教授は二人を横目で見た。リボルバーを甲板に置くと胸ポケットからライターを取り出した。
火を点けてサミュエルの右足に近づける。
「『実際には存在しない幻の変質者』ですって?よく言うわよ、このクソ親父!気づかないの?」
一緒にいて今ほどこの写真家の根性をクレイが好ましく思ったことはない。ほとんど抱きしめてキスしたいほどだった。
衣通葵里子は胸を反らせてけたたましい笑い声を上げた。
「あんたは……あんたこそ……完璧な変質者だわ、リンクィスト教授!」
「私は正常だよ」
教授は相手にしなかった。ジッポーの火で少年の足を炙りながら、
「私以上に正常な人間はいないと断言できるほどだ。何故なら、私は穢れていないからね」
太陽はすっかり水平線の下に沈んで、雲や波間の所々にだけ細長い橙色のリボンがチロチロ見え隠れするばかり。
「私は外側にいる。君達のように肉欲に支配されることはない」
ここでリンクィストは左手の中の小さな炎と右手の中の小麦色の足首、それから、顔を顰めている(或いは、自分を睨んでいる?)少年を凝視した。少年が両脇で握り締めている拳も。
「私を殴りたいか?まさに?拳闘をする少年?の再来だな、サミー君!」
「?」
「私は実物を見たぞ。今はアテネの国立考古美術館に囚われている可哀想な坊や達。だからこそ言えるんだ。似て非なる者、サミュエル・プレローズ君。なあ?どんなに美しくても生身の君なんぞ所詮、何の価値もない。それ故、誰も責めやせんよ。君をこの場で撃ち殺そうと。或いは、生きたまま右足を切り落とそうと」
クレイは気が狂いそうだった。
「何言ってやがる、全人類がおまえを責めてるぜ!サミーから手を離せ、変態野郎っ!」
「恋人がほざいてるぞ。やれやれ。おまえ等は皆、容易に騙されるんだ。この〈生身の美〉ってやつに。まやかしの亜流もいいとこなのに」
まるで火に炙られているのは自分だと言うようにリンクィストの額に汗が滲んでいる。汗の滴の幾粒かはサミュエルにも降って来た。
「〈真実の美〉を知っているか?それはな、坊や、もっと清らかで不可侵なものなのだ。恋人の腕に抱かれたいとか、髪を撫でたいとか、果ては……まぐわりたいとか、そんな不浄な思いが混じっちゃあ終わりだよ。
あいつは服を脱げと命じたら素直に応じた。あの子も完璧に近かった。君と双子のように。壁画の中の拳をつき合わせている片割れの少年のように。フフ、私は感動すら覚えたものだが。ところが、私が見惚れているとあの子は言ったんだ。『これで終わりかよ、おじさん?本当に?これだけでいいのか?』……」
サミュエルもクレイも、リンクィストが何を言っているのか皆目わからなかった。けれど、葵里子は──
葵里子にはその瞬間、鮮明に見えた。
──埃っぽいサンセット・ブールバード。
林立するモーテル群。
その中の一室。西日の当たる窓辺。
チークのベッドヘッドに凭れて座っているストロベリィブロンドの少年。
ケニー・ウォールは持ち前のキラキラする悪戯っぽい瞳で微笑んでいる。
『本当?これだけでいいのか?あんた、簡単でいいな?』
「わかったか?」
アンブローズ・リンクィストはもう笑ってなどいなかった。