです。いいですよねぇ、こういうエピソードって。あたしにもそういう才能があればいいけど。アハハ、あるわけないかな!?」
潤太は呆然としたまま、ラジオから流れる彼女の声を聴いていた。
その様は、疑ってやまなかった自分自身が、間違っていたことに気付いた驚きを表していた。
「ボ、ボクのことだ!や、やっぱり彼女は...!」
彼は真実を知った。ラジオから流れてきたその真実を。
彼は心の中でつぶやく。
「あの時、絶対に聴いてって言ったのは、この話を聴かせるためだったんだ...。」
夢百合香稟が打ち明けてくれた言葉。それは、唐草潤太にとって、あまりにも痛ましい言葉でもあった。
どうして信じられなかったんだ!どうして信じようとしなかったんだ!彼はひたすら、自分の犯した過ちを悔いていた。
「ゴメン、香稟ちゃん...。」
彼はハンドルに頭を打ち付けて、遠くにいる彼女に謝罪し続けた。
街中で出会った信楽由里にではなく、スーパーアイドルの夢百合香稟に...。
* ◇ *
数日が過ぎたある日のこと。
夢百合香稟とマネージャーの新羅今日子は、CM撮影のロケを終えて、事務所へと戻ってきた。
控え室へ向かう二人に、事務所の事務員がうれしそうに声を掛けた。その事務員は、大きな段ボール箱を抱えている。
「これって、もしかして?」
香稟が苦笑すると、事務員はその通りといった表情で答えを返す。
「はい。月一回恒例のファンレターですよ。今回もいっぱい来てますよ。」
香稟はその大きな段ボールを抱えて、事務所の控え室までやって来た。
「本当にいっぱいあるわね。ちょうど次の仕事まで時間があるから、その間に軽く目を通したら?」
「そうですね。読まないわけにもいかないですし...。」
新羅が打ち合わせのために控え室を出ていくと、一人残った香稟は、控え室のテーブルへと落ち着いた。
「さてと。」
彼女は箱の中身を覗き込んだ。
真っ白い手紙や、ピンク色したかわいい手紙、小さなものや大きなものと、様々なファンレターが溢れんばかりに詰め込まれていた。
「あれ?」
彼女の目に止まった一通の手紙。
「これ、やけに厚いわ。何が入ってるんだろ?」
その厚めの手紙を手にした彼女は、手紙の裏面を見つめて愕然とした。
「これ、潤太クンからだ...!」
その手紙の裏面には、“唐草潤太”という文字が記載されている。
彼女は慌てて、その手紙を開けて中身を取り出した。
手紙の中には、数回に折りたたまれた厚手の紙切れと、一枚のメモ紙が入っている。
「何だろ、これ。」
彼女は、厚手の紙切れを丁寧に広げていく。
「!」
そこに現れたものは、グレーに染まった街並みに彩りを添える鮮やかな緑、見る者に感動を与えてくれる美しい風景画であった。
「これ、代々木公園だわ。しかも、あの時の。」
潤太の描いた代々木公園は、彼女に懐かしい楽しさを思い出させていた。
「ありがとう、潤太クン。」
彼女は、もう一つ同封されていたメモ紙を広げた。
そのメモ紙には、次のようなことが書かれていた。
「お仕事ご苦労さまです。あなたのラジオ番組拝聴させてもらいました。それを聴いて、ボクが間違いだったと気付き、ひどいことを言ってしまったことを、今でも深く後悔しています。スーパーアイドルが、ボクなんかと一緒に遊んだりするわけがないと、ボクはそんな先入観だけで判断していました。そのことについて、深くお詫びします。最後に、もし許してもらえるなら、あなたがラジオで言っていた通り、ボクと友達でいてほしいです。無理やりなお願いかも知れないけど。いい返事を待っています。では、これからの活躍を祈っています。さようなら。」
その文面は、今の潤太の心境をそのまま映し出していた。
彼女はそっと、そのメモ紙をポケットの中へとしまい込み、テーブルに広げられた風景画を手にする。
「...先入観か。でもね、潤太クン。あたしも、あなたと同じように学び、遊び、楽しい思い出を作れる、一人の普通の女の子なんだよ。」
彼女は、微笑ましく潤太作の風景画を見つめ続ける。その時の彼女は、この絵画の世界にある代々木公園へと引き寄せられていたようだ。
あの偶然の出会いと、一緒に歩いたこの公園、彼女は側にいた少年と共に、楽しかった思い出に酔いしれていた。