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クレイはずっと約束した店のバー・コナーで待っていた。
こちらもサミュエルのシアサッカーのジャケットに負けず劣らずビシッと決めて出て来た。
クレイ・バントリーが今夜のために選んだのは、白と紺の細かい千鳥格子の上着で、その下には群青色のB・Dシャツ、サンドベージュのチノパンツ。ネクタイは寒色系に一筋黄色を交えた横縞だ。
勝負に出る時、クレイはいつも横縞と決めている。幸運のおまじない、ラッキーボーダー……!
実際、背の高さによく映えて、たいていの場合彼に勝利を齎した。果たして、今日はどうだろう?
クレイとしてはサミュエルが例によってちょっと目を伏せて、「超、クールだ」と言ってくれるのを期待していた。でなければ、小声で「ステキだな」。または、無言で微笑む。以上三つの内、どれでもかまわない。
足下、下ろしたてのダーティバックの横にはいつもながらスパーキィが寝そべっている。
明るい灰色の壁に緑の窓枠が印象的なここ、〈グリル・ホープ&ウィンドゥ〉はきちんと躾けられお利巧な犬なら店内何処にいてもOKだった。自身、ダルメシアンを飼っているオーナーのジョバンニ・ラルデッリはバントリー家とは古くからの知り合いで──実の所、ヨチヨチ歩きだったクレイが海で溺れかけた情況を詳細に記憶している、現存する3人の人間の一人である。(他の一人は父、ジェイムズ・バントリー、もう一人はクレイ本人。)
そのせいかどうか、ラルデッリは、毎年一回はそのことを話題にしないと気がすまない。そういうわけで目下のクレイの心配は、今夜のデートの最中にオーナーが自分達のテーブルにやって来て、その話を持ち出さなければよいが……ということだった。誓って言うが、自分が無様に溺れたのは、後にも先にもアレ一度きりだ。サミーは信じてくれるだろうか?
カウンターの横の、丈の高い窓は通りに面していて、歩いている人達──浜へ降りていく人、海から戻ってくる人──一人残さず見渡すことができた。
クレイとスパーキィは、長い夕焼けから始まって絶妙なグラディションで少しづつ変化して行く6月の美しい海辺の風解を見つめ続けた。
時間と数十人の人々──サミュエル以外の誰か──が彼等の前を通り過ぎたが、一人と1匹は決してその場を動こうとはしなかった。
やがて再び世界が朝の光に包まれると、クレイは砂浜を突っ切ってやって来た。
閉店まで〈グリル・ホープ&ウィンドゥ〉のスツールに座り続けてクレイが発見したのは、オーナーは、昨夜は例の話をしなかったな、ということ。
そりゃそうだろう。いくら陽気で無神経なラルデッリでもそんな残酷な真似はできっこない。現実に難破している人間を目の当たりにしては遠い過去の遭難話なんて、気の毒過ぎて口にできるもんか。実際、昨夜の自分はオムツをつけてアップアップやってた時より、遙かに憐れな顔してたに違いない。
(クソッ……)
念のため確認したがいつもの浜辺の、サミュエルの場所は空っぽだった。
クレイはプレローズ屋敷のポーチに立って辺りを窺った。
この前と変った様子はなかった。ドライブウェイに車は見当たらない。ということは、あのイカレた従兄弟も不在ってわけだ。グルッと一回りして邸内の車庫も覗いてみた。そっちはきっちりと扉を閉めて斡旋してあった。
クレイはポーチに戻って呼び鈴を押した。
何の反応もない。2、3度繰り返し押した後で、試しに扉の取っ手に手を置くと、開いた。
瞬間、クレイとスパーキィは顔を見合わせた。
「────・・・」
クレイは体を斜めにして玄関扉を摺り抜け、中に入った。
邸内は森閑としていた。が、何せ古くて広いのでそれは今日に限ったことではない。
リビングルームに足を踏み入れて、そのあまりに酷い有様にショックを受ける。
パーティの後を絵に描いたよう。散乱するビール缶やワインの空き瓶、汚れた紙皿、チーズの欠片。スナック類の袋が破れた風船よろしく床の彼方此方に散っている。
前々日、ここで、まさにこの床の上で、自分とサミュエルが素晴らしい時を共有したのだと思うと絶えられない気がして目を逸らせた。
「?」
階上から微かな音がする。
酷く清らかな音だったので最初はウィンドゥベルかと思った。それからすぐにシャワーのそれだと気づく。
果たして、サミュエルはそこにいた。
ドアを開け放したまま、ロヴ・プレローズのメインゲストルームのバスタブに浸かって目を閉じていた。
両足を組んでバスタブの縁に乗せているので嫌でもあの美しい足の裏の刺青が目に入る。バスルームのタイルの色は白と黒。黒髪のサミュエル自身が凝ったモザイク模様の一部のようでクレイは見惚れてしまった。
ドアの前で暫く呆けたように佇んだままそっちを見ていた。
どのくらいそうしていただろう。漸くのろのろとクレイは口を開いた。
「無用心だぞ、サミー、玄関、鍵が開いてる」
「ああ」
物憂くサミュエル。まだ目は瞑ったままだ。ここでクレイの怒りが突如燃え上がった。
「いい気なもんだな?デートの約束すっぽかしてパーティに鞍替えか?馬鹿な俺はスパーキィと一晩中……クソッ」
いったん息を吐いて、額に落ちてくる邪魔な髪を掻き上げると、
「まあ、それはいいさ。どうせ俺は憐れな10番目だよ。だけど、せめてキャンセルの電話ぐらいくれても良さそうなもんだ!」
「……電話か」
やっと目を開けてサミュエルは言った。「俺も、かけたかったよ。電話……」
声が引き攣る。サミュエルはそのまま頭ごとバスタブの中へ体を沈めた。クレイは一足飛びに市松模様の床を突っ切ると両肩をつかんで少年を湯船から引っ張り上げた。
サミュエルは泣いていた。
遅まきながらクレイも事の異常さに気がついた。
「どうかしたのか、サミー?昨夜、何があった?一体──」
終いまで問う必要はなかった。引き上げた師の上半身にくっきりと残っている痣──
目を凝らしてよく見ると、手首や足首にも。それらは明らかに縛られた痕だし、体の方は──
「サミー?これは……これ・・…?」
言葉にならなかった。
「あんたの言った通りさ」
サミュエルは乾いた声で言うのだ。全身びしょ濡れのくせに。
「エルンスト・オレンジ。あいつはほんと、最低のクソガキだ。俺を借金のかたに売りやがった。ロクデモない売人連中に」
クレイの方は見ずにバスタブに目一杯張った水を見ている。
「奴等、俺を……よりによってパパのこの邸で……俺を」
「サミー」
それ以上言わせまいとしてクレイは抱き寄せた。
「ごめん、クレイ」
抱きしめられたせいでくぐもった声でサミュエルは謝った。「俺、本当、電話したかったんだ、おまえに」
「やめろ」
サミュエルの面積分、切り取られた影のようにクレイのシャツに染みが広がって行く。が、かまいはしなかった。クレイはもっと強く、自分自身の内側にサミュエルが食い込んでしまうほど、強く腕に力を込めて抱きしめた。
「俺こそマヌケもいいとこだ。アホ面下げて、犬みたいに待つことしかしなかったなんて。もっと早く、おまえが遅いって怒鳴り込んでりゃ……」
悔やんでも悔やみきれない。
「こんな真似させなかった。絶対、こんな酷い真似、誰にも」
「無理だよ」
ここでサミュエルはクスッと笑って、
「おまえが来たところで連中は──」
突然、前に思い出せなかった古い映画のタイトルを思い出した。
「〈イージーライダー〉並みにイカレたジャンキーどもだったんだぜ。おまえまで怪我してたら、俺立ち直れないよ」
「おい、俺を見縊るなよ。こう見えても高校時代、レスリング部でならしたんだ」
「本当?」
クレイ・バントリーはレスリングをやるには細くて長身過ぎるようにサミュエルには思えた。尤も、そのことはクレイ自身3年間悩み続けた問題ではある。
「何ポンドの階級?対戦成績はどうだった?」
クレイは咳払いをして、
「まあ、俺のことは置いといて、スパーキィを嘗めんなよ!あいつだって、いや、あいつこそ〈K9〉ばりのスーパードッグなんだから」
バスルームの戸口にちょこんと座っているスパーキィを二人は一緒に振り返った。
穏やかな毛むくじゃらのその姿にサミュエルは心底癒される思いがした。それから、自分の体にぴったりと廻されたクレイの腕にも。
どっちも金色で、陽だまりの匂いがする。