小説『Forbidden fruits ―禁断の果実―』
作者:ゴニョゴニョ()

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「ヴィヴィ、なんか疲れてない?」

 目の前でイタリアの男子シングルのスケーターがFPを滑っている最中、隣に座った宮平 知子(さとこ)選手が少し心配そうにヴィヴィの顔を覗き込む。

 ヴィヴィは自分よりも十センチ低い宮平を情けない顔で見返して、苦笑した。

「あ、ばれちゃいました?」

「そりゃあ、なんかそこはかとない疲労感が滲み出てるし……」

 ヴィヴィの体の周りを両手で象(かたど)るように宮平が辿る。

「え〜ホントですか! いけないけない。単なる筋肉痛なだけなんです」

「筋肉痛?」

 いつも体を酷使しているヴィヴィが筋肉痛になる意味が分からないのか、宮平が可愛く首を傾げる。

「えへへ。いつもは使わない筋肉を使ってるみたいで」

 ヴィヴィはそう言いながら、自分の薄い体を指し示す。肋骨と肋骨の間のここが痛くて、腸骨の奥の筋肉が痛いと事細かく説明すると、周りにいた日本選手たちがそれを聞きとめて笑い出す。

「いったいどんなトレーニングしてるの、ヴィヴィ」

「クリスも同じところ痛いの?」

 イタリアのスケーターが滑り終わったのでそれに拍手を送りながら、皆が双子に聞いてくる。

「新しくダンスのレッスンを増やしたんだ〜、でもクリスは違うダンスを習ってるから、多分違うとこ痛いんじゃない?」

 ヴィヴィの後ろに座っていたクリスにヴィヴィが話を振ると、クリスがぼそりと呟く。

「僕は、腓(ひ)骨の間の筋肉が痛い……」

 肩を落としてそう言うクリスに隣に座っていたマーヴィン・藤堂選手がその肩に腕を回す。

「どこだよ、腓骨って!」

「っていうか、なんでお前らそんなに骨の名前知ってるの?」

 わいわいと騒いでいると、アナウンスが羽生(はぶ)選手の名前を呼ぶ。

「おっと、我らがリーダーのおでましだぜ!!」

 日本チームの皆が一斉に持っていた日の丸や応援グッズを手にして立ち上がり、日本チームのリーダーに声援を送る。





 四月に入り、双子は国別対抗戦に初出場をしていた。

 二〇一四年のソチオリンピックより公式種目とされた団体戦は日本は金メダルを取れなかったが、異常な盛り上がりを見せて大成功に終わっていた。よって来年にオリンピックを控えている今年の国別団体戦は、オリンピック模擬戦とも言われていた。

 男子は世界選手権二位の羽生(はぶ)結弦(24歳)と、世界選手権六位の火野龍樹(24歳)をポイント数で上回った世界ジュニア一位のクリス(14歳)の二人。女子は世界選手権三位の宮平知子(20歳)と、グランプリファイナル三位の村下佳菜子(24歳)をポイント数で上回った世界ジュニア一位のヴィヴィ(14歳)の二人。

 ペアは棚橋成美(26歳)とカナダと日本の国籍を持つマーヴィン藤堂(28歳)が、アイスダンスはアメリカと日本国籍を持ったアルフレッド渋谷(22歳)とマリア渋谷(18歳)の兄妹が出場している。

 日本チームは一日目、アイスダンスのSD(ショートダンス)は四位、男子SPは羽生が二位、クリスが一位、女子SPは宮平が三位、ヴィヴィが一位という結果で終え、二日目の今日、ペアのSPは三位、アイスダンスのFD(フリーダンス)は三位、男子FPはクリスが一位と着けていた。

 四回転トゥーループを完璧に降りた羽生(はぶ)に観客から大きな歓声が上がる。ただ続いての四回転サルコウがパンクして二回転になってしまった。しかしその後はさすが十七歳からエースとして日本フィギュアを支えてきただけあり、落ち着いて手堅く纏めてきた。

 リンクに礼をして戻ってきた羽生(はぶ)を迎えに、ヴィヴィ達はキスアンドクライへと出ていく。国別対抗戦は団体戦なので、皆で同じ国の選手を応援しあうのだ。ブライアン・オーチャーコーチに「あっぱれ」と書かれた扇子を渡したアルフレッド渋谷が、その後ろで自身もちょんまげのカツラを被って奇妙な踊りをしている。

「それ、何踊り?」

 尋ねたヴィヴィに妹のマリアが「盆踊りよ。こうするの」と何やら地面をスコップで掘るような動作を繰り返す。ヴィヴィとクリスが真似て踊っていると、四回転サルコウを失敗して顔を曇らせていた羽生が噴き出した。

「あは! 真顔で盆踊り踊るなよ、クリス!」

 頭にひょっとこのお面を付けて真顔で炭坑節を踊るクリスが大画面スクリーンに映し出され、場内が爆笑に包まれる。そんなことをしていると採点が終了し、モニターに表示される。

「羽生(はぶ)結弦選手の得点――177.12点、総合得点264.29点。現在の順位は第二位です」

 その得点に、羽生はほっとした表情を見せた。その途端にムードメーカーの棚橋成美が小さな体でジャンプして喜びを表現する。

「ワオ! 日本男子が一位二位独占だよっ!」

「お疲れ〜!」

「メダル、見えてきたね!」

「明日が最後か! 気合い入れて応援するよ! 応援グッズ、再調達してこよ〜」

 口々に健闘を讃(たた)え合い、、試合は三日目の明日――ペアのFPと女子のFPへと託されることとなった。皆で連れ立って控室へと戻ろうとした時、「ヴィヴィ」と誰かに呼び止められた。振り向くとヴィヴィのすぐ後ろに、関係者のPASSを首から下げた振付師の宮田先生が立っていた。

「わ! 先生、見に来られてたんですか?」

 数か月ぶりに対面した宮田にヴィヴィが驚いて向き直る。

「ああ、今日はフランスの男子の子に用事があってね。昨日も来てたからヴィヴィとクリスのSPも見たよ」

 宮田は日本選手のみならず、海外の選手からも引っ張りだこだった。それもこれも二〇一四年のソチオリンピックで高畑大輔の名プログラムがきっかけで売れっ子になったのだった。

「今シーズンのSPは昨日で滑り収めだったんですけれど……ぶ、ぶっちゃけ、先生の振付けて下さった『剣の舞』……どうでしたかっ?」

 ヴィヴィは覚悟を決めて宮田に尋ねる。というのも去年のシーズンイン直前に宮田にこっぴどく駄目出しされてから、ヴィヴィはバレエ「ガイーヌ」を何度も見直し、モダンバレエのDVDを取り寄せて動きを研究したりと、彼女なりに「剣の舞」を自分のものにしようと必死に努力し続けていたのだ。

「うん、正直驚いてるよ。昨日の時点で僕が求めている物のもう一歩先を行ってた。勇敢な剣士の舞は極限まで体を大きく使っていて、とても力強く動けているのは体幹を鍛えたおかげだろうね。それにガイーヌの踊りは民族舞踊独特の味が感じられた。目線の動きも良かった。あれで皆にヴィヴィが見せたいものがより伝わったと思う」

「…………よかったぁ…………」

 宮田の率直な感想に、ヴィヴィは心底ほっとしたようにそう零すと胸に両手を当てた。ヴィヴィのその様子からどれほど振付師の感想を気にしていたかを察した宮田が、ヴィヴィの小さな頭をポンポンと叩いて苦労を労(ねぎら)ってくれた。

「ところで、来シーズンのことなんだけど……ジュリアンコーチからSPの振り付けをお願いされてね」

「あ、はい。私も聞いています」

 ヴィヴィは胸に置いていた両手を降ろし、宮田を見上げる。宮田は周りに人が多いことを気にして、人気のない通路の隅までヴィヴィを連れて行った。

「ヴィヴィ、どういうのがやりたいとかイメージある?」

 そう尋ねてくれた宮田にヴィヴィは少し眉間に皺を寄せながら、正直に伝える。

「実は全日本が終わってからずっと、やりたい曲を考えてたんです。FPはどうしてもやりたい曲が見つかって――まだコーチには言ってないんですけど――SPはなかなか絞り込めなくて……でも」

「でも?」

 先を促す宮田に、ヴィヴィは再度口を開く。

「はい。もし出来ればなんですが、日本古来の楽器を使った曲をやってみたいんです。えっと、きっかけは箏(こと)と尺八の音がとても澄んでいて、でも艶があって綺麗だなって気になったからなんですけれど……」

「へえ、和楽器?」

 ヴィヴィの意見に興味を引かれたように宮田が呟く。

「って偉そうな事を言っても、私は『春の海』とか『越天楽(えてんらく)』位しか知らないんですけど……」

 直ぐに自分の知識のなさを暴露したヴィヴィに、宮田が苦笑する。暫く腕を組んで考え事をしている様子の宮田だったが、腕を解いてうんうんと頷いた。

「うん、ちょっとヴィヴィに合いそうな曲に心当たりがある……本当は男子が滑るような曲なんだけど、ヴィヴィだったら、もしかしたらいけるかもしれない……」

「ほんとですかっ!?」

 宮田の好感触な返事に、ヴィヴィの顔がぱあと明るくなる。そんなヴィヴィを見て、宮田が直ぐに厳しい顔になる。

「ヴィヴィ、分かってる? 男子に滑らせようと思ってたほどの曲なんだから、きっと女子のヴィヴィにとったら鬼プロになるんだよ?」

「えぇっ!? そうなんですか……いや、でも、く、喰らいついて行きますからっ! ぜひ前向きに検討してください!」

 それでなくても厳しい宮田の「鬼プロ」に一瞬ひるんだヴィヴィだったが、最後にはぺこりと体を折り曲げて必死にお願いをする。

「了解。僕も頑張ってみる……ところで、FPはどの曲したいの?」

 SPとFPの傾向が似ないようにと気にしてだろう、そう訪ねてきた宮田にヴィヴィは戸惑いを隠せなかった。

「え、えっと……」

 いきなり目線を泳がしてあたふたしだしたヴィヴィを、宮田が不思議そうに見下ろしてくる。

「なんか変わったものなの?」

「変わったっていうか……だ、誰にも、もちろんマム――コーチにも言わないでくれますか?」

「もちろん。約束する」

 そう言ってくれた宮田にヴィヴィは決心すると、きょろきょろと周りを見渡す。そして周りに誰もいないことを確認すると、背伸びをして宮田の耳の近くで「ごにょごにょ」と囁いた。

 近づいていた宮田から一歩下がって、ヴィヴィは恐る恐るその表情を見つめる。宮田は意外そうな顔をしていた。

「へえ……」

 そう呟いてしげしげと見つめてくる宮田に、ヴィヴィは不安になり首を傾げる。

「へ、変ですかね? っていうか、私には無謀すぎますか?」

 心配になってそう聞いてしまったヴィヴィに、宮田は小さく首を振って見せる。

「いや、ちょっと意外だっただけ……ヴィヴィならもっとクラッシックバレエのような美しいものをやりたがると思ってたから――オリンピックシーズンだから、皆自分の得意なものをやるでしょ?」

 宮田のもっともな意見に、ヴィヴィは首を竦める。

「そう……ですよね……きっとコーチにもそう言われるだろうなと思って――」

「言えてないんだ?」

 宮田の言葉にヴィヴィは首肯する。

「言ってみなよ。きっとジュリアンコーチなら頭ごなしに『ダメ』とは言わないと思うよ」

「そうですかねぇ……?」

 自信のなさそうなヴィヴィに、宮田は苦笑する。

「ちゃんと話を聞いてくれると思うよ。それに僕もちょっと、ヴィヴィの『サロメ』見てみたくなってきた」

「ほ、ホントですか?」

「うん。だからちゃんと早いうちに言いなさい」

 そう後押ししてくれた宮田に、ヴィヴィは恐縮しながら頭を下げる。

「はい……すみません、FPの事まで相談しちゃって」

「いや、相談してくれて逆に良かったよ。……そうか、サロメか……そうなるとSPもかなり気合入れて創らないとな」

 そう零した宮田をヴィヴィが不思議そうな顔で見つめ返すと、宮田が困ったような顔で呟く。

「FPばっかり話題に上ってSPが霞まない様に、インパクトのあるもの創らないとなって」

「なるほど。でもまだFPに使わせてもらえる保証はどこにもないですけれどね……」

 そう言って肩を落としたヴィヴィに「しっかりな!」と喝を入れた宮田は、クリスと話してくると言って去って行った。







 翌日、午後いちの公式練習を終えて夕方からペアのフリープログラムが始まった。棚橋成美とマーヴィン藤堂のペアは結成11年を迎える、日本ではベテランのペアだ。身長146センチの小柄な棚橋は柔軟性も高く、リフトでもそれを生かしたポジションと、投げ上げる幅の広いスローイングジャンプにも定評があった。

 ロシアといった強豪国に次いでSPでは3位に入った棚橋マーヴィンペアは、それでも悔しそうな顔をしていた。

「絶対にスローイングトリプルアクセル決めるから! 見ててっ!」

 そう言って六分間練習に勢いよく出て行った二人を、日本チームは必死に応援する。六分間練習ではスローイングジャンプの着氷が両足着氷になってしまった。それでも見事なスプリットツイストリフト(男性が女性を投げ上げて空中で回転し、男性が受け止めながら着氷する)を決め、場内に大きな拍手が上がる。

 六分間練習が終わり、第一滑走から順に滑っていく。四番滑走の日本ペアの番までに飛びぬけて高得点を出した国はいなかった。

「棚橋成美、マーヴィン藤堂――日本」

 二人の名前がアナウンスされ、元気よく飛び出していく。時間いっぱい使ってリラックスした二人はスタート地点でポジションを取る。直立したマーヴィンの胸に、後ろ向きに直立して斜めに凭れ掛かった棚橋が音楽が鳴り始めるとマーヴィンの胸に押されて前に倒れる。ゆっくりと人形のように前のめりに倒れる棚橋をマーヴィンが前で受け止めて滑り始める。キャリーリフトを挟んですぐにスローイングジャンプが組み込まれていた。

 ヴィヴィ達は神に祈りを捧げる様に胸の前で指を組んで二人を見守る。大きくなった音楽に合わせてマーヴィンが棚橋の腰を掴み、大きく上へと持ち上げて遠くへ放り投げた。

「降りてっ!」

 ヴィヴィの隣からマリア渋谷の必死な声が聞こえる。ヴィヴィ達の願いが届いたのか、棚橋は綺麗な弧を描いて三回転半回りきると片足で着氷した。その途端、日本チームの皆が席から飛び上がって歓喜の声を上げる。その後ソロジャンプも手堅く纏めた二人は四分半の演技を終了した。

 リンクの上で棚橋を持ち上げてマーヴィンが喜びを露わにすると、場内からたくさんの花束やプレゼントが投げ込まれた。

「「ただいま〜っ!」」

 揃って満面の笑みで戻ってきた二人を、日本チームの皆がキスアンドクライで迎え入れる。一緒に点数を待ちたかったが、女子のFPのアップを始めるためにヴィヴィと宮平はバックヤードへと下がっていった。

 サブコーチに見守られながら空いている通路を使ってアップをする。正直ヴィヴィはいつもの試合より浮き足立っていた。初めて団体戦に参加したことによる緊張もあるのだが、やはり団体戦はお祭りの様なハイな気分にさせる何かがある。務めて平静を装って淡々とジャンプの軸を確認するヴィヴィに、サブコーチが衣装へと着替えるようにと告げる。

 女子ロッカールームへと移動すると、宮平がちょうど着替えていた。

「聞いた? ペアのFP、2位だったって。ペアでは暫定3位で、チームでは暫定4位らしいよ」

「そうなんですか? それはかなり頑張らなきゃですね、私達」

 女子FPを残してのこの位置だと、二人がワンツーフィニッシュしてもやっと2位に着けるくらいだろう。オリンピック前哨戦であり、せっかく日本で開催されている試合なのだ。なんとかして表彰台に上がりたいという気持ちがチーム内で強くある。

「うん。私、今季のFPは今までノーミスがなかったから、なんとか頑張って纏めてヴィヴィに繋ぐよ!」

 二人は固い握手を交わすと、それぞれの準備に取り掛かった。ヴィヴィはiPodでFPのシャコンヌを繰り返し聞きながら、準備を済ますとアリーナへと向かう。青いパネルや布で覆われていたバックヤードから出てリンクサイドへと一歩踏み出すと、場内は異様な熱気に包まれていた。

 国別対抗戦の最後が女子FPに掛かっているというプレッシャーをひしひしと感じながら、隣に立つコーチ――ジュリアンを見つめる。

「何、緊張してるの?」

「そ、そりゃあ……」

 にやりと笑い返してきたジュリアンに、ヴィヴィは肩を竦めて見せる。シニアの国際試合に参戦するのはこの国別対抗戦が初めてなのだ。昨日のSPの緊張なんて半端なかった。直前練習や六分間練習、更衣室での雰囲気はジュニアやノービスのものとは明らかに異なってピリピリしていた。まあ宮平が何かと気に掛けてくれたので、ヴィヴィにとっては他のシニアに上がる選手よりは恵まれたデビュー戦ではあるだろうが。

「貴女はまだシニアに参戦したばかりの挑戦者よ。お姉さん方の背中を追いかけるつもりでリラックスして行きなさい」

「ふぁ〜い」

 数か月前の全日本フィギュア後、テレビ局のインタビューで「双子を絶対オリンピックに出す!」と宣言した人と同一人物とは思えない助言に、ヴィヴィは内心「嘘つけ〜」と突っ込みながら気の抜けた返事を返した。

「あ、そう言えば。さっきグレコリーから着いたって連絡あったわ。匠海も『今シーズン最後の演技だから、今までの最高の演技期待してる』って言ってたわ」

「わお。さらっとプレッシャーを増やさないで下さい……」

 そう虚ろな瞳でジュリアンに返した時、六分間練習の為のゲートが開かれた。ヴィヴィは大きく息を吐き出すとエッジカバーを外し、他の五人のスケーターがリンクへと出ていく最後尾から氷の上へと飛び出した。

 最終滑走のヴィヴィは、なるべく音楽を聴いたりストレッチをしたりしてのんびりした気分で順番を待っていた。係員に「そろそろリンク脇へ」と促され、ジュリアンと一緒にバックヤードからリンクサイドへと出る。

 目の前ではアメリカでSP2位に付けているグレイシー・シルバーが、輝くような笑顔でキャッチフットスパイラルを滑っていた。その表情と場内の雰囲気から、彼女がいい演技を積み重ねてきていることが容易に読み取れた。

 場内からの拍手がイヤホン越しに聞こえてきて、ヴィヴィの心臓がどくりと波打つ。ヴィヴィは瞼を閉じると深呼吸を繰り返す。

(私は私――。一番のライバルは自分なのだから……)

 周りの選手達がどれだけいい演技をしようともミスしまくろうとも、結局のところは自分が納得のいく演技をしないと成長しないし、結果も付いて来ない。そんなことはどの選手も分かっていること。ただ自分をコントロール出来るか、そうでないかで勝敗が決まるのだ。

 曲が終わり場内に大きな歓声と拍手が鳴り響く。観衆に笑顔で応えるグレイシー・シルバーが礼をし終わったとき、ヴィヴィのためにリンクへのゲートが開かれた。ヴィヴィは投げ込まれた花達を踏まないように気を付けながらリンクでアップを始める。

 コーチに言われて、プログラムを滑る直前のアップの方法もしっかり練習に組み込んできていた。その通りに体を動かしていると、少しずついつもの自分に近づいてきた。

「グレイシー・シルバーさんの得点――128.74点。総合得点は195.70点。現時点の順位は第一位です」

 アナウンスが得点と順位を読み上げる。その特典は全日本のヴィヴィの総得点を2点上回っていた。

「………………っ」

 途端に平常心に近づいていたヴィヴィの心がぐらりと揺れる。自分を守ろうと身体が発作的に動いたのか、咄嗟に胸へと手をやったヴィヴィの指先に、衣装越しに固い何かが触れる。

「あ……」

 ヴィヴィは思わずリンクの上で呟いてしまう。指先に伝わる愛しい感触にヴィヴィの胸が疼く。





「俺も『大好き』だよ、ヴィヴィ」





 このお守りをくれた時、そう言ってヴィヴィのことをからかった匠海の表情が脳裏に蘇る。ヴィヴィは俯くと笑いを噛み殺した。確か匠海にそう言われた後、ヴィヴィは恥ずかしくて「やっぱ、嫌い――っ!!」と思ってもいないことを叫んで逃げてしまったのだ。思い出している今でもあまりの自分のガキっぽさに笑みが零れてしまうが、それを何とか噛み殺してヴィヴィはフェンス傍のコーチの元へと戻る。

「なにニヤニヤしてるの?」

 呆れた表情でそう言ってくるコーチに、ヴィヴィは「何でもない」と誤魔化す。

「ま、いいわ。『Smile』っていう手間省けるから……行ってらっしゃい」

 まるでさっさと行って来いという風にコーチが掌をひらひらさせた時、ヴィヴィの名前がコールされた。

「ヴィクトリア篠宮さん、日本」

 ヴィヴィは膝を屈伸するとちらりと日本の応援席のほうを振り返ってから、リンクへと出て行った。

 横を向いて両腕で頭と腰を抱きしめるポーズをとる。数秒後印象的なヴァイオリンの和音が鳴り響き、ヴィヴィは動き始める。すぐにトップスピードまで上げていつも通り踏み切る。空中にいる間はまるでスローモーションだ。コマ送りに周りの観客やメディアの大きなカメラが目に入る。軸を正しく保ったまま余裕をもって着地しスピードを殺さず次のジャンプへと意識を向ける。

 冒頭のトリプルアクセルと決めるとだいぶ心に余裕ができる。ヴィヴィは軽く右足を振り上げる。確実に三回転半回りきっていること確認して着地すると、コンビネーションでトリプルトゥーループも高さを保って降りた。

 続くジャンプを跳びながらも、ヴィヴィの頭の中は今シーズンの出来事が走馬灯のように駆け巡っていた。

(『破滅へと導かれる少女』って、私のことよね……?)

 実の兄である匠海に対する気持ちに戸惑い、苦しみ、自己嫌悪を繰り返した日々。

 自分が気づいていなかっただけで、周りを振り回していた愚かな自分。

 そして自分は気づいた――もうどうやっても、この自分の「恋心」からは逃れられないのだと。

 ステップからの最後のジャンプを決めたヴィヴィはリンクサイドで停止し瞼を閉じて息を吐き出すと、かっと瞼を見開いて全身を使ったストレートラインステップへと足を踏み出す。上半身の激しい動きに下半身が引きずられるのを紙一重で耐えて初めて成り立つステップだ。

(この恋を追い続けると、私は狂うのだろうか――?)

 振付師のジャンナはそう言っていた。嘆き、狂い――最後は達観の域に達し、運命に身を任せるしかなくなると――。

 両肩を柔らかく使って両腕を押し出すその胸の内は、不安と恐怖が徐々に募ってくる。

(怖い……自分が自分じゃなくなるようで、恐い――)

 けれど自分はきっとこのまま立ち止まって引き返すことはもう出来ないのだ。ただ自分の恋心に引っ張られ、行くつくところまで行くしかない。



 たとえその先に破滅が待っていようとも――。




 最後のスピンを回り切った頃、ヴィヴィは腹を括っていた。その表情は苦しいさを堪えるものから、ふと何かを悟ったような笑みへと変化する。

(オリンピック……オリンピックで金を取れたら――)

 両手を胸に添えて俯いたところから顔を上げていく。




(私は、お兄ちゃんに「気持ち」を伝える……)




 ヴァイオリンの和音の余韻とともに、ヴィヴィは自分の行く末を決断した。

 少しの間、ヴィヴィはぼうとしていたようだった。気が付くと場内は大歓声に包まれ、ヴィヴィの足元には信じられないほどの数の花束やプレゼントが投げ込まれていた。

 足元から視線を上げると、観客は総立ちに近い状態だった。ヴィヴィは一瞬何事か分からず目をぱちくりと瞬いたが、やがて自分のプログラムに対するスタンディングオベーションだと気づき、自然と頬が緩み始める。

 四方に深々と礼をして持てるだけプレゼントを拾ってキスアンドクライに戻ると、リンク際までチームメイトが出迎えてくれた。

「良かったよ〜、ヴィヴィ!」

「凄いすごいっ! 私こんな目の前で女子のトリプルアクセル初めて見た!」

「いい表情するなあ、まったく」

 口々にそう言ってもらい何故かバシバシ叩かれながら席に座ると、アレフレッド渋谷が日の丸の旗に何かを書き込んだものをヴィヴィに見せてきた。

「ジュリアン改め『ジャイアン』コーチ……まさにその通り!」

 爆笑したヴィヴィ達だったが、日本の国民的アニメを知らないジュリアンは「何? ナニヨ?」と首を傾げていた。

「ヴィクトリア篠宮さんの得点――135.84点。総合得点は203.62点。女子シングルでの順位は第一位です」

 そのアナウンスの途端、会場が先ほど以上の大歓声に包まれた。全日本をはるかに上回るシーズンベストを更新したヴィヴィに、惜しみない拍手が送られる。

(良かった……全日本でレベル3だったスピン、レベル4で評価してもらえたんだ……)

「すご〜いっ!」

「ありえね〜! 男子でも6位入賞できるよ、この得点!」

「おい! 順位はどうなるんだ? 日本の順位はっ!?」

 リーダーの羽生(はぶ)が電光掲示板を食い入るように見つめる。

「以上全ての演技を終了し、結果は以下の通りです。第三位――日本」

 アナウンスと共に、掲示板に一位から六位までの順位が映し出される。

「やった〜っ! メダル獲得っ!!」

「良かった、表彰台登れるっ!」

 口々にメダルの獲得を喜び、日本代表としての最低限の責務は果たしたと胸を撫で下ろしていた一同だったが、

「おい、ヴィヴィ胴上げしようぜ!」

とマーヴィン藤堂が言い出し、ヴィヴィの両腕をがしっと掴んだ。そのまま逞しいマーヴィンに持ち上げられそうになったヴィヴィだったが、横からひょいと誰かに床へと降ろされてしまった。

「ん……?」

 その人物の胸に抱き込まれて、ヴィヴィは疑問の声を上げる。皆がお揃いの日本代表ジャージを着ているので分からなかったが、顔を上げるとヴィヴィをマーヴィン達から取り上げたのはクリスだったと判明した。

「こら、クリス! ヴィヴィを返せ!」

「胴上げしようよ〜!」

 お祭り騒ぎの好きなアルフレッドとマリア兄妹が唇を尖らせて横からヴィヴィを奪い返そうとするが、クリスは「駄目……」と言ってヴィヴィを離さなかった。途端に場内がどっと爆笑に包まれる。

 クリスの腕の隙間から大型ヴィジョンを見たヴィヴィは、一瞬で顔を真っ赤にした。画面いっぱいにヴィヴィを渡すものかと抵抗しているクリスと、抱き込まれたヴィヴィが映っていたのだ。

「や〜っ!! クリス、離して〜!」

 いつもくっついてくるクリスには慣れっこだったが、さすがに大観衆の前でそのシスコンぶりを発揮するクリスの名誉を考え、ヴィヴィは必死に腕の中から逃げ出した。

 結局胴上げしてもらったヴィヴィは、その後暫く「美しき兄妹愛」の片割れとして周りから冷やかされることになったのは、言うまでもない。


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