操舵室には入らず、独り艫の甲板にエアタンクなどと混じって蹲っていたサミュエルはそっとクレイの背に目をやった。梶を取っているから当然と言えば当然だが、クレイは真っ直ぐに水平線を見つめながら話している。
「肺癌だった。俺が4歳の時」
もっと言えば、それは海で溺れた翌年の晩夏。
溺れたことは鮮明に憶えているのに、その次の年の、臨終の母の記憶が一切ないのは何故だろう?
そのことがクレイは不思議でならない。
最後の夏、ケイト・バントリーはもう大好きな海へ出るほど体力が残っておらず、代わりに海を見て過ごした。バスルームや炉辺に、彼女が集めた海の色をした美しいタイルを少しづつ貼ったりしながら。それで、母のことをほとんど憶えてないにもかかわらずクレイはあのタイルを見るといつも少し哀しい気分になる。
サミュエルはそっと身じろぎして潮風に髪を弄らせた。
「じゃ、がんばってね!」
エアタンクを背負い終えたクレイとサミュエルに向かって衣通葵里子はにこやかに手を振った。
「なあ?」
水中眼鏡を引き下ろす前に、我慢できずにサミュエルは訊いてみた。
「どうして、俺とクレイなんだ?」
今朝、用具を2セットしか借りなかった時点で嫌な予感はしたが。
サミュエルは咳払いをした。勿論、潜るのなら、絶対バディはクレイを指名する。が、それとこれとは別問題だ。いつもいつも司令塔はこの女で、肉弾は自分達。そこの処が気に食わない。
「あんたはどうして潜らないんだよ?」
西海岸に住んでいる人間は全員マリンスポーツの心得があると信じきっている、無垢で単純なティーンエイジャーのこの言葉に葵里子は猛烈に腹を立てた。
どうして潜らないのか?答えは明白ではないか。潜れないからだ。
実は葵里子もスキューバーダイビングスクールに通った経験はある。日本から遙々やって来て西海岸に腰を落ち着けたばかりの頃。カリフォルニア湾に生息するイルカやマナティを撮るのも悪くないと真剣に思った。
けれど、どうしても、あの息を吐き出すところ──何でもない、誰にでも簡単にできる、その段階をクリアできなかったのだ。この事実は酷く写真家のプライドを傷つけた。LAに住み、毎日海を見て暮らしていると言うのに、衣通葵里子は潜水は一生涯できないのだ。あの美しい青の世界に拒絶されたような最悪な気分。
「どうして潜らないか、ですって?私は潜るのが嫌いだからよ!私は常に上昇しようって決めてるの。わかる?だから、海だろうと、空だろうと、?下降?なんて金輪際真っ平よ!」
「ったく」
これだから芸術家は嫌いだ。レギュレーターのマウスピースを咥える前にサミュエルはこっそり呟いた。
「地獄へ落ちろ……!」
クレイとサミュエルは二人して体を反らせて、まず空を見上げその青を確認した後、そのままもっと来い海面へ突入した。