この、突然の嵐の正体は──
鯨だった。
7月の大西洋上、漁船〈アイランダー号〉の舳先を掠めて巨大なザトウクジラが浮上して来たのだ。
夢のように美しい光景がそこにあった。
空に浮かぶ月は満月。その光のせいで鯨の巨体も、海原も、空も、全てが錫色に滲んでいる。
操舵室から顔だけ出した葵里子は、今この瞬間、カメラを手にしていないことを心から悔しがった。
(もうっ!一世一代の写真が撮れたのに……!)
毎年夏を島で過ごして来たクレイでさえ、これほど間近で鯨を見た経験は数えるほどしかなかった。
(そう、これで2度目だ……)
前回、鯨を見た日、クレイは吃驚して父のヨットから転げ落ちてしまった。ラルデッリの叫び声。白いビキニをつけた母が素早く飛び込んで助けてくれなかったら溺れ死んでいたろう。
(と、すると……鯨は俺にとって死の使いなのかも……)
あの美しい海洋生物と自分の死の距離がいつも比例しているようにクレイには思えた。
止血のためにずっと脇腹を押さえてくれていたサミュエルの手が離れたのは、その時だ。
「?」
血に濡れた少年の手が宙を切るのをクレイはぼんやりと見ていた。
月光の下、唯一際立っているあの色は、嘗て特別だった色。教会の尖塔、秋の樹の葉、少女の背負っていたバックパック、それから、何だった?そう、あれ、最初の恋人の髪の色……
血に染まった真紅の手が網巻揚げ機の真下に落ちていたマグナム・リボルバーを拾い上げた。
我に返ったアンブローズ・リンクィストが起き上がって、全力で突進して来る。
サミュエルは躊躇しなかった。
勿論、銃に触れるのは初めてだった。刺青同様、ママが許すはずがない。こんな不良の真似。だが、この場合、しかたないじゃないか……!
弾倉に残っていた全ての弾丸をサミュエルは飛び掛ってくるリンクィストの体にぶち込んだ。
22
サミュエル・ケリーはマサチューセッツ州警察に全てを話したわけではなかった。
話したくないこともあったし、話したくても話せなかったこともある。
そして、ほとんどはその時点では、まだ彼自身、知りようがなかったのだ。