小説『とくべつの夏 〈改稿版〉』
作者:sanpo()

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 衣通葵里子は一心不乱に島の新聞『インクワイアラー&ミラー』を読み府勝っていた。紙面を埋める、四方の風景とは全くそぐわない毒々しいキャプション。春からこっち全米を震撼させている猟奇連続殺人事件の特集記事だった。──被害者は全員10代後半から20代前半の男性でその遺体からは例外なく右足が切り取られている……
 〈四人目の犠牲者〉という箇所に差し掛かった時、貝殻のドアベルがチリンと鳴り、雑貨屋の苔色の扉が勢いよく開いて、ちょうど戸口の真前に突っ立っていた葵里子は出て来た青年に弾き飛ばされてしまった。
 「失礼」
 「あ、いえ、こちらこそ」
 尻餅をつきながらも反射的に胸に下げていたカメラを庇って両手で押さえる。「ごめんなさい。つい記事に気を取られてて……」
 長身の青年は俊敏な動作でポーチに散らばった新聞を、潮風がもっと遠くの沖へ攫って行く前に全部拾い集めて葵里子に返した。
 「ありがとう」
 受け取りながら葵里子は微笑んだ。「それにしても──酷いと思わない?」
 「はぁ?」
 青年はチラッと紙面を一瞥して、「ああ、例の〈右足収集家〉か」
 格好の良い肩を竦めると、
 「正直言ってよく知らないんだ。そういうのあんまり興味なくて。おいで、スパーキィ!」
 ポーチの端に繋いでいた犬のリードを解くとさっさと海の方へ降りて行ってしまった。
去って行く青年の背中を眺めつつ、ちょっと驚き、かなり呆れて葵里子はピュッと口笛を吹く。
 「クールじゃない、君!」
 西から始まって中西部を経巡り、連続殺人鬼の不気味なベクトルはいまやハッキリと東部を指している。全米中の殆んどの人間がそれについて噂し合っていると言うのに?
 「気をつけないと君が次の犠牲者にならないとも限らないわよ?」
 「アハハハハ……」
 青年はジョークと取ったらしく歩きながら手を振った。
 (ったく、近頃の若者と来た日には……)
 片手に新聞を握ったまま、胸の前、カメラの上で腕を組み直して葵里子はもう一度青年に向かって叫んだ。
 「ヘイ、君!じゃ、何になら興味があるってのよ?」
 勿論、返事など期待していない。青年の金色の頭は砂丘を幾つも越えて、もうあんなに遠くなっているし、どうせ私の言葉なんか強い海風が粉々に千切り飛ばしてしまうだろう。

 実はクレイ・バントリーはその問いにきっちりと答えていた。心の中で。
 (うん。今、俺が興味あるのは浜辺で寝ているあいつだけさ……)
 果たして、そのあいつは──
 やっぱり今日もそこにいた。見つけた日以来、昼過ぎから夕方までのこの時間いつも必ずそこにいるのだ。
 クレイは足を止めて腕のオメガ・シシリアで素早く日付を確認した。
 (6月13日の土曜日……やれやれ、今日で1週間だぞ。)
 少年は断崖の影で寝ていた。
 熟睡しているように見える。よく焼けた肩に掛かる美しい黒髪。細身だが、きっとサーフィンをやるのだろう。パドリングの成果が筋肉にしっかり顕れている。そうして、右足の裏の刺青……
 全てが何と印象的なことか!もろ、西海岸風ってやつ。優美で古風なこっちの海辺では目立ち過ぎもいいとこだ。クレイは目を細めると(勿論、この場合、太陽のせいばかりじゃなかった。)愛犬のリードを放した。

 「おわっ?」
 少年は短い叫び声を上げて目を開けた。金色の塊が今しも天から降って来た──
 「な、何……何?」
 「悪い、俺の犬なんだ」
 その金の塊、或いは彼の犬、を肩に乗せたまま体を捻って少年は飼い主を見上げた。
 そのまま二人は数十秒間見詰め合っていた。
 先に口を開いたのは少年の方。肘をついて起き上がると、いいよ、と言った。
 「いいよ、犬は嫌いじゃない。何て名前?」
 「クレイ・バントリー」
 「クレイ、来いよ!ランチの残りがある。なあ、クレイはボローニャ・ソーセージは好きかい?」
 流石にこれには困って、砂に半分埋まった靴を見ながら咳払いする。
 「そっちはスパーキィさ」
 「へえ?」
 少年はニヤリと笑った。それから、夏空に虹が掛かるようにクレイの胸元へ腕を伸ばす。
 「俺はサミュエル・ケリー。よろしく、クレイ?」

 「見ない顔だよな、こっちは初めて?」
 握手の後、隣りに腰を下ろしてからクレイは尋ねた。
 「えーと、正確には十五年ぶり。赤ん坊の頃、住んでたんだ。わけあってこの夏、舞い戻って来た」
 ここでサミュエルはチラッとクレイを見た。「あんたは地元の人?」
 「親父の別荘があって毎年夏はここさ。十五年ぶりって家はどこ?」
 サミュエルはその一画を指差した。サンケィティ灯台の真下。クレイは驚いて、
 「まさか、じゃ、プレローズ屋敷?」
 「知ってんの?」
 「当然。この辺りじゃ最も古くて大きな家だ。立派な〈見張り台〉があるだろ?」
 真っ黒い髪を額からパッと振り払ってサミュエル・ケリーは笑った。
 「うん。捕鯨時代の名残の、な!」
 その笑顔と言ったら……!殆んど息も止まらんばかりのクレイは、じゃ、プレローズ家の身内なのかと訊くのがやっとだった。ケリーは15年前離婚した母方の姓なのだと少年は教えてくれた。
 「ママはよっぽど親父に愛想が尽きたんだな。以来断固として俺がここ二来るのを許さなかった。だから、今年の夏は特別なんだ」
 「どういう風に?」
 「親父が死んだから」
 クレイは口を閉ざした。
 ややあってから、標準的な弔意の言葉を伝えようとした途端、サミュエルは片手を振って遮った。日焼けした腕から金色の砂が零れ落ちる。まるで少年の鱗粉のように。
 「いいんだ、別にどうってことない。親父は男として理想的な人生を全うしたんだから。ママでなくっても祝福こそすれ、悲しむ必要はないよ」
 少年は海の方を見て話した。「ほら、どデカイ映画の看板によくあるだろ?ヨット三昧の日々、名前だけの役員名簿、資産家の両親の残した遺産、生涯独身、挙句の果ての海難事故──クールだよなあ!」
 何と言っていいものやら。
 クレイが口を閉ざしていると、やがて少年も黙り込んだ。
 波打ち際で波がきっかり20回打ち寄せるのを数えてから、クレイは切り出した。
 「良かったら、夕食招待させてくれよ。ほら、お返しに、さ?」
 サミュエルは吃驚して問い返した。
 「お返しって、何の?」
 「ランチの、さ!」
 クレイは片目を瞑ってみせる。涼しい岩の間でスパーキィはボローニャ・サンドをキレイに平らげていた。
サミュエルは快くクレイのこの申し出を受け入れた。スパーキィが喰い散らかしたランチの紙袋とビーチタオルを掻き集めると二人はそのまま、夕焼けにはまだかなり間がある浜を突っ切ってクレイの別荘へ直行した。
 途中、意気揚々と歩いていたクレイはゴミ袋を下げた人に声を掛けられた。
 「ハイ!クレイ!」
 茶色い髪を短く刈り込み、その髪の色とほとんど同じ色によく日焼けした30代半ばの男性。グルガ丈のパンツに鯉の模様のアロハシャツ。このいでたちからはちょっと想像できないかも知れないが、渋いハンサムだった。
 「この間は浜の清掃活動に参加してくれてありがとう!また、頼むよ!」
 一緒にいる少年にも笑顔で頷いてみせると足早に浜へ降りて行った。
 「誰?」
 「ジェフ・ペッカーさんって言って……いつもああやって暇さえあればビーチの掃除をしてる良い人だよ。本職はスキューバーダイビングのインストラクターで店も経営してる」
 いい機会だと思ってクレイは訊いてみた。
 「ダイビングはする?」
 「うん。でも、サーフィンの方が好きだ」
 (やっぱりな!)
 パドリング効果を象徴する少年の肩の辺りを見ながらクレイは言った。
 「まあ、もしダイビングをしたくなったら言ってくれ。俺はさっきのペッカーさんの店の永久会員だからレンタル料金全て20%オフなんだ」

 白いペンキの剥げかけた木造のコテージが視界に入るや否やサミュエルは小首を傾げて溜息をついた。
 「ワーオ!ステキだな!」
 「プレローズ屋敷とまではいかないけどな。?見張り台?もないし。でも、まあ、悪くないよ」
 事実、クレイは元漁師の持ち家だったこの小さな家がボストンの実家以上に大好きだった。
 クレイが鍵を開けている間、サミュエルは青い鯨の描かれたブリキの郵便受けを繁々と見つめていた。
 狭くて居心地のいい居間のソファにサミュエルを座らせ、クレイはキッチンへ向かう。
 「親父さんは不在なの?」
 「うん、今年は俺だけ。親父は旅行中さ。曰く、ハネムーンってね。でも、お蔭で好き勝手できる」
 「浜辺で拾った男の子、片っ端から連れ込めるし?」
 クレイが振り返ると、いつのまについて来たのかキッチンのドアの前にサミュエルが立っていた。
 眩しい陽光を纏っていたさっきまでとは違って、薄暗い室内で見るその姿は全くの別人に見える。浜辺のサミュエルは純粋で子供っぽかった。今、樫材の重いドアに凭れている少年はゾッとするほど悪魔染みている。
 (OK、受けて立とうじゃないか。)
 クレイは乱暴に冷蔵庫を閉めると向き直った。
 「おまえの方こそ、まさか、ついて来るとは思わなかったぜ。こうも簡単に?」
 「へえ?誘ったのはそっちだろ?」
 サミュエルは口を尖らせた。クレイは少年が頻りに引っ張っているマドロスチェックのシャツに目を遣る。緑、黄、ピンク、橙……
 「今までは誘われても容易に靡かなかったじゃないか。俺で7人目だっけ?」
 サミュエルの顔が怒りで紅潮した。
 「〈見張り台〉が付いてないって?聞いて呆れるぜ!ずっと俺のこと見てやがったな?」
 「いつも見ていたさ。この一週間……」
 クレイの率直な返答は少年を面食らわせたようだ。サミュエルは怒鳴るのを止めて、両手の親指をサーフパンツの縁に引っ掛けると訊いてきた。
 「どうして見てたのさ?」
 実際の処、訊いてみたくてたまらなかったのはクレイの方だ。それで、クレイはそうした。
 「おまえは、どうしてついて来たんだ?7人そうやったみたいに、何故、あの場で──焼けた砂の上できっぱり拒否しなかったのさ?」
 「質問に質問で答えるなよ。マナー違反だぞ、そういうの」
 サミュエル・ケリーの瞳が菫色の闇の中でキラキラ耀いている。さっき二人して浜に置き去りにした夕焼けの名残みたいに。
 クレイはあっさりと観念した。降服の印に両手を挙げると、
 「言わせたいのか?おまえ、目立っていたぜ。1週間悩みぬいた末に……もうこれ以上耐えられなくて……玉砕覚悟で突撃したんだ」
 「ふーん」
 と、サミュエル。「いつもこんな風に口説くのか?だとしたら、おまえの方こそ撃墜率100%だろ?」
 少年はクレイから目を逸らせた。俯くと髪が黒雲のように額に被さる。
 「俺、初めてだよ。あんたみたいな人。だから、ついて来たんだろ?」
 その後、もっと小さな声で少年は囁いた。「こっちこそ、言わせんなよ」






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