小説『彼女はボクのアイドル(完結)』
作者:masa-KY()

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第8話 〜 忘れかけていた夢(4)

 香稟の住むマンションへと到着した新羅と運転手は、急ぎ足で彼女の部屋へと向かう。
 高級マンションの8階、826号室が彼女の部屋だ。
『ピンポーン...』
『ピンポン、ピンポン、ピンポーン...』
 呼び出しボタンを連打した新羅。彼女の焦りが伺える。
「香稟、いるのはわかってるのよ。お願い出てきて。」
 新羅は、辺りの住人に気遣いながら呼びかけるが、ドアの奥からは何の反応もない。
「香稟!もうこれ以上、わたしを苦しめないで!どうして!?どうして、このわたしに何の相談もなくあんなこと言ったの?ねぇ、お願い!ここを開けて!」
 この状況に、新羅はとうとう声を荒げてしまった。
「新羅さ〜ん、香凛ちゃんいないみたいスよぉ?」
「いいえ、彼女は必ずここにいるわ。香稟、早く開けなさい!」
『ドンドン!!ドンドン!!』
 新羅は苛立ちを隠せず、ついに眼前の鉄の扉を叩き始めた。
『カチャ...』
「!!」
 カギを下ろす音が、新羅達の耳を通り抜けた。
 そして、静かにドアは開かれた。
「...香稟。」
「...何か用ですか?あたし、明日までお仕事ないはずですよね?」
「あなたと話があるの。ねぇ、中へ入れてくれないかな?」
「......。」
 香稟の表情は、自分の意志を貫き通す悲壮感を感じさせる。
「あたしはもう決めました。今からそれを覆すつもりはありません。」
「ねぇ、ここじゃなんだから。香稟、部屋の中で話しましょう?」
 数秒の沈黙後、香稟は振り向きながらささやく。
「...どうぞ。散らかってますけど。」
「...ありがとう。」
 新羅はハイヒールを脱いで、香稟の部屋へと進んでいく。そして運転手も、彼女の後ろに続こうとする。
「あ、早乙女クン。悪いけど、あなたはここで待っててくれる?」
「へっ?な、何でですか!?」
「...気を遣いなさい。ね?」
「はいはい、了解です。」
 運転手は渋々ドアから出ていった。
 それを見届けた新羅は、リビングへと足を踏み入れた。
 香稟はうつむき加減で、大きなソファーベッドに腰掛けている。
 彼女は、テーブルの上にあるリモコンを手にして、小さな音量で流れていたステレオのスイッチを切った。
「話って何ですか?」
「わかってるはずよ?あなたのしたこと、わたし、正直言って納得できないわ。」
「初めから、納得してもらうつもりなんてありませんから。」
 新羅に対して、香稟は冷めた口調を繰り返している。
「どうして?あなたは、わたしの気持ちをわかってくれなかったの!?」
「わかってます。今、事務所を救えるのがあたしだけなのは...。」
「それじゃあ、どうして?」
 香稟は眉をつり上げて叫ぶ。
「あたしの気持ちはどうなるんですか!?会社が助かればそれでいいんですか?お金さえ手に入れば、あたしはどうなってもいいんですか?」
「そ、それは...。」
 香稟は頭を抱えて、悲痛な叫びを轟かせる。
「もううんざり!みんな、うわべでは愛想よくしていても、その裏では、裏切り、妬み、憎しみ...。あたしは、こんな憎悪ばかりの芸能界に、好き勝手に振り回される人形じゃない...!」
「香稟...。」
「連章さんも、まりみさんも、明ではなく暗、表ではなく裏の顔であたしのことを見ていた。だからもう耐えられないんです。アイドルでいることも、芸能人でいることも...。」
 香稟はついに泣き出してしまった。
「香稟。まだ若いあなたにとって、この現実はとても辛い出来事だったわ。でもあなたは、自分を魅せるためにこの世界へ飛び込んだんじゃなかったの?歌を歌い、舞台に立ち、ブラウン管越しで演じて。あなたはそれを望んでいたんじゃなかったの!?」
「そう...。ずっと夢見たことだったから。だけど、こんな表裏のある世界じゃなかったら、あたしはもっとがんばれた...。」
 香稟は静かに頭を垂らす。閉じた瞳から、無数にも涙の滴がこぼれ落ちる。
「やっぱりあたしは、普通の高校生でいればよかった...。そうすればきっと、あたしはこんな苦痛を味わうことなんてなかった...。」
 新羅には、今の香稟を励ます言葉など見つかるはずもなかった。
 彼女自身、香稟と同じようにアイドルの苦悩を知っているからこそ、香稟の悲痛な叫びは痛いほど理解できた。
「...わかったわ。」
「......。」
 新羅は澄ました顔でつぶやいた。
「もうこれ以上、あなたを束縛しないわ。あなたの人生だものね。もうわたしは何も言わない。」
「今日子さん。」
「あなたのような若い人に、事務所の存続を委ねること自体ひどい話だものね。これからは、あなたの好きな道に進めばいいと思う。」
 新羅はそう告げると、さりげなくリビングを出ていこうとした。
「......。」
 香稟は黙ったまま、去りゆく新羅を見つめていた。
「ねぇ、香稟。マネージャーとして、そして人生の先輩として。いいえ、一人の大人としてあなたに伝えておくわ。」
 香稟に背を向けたまま、新羅は先輩らしい教訓を述べる。
「人それぞれの人生には、乗り越えなければならない壁がある。その壁は、人それぞれの気持ちによっても高くなり、低くもなる。たとえそれが、芸能人であろうとも、普通の一般人であろうともね。」
 決して振り向くことなく、新羅は言い聞かせるように話を続ける。
 「いろいろな人生において、困難と苦労、後悔と挫折を繰り返して、みんな大人になっていく。あなたがもし、新しい人生を進んだとしても、決してそれだけは忘れないで。」
 新羅はかすかな足音を残し、静まり返ったリビングを後にした。
『カチャ...、バタン...』
 香稟の部屋から出てきた新羅。
 待っていた運転手は、すぐさま彼女に声を掛ける。
「し、新羅さん!どうでした!?」
「今世紀最後のアイドルは、静かにその幕を下ろしたわ...。行きましょう。」
「えっ、えっ!?そ、それじゃあ香稟ちゃんはやっぱり...!」
 新羅と運転手はそれ以上語らうことなく、その場から早々と去っていった。


『プルルル...、プルルル...』
 ひざを抱えたままソファーにたたずむ香稟の耳に、電話機から流れるコール音が鳴り響く。
『プルルル...、ピッ...』
 数回のコール後、自動的に留守番メッセージが流れる。
『はい、信楽です、ただいま留守にしています、ご用の方は、発信音の後にメッセージをお願いします...ピー...』
「...由里ちゃん。ボク、潤太です。」
「...!」
 香稟はハッと顔を上げると、電話機目指してスタスタと走り出し、慌てて受話器を取り上げた。
「もしもし!?あたし由里よ!」
「あ、いたのか...。よかった。」
 香稟と付き合い始めてからは、潤太は彼女のことを、本名である“由里”と呼んでいた。
「どうしちゃったの、いきなり引退だなんてさ?夕方に号外を見て、ボクびっくりしちゃって...。」
「驚かせてゴメンなさい。でもこれは、あたしにとっても、潤太クンにとっても正しい決断だと思ってる...。」
「どういう意味、それ?」
「だって、あたしがアイドルをやめれば、あたし達、人目も気にしないで付き合えるじゃない?あなただってその方がいいと思うでしょ?」
「...確かに、それは否定できないけど。」
 香稟の気持ちはうれしいが、素直に喜べない潤太。
「あたし、辛い出来事を繰り返してまで、こんなずさんな芸能界になんかいたくない。ただそれだけなの。」
 潤太はその時気付いていた。ここ最近、彼女を苦しめた数々の災難が、この引退表明のきっかけになってしまったことを。
「でも、いいの?本当に引退しても...?」
「...うん。後悔するぐらいなら、あんな大事、テレビの前で口にしたりしないよ。」
「でも、由里ちゃん、ボクに言ってたじゃないか?自分は、人前で歌を歌ったり、演技したりすることが一番好きなんだって。」
「ええ、確かに言ったわ。だけど、もうやっていけないの!このままじゃ、憎しみや妬みに埋め尽くされて、あたし自身が潰れてしまう...。」
 彼女の悲しみにむせび泣く声が、電話越しの潤太の心まで届いた。
 潤太は少し間をおいて、彼自身の気持ちを打ち明ける。
「由里ちゃん。ボクは、一番好きなことをしてる時が一番楽しいと思ってる。だからボクは、風景画を描き続けてるんだと思う。友達に暗いヤツだとか、なさけないとか、いろいろ言われてるけど、ボクは絵を描き続けるよ。」
「......。」
 潤太は、黙り込んだままの香稟に本音を話し続ける。
「みんなさ。好きなことやってる時が一番楽しいんじゃないかな?ボクにとって、風景画が生き甲斐と言えるのと同じで、キミにとっても、歌を歌ったりお芝居したりすることが生き甲斐なんじゃないのかな?」
「...潤太クンまでそんなこと言うの?」
 潤太は、受話器を握る手を汗でにじませて、香稟に心のこもったメッセージを送り続ける。
「ボクは、輝いているキミの姿が好きなんだ。楽しく過ごしている瞬間、生き生きとしている瞬間、そのスターの輝きにボクは惹かれたんだ。」
「......。」
「由里ちゃん...。今だからできること。今しかできないこと。由里ちゃんには、どんな困難にも負けてほしくない。ボクはいつまでもキミを応援するよ。スーパーアイドル夢百合香稟のことを...。だから、夢と希望だけは絶対捨ててほしくないんだ。」
「...潤太クン。あなたの気持ち、とてもうれしい...。だけど、だけど...。」
『カチャ、ツー、ツー、ツー...』
 彼女のかすれた声は、空しいほど静かに途絶えてしまった。
 潤太の伝えたい想いは、果たして香稟の心まで届いたのだろうか?
 そのすべての答えは、一ヶ月後に開催される、彼女のビッグイベントによって明らかになる。

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