「もっと大きくストロークして! Push、押して、押して――」
七月初旬。
土曜の夜十時を回る頃、リンクの中にヘッドコーチであるジュリアンの声が響く。
スケート靴を履いて双子の傍に付きっ切りでスケーティングの改良に取り組むコーチの指示に、ヴィヴィ達は必死についてく。コーチはヴィヴィが女子だからと容赦しない。男子の中でもトップスピードを誇るクリスのスピードに付いて行くことを、ヴィヴィに当たり前のように要求する。しかしそのお陰が、最近のヴィヴィはスケーティングも良くなったし、なおかつスピードに乗ってジャンプを跳べるようになったので、高さも成功率も格段に上昇した。
十四歳である双子は今シーズンもジュニアの大会に出るが、ジュニアで上位に入れば特別枠でシニアの全日本選手権に出れることになる。
ジュニアからシニアに上がると、SPは二分五十秒とジュニアと変わらないがFPは三分三十秒から四分に滑走時間が伸びる。
この三十秒の延長がとてもきつい。ヴィヴィもクリスも十四歳にしてはそれぞれ百六十センチと百八十センチと立派に背は伸びたが、体格はひょろひょろといってもいいほど頼りなく持久力もない。
一時間以上ぶっ通しで滑ってさすがに息が上がっているヴィヴィに、サブコーチが「ヴィヴィ、SPの音かけするよ!」と容赦ない声をかける。
(え゛〜……休憩なしですか……?)
心の中で不満を漏らしながらも、リンクの中央に進み出るとポーズをとる。その途端、
「ヴィヴィっ!! 何度も言っているでしょう! ポーズ一つとっても大きく見えるように、予備動作をきちんと入れなさい」
容赦ないコーチの指示が飛ぶ。ただ単に体の前で腕をクロスするポーズを取る時でも、単純に下から持ち上げてするより、大きく両手を開いて上から降ろしてクロスするほうが華奢すぎる身体を大きく見せられるし、さらに優雅に見える。
言われた通りバレエの動きも取り入れて優雅にポーズを取ると、ようやくSPの剣の舞が流れ始めた。序盤のトリプルアクセルはトップスピードに乗って理想通りの軌道を描いて着地したが、トリプルトーループ+トリプルフリップのコンビネーションはフリップが回転不足で両足着氷に。さらにステップ後のトリプルルッツはアウトサイドエッジで飛ぶべきところを、インサイドで踏み切ってしまった。その途端、コーチ達の叱責が飛ぶ。
(もう、自分が一番分かってるって――!)
残り三十秒で足ががくがくになり始めたのを堪えながらチェンジフットスピンを回りきると、何とか最後のポーズを決めた。
はあはあと息が乱れ、肩が上下する。フラフラになりながら腰に手を当てコーチの元へ滑って戻ると、入れ替わりにクリスがリンクに入り、すぐにSPの曲が流れ始める。
息を整えている間だけでもクリスの演技を見ようとフェンスに凭れ掛かったヴィヴィだったが、サブコーチに呼び止められる。
「ヴィヴィ、せっかく剣の舞を滑ってるのにぜんぜん演技にキレがないよ。なに滑ってもバレエのようにゆったりとした動きになってる。優雅なバレエ的表現ができるのはヴィヴィの強みだけれど、もっとメリハリを付けないと、どんな曲を使っても結局一緒だよ」
「……………はい」
ヴィヴィは幼少のころからバレエを習っていて、今も土日はレッスンを受けている。手足が長くて上品な動きができるヴィヴィは先生からべた褒めされ、すぐにバレエにはまりめきめき上達した。それは自分の長所だと思っている――。
けれどいざフィギュアでバレエやゆったりしたクラッシック以外の曲をやる際、どうしてもバレエの動きが染み付いてしまっているヴィヴィは、緊張感のある振付を自分のものにするのに不得手となってしまうのだ。
(…………分かってはいるんだけど……そこまで言われたら、さすがに、凹む……)
iPadで先ほどの自分の演技を見直してさらにへこみながらも、ヴィヴィは何とかその日の練習を終えると、こちらも体力的にヘロヘロとなったクリスとリンクを後にした。
篠宮邸に着くと、双子はそれぞれ就寝の挨拶を交わして私室へと戻った。篠宮邸は三階建で、二階は父母の私室や客室等、三階が右からクリス、ヴィヴィ、匠海それぞれの私室となっている。
私室といってもそれぞれに寝室、書斎、バスルーム、リビングがある贅沢過ぎる間取りだ。ヴィヴィはだるい身体を引きずるようにバスルームに入ると、練習着を脱ぎ捨てて使用人が準備をしてくれていた浴槽の熱いお湯に浸かった。
鼻下まで白濁した湯に浸かり、目を閉じて今日の練習を振り返る。反省点が多すぎて、あれもこれも直さなくちゃと頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「……………」
しばらく悶々としていたヴィヴィだったが、やがて「はあ〜」と大きく鼻から息を吐くと、髪と身体を洗ってバスルームを後にした。用意されていた夏用の薄くてロングのナイトウェアに着替えると、濡れた髪を乾かそうとドライヤーに手を伸ばす。しかしその手は取っ手を握る前に空中で止まった。
(………そうだ、こんな時は――)
ヴィヴィは何を思ったのか踵を返すと、リビングを通って左側にある匠海の部屋への扉をノックする。しかしもう寝ているのか、兄から返事はなかった。マントルピースの上に鎮座した時計を見ると時間はもう翌日を指していた。
(ちえ……お兄ちゃんに相手してもらおうと思ったのに……)
すごすごとバスルームに戻って、胸下まである暗めの金色の髪を丹念に乾かす。
「あ〜あ、明日は日曜なのに……お兄ちゃんと映画でも見に行きたいよ〜」
鏡に映ったヴィヴィが口を尖らせて愚痴る。ドライヤーを片付けて歯を磨きはじめたその時。ヴィヴィの頭の中に名案が思い付いた。
(そうだ! 久しぶりにお兄ちゃんと一緒に寝ればいいんだ!)
途端にどんよりしていた心の中に、ぱあと明るい光が差し込む。自分の考えにウキウキし始めたヴィヴィは手早くうがいをすると、再度匠海の部屋との境界線へと向かった。
ヴィヴィは抜き足差し足で匠海のリビングルームに入ると、その奥の寝室へと向かう。ヴィヴィの部屋の白色を基調とした内装とは違い、匠海の部屋は茶系の多い落ち着いたインテリアだ。しかしその部屋も最低限の光しかなく、既にその部屋の主は就寝していると物語っていた。
クイーンズサイズのベッドの真ん中で羽毛布団にくるまった匠海は、すうすうと寝息を立てていた。ベッドサイドの控えめ灯りのランプが匠海の顔を暗闇にぼんやりと浮かび上がらせる。いつも大人っぽく整った顔が、目を閉じて寝ているだけでやけに幼く見えるから不思議だ。
(お兄ちゃん、寝顔、可愛い〜)
ヴィヴィの顔がにんまりと緩む。ベッドヘッドの傍に跪いてしばらくその顔を眺めていたが、さすがに疲れていた身体は眠気をもよおし、音を立てないように夏用の薄い上掛けを捲ってベッドに潜り込んだ。
匠海の隣に体を横たえてそちらを向くと、兄がいつも使っているボディソープの香りがヴィヴィを包み込んだ。それだけでも兄を近くに感じられて幸せなヴィヴィだったが、どうせなら昔のようにくっ付いて眠りたい。
(もう七月だけど、冷房効いているし大丈夫だよね?)
恐る恐る手を伸ばして兄の肩に触れると、さらりとした肌の感触があった。不思議に思って少し上掛けを捲ってみると、兄はどうやら上半身裸で寝ていて何も着ていなかった。さすがに少し狼狽えたヴィヴィだったが直ぐに、
(ま、いっか〜。素肌のほうが涼しいし、なにより――お兄ちゃんを近くに感じられて、嬉しいもん)
ヴィヴィは早速、ぎゅうと匠海の二の腕に縋り付く。
「ぅ……ん………?」
若干覚醒した匠海が瞼を重そうに微かに開く。しかしその瞼はそれ以上開けられることはなくまた目を閉じると、ヴィヴィが縋り付いているのと反対の腕を伸ばされ、彼女をその胸に抱き寄せた。
薄暗い部屋の中でもわかる日本人にしては色素の薄い肌にぎゅうと密着させられると、ヴィヴィの頬にしっとりとしたその感触が伝わる。暖かくて呼吸に合わせて微かに上下する逞しい胸板。あやす様に撫でられる背中に添えられた大きな掌。ヴィヴィは長いまつげに縁どられた瞳を細めるとうっとりとその感触を味わった。
(うふふ。お兄ちゃん、大好き!)
ヴィヴィのその気持ちが伝わったのか、匠海はもう一度ヴィヴィを抱き寄せた。ヴィヴィは身体も心も軽くなったように感じ、そしていつしか穏やかな眠りについた。
翌朝の日曜日。
目覚ましがなくても早朝五時に目が覚めたヴィヴィは、まだ匠海の抱き枕にされたままだった。その腕の中は今までいたどの場所よりも居心地がよくずっとこうしていたかったが、さすがにスケートの練習に行かなければならない。
ヴィヴィはもぞもぞと身じろぎし、両手で匠海の広い背中をポンポンと優しく叩く。まだ寝たりないのか匠海は「もう、ちょっと……」と呟き、ヴィヴィの髪に顔を埋める。確かにせっかくの日曜日の、しかもまだ匠海にとっては早朝ともいえる時間――。
「うん、ヴィヴィだけ起きるから……」
兄にもっと寝ていてほしくて、小さくそう囁いて匠海の背中をさすった時――、
「…………ぅん…………?」
疑問を含んだ唸りを上げ、匠海が拘束を緩めてもぞもぞと身体をずらしてヴィヴィの顔を覗き込んできた。その瞼はまだ半開きだ。
「おはよ、お兄ちゃん」
ヴィヴィは無邪気にそう言って微笑んだが、その彼女を見つめていた灰色の瞳は徐々に見開かれていく。そしてその瞳がようやく焦点を合わせ、抱きしめている相手が妹だと察すると絶句した。
「な゛っ…………!?」
匠海の整った顔がちょっと間抜けに見えそうなほど、驚きの表情を浮かべる。
「な……? なあに?」
寝ころんだまま不思議そうに隣の匠海を見上げるヴィヴィだったが、次の瞬間、体を素早く起こした匠海に両手首を掴まれ、仰向けにベッドに押さえつけられた。
「こ……ここで何してるんだ、ヴィヴィっ!?」
「え……お兄ちゃんと一緒に、寝てる……? っていうか寝てた?」
質問の意図が読めず、ヴィヴィは当たり前の状況を説明してみる。
「――――っ 馬鹿!!」
いきなり意味も分からず怒鳴られヴィヴィは、「へ?」と間抜けな声を発する。
「前に言ったよなっ!? もう俺とは一緒のベッドに入っちゃダメだって――!」
凄い剣幕で上からヴィヴィを威圧する匠海に、ヴィヴィは驚く。確かに半年ほど前「もう兄離れしなさい」と言われた時に「ベッドにも潜り込んじゃ駄目」と言われてはいた。いたけれども――、
「ヴィヴィ、あの時『うん』って言わなかったもの」
そう揚げ足取りな返事をして悪戯っぽく舌を出したヴィヴィだったが「四の五の言うんじゃない!」と匠海に一喝された。
普段の匠海はヴィヴィがいくら我が儘を言って甘えても、そんな頭ごなしに怒ることはなかった。ちゃんと駄目な理由を説明して、叱られるのが常だった。だからヴィヴィは余計に匠海がヴィヴィを拒絶する意味が分からず、悲しくなる。もしかして、匠海はヴィヴィのことを嫌いになってしまったのだろうか――と。
「むぅ〜……、どうして、そんなに怒るの……?」
「どうしてって……そんなこと、考えれば分かるだろう?」
ようやく絞り出したヴィヴィの言葉にも、匠海は明確な説明を返してくれない。
「……分かんない。ヴィヴィはただ、お兄ちゃんと一緒にいたかっただけだもん……」
拗ねたように小声でもごもごと言い募るヴィヴィ。
匠海の拒絶に必死に抗うその瞳は純粋に慕っている兄への愛しさだけが浮かんでおり、ヴィヴィのあまりの無防備さに匠海はまるで自分のほうが悪いことをしているような気にさえなる。真っ直ぐな瞳に下から縋り付くように見上げられ、匠海は居たたまれなくなって目をそらした。しかしそれも一瞬で――、
「まさか――、クリスとも一緒に寝たりしてるのかっ?」
嫌なことに気づいてしまったという表情で、匠海がヴィヴィに詰め寄る。なんでそんな事を気にして心配するのか一向に分からないヴィヴィは、困惑した表情のまま首を振った。
「……寝てないよ。だってクリスとはいつも、朝から晩まで一緒にいるから……」
(それにクリスはいつも練習終わって帰ってくるとぐったりしてるから、一人で休ませてあげたいもの……)
匠海だって大学と後継者教育の両立でいつも疲れているのだが、ヴィヴィはそこはあえて考えない。そこがヴィヴィが末っ子の我儘であることの表れだ。
ヴィヴィの返事に深い嘆息を零した匠海は、ゆっくりと噛み砕くように説得を始めた。
「いいか、ヴィヴィ――。俺達は兄妹だけれど、男と女だろう? 一緒に寝てても何もある筈がないけれど、使用人達や外部の者が知ったら、変に勘ぐる輩も出てくると思わないか?」
「……何を勘ぐるの?」
「え……そんなこと言わなくても、もうヴィヴィも十四歳なんだから分かるだろう?」
答え辛そうにはぐらかす匠海に、ヴィヴィは心底当惑する。
(…………? 本当に分からないんだけど?)
何でだろうと頭の中で考えを巡らせながら視線を彷徨わせていると偶然、上から覆いかぶさっている匠海の下半身が目に入った。
上半身だけ裸だと思っていた匠海の体は、腰から下は羽毛布団が掛かっていて暗くて見えにくかったが、どうも肌色に見える。
「お兄ちゃん……」
「…………何?」
視線を匠海の下半身から顔に戻したヴィヴィと目を合わせ、匠海が訝しそうに尋ねる。
「お兄ちゃん、下……何もはいてないの?」
「…………え?」
視線を自分の下半身にやった匠海は、自分が全裸であり、なおかつまるでヴィヴィを襲っているかのように覆いかぶさり、両手を拘束している危ない状況であることを瞬時に悟った。
「――――っ!!」
とっさにヴィヴィの手首から両手を放して下半身にシーツを巻きつけた匠海だったが、その隙にするりと匠海の下から這い出したヴィヴィは
「じゃあ、練習に送れちゃうから! また夜ね〜」
と言い捨て、そそくさと寝室から退散した。
その後ろ姿に「こら! ヴィヴィ、待ちなさい!」と匠海が焦って声を掛けたが急いでいたヴィヴィの耳には入らず、後にはクイーンサイズのベッドの真ん中で座り込む匠海だけが残された。
「……BST……ちゃんと、性教育してるんだろうな……?」
しばらく経ったのち、ぼそりと匠海が疑問を零す。
匠海はヴィヴィ達の通うインターナショナルスクールには通わず、幼稚園から高校まで名門私立に通っていた。そこでは小学校高学年から少しずつ段階を踏んで性教育――特に避妊について教えられてきた。英国人のほうが日本人より体の発達が早いだろうし、さすがにもうBSTでも性教育はなされているだろうが――。
まさかヴィヴィに「子供の作り方、知ってる?」と聞く訳にもいかず、匠海は深いため息を漏らし、やがてボスッと音を立ててベッドに突っ伏した。