小説『とくべつの夏 〈改稿版〉』
作者:sanpo()

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 二人はコテージのこじんまりしたキッチンで仲良く夕食を食べた。
 予め冷蔵庫に冷やしてあった胡瓜と烏賊のマリネ、急いで茹でたパスタ、ミニッツ・ステーキとトマトのサラダ。他にはチーズだけと言う簡素なディナーだったが二人とも充分満足だった。クレイはワインを勧めたが、サミュエルはクラブ・ソーダーでいいと言い張ったのでクレイもそうした。
 こうして、楽しくてぎこちない夕食が終わるとすぐサミュエルは帰ると言って立ち上がった。
 「じゃ、送ってくよ」
 クレイが椅子を引くと、テーブルの下で食事の間中おとなしく寝そべっていたスパーキィが慌てて這い出して来た。
 「こんな夜道、おまえみたいなのを一人で帰すわけにはいかないもんな?」
 闇の中に例の右足好みの変質者が潜んでいないとも限らない。今やクレイは本気でその可能性について心配し始めていた。「真昼間でさえ7人ってんだから……」
 言い出しにくそうにサミュエルが訂正した。
 「あのさ、9人なんだ。正確には」
 「やれやれ」

 二人と一匹は夜の道をプレローズ屋敷まで取って返した。
 クレイのコテージから徒歩で、時間にして10分くらいの距離だ。実際には5分で充分だったかも知れない。でも、クレイは、そして、サミュエルも、決して急がなかった。
 急ぎたくなかった。
 道沿いの家々の繁みからバラの香りが漂って来る。夜露と潮風に混じって特製の香水のように二人の鼻腔に満ちた。幸福の匂いに一番近い気がする。クレイはこっそり考えた。きっと、空の満月の匂いも混じっているに違いない。
 ノロノロと歩いたせいで何人もの人と擦れ違うハメになった。自転車に乗った少年の一群。10代の恋人達。銀髪の初老の紳士。壮年の夫婦。灰色の猫。猫が首に結んでいた細い革紐の先で金の鈴がチリンと鳴った。それから、野兎が一匹、二人の前を横切って駆けて行った。余りにもいきなりだったのでスパーキィは吠えることすらできなかった。

 かくして行き着いたプレローズ屋敷である。
 遠くから眺める以上に、間近で見るその邸は壮麗で美しかった。
 この地方独特の、木を薄く削いで鱗のように重ねた外壁は長い時間と風雨に晒されて本来の茶色から灰色に変わっている。柱やポーチや窓枠、そして見張り台は真っ白に塗られて、玄関横には島の古い邸の例に漏れず建築年号が刻まれたプレートが掲げられてあった。

       ( 1770 )

 「良かったら入れよ。どうせこっちも俺一人だから遠慮は要らない」
 年代を重ねたドアの前でまっさらなサミュエルがそう言ってくれた時、クレイは嬉しくてまともに返事もできなかったほどだ。
コロニアル復興様式の外観同様、邸の中も重厚で優美だった。白い壁に蜜蝋色の床と天井がずっと続いている。海の匂いが染み込んだひんやりした廊下を歩きながらクレイは尋ねた。
 「一人って……他には誰も住んでいないのか?」
 「うん。親父の両親は親父が20代の頃にはもうどちらも亡くなってて、以来ずっと親父一人で暮らしてたって話さ。俺のママとの短い結婚生活を除いては」
 居間の茶色い革張りのソファに二人は腰を下ろした。
 サミュエルはすぐに冷えたアンバーエールの6パックを出して来た。
 (100年来の恋人同士に見えなくもないな?)
 マントルピースに置かれたアンティークの鏡。そこに映った自分たちを盗み見てクレイは内心まんざらでもなかった。その鏡の下、銀の写真立ての中から微笑んでこっちを見ている人がいる。
 「カッコいいな。あれが親父さん?」
 「タイプかい、あんなのが?」
 サミュエルは露骨に顔を顰めた。一缶目を飲み干しながら、よせって、と指を振る。
 「泣きを見るってママなら言うぜ」
 写真の方は見もしないで、「酷い男だったってさ。海しか愛していない、冷たくて自分勝手でわがままな永遠のお坊ちゃま。ママは終いには徹底的に憎んでた。赤ん坊の俺にも酷い虐待したって」
 「え?」
 ギョッとしてビールの缶を落しそうになるクレイ。サミュエルはさり気ない調子で先を続ける。
 「そもそもママに離婚を決心させた一番の理由こそ、それ。親父の俺への虐待行為だったらしい。まっ、幸か不幸か、小さすぎて俺はそのことは全然覚えてないけどね」
 元夫の死を知らされた時、アマンダ・ケリーは息子の前でキッパリと『天罰よ』と言い切ったそうだ。
 「酷い死に様だったんだ」
 先刻からずっと足元の愛犬の方ばかり見ているクレイにサミュエルは囁いた。
 「場所はサイアスコンセット沖の魔の海域──ほら、大昔、イタリアの客船が真っ二つになったあの辺りだ。海難事故には付き物らしいな?波に弄ばされて岩か何かに叩きつけられるだろ、上がった死体、見れたもんじゃなかったって」 
 「もう、やめろよ」
 「あれ?スプラッター物は嫌いかい?」
 そういう口調を浜辺でも聞いたな、とクレイは思い出した。クレイはボローニャ・ソーセージは嫌いかい?
 「そうじゃなくて」
 今、クレイは砂に汚れた自分の青いヌバックを見下ろす代わりに少年の瞳をしっかりと見返して、言った。
 「俺の言いたいのは──自分を傷つけるのはやめろってことさ」
 切り刻まれているのは父の死体だけじゃないだろ?
 「無理するなよ。自分を偽るのは、もう、よせ」
 瞬間、眉間に皺を寄せてサミュエルはクレイを睨みつけた。
 それから、あっさりと頷いた。
 「……うん」
 膝の間でビール缶をきつく握り締めて少年は言うのだ。
 「俺、すっごくショックなんだ。哀しいって言うのか、よくわからないけど、耐えられない、押しつぶされるような──これ、喪失感?」
 サミュエルは初めて写真を振り返った。
 「だって、ママがどんなに悪く言っても、俺にとってパパはやっぱりアイツ一人なんだから」
 写真の父は甲板の上で濃紺のポロシャツ姿で笑っている。その船〈スペシャルサマー号〉はこの春、父と共に海中に沈んだ。こんなに別れが早いなら、今まで母がどんなに反対しても父に会うべきだったと、今、サミュエルは心の底から後悔していた。
 「毎年、パパは俺に会いたがった。夏休みを島で一緒に過ごそうと手紙を山ほどくれた。でも、俺はママの言いなりで……いつだってママだけの息子で……で、こうして本当のパパを知るチャンスを永久に失くしちまったんだ」
 リビングルームの窓の横、硝子張りのキュリオケースの中が全部サミュエルの写真で埋め尽くされているのにクレイは気がついた。毎夏、島への招待を辞退する手紙に添えて少年が送った身代わりの写真達をロヴ・プレローズはこうして大切に飾っていたのだ。
 初めてこの部屋に足を踏み入れて、風を入れようと窓を開け、父のコレクションを発見した時のサミュエルの姿をクレイは想像してみた。ナイキのボストンバッグを足元に落したまま立ち竦む黒髪の少年。その横で彼の鼓動のようにレースのカーテンが膨らみ、縮み、また膨らむ……
 「ママは気づいていない」
 サミュエルは引き攣った笑みを洩らした。
 こんな笑い方もできるんだな? クレイはこっそり感嘆したが。
 「つまり──会わせといた方が賢明だったってこと。実在のパパを見せといた方がママにとってもずっと有利だったのにな?」
 口ではどんなに言っても、自分の内で父はどんどん理想化されて行っている気がする。
 「そのせいかな、俺、物凄いファザコンかも、な?」
 横目でクレイを見ながら、これは口には出さず心の中だけで付け足した。
 (だから、こういうタイプに弱いんだ……)
 実際、クレイ・バントリーはロヴ・プレローズによく似ていた。長身、金髪、緑の瞳。いつも海辺にいるみたいに──こんな月夜の家の中でも──眩しそうに目を細める、その癖に至るまで。

 結局、二人はその夜、プレローズ屋敷の古雅なリビングルームのキリムの上で結ばれた。
 クレイは天にも昇る心地だった。しかし、翌日の午後には地獄を見るハメになる。
 

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