他に選択肢がなかった。サミュエルは言われた通りにした。
その際、背中の後で可能な限り優しく縄を結びながら囁かずに入られなかった。
「おまえの言った通りだ、クレイ。他人に銃口を向けられるのって、ほんと、最低の気分だ」
「だろ?」
教授によってとっくに後手に縛られていた葵里子だが、気丈にも知りたがった。
「私達をどうする気?いきなりこんな真似して……」
葵里子は視線を、右舷前甲板の策留めに舫ってある船外機付き小型ボートへ移した。クレイとサミュエルが海中に消えるとすぐ、アンブローズ・リンクィストはそれで近づいて来たのだ。
今大小2つの船は殆んど波のない夕方の凪の中で一緒に揺れている。眠気を誘う、平和でぼんやりした揺らぎのリズムは揺りかごに似ていて、そのせいか葵里子は唐突に故郷の童謡を思い出した。揺りかごの歌を歌うのはカナリアで、赤いリボンの紐を揺するのはそよ風の役目。まどろむ赤ちゃんの頭上で見守っているのは、枇杷の実だった、確か。
顔を上げると、自分達の頭上にも似たような色と形をして太陽がゆっくりと落ちて行く。夕焼けが始まっていた。
「一体、何が目的なの?」
教授は乗り付けて来た時と同じく、楽しそうに笑った。
「目的はひとつ。サミュエル君の右足さ!」
葵里子も、クレイもサミュエルも、無反応だった。
リンクィストは頭を振った。
「いやはや、じゃ、まだ思い当たらないのか?私は君達が坊やの刺青に気づいた時点で全てを察したものと踏んでいたんだが……」
肩を竦めて付け足す。
「どうやら、君達は誰一人として探偵には向いていないな?」
「待って」
遅まきながら、漸く葵里子が反応した。
「ひょっとして……例の〈右足収集家〉って……」
「この私だ、一応ね」
「何てこった!」
叫んだのはクレイだ。繰り返される右足切断とサミュエルの不思議な右足の刺青。言われてみればその通り、妙な、だが、明白な関連性がある。
「畜生!どうして気がつかなかったんだろう……?」
リンクィストは葵里子をクレイとサミュエルの方へ突き飛ばした。自分はゆっくりと歩いて舷縁(ガンネル)に腰を下ろす。
「ハナからあんなもの猟奇でもなんでもなかったのだよ、諸君。まあ、多少の趣味──美意識が投影されたのは否めないがね」
ピッチリと釦を留めたオープンシャツ。ベージュのショートパンツにデッキシューズと言ういでたち。銀色の頭にはパナマ帽を載せて、何処から見ても海辺の別荘で夏休暇を楽しむ裕福な学者以外の何者でもなかった。向うの、エニシダ色に塗ったボートには始めて会った夜ぶら下げていたのと同じブリキのバケツが置いてあるのだろう。それから、釣竿も。クレイは歯噛みした。
(釣果は何だ?例の、絶賛していたカホーグ貝とやらか?クソッ!)
「父親が事故死し、続いて息子まで不慮の死を遂げたとあっては、いかに脳無しの警察とはいえ不審に思わないでもないからな。私としてはそこら辺を暈かしたかったんだ」