クレイはサミュエルの右足をつかむと軽々と床に転がした。無論、その手つきはこの上なく優しげだったが。
「俺、おまえに目を奪われていたから──それこそ、ずっと見ていた。海辺に寝っ転がってるおまえの、この刺青」
しかし、そこには何もなかった。
少年の足の裏は真っ白だった。
「れ……?」
息を呑んだまま、暫くクレイは動けなかった。
「ほらな?これでよぉくわかったろ?」
刺刺しい声でサミュエル。お得意の悪魔バージョンだ。
「フン、おまえがノボせてた?潮騒の少年?は俺じゃなかったってわけだ!」
「……変だな?」
のろのろとクレイは弁解した。「俺、確かにいつも見てたのに──」
しかし、何度見ようと足の裏には何もなかった。
「もういいだろ?放せよ」
サミュエルは荒々しく右足を引き抜いた。まだ掴んでいた百合の花ごと立ち上がる。金色の花粉が腰や膝や爪先にパパッと散った。一方、クレイは床に深く腰を落したままだった。両手で髪を掻き上げると、
(こんなはずはない。俺はいつも見てきたんだから……)
それとも、あれは光の反射?単なる砂の汚れ、とか?
いや、違う。絶対アレは刺青だった。見間違うもんか。
自分が幾度となく見てきた刺青について、クレイは具体的に思い出そうとした。目を瞑ると逆にまざまざと甦る、それ。歪んだ火の玉のようにも、破裂した星のようにも見えた。濃い藍色の印象的な模様だ──
「それにしても──おかしいな?」
捩じれたラグの上に座り込んだまま声に出してクレイは呟いた。
その姿をいいモチーフだと思って、写真家がさっきから何度もシャッターを切っていることさえクレイは気がつかなかった。
翌日の夜。
それはあまりにも美しい夏の夜で、仲直りをするには絶好だと思ったクレイはサミュエルを誘って夜の浜辺へ散歩に出だ。少年もまんざらではない様子で黙ってついて来た。
空の月は御伽噺のお姫様の爪のような細い細い三日月。そのせいか星達が燦ざめいて騒がしい。
二人とも久々に、今抱えている頭の痛い諸問題を忘れてロマンチックな気分に陥った。
こんな夜なら、昨夜の喧嘩の仲直りをして、普通の恋人みたいに愛の言葉の一つや二つ囁ける──
「なあ、サミー?」
「何だい、クレイ?」
まさにその時だった……!
スパーキィが──勿論、散歩に彼がついて来ないはずはない。その上、リードを放していた──物凄い声で吠え出した。暗い浜辺の一点へ向かって全速力で突進して行く。
「よせ、やめろ!ストップ!スパーキィーーー!」
「ウァァ!」
短い叫び声があがった。
クレイは念のため携帯していたフラッシュライトを点けた。ロマンチックで甘い闇は消滅するが仕方ない。
明かりの中に浮かび上がったのはジェフ・ペッカーだった。
「!」
クレイの愛犬はペッカーの抱えるゴミ袋に食いついていた。
「あ、こら!スパーキィ!やめろっ!」
クレイは駆け寄ると謝罪した。
「すみません、ペッカーさん。こいつ、何をこんなに興奮してるのやら──」
スパーキィから取り上げたゴミ袋から血が滴っている。
「海鳥の死骸だよ」
悲しそうにペッカーは言うのだ。
「渚に落ちていたのを回収したんだ。この血の匂いに君のワンちゃんは反応したんだな?」
クレイが返したゴミ袋の口をしっかりと結び直しながらジェフ・ペッカーは笑う。
「尤も、臭うのは海鳥の死骸だけじゃない。昔はこんなことなかったのに。見たまえ」
クレイはペッカーが指し示す辺りへフラッシュライトの光を向けた。
砂浜にいくつか穴があいている。
「生ゴミを平気で浜に捨てて行く人がいる。捨てるぐらいならまだしも──埋めて隠す悪辣な輩もいるんだ!信じられるかい?本当に海を愛する人間ならこんな真似は絶対できないはずなのに!」
ショートパンツの砂を掃いながらペッカーは言った。
「そうだ!君の愛犬君がこんなに鼻が利くなら、今度貸してもらえるとありがたいな。埋めて隠してあるゴミを見つけるのが容易になる」
「そういうことなら協力は惜しみません」
即座にクレイも答えた。
「僕も、この島の、この海を愛する者の一人ですから……!」
海鳥の死骸の血が滴るゴミ袋を提げてジェフ・ペッカーは去って行った。
その後姿を見送りながらクレイとサミュエルはしばらく無言だった。
「なあ?俺、今改めて気がついたんだけど、あのペッカーって言う人……」
さっきの様子をずっと静観していたサミュエルがクレイを振り仰いで言った。
「善人だよなあ!」
少年は唇を噛んで俯いた。
「こんな深夜までああして浜を清掃して歩いてる。それに比べて俺達ときたら物凄い?生ゴミ?を埋めて隠してるんだから……」
「それを言うなよ」
クレイはサミュエルを優しく抱き寄せて慰めた。
「もうしばらくの辛抱さ!真犯人はきっと、じきに俺達の前に姿を現すはずだ。いや、ひょっとしたら、もう俺達の前に現れているのかも。俺達が気づかないだけで、さ?後は捕まえさえすれば……お終いさ!」
13
3人と1匹はエルンスト・オレンジを埋め直した洞窟の前に並んで立っている。
埋め戻した日から20日と半日が過ぎようとしている遅い午後。
風が強くて、ともすると海原は鯖の腹のような銀色に見えた。
「やれやれ、言いたくないけど、かなり腐敗してるだろうな?」
青いヌバックの靴の先で砂を蹴りながらクレイが嘆いた。
「その点は全然気にする必要はないよ」
サミュエルが即座に慰めてくれた。「あいつは生きてる時から充分に腐ってたから」
「上手い!」
と、これは葵里子。
それから3人は暗い穴に背を向けて歩き始めた。