小説『とくべつの夏 〈改稿版〉』
作者:sanpo()

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 ここが最終目的でも到達点でもないのだと葵里子は考えていた。
 「ねえ?私はこのクーロス達を通してやっぱり基となった〈人間〉に思いを馳せるけどな。〈生身の肉体〉を恋焦がれるけどな」
 もうそこまで来るとクレイもサミュエルも何のことだかわからなくて返答に窮した。
 もどかしげに葵里子は舌打ちして、
 「チェッ、私が言いたいのは、マトモな人間ならどっちかだけを取ったりしないってこと。こっちの、〈創造の美〉を讃える人はそのモデルとなった生きてる人間の方も心から愛するわ!」
 ふいに葵里子はクレイのコテージで半裸のサミュエルをカメラに収めようと焦っていた時、自分を襲った既視感の意味を理解した。
 サミーと何処かで会ったと思ったはずだ。サミュエルときたら、クレタ人が絶賛した若者達と何と良く似ていることか……!
 今、葵里子ははっきりとそのフレスコ画のタイトルを言うことができる。
 「〈百合の王子〉……」
 夕焼けを背に、百合の咲き乱れる丘に立つ少年の図。長い黒髪を海風が弄って行く……
 葵里子がこの絵をは初めて見たのはUCLAの特別教室だった。
 スライドを指しながらエーゲ海に花開いた古代海洋民族の美意識について熱っぽく語るアンブローズ・リンクィスト教授の声。
 『これは、クレタ島考古学博物館14・15・16室に展示されているクノッソスの石棺の壁画だ。素晴らしいね?』
 (ええ、本当に。素晴らしいです、教授。)
 してみると、クレイのコテージでカメラを構えていた時、私は意識下ではちゃんと真犯人に行き着いていたのだ!
 教授の狂気が、いつ、何処で始まったのか、葵里子はそれについても考えてみた。
 漁船での彼は完全に狂っているように見えた。だが、出発点は一体何処だったのだろう?
 島を訪れた今年の春、ロヴ・プレローズの姿を見て、いったんは失ったと諦めていたミロス島の若者達を再び取り戻せると知った瞬間だろうか?それとも、あっち、乾いた風の吹く遙かエーゲの島々で、甦った古代の都市を彷徨いながら彼の狂気は既に芽吹いていたのか?
 (……結局、今となっては誰にも知りようのないことだわ。)
 葵里子は頭を振って結論づけた。
 (私たちが唯一知っているのは──)
 リンクィストが単に刺青を手に入れる目的のためにだけ、カモフラージュの手段としてだけで殺人を繰り返したのではないこと。
 エルンスト・オレンジはともかく、教授は明らかに自らの愉悦のためにそれをしたのだ。

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