小説『Forbidden fruits ―禁断の果実―』
作者:ゴニョゴニョ()

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 深夜十二時のリンクに『七つのヴェールの踊り』が流れている。シーズンオフの四月後半のリンクにはヴィヴィともう一人以外、誰もいない。

 オーボエの官能的な一節に合わせ、考え抜いた振付を氷の上で試してみる。外八文字(そとはちもんじ)と呼ばれる花魁道中(おいらんどうちゅう)で太夫(だゆう)が練り歩く所作を意識して組み込んだ、このサロメの核となる振付――。

 揃えた両足の片方を外を回って足が地面にハの字で描かれる。本来の外八文字は高下駄を履いてその底を引きずるようにするのだが、ヴィヴィは腰を深く落としてエッジを円を描いて、片方ずつ大きく外へ滑らせる。

 その後優雅に足を踏み出すと徐々にスピードを上げて、トリプルルッツ、トリプルサルコウ+ダブルループ+ダブルループの三連続ジャンプ。さすがにいつもの練習後にそんなジャンプを跳べるはずもなく、ヴィヴィは飛んだつもりでシングルジャンプをしていく。しかしそのスケートはすぐに止まった。

(やっぱり、床の上で振付けても氷の上じゃその通りにはいかない……)

 しばらく膝に両手を付いて考え込んでいたヴィヴィだったが、顔を上げると音楽を頭から流そうとリンク脇へと滑っていく。

「大丈夫ですか?」

 心配げに掛けられた声のした方向に、ヴィヴィは顔を向けると苦笑した。

「体力的には全然……ただ、考えてた振付を変えなくちゃ駄目みたい……」

 視線の先に漆黒のロングコートを纏って立っている朝比奈に本音を漏らすと、ヴィヴィはCDの再生ボタンを押してまたリンクへと出ていく。

 始めのポーズを取りティンパニの激しい打音と共に瞼を開く。顔の前に翳(かざ)していた左手をゆっくりと引くと、なるべく妖しく見えるように微笑み腰を前後左右に動かすヒップサークルを挟んで滑り出す。上半身の振り付けを入れながら速度を上げると、曲の盛り上がりと同じタイミングでトリプルアクセルを飛ぶ。

(本当はこの部分に外八文字の動きを入れたかったけれど……)

 オーボエとフルートの艶(あで)やかな調べに乗りながら繋ぎのステップを入れトップスピードに乗り、トリプルアクセルとトリプルトゥーループを飛ぶふりをする。

 匠海に曲を編曲してもらった日から、ヴィヴィは防音室で振付を開始していた。以前振付師の宮田先生が

「床の上で振付けても、氷の上で滑ってみたら全然違うんだよね」

と言っていたが、コーチ陣に隠れて振付をしているヴィヴィに氷の上で一から振付けている時間などなかった。三日間かけて何とか防音室で一通り振付をしたヴィヴィは、双子の執事である朝比奈を呼び出した。




「お願い!! これから一週間、夜中にリンクに連れてって!」

 そう必死な声で言ったヴィヴィはがばと腰を九〇度に折り、朝比奈に懇願する。主(あるじ)にいきなり頭を下げられた朝比奈は慌ててヴィヴィの両肩を掴んで直らせる。

「お嬢様。私にそのようなことをされる必要はありませんよ。お嬢様が望むことなら、出来る限り協力致します。ですが――」

「ですが……?」

 言いよどんだ朝比奈に、ヴィヴィが不安そうな瞳で聞き返す。

「夜中と言うからには、クリス様といつも通りリンクから戻り、その後ご主人様には無断で外出するということですよね?」

「うん……」

 朝比奈の確認に、ヴィヴィは固い声を漏らすと次第に俯く。ヴィヴィの無断外出に加担するとなればその執事の朝比奈の評価が下がる。それを解っていながら無茶なお願いをしているのだ。

「私が心配しているのはお嬢様のお体です。それでなくてもいつも就寝時間が短いですのに、それを削ってまでスケートをされて身体を壊しませんか?」

 てっきり「無断外出なんて言語道断」と頭ごなしに叱られると思っていたヴィヴィは、はっと顔を上げて朝比奈を見つめる。

「私は大丈夫! オフシーズンだから練習時間はいつもより短めだし、いったん屋敷に戻ってリンクに行っても、一時間以内に終わらせて絶対二時には就寝するから!」

 「お願い! 私を助けて!」と顔の前で両手を合したヴィヴィを朝比奈はしばらく思案顔で見つめていたが、やがてふと微笑んだ。

「お嬢様が言い出したら聞かない性格ということは、いつも傍でお仕えしている私が一番知っているつもりです……分かりました。お嬢様の悪巧みに一枚かみましょう」

「朝比奈……」

 こんなにすぐに了承してもらえると思っていなかったヴィヴィは、驚き半分と自分を犠牲にしてまでヴィヴィを支えてくれる朝比奈に感謝半分の複雑な表情で執事を見上げた。

「ただし! 一週間だけですからね。それ以上そんなことを続けていたら、確実に体を壊しますから」

「うんっ!! ありがとう朝比奈。大好きっ!」

 自分の無断外出に協力してもらうために朝比奈を説得するのに、少なくとも三日はかかると読んでいたヴィヴィだったが、朝比奈は何も聞かずにヴィヴィを助けてくれという。ヴィヴィは大きな声で感謝を述べながら朝比奈のスーツの胸に飛び込んだが、「主人が使用人に抱き着くんじゃありません」とぴしゃりと叱られて、速攻体を離された。

「ふぁ〜い……でもさ〜私が車の免許取れる年齢だったら、いつでも好きな時に外出出来るのにね……早く大人になりたい〜」

 しぶしぶ朝比奈から離れたヴィヴィは、そう言って頭の後ろで両腕を組んで唇を尖らせたが、

「勘弁してください……お嬢様が車の免許を取られたら、私や使用人一同は毎日肝を冷やしっぱなしですよ」

 そう返してきた朝比奈にヴィヴィは「どうして?」と首を捻る。

「まず、ヴィヴィ様は落ち着きがないですからそこら中で事故られていそうですし、無鉄砲ですから無断外出し放題になりそうで怖いです」

 先ほどまでヴィヴィを「主」と称えてくれていた執事とは同一人物とは思えない物言いに、ヴィヴィは不満そうに「なんだと〜っ!」と拳を握りしめて喚いたが、それを面白そうに眺めている朝比奈の眼鏡の奥の優しい瞳に気づいた時、ふうとため息をついた。

「分かったよ〜。もし免許取れても、クリスかお兄ちゃんに隣に乗ってもらうから」

「ぜひそうして下さい」

 そうして結局無断外出の理由を一つも漏らすことなく、朝比奈の協力を得たヴィヴィは今リンクに立っている。




(ルッツ後にストリングスが奏で始める所で、止まって外八文字を入れよう……)

 左手は腰の輪郭の上を滑らせながら、右手は腰から肋骨の上を辿り胸の谷間を通って手の甲で斜め上を向いた顎を撫でて悩ましげに頭の上へと上げる。十分な溜めを作りヴィヴィは滑り出す。トリプルサルコウ、ダブルループ、ダブルループのコンビネーションジャンプの後にイナバウアーからのトリプルトゥーループを入れる予定だ。

 左頬に添えていた右手を空いた左腕とを一緒に斜め上に伸ばし、両肩で肩甲骨を閉じるように後ろへと引き寄せながらイナバウアーへと入る。柔軟性を生かして背中を極限までそらしベリーダンスで培ったチェストサークルの動きを取り入れると、体勢を戻してトリプルアクセルに入るのだ。

 ヴィヴィはその後も存分にベリーダンスの動きを取り入れると、何とかFPの2/3を作り終えてその日を終えた。





 翌日もヴィヴィは通常のレッスンを終えると、一旦屋敷へと帰る為にストレッチを始めた。隣で同じくストレッチをしていたクリスがぼそりと呟く。

「どう? 順調?」

「ん〜……まだ半分くらい。振付舐めてた……難しすぎる」

 正直にそうぼやいたヴィヴィの耳元でクリスが囁く。

「僕と一緒に帰ったことにして、この後守衛室に隠れてなよ。屋敷での出迎えは朝比奈だけだし、コーチ達が帰った後に振付したら? 終わる頃に朝比奈を迎えによこすから」

 「そのほうが少しは早く帰ってこれるでしょ?」とクリスが続けたのを聞いて、ヴィヴィはクリスを見つめなおした。確かにヴィヴィが屋敷にいつも通り戻ったかどうかを確認しているのは、双子の執事の朝比奈だけだ。ジュリアンは自分のスポーツカーをいつも運転しているので、ヴィヴィ達の送迎車に乗ることはない。

「でも、運転手は私が帰ってないってダッド達に報告するんじゃない……?」

 クリスの提案してくれた方法だと時間が有効に使えるし何よりも睡眠時間を少しでも多く取れるのだが、ヴィヴィは朝比奈以外の使用人には協力を求めていなかった。

「大丈夫。僕が運転手と、あと守衛さんに言っておいたから」

「クリス……」

 驚いてクリスを見つめるとと、その瞳には心配そうな色が浮かんでいた。

「これぐらいしかしてあげられないけれど……頑張って」

「………………っ」

 クリスの温かい言葉に、ヴィヴィは胸をつまらせた。腕を伸ばして隣のクリスに抱きつくと、クリスは優しく背中を撫でてくれた。振付が思い通りにいかなくて弱気になってきていたヴィヴィは、クリスからの激励でまたやる気を取り戻した。けれど――、

「っていうか、早く帰ってきて少しでもいいから長く寝て……ヴィヴィの可愛い顔にどんどんクマが浮かび上がってくるの、見るに堪えない……」

 そう言って少し体を離したクリスは、ヴィヴィの白い肌に少しだけ浮き始めたクマを親指の腹で辿り、悲しい顔で見つめる。

「そこですかっ!?」

 妹のやりたい曲で滑れるように協力してくれているのだと思っていたヴィヴィは、すかさずそう突っ込んだがやがて「ありがとう」と感謝を述べて、もう一度クリスをハグした。





 氷の上で振付を初めて三日後、ようやくヴィヴィはサロメを完成させた。といっても「サロメが完成したら、俺に一番に見せること――」と言ってくれた匠海に直ぐに見せられる状態ではなかった。

 その後四日間、夜中に滑り込んだヴィヴィは匠海に「四月二十九日の深夜十二時にリンクに来てくれる?」とメールをした。速攻で「OK。楽しみにしてる」と返事を寄越した匠海により良いものを見せるべく、ヴィヴィは朝比奈が撮影してくれた動画を移動時間等を使って何度もチェックして改良を加えていった。何度か三田ディレクターが訪ねて来てくれて、ヴィヴィはそれにも励まされて頑張った。




 四月二十九日。

 通常の練習を終えたヴィヴィは、ここ一週間コーチ陣をやり過ごすために匿ってもらっている守衛室で紅茶を飲んで時間を潰していた。

「ようこないな遅い時間まで頑張るなぁ、ヴィヴィちゃんは」

 もう何年も顔見知りの守衛さんが目尻に皺を溜めてヴィヴィに笑いかける。

「おじさんは毎日でしょう? 凄いよ。ヴィヴィ、この一週間、授業中爆睡だったもん」

 さすがに睡眠時間が三時間ではヴィヴィも睡魔に勝てなかった。移動中やディベートの授業以外はかなりの確率でうとうとしては教諭陣に起こされていた。ちろっと舌を出して悪戯っぽく笑って見せたヴィヴィに守衛さんも「明後日からは寝たらあかんよ?」と笑いながら釘を刺してくる。

 そうなのだ。今日匠海にFPを見せ、明日のレッスン中にコーチ陣の前でサロメを滑って見せることになっていた。「やりたい曲があるなら言いなさい」と三月頭に言ってくれたジュリアンだったが、四月末になってもFPの候補曲を言ってこないヴィヴィにしびれを切らし、

「いい加減、FPの候補曲出してこなきゃ、こっちで決めるわよ?」

と脅してきていた。SPの局は宮田先生がもう用意してくれているそうだ。ゴールデンウィークにロシアへクリスと一緒にFPの振り付けに行って、帰ってきてからSPの振り付けが待っている。

 守衛さんの言葉に「は〜い」と間延びした返事を返したヴィヴィの瞳の先にはコーチや生徒、従業員達が帰り、真っ暗になったリンクやアリーナ、会議室等の映像が監視用モニターに映し出されいていた。

「じゃあ、そろそろ行ってきます。おじさん、紅茶ご馳走様! 今日もホント美味しかった。あとこれ……」

 ヴィヴィはタオル等を入れたカバンの中をがさごそと漁ると、紅茶の缶を取り出した。

「一週間のお礼がこんなもので悪いけど……一番喜んでくれそうだから」

 守衛さんはこてこての関西弁とその出で立ちに似合わず、紅茶が大好きだった。ちゃんと茶葉からポットで淹れていつもヴィヴィに温かい紅茶を提供してくれていた。

「いつも私が疲れたときに淹れてもらってる紅茶なんだ〜。ミルクティーにして蜂蜜とかで甘くして飲むと癒されるよ」

 ヴィヴィはウバの茶葉が入った可愛らしい装飾の施された缶を手渡す。

「そんな気ぃ使わんでいいのに……でもありがとう。またお茶だけでも飲みにおいで?」

 そう言って笑顔で送り出してくれた守衛さんに手を振って、ヴィヴィは非常灯だけが灯された廊下に出た。

 リノリウムの床に、自分の歩くキュッキュッという独特な足音だけが響く。リンクへと続く自動扉が開くと途端に冷気がヴィヴィを包み込んだ。扉近くの電気パネルの蓋を開いてリンクの照明をつけると、その上にある防犯カメラを見上げて、守衛室で見守ってくれているだろう守衛さんに手を振って見せた。

 軽くストレッチをするとスケート靴を履き、薄いダウンを着たままリンクに出る。何分か滑って数十分前まで練習していた時の状態に戻していると、ヴィヴィが氷を蹴る音だけが響いていたリンクに自動扉の開閉音が聞こえた。

 振り返ると匠海が入り口へと入ってきたところだった。少し寒そうな顔をして首を竦めた匠海はスーツ姿だった。ヴィヴィはリンクを横切って匠海のもとへと向かう。

「ごめんね、こんな遅い時間に。今まで会社に行ってたの?」

 大学四年生で来月二一歳になる匠海は、大学の授業がない時は父の会社で後継者教育も受けている。そんな匠海を深夜に呼び出してしまったことに、ヴィヴィは罪悪感を感じてしまい眉を寄せて謝った。

「専務と食事に行ってただけだよ、気にするな。しかし、久しぶりにうちのリンクに来たな〜。ちょっとその辺見てくるから、アップがすんだら呼んで?」

「分かった」

 篠宮家の出資しているリンクであるここを確認するためか、匠海はカフェや会議室のあるほうへ行ってしまった。体が温まったヴィヴィは上着を脱いでカバンの中を漁る。手にしたのは三田ディレクターから貰ったベールだった。黒い上下の練習着の腰の上に、漆黒のベールを適度な長さに調節して巻く。動く度に縁の金属がシャラリと軽やかな音を立てた。

 ヴィヴィが振付の最終チェックを終えた頃、缶コーヒーを手にした匠海がリンク傍へと戻ってきた。

「準備できた?」

 フェンスの上で冷えた指先を缶で温めるように包み込んだ匠海が、ヴィヴィに確認してくる。こくりと頷いたヴィヴィの胸の内はというと、初めて人に自分の創ったFPを見せる不安と、匠海の前で自分と重ねている「サロメ」を演じて見せるという緊張で、鼓動がすごい状態になっていた。

「ヘロデ王が義娘の舞を、今か今かと所望しておる――。さあ踊って見せてご覧?」

 緊張した面持ちのヴィヴィを解そうとしてか匠海はそう言ってにやっと笑うと、ヴィヴィの演技がよく見えるようにとリンク中央のフェンス脇へと歩いて行った。ヴィヴィはその後ろ姿を見ながら心を決める。

(この曲に出会ってから、私はできる限りのことをしてきた――だからきっと大丈夫。うまく滑れる……)

 ヴィヴィは胸に手を当てて指先で生地一枚隔てたネックレスに触れると、ふうと息を吐きだしてCDの音源を再生した。

 リンク中央へと歩み出て、目の前の匠海の前でポーズをとる。

 打楽器の激しい打音と同時に瞼を開いたヴィヴィは、目から下を覆っていた左手を引いてゆったりと微笑むと、優雅に下した両手を腰に当てる。中東の音楽を連想させるオーボエの音色にヒップエイト(腰を八の字に回す)の動きを合わせると滑り始める。時折ショルダーシェイクの動きを入れながらトップスピードに乗ると、管楽器が軽やかに奏でるファンファーレに合わせてトリプルアクセルへと踏み切る。綺麗な弧を描いて降りたヴィヴィは胸を張って満足そうな笑みを浮かべてランディングし、体全体で漲る女王の貫録を表現する。

 徐々に静かになる曲の中、浮かび上がるようなオーボエのエキゾチックな音色に乗せて腕を蛇の様に蠢かすスネークアームスの動きを入れながら助走をし、トリプルアクセルとトリプルトゥーループのコンビネーションジャンプを決める。

 続けてトリプルフリップとダブルトゥーループのコンビネーションジャンプを降りると、フライングシットスピンへと移る。スパイラルシークエンスは百八十度以上開脚したI字スパイラルから両手を離すとヘッドスライドと呼ばれる独特な首の動きを合わせる。目の動きも首と同方向に行うことでより神秘的な雰囲気が醸しだされる。

 やがて曲はハープの音色を挟み、哀愁を持つものに変わる。リンク中央で止まったヴィヴィは何度も試行錯誤した花魁道中の外八文字を腰を使って挑発するように行いながら、目の前に柵越しに立つ匠海を見つめる。

(私を見て……目を逸らさないで――)

 兄の視線が自分に注がれていることを確認し満足したようにヴィヴィは俯むくと、後ろへと漕ぎ出す。まるで身に纏っている幾枚ものベールを剥(は)ぎ取り風にたなびかせる様に腕を躍らせながらスピードに乗ると、トリプルサルコウからの三連続ジャンプ。

 その後振付を工夫したイナバウアーからのトリプルトゥーループ、トリプルループを立て続けに決めてすべてのジャンプを終えると、さすがにヴィヴィの息も上がってくる。

 フライイングコンビネーションスピンではシットスピンから徐々に上体を起こしていき、レイバックスピン(上半身を後ろに大きくそらしたもの)ではまるで美しく豊かな髪を見せつける様に両腕を後頭部へと添え、徐々にビールマンスピンへと移行する。

 曲はさらに変化していく。フルートとピッコロのまるで急き立てるような音色に背中を押されるように、ヴィヴィは最後に渾身の力を振り絞ってストレートラインステップへと踏みだした。静かだった音楽が徐々に大きくなり不安を煽るような音色へと変化していく。弦楽器が奏でる重厚なフレーズの繰り返しにシロフォン(木琴)の軽やかな音がどんどん曲を加速していく。

 サロメがヨハナーンへの恋心を抑えきれず葛藤している様を表現しようと、音に必死に食らいついて懸命に細かなステップを踏むとツイズルで回転しながら移動し、リンク中央近くでフライングコンビネーションスピンを回る。

 最大まで盛り上がったオーケストラの音がぷつりと途絶える。その後に聞こえてくるのは、緊迫感を醸し出すフルートの静謐な旋律と、木管楽器の不安を煽るような細やかなトリル。

 ヘロデ王への踊りへの対価として、欲しくて欲しくて堪らなかったヨハナーンを手に入れたサロメは、震える指先で銀の盆に載せられた愛しい人の血塗れの首を掻き抱き、天を仰ぐ――。

 曲が終わり、リンクにはヴィヴィの苦しそうな息遣いだけがしていた。

 ゆっくりと首を下してポーズを解くと、パンパンと手を叩く音が聞こえた。少しプログラムに入り込みすぎたようだ。微動だにせず匠海の拍手を十秒ほど聞いていたヴィヴィはやっと匠海のほうへと視線を移し、ゆっくりと兄の待つリンクサイドへと滑って行った。

 フェンスに辿り着いて匠海の表情を恐る恐る伺ったヴィヴィだったが、兄の表情は強張っていた。匠海の瞳とヴィヴィの視線がぶつかってしまい、ヴィヴィの心臓がどくりと波打つ。そしてその鼓動は匠海が何も言ってくれないことでさらに不安で加速していった。

「………………」

(な、何か言って……)

 我慢できなくて俯いてギュッと瞼を瞑ってしまったヴィヴィに、上から声が降ってきた。

「凄いな……一体、何をどうやったらこんな振付が出来るんだ……?」

「え……?」

 言われた意味が分からず、ヴィヴィは匠海を見上げる。

「ヴィヴィがあんなに妖艶な演技が出来るなんて……知らなかったぞ、俺は」

 やっと匠海が最大限の褒め言葉をくれたのだと気付いたヴィヴィは、徐々に頬を赤く染めていく。

「えっと……さ、三月からベリーダンス習いに行ってたの。サロメの踊りは『義父を誘惑する』ものだから、ベリーダンスが一番に思い浮かんで……」

「ベリーダンス! 中東風だと思ったのはそれでか。だからか……全身の動きが昨シーズンとは明らかに違う――」

 匠海のその感想に、ヴィヴィは自分の成長を認めてもらえてほっと胸を撫で下ろした。しかし肝心な事を確認し忘れていたことに気づき、恐る恐る口を開く。

「ゆ……誘惑できた――?」

「ん?」

 ヴィヴィの唐突な質問に、匠海が不思議そうな顔で聞き直す。

「お、お兄ちゃん、言ってたでしょう? 『俺をヘロデ王だと思って、必死に誘惑してよ?』って……」

 ヴィヴィは指先で腰に巻いたベールの端を弄びながら、ちらちらと匠海の様子を伺う。

「ああ、そうだったな……。実は、後半――」

 ちょっと困ったように言いよどんで形のいい唇に手を添えた匠海に、ヴィヴィがそわそわしながら先を促す。

「こ、後半?」

「うん……後半に音楽が変わったところで、ヴィヴィが俺に視線を寄越しながら足を見せつけるような振付があっただろ? あの時……」

 また言いにくそうにした匠海だったが、ヴィヴィが必死な表情で見つめていることに気づき口を開いた。

「ぞくぞくした――正直……目の前で踊っているのが『妹』っていうこと忘れて、身を乗り出して魅入ってた……」

(うそ…………っ!?)

「…………ほ、ほんと?」

 匠海が自分の演技に魅入ってくれた――まさかそんな言葉が返ってくるとは思っていなかったヴィヴィは、驚嘆と紛れもない内から湧き上がる喜びに、唇が震えた。

「ああ……たぶんジャッジもあの目で見られたら、どんどん加点してしまうんじゃないか?」

 ちょっと褒めすぎたと思ったのか、匠海は照れたようにヴィヴィから視線を外すと、口を覆っていた手で頬をかいた。

「あは……だといいな……」

 ヴィヴィは嬉しくて涙が溢れそうになるのを必死で誤魔化すように笑った。

「けれど……欲を言うならば、もっと自信を漲(みなぎ)らせたほうがいいかも――サロメは王女だからね。欲しいものは何でも手に入れてきた傲慢さを醸し出せればいいんじゃないか? ヴィヴィはもともと品があるし、その点はとてもサロメに合ってると思う」

 ヴィヴィの演技がより良くなるように匠海がくれるアドバイスに、ヴィヴィは素直に頷きながら耳を傾けていたが最後の言葉に瞳をぱちくりとさせる。

「品……? 私に……?」

 そう言えばアシスタントコーチにも前に言われたことがあったような気がする。ヴィヴィは生まれ持っての品や華があるから、観客を魅了するフィギュアに向いていると――。

「ああ。普段でもたまに俺でも『おっ』と思うときあるよ。一応箱入り娘のお嬢様だからな、ヴィヴィも」

「たまに……? 一応……?」

 褒めてくれているのだろうが、端々に引っかかる言葉を見つけヴィヴィのピンク色の唇がつんと突き出てくる。そんなヴィヴィの頭をぐしゃぐしゃに撫でた匠海が笑う。

「ほら、もう遅いから帰ろう。明日、コーチ達の前でも見せるんだろう?」

 匠海の指摘に、ヴィヴィは現実に引き戻される。そうだ、匠海に見てもらうのもヴィヴィにとっては一大事だったが、最終目標は「コーチ陣にヴィヴィがどれだけサロメをやりたがっているかを見せて、認めてもらうこと」だった。

(決戦は今日の夕方――何が何でも認めてもらわなきゃ!)

 匠海の太鼓判をもらって舞い上がりそうになる心の帯を締め直し、ヴィヴィは大きく頷いた。



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