小説『Forbidden fruits ―禁断の果実―』
作者:ゴニョゴニョ()

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 一月はシーズン真っただ中だが、意外に試合がない。ヴィヴィとクリスは最後の世界ジュニアに向けて粛々と調整を進めていた。

 運転手がリンクの裏玄関に車を寄せると、ヴィヴィとクリスは自分の荷物を持って車から降りる。裏玄関にはマネジメント会社のINGから派遣された牧野マネージャーが待っていた。今日は土曜日、夕方から練習をスタートする前に双子にフィギュア雑誌の取材が入っていた。

「お疲れ。もう雑誌社の方みえているから、急いでくれる?」

 三十代前半でいかにもやり手な風貌の牧野は、時間よりも前に到着した二人を急かした。

「服装はそのままでいいよ。あ、あとヴィヴィはHP(ホームページ)の日記内容、メール着てないよ? 最低三日に一回は更新しないと」

「はい」

 素直に返事をしたヴィヴィは更衣室に荷物を置くと、クリスと急いで雑誌社を待たせている会議室へと向かった。雑誌社のインタビュアーは以前も取材をされたことのある編集者だった。

 挨拶をして席に着くとまずは趣味や開設したばかりのHPの内容に関しての質問、全日本フィギュアでの感想と課題点等を聞かれ、それぞれについて答えていく。その間、パシャパシャとカメラで撮られているので、なかなか緊張する。

「そろそろ時間ですので――」

 腕時計を見ながら牧野が終了時間を伝えると、インタビュアーは居住まいを正した。

「では、最後の質問いいですか? 去年の年末、お二人共オリンピックはまだ考えられないとおっしゃられていましたが、その気持ちは変わりませんか?」

 必ず聞かれるだろうと思っていた質問に、ヴィヴィはきゅっと唇を引き締めると隣のクリスを見つめる。小さく頷いてみせたクリスからヴィヴィは視線をインタビュアーに戻すと、ピンク色の唇を開いた。

「正直、全日本フィギュアが終わって皆さんに『オリンピック目指すんでしょ?』と聞かれたとき、何も考えていませんでした。本当に自分の事だけに必死で――」

 言葉をとぎらせて口を閉じたヴィヴィだったが、膝の上で組んだ両手をギュッと握りしめて、視線を上げる。

「でも、今まで自分は母であるコーチを始め、家族や周りのスタッフに沢山支えられてここまで来ることが出来ました。その恩に報いるためにはオリンピックに出て、いい成績を残すことが一番の恩返しになると思いました。それにオリンピックを目指すことによって、演技のレベルも必然的に向上して自分の糧になるんじゃないかと思うんです――」

「それは、つまり――?」

 インタビュアーの催促に、ヴィヴィは決心を決めて宣言する。

「はい。私は来年のオリンピック出場を目指します」

(言っちゃった――もう後には引けない……)

 公言した途端、武者震いなのかヴィヴィの華奢な身体がぶるぶると震え始めた。ヴィヴィの異変にいち早く気付いたクリスが、ヴィヴィの掌にそっと手を置く。暖かい体温が手の甲から染み渡り、ヴィヴィは徐々に落ち着きを取り戻していく。

「………………」

(そうだ、私は一人でオリンピックに挑むんじゃない――周りのスタッフや、クリスも一緒だ……)

 震えが収まったヴィヴィから手を放すと、クリスはインタビュアーに視線を移す。

「僕は、自分のレベルが少しでも向上する為だったら何でもします。オリンピック後に控えている世界フィギュアもそうですが、今までに挑戦したことのないことに挑むことでさらにレベルが上がるなら、挑戦してみようと思います。つまり、僕も平昌(ぴょんちゃん)オリンピックを目指します――」

 しっかりとそう宣言したクリスに、カメラマンがシャッターを切りまくった。

「そうですか! お二人がそう決断されたこと、日本中のスケートファンが大喜びすると思います。期待しています、頑張ってくださいね!」

「「はい」」

 最後にツーショットを撮ると、取材陣は退室していった。会議室の扉が閉まる直前、

「これはトップニュースだぞ!」
と、囁く取材陣の声が漏れ聞こえた。

 その日の夜にはネットのトップニュースとして「全日本フィギュア制覇の篠宮兄妹、オリンピック宣言!」と報じられ、その後暫く双子は取材陣に追い掛け回されることとなった。

 ある日には二人の通うBSTにまで二人のコメントを取ろうと取材陣が殺到したが、日本スケート連盟が素早く対処してくれた為、翌日からはそういうことはなくなった。





 冬休み明けにBSTへ登校した双子を待っていたのは『Congratulations on All-Japan Figure Skating Championships !! Mr. & Ms. Shinomiya』という横断幕だった。

「すっかり有名人になっちゃったね、二人とも……」

 横断幕の前で立ち尽くした双子の背後から、カレンが声をかけてきた。

「カレン〜っ!! Happy New Year !!」

 冬休み中会えていなかったカレンに、ヴィヴィがガバチョと抱きつくと、それを受け止めたカレンは隣のクリスに「Happy New Year クリス」と笑いかけた。それに不満を感じたヴィヴィがカレンから上半身を離して恨めしそうに見上げる。

「カレン、ヴィヴィの新年の挨拶、無視した〜」

 不服そうに唇を尖らせるヴィヴィにカレンはぷっと吹き出す。クスクスと笑いが止まらない様子のカレンだったが、やっと、

「良かった……二人がテレビとか雑誌とか出て、どんどん遠い人になっちゃったみたいで、淋しかった――」

とホッとしたような表情で呟く。そこへ通りがかったクラスメート達が加わる。

「カレン、この双子はそんな簡単にマスコミに染まらないでしょ〜。特にヴィヴィなんてどっからどう見ても前の『お子ちゃまヴィヴィ』のままじゃないか」

 ヴィヴィをけしかける様にそう囃(はや)し立てる男子に、ヴィヴィは「なんだと〜っ!」と小さな拳を振り上げてタータンチェックのワンピースの裾が翻(ひるがえ)るのも気にせず追いかける。そんな様子を目を細めて見守るカレンや女子に、クリスは「変わらないよ、何も……」と小さく呟いた。

「そうだね……お〜い、ヴィヴィ、男子も。あと二分で本鈴鳴るよ!」

 カレンがいつも通りの明るい笑顔でそう呼びかけると、ヴィヴィと男子の「OK〜」という能天気な返事が返ってきた。





 二月頭に世界ジュニアを控えた一週間前の日曜日。

 ヴィヴィは朝の練習を終えて屋敷へ戻ると、ピアノを触りたくなって着替えて防音室へと向かった。ヴァイオリンもピアノも毎日三十分でもいいから弾くようにしているが、やはり試合直前となると何よりもスケート優先となるためにその時間を取ることさえ難しくなる。

(弾き収め〜。世界ジュニア終わったらいっぱい弾こう)

 両手の指を胸の前でわきわきと蠢かせながら廊下を突き進むヴィヴィだったが、防音室の扉の小さなガラス部分に移りこんだ小さな影に気づき、歩く速度を緩めた。もしやと思いガラス部分から中を覗き込むと、匠海がチェロを弾いていた。もしかしたらクリスも一緒かと狭い視界で探ってみるが、どうやら匠海一人のようだった。

「………………」

 聖なるクリスマスの夜――ついに自分の兄への恋心を自覚してしまったヴィヴィは、なんとか以前のように普通の兄妹として接せられるようにと努力していた。どれだけ自分の気持ちを誤魔化そうが、匠海を見ないふりしようが気づくともう心は、視線は、常に兄を追っているのだから――。それならいっそ、一秒でも長く、匠海の近くで過ごしたいと思った。

 恋心を認めてしまうと、後は春先の雪崩の様にヴィヴィの気持ちは理性や常識といった壁でも止める事は出来なかった。自分でも解らないし、理解不能だ。




『何故、自分はこんなにも、血の繋がった実の兄に引き寄せられるのか――?』




(――優しいから?)

 ヴィヴィは頭に浮かんだ答えに小さく首を振る。そんなのクリスだって、いつもからかってくるクラスメイトだって皆、心底優しい。

(頼りになるから? 博識で尊敬できるから? いつも小言を言いながらも最後には甘やかしてくれるから?

 気心が知れているから? それとも、一緒にいて安心するから――?)

 何故か考えうるどの理由もピンとこない。なのに、吸い寄せられる。ほらこうしている間も、手は小刻みに震えながらも匠海との間を隔てる邪魔な壁を取り払おうと、防音室特有の大きなノブを押し開こうとしている。

 音もなく開かれる分厚い扉。けれどそれによる空気の流れを感じ取ったのか、匠海がこちらをふと振り向いた。両者の視線がかち合った途端、ヴィヴィはまるで熱いものから逃れるようにぱっと扉の陰に身を潜める。

「ヴィヴィ……?」

 中から匠海の不思議そうな声が呼びかけてくる。

「………………」

 チャコールグレーのワンピースの内の心臓が徐々に鼓動を早める。

(もう一度……)

 ヴィヴィは胸に握りしめた拳を押し付け、ギュッと目を瞑る。

(もう一度……その声でヴィヴィって呼んで? 私と同じ灰色の瞳で、私だけを見て? 節くれだっているけれど男性にしては細く長いその指先で、私に触れて――?)

 心は口よりも貪欲に欲求を垂れ流す。そうだろう――だって思うだけならば相手に自分の醜い心が見抜かれる事もなく、それによって傷つけられることもない。

「ヴィヴィだろう? 入っておいで」

 匠海の男らしい低くて官能的な声に、ヴィヴィの中のまだ未成熟な女の部分が揺さぶられる。

 実兄相手にこんな醜いことを思っている自分が嫌なのに、見つめられたい。相反する気持ちに胸が引き裂かれそうに苦しい。けれど……匠海の姿を一瞬でも長く見ていたい――。

 恐る恐る扉の陰から顔だけを出すと、匠海とまた目が合う。

「―――っ」

 息を飲んでまた扉の陰に隠れてしまったヴィヴィだったが、匠海がくくくっと苦笑する声を聞きとめ、やはり気になってまたそろそろと顔を出してしまった。

 視線の先にはチェロを片腕で抱いた匠海が瞳を細め、おいでおいでと手招きしている。

(ど、どうしよう……)

 心臓は早鐘を打ち、思考は纏まらずにごちゃごちゃなのに、何故か細長い足はそれ自身が意思を持ったように匠海のもとへと歩を進める。自分の全身が匠海の視界に入っているのを感じ取ったヴィヴィは、ふるりと大きく躰を震わせた。愛しい人に見つめられ、心の内から湧き上がる高揚感と、紛れもない己の内に燃え滾(たぎ)る情欲――。

「………………」

(ああ、分かった――)

 ヴィヴィは確信する。

(私は、ただ『魅入られた』だけ――お兄ちゃんの男の色香にただ中(あ)てられただけ、お兄ちゃんの持つ――もしかしたら自分にしか判らない――天性の魔性に取り憑かれ、狂わされただけ――)

 本当にただそれだけで、たぶんそれ以上でもそれ以下でもない。

 そしてその引き金になったのは、やはり、匠海の性行為を目撃してしまったから――。

「お、お兄ちゃん……」

 ヴィヴィはおずおずと匠海の前に立つと、座ったままの匠海が見上げてくる視線を何とかそらさず受け止める。

「ぷっ……野良猫ごっこ?」

「え……?」

 匠海の突然の発言に、ヴィヴィは小さく疑問の声を上げる。

「いや、扉の向こうからちょろちょろこっちを伺っているから、まるで人に慣れてない野良猫みたいだなと思って」

 肩を震わせながら笑う匠海に、ヴィヴィは「なっ!?」と絶句する。

(の、野良猫呼ばわりされたっ!? こっちはいっぱいいっぱい悩んでるのに!)

 むっとして踵を返して出て行こうとしたヴィヴィの手首を、匠海がはしっと捕まえる。

「ごめんゴメン。あまりにも動きが小動物っぽくて可愛かったから――野良猫って言ってもあれね、毛並みの良い真っ白な子猫(kitty)って感じ」

 笑いながらそう弁解する匠海に、ヴィヴィは小さく頬を膨らませてみせる。掴まれた手首が熱くてその頬は薔薇色に染まっているが緊張したヴィヴィは気づいていなかった。

「また、捕まえちゃった」

 そう言って握っていたヴィヴィの手首をひょいと持ち上げた匠海は、ヴィヴィの顔を覗き込む。

「楽器弾きに来たんじゃないの?」

「あ、うん。ピアノ、弾きたくなって……」

 匠海の指摘に当初の目的を思い出し、ヴィヴィは呟く。

「ちょうどいい、これ伴奏してくれない?」

 やっと手を放した匠海は、目の前の譜面台からスコアを取り出すとヴィヴィに手渡す。それはラフマニノフのヴォカリーズだった。パラパラとピアノ用の譜面をめくり、内容を確認する。初見だったが伴奏は難しいものではなかった。

「いいよ……間違えるかもだけど……」

 スコアを胸に抱きかかえてヴィヴィが返事をすると、匠海は

「じゃあ、準備できたら教えて」

と言い、自分も先程まで弾いていた譜面に視線を落とし、弓を構える。

 引かれた弓からヴォンという重低音が響く。

 篠宮家では匠海とクリスがチェロを弾くが、二人は兄弟にも拘らず全く違う音色を持っていた。

 クリスのは真っ直ぐな音――間違いや過ちを決して許さないような、ある意味「潔癖さ」さえ感じさせるような澄んだ音色。けれど稀にどす黒い得体のしれない何かを感じさせるような昏い響きをもつことがある。

 匠海のは深い音――まるで深淵に迷い込んだような一言では表せない複雑な音。唄っている様に美しく響いていたかと思うと、まるで悲嘆に暮れて泣いているような響きを奏でることもある。

 兄達が成長してそれぞれの本当の音を奏でるようになった時、チェロの教師に、

「君達は、なんと言うか……面白いね――」

と言わしめ、驚かせた音だ。

 暫し匠海のチェロの音に聴き惚れていたヴィヴィだったが、はっと我に返り、指を慣らすためにスケール(音階)とアルペジオ(分散和音)を高速で弾き始めた。途端に黒いグランドピアノから防音室に音の羅列が散らばり始める。匠海の前で緊張していたヴィヴィは音に満たされ始めると、だんだん落ち着きを取り戻した。五分ほどして匠海に「準備できたよ」と伝えると、ヴォカリーズの譜面をピアノの譜面台にセットする。

 ちらりと匠海を伺うと、落ち着いた眼差しでヴィヴィを見つめてきた。ヴィヴィは片手だけ細く白い指先を鍵盤に下すと小さく息を吸い、p(ピアノ)で和音を鳴らす。すぐに静かな匠海のチェロが重なり合う。

 ヴォカリーズとは歌詞を伴わずにしばしば一種類以上の母音のみによって歌う歌唱法を指す。数あるヴォカリーズの中でも突出して有名なのがこのラフマニノフの一曲。声楽では母音「A(アー)」のみで歌われるロシア音楽らしい悲哀を帯びた旋律をチェロで奏でる匠海に、ヴィヴィは淡々と和音を重ね、時折対旋律を合わせて奏でていく。

(悲哀、悲恋、悲嘆――初めてこの曲を聴いたときのイメージはそうだった)

 そして初めてこの曲を奏でてみて、ヴィヴィはまた違う印象を持った。悲しい恋の唄に思えるのに、哀しいだけではない何かがある――。そこにはきっと、愛しい人のことを思っているときの幸福感も存在している。

 ヴィヴィは匠海の指先から奏でられるビブラートに耳を傾けながら、自分の音を寄せていく。短い動機の畳み掛けによって、息の長い旋律が導き出される。

(言葉にしてはならない――ヴォカリーズは、まるで私のための様な曲――今だけはお兄ちゃんを「愛している」と一音一音で伝えよう。それ位は、お願い。許してほしい……)

 匠海はきちんとヴィヴィの音に耳を傾け、ピアノの対旋律を引き立てて返してくれた。最後のトリルを合わせて静かに曲を弾き終わる。

 ゆっくりと弓を下した匠海は緩慢な動作でヴィヴィを振り返ると、暫く真顔でひたと見つめてきた。その静謐な眼差しに、ヴィヴィはまるで自分の心を見透かされたかのように、ぞくりと華奢な躰を戦慄(わなな)かせる。しかし数十秒後、何もなかったようにさっと視線をチェロに戻した匠海はクロスで楽器を磨き始めた。

(………………?)

 なんだったのだろうと思いながら鍵盤に視線を落とした時、匠海が口を開いた。

「ミンスクって寒いの?」

「え……?」

 いきなりの質問に、ヴィヴィは戸惑って顔を上げる。

「今週末の世界ジュニア、ベラルーシ共和国のミンスクだろう?」

「あ、そのミンスク……。えっと、二月でも十三℃位まで上がるらしいよ、日本より温かそうだね」

 荷物をパッキングするときの為に執事の朝比奈が調べておいてくれた情報を匠海に伝える。

「そうなんだ。行きたかったな……」

 匠海はそう言って少し寂しそうにため息をついた。

 驚くべきことに、匠海は今まで双子の試合に全て応援に駆け付けてくれていたのだ、国内国外を問わず、全てだ。土日に多い試合とはいえ、海外では移動距離を考えたら匠海も学校を休んで来てくれていたのだろう。初めは両親の「家族はいつでも一緒!」という教育方針から始まったことだったが、匠海も毎回喜んで応援に来てくれた。勿論双子も匠海が乗馬の大会に出るたびに、駆けつけて応援していた。

 しかし、今回の世界ジュニアはどうしても大学の予定と都合がつかず、匠海は初めて双子の試合を観戦できないことになってしまったのだ。

「今まで全ての試合に来てくれてたので十分だよ。お兄ちゃん、これからどんどん多忙になるだろうし……」

「二人が一つずつ課題をクリアしていくのを見るのが好きだったんだ。観察日記みたいで面白かったし」

 そう言ってにやっと笑った匠海に、ヴィヴィも笑う。

「なにそれ」

「ま、俺は日本で使用人達と生中継見ながら応援するよ。J−SPORTS様々だな」

 BSでJ−SPORTSに契約しているとフィギュアのあらゆる大会の全ての種目が、日本にいながら視聴可能なのだ。

「うん。実はお兄ちゃん来なかったら『勝利の女神』も来てくれないんじゃないかと心配だったんだけど、画面を通してヴィヴィとクリスにエネルギー送ってね?」

 ヴィヴィはテレビ画面に向かって両手を掲げると、エネルギーを送る真似をしてみせる。その可愛い動きに吹き出した匠海が、ヴィヴィを手招く。

「もちろん、精一杯気を送るよ。それに――手、出して?」

 匠海が自分の右手を差し出して、ヴィヴィにも手を出すように催促する。

「な、なに?」

 匠海の手の上に自分の手を差し出すのを少し躊躇したヴィヴィがそう聞くと、右手をぐいっと引っ張られた。

「手、開いて?」

 笑顔でそう言う匠海にヴィヴィはおずおずと掴まれたままの手のひらを開く。そこにポンとオレンジ色の箱が置かれた。五センチ四方程の小さな箱。

「ラッキーチャーム。開けてみて?」

 そう言って手を解いた匠海と箱を見比べていたヴィヴィだったが、ゆっくりと箱を開く。そこにはとても繊細で華奢な細工を施された馬蹄型のチャームが付いたネックレスが収まっていた。

「え…………これ……」

 そう言って匠海を見上げたヴィヴィに、匠海が満面の笑顔で返す。

「随分遅くなったけれど、クリスマスプレゼント――あと、全日本フィギュアのお祝いも兼ねてる」

「―――っ!!」

 まさかのプレゼントに、ヴィヴィは目を見開いて驚く。そのまま絶句したように固まってしまったヴィヴィに苦笑した匠海が、ヴィヴィの手元を覗き込んだ。

「馬蹄モチーフのチャームは古来ヨーロッパから幸運を呼ぶお守りなんだよ。ほらU字型だからここで幸運を一杯受け止めて、それを逃さないんだって」

「そうなんだ……」

 ヴィヴィも馬蹄モチーフのものは好きだった。勿論匠海のおかげで慣れしたんだ乗馬に関連するものでもあるし、なによりヴィヴィからしたら「上質な大人のアクセサリー」のイメージだった。

「こんな上品で綺麗なネックレス。ヴィヴィにはまだ、勿体ないよ……」

 そう口では言いながらも心ので中は愛している匠海からのプレゼントで、まるで天にも昇る程幸せを感じていた。

「あれ、気に入らなかった? ハートとか可愛いほうがよかった?」

 残念そうな顔をした匠海に、ヴィヴィは金髪が乱れるのも気にせずぶんぶんと大きく首を振って見せる。

「まさかっ! 凄く気に入ってる! 素敵だし綺麗だし、幸運のお守でもあるなんて!」

 大きな瞳を輝かせながらそう懸命に主張するヴィヴィに、匠海はほっとした表情を見せた。

「じゃあ、貰ってくれる?」

「ヴィ、ヴィヴィこそっ、貰っていいの?」

 こんな上質なプレゼントを子供っぽい自分が貰っていいのかまだ心配なヴィヴィが、小さく首を傾げる。そんなヴィヴィの後頭部を匠海が大きな手のひらでなでなでする。

「あたりまえだろ? ヴィヴィのために用意したんだから」

「―――っ!! ヴィヴィ、毎日着けるね。学校にも、リンクにも、試合にも!」

 そう息せき切ってはしゃぐヴィヴィを瞳を細めた匠海が見つめる。

「そう言うと思って、長さが調節できるようにしてあるよ。普段は短めに着けたほうが可愛いし、試合だと衣装に隠れる位長くなるようになってるから。それにゴールドだから錆びたりしないし」

 ネックレスをヴィヴィから受け取ってチェーン部分の長さの調節を説明してくれた匠海だったが、ネックレスを持ったその手をヴィヴィの首の後ろへと伸ばした。途端に距離が近くなりヴィヴィの鼓動が加速する。

 ヴィヴィの目の上に匠海の出っ張った喉仏があり、息をする度に小さく上下をする。その様子がなぜかとても艶めかしくて、でも目を逸らせなくてヴィヴィは徐々に自分の顔が火照るのが分かった。

 ようやく体を離した匠海がヴィヴィのことを一歩引いて見つめる。

「うん、よく似合ってる。綺麗だよ」

(………………?)

 匠海の言葉の意味がとっさには理解できなかったヴィヴィだが、その視線の先が自分の首元にあるのを感じて視線を下す。長めに止められた極細のチェーンの先で金色の馬蹄のチャームが繊細な輝きを放っていた。

「わぁ……可愛い」

 人差し指の先で恐る恐る小さなチャームをいじったヴィヴィは、みるみる満面の笑顔になる。そして匠海を見上げて破願した。

「ありがとう、お兄ちゃん。ヴィヴィすっごく嬉しい!」

 匠海が自分のことを考えながら自分に似合う物を選んでプレゼントしてくれた――そのことに言いようのない幸福を感じ、ヴィヴィは今までにないくらい満たされた笑顔を浮かべた。

「いい笑顔。その表情、ベラルーシでも見せてくれよ?」

 指先でヴィヴィの頬をつんと突いた匠海が現実へと引き戻す。明後日には日本を発ち、今週末には大きな試合が待っている。そしてこのネックレスはその為のお守りでもあるのだ。

「うん。絶対、優勝するね!」

 そう気合を入れて匠海に最後の世界ジュニアでの優勝を誓ったヴィヴィだったが、はっと我に返る。

「あっ! ヴィヴィ、お兄ちゃんにクリスマスプレゼント、用意してない!」

 自分だけ有頂天になって重大なミスを犯していたことに今更ながらに気づき、ヴィヴィの顔からみるみる血の気が引いていく。

(あぁ〜、ヴィヴィのバカ! だからいつまで経っても子供なんだよ〜!)

 自分でそう突っ込んでしゅんと下を向いてしまったヴィヴィだったが、匠海の意外な一言ですぐに顔を上げた。

「え? 貰ったよ?」

「え? ウソ、何もあげてないよ?」

 まったく身に覚えのないことに、ヴィヴィはきょとんとする。

「何言ってんの。全日本ジュニアの連覇に全日本シニアの初優勝――それにグランプリジュニア ファイナルの連覇まであるぞ。それだけ沢山優勝してもらえれば充分だって。こんな妹をもって俺ほど幸せな兄貴は他にいないでしょ?」

 そう言って前髪の間からおでこを指先でつつかれたヴィヴィは、

「そんなのじゃ、プレゼントにならないよ!」

と余りにも無欲なことを言う匠海にわたわたと焦りながら反論する。しかし匠海は笑顔のまま首を振る。

「充分充分。それにクリスマスには熱烈なハグもして貰ったし」

「なっ!?」

 ヴィヴィは匠海の言葉に、クリスマスの深夜のことを思い出し真っ赤になった。あの時は確かに匠海から抱きしめてきたが、ヴィヴィもその後我を忘れたかのように必死に縋り付き――挙句の果てには試合の疲れがどっと押し寄せてそのまま匠海の腕の中で眠ってしまったのだ。

「なっ、あ、あれは、お兄ちゃんが……!」

 必死で言い訳しようとしたヴィヴィだったが、匠海が続けた言葉にさらに熟れた林檎のように耳まで真っ赤になった。

「じゃあ、もう一回ヴィヴィからハグして? そしたらそれを本当の俺へのクリスマスプレゼントとして受け取るから」

「―――っ!?」

 信じられない提案に絶句したヴィヴィを、匠海が面白そうに見下ろしてくる。その瞳は突然思いついた悪巧みでイキイキして見えた。

(もうっ! 絶対、ヴィヴィで遊んでるっ!!)

 匠海はきっと兄離れしようとしているヴィヴィがあたふたしているのを見るのが楽しくてしょうがないのだ。だからいつもからかう様な真似をしてくる。

「お兄ちゃんの――っ!!」

 そう大声を出して二十センチ以上背の高い匠海に、ヴィヴィはボスという音を立てて飛びついた。七分袖のワンピースから伸びた細長い腕をひしと匠海の背中に回すと、これでもかというほど強い力を込めて締め上げた。少しは苦しがるかと思ったが、匠海は平然として聞き返す。

「俺が、何――?」

 その声は余裕綽々で、ヴィヴィは自分でも子供っぽいなと思いながらも更にむきになって喚いた。

「お兄ちゃんの、意地悪――っ!! 二十歳なのに大人げないっ!! もう、ヴィヴィ、お兄ちゃんのことなんか――」

 勢いづいてそこまで喚いたヴィヴィの鼻腔を、匠海がたまにつけているボディークリームの爽やかな香りがくすぐった途端、ヴィヴィの胸はきゅうと疼いた。

 自分でも何故だか解らないが、急に目頭が熱くなり咽喉が苦しくなる。

(お兄ちゃんなんか天邪鬼(あまのじゃく)なのに……お兄ちゃんなんかヴィヴィをからかってばっかりなのに……なのに――)

「好き――大好き……」

 匠海の薄手のニットに顔を埋めて、ヴィヴィは掠れた声で小さく小さく囁く。自分の囁きが兄の鼓膜を震わせないことを願いながら――。

 その願い通り匠海は聞こえなかったようだ。急にトーンダウンしたヴィヴィの頭を片手で優しく撫でていたが、そのうちもう片方の手がそっとヴィヴィの小さな背中に回され、ギュッと抱きしめられた。匠海の胸にすっぽり収まって身も心も預けてしまえるのが心地よかった。高鳴る胸は若干五月蠅いけれど。

 一分程そうしていたのだろうか。いつまでも匠海の胸の中にいたいと思っていたヴィヴィだったが、匠海がふっと苦笑したのを聞きとめ、いつの間にか閉じていた瞼を上げ、少し首を傾げる。

「俺も『大好き』だよ、ヴィヴィ」

 くすくすと笑いながら確かにそう言った匠海の台詞を聞いたヴィヴィは、咄嗟に匠海の背から腕を解き、目の前の逞しい胸を押し返した。 

「やっぱ、嫌い――っ!!」

 一分間も聞こえないふりをしていた匠海の意地悪さに、ヴィヴィは恥ずかしさと悔しさと情けなさとで顔を真っ赤にしてそう叫ぶと、そのまま脱兎のごとく防音室から逃げて行った。  

 ヴィヴィの背後からは可笑しそうな匠海の笑い声が聞こえていた。


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