七月七日。
昼休み、ヴィヴィは教室の窓枠に持たれながら外を羨ましそうに眺めていた。
「いいなぁ〜……」
そう言った横顔は少し淋しそうだ。偶然近くを通りがかったクラスメートのアレックスがその言葉を耳にし、不思議そうにサッシに近づく。
「何が、『いいなぁ〜』 なの?」
巻き毛のアレックスの髪が風でふよふよそよぐのを見上げながら、ヴィヴィは「あれだよ!」と窓の外を指さす。その先には初等部の校舎があった。BSTは幼等部から高等部まで同じ敷地にあるのだ。しかしアレックスはそれでも合点がいかないようで、首を傾げる。
「……七夕飾り……」
後ろからクリスが静かに指摘する。
「そう〜、笹の葉があるんだよ、初等部には」
ヴィヴィがそう言って頬を膨らました時、「ヴィヴィ、去年も同じこと言ってたよね」と親友のカレンが近づいてきた。振り返ったアレックスにカレンが説明する。
「ほら、幼等部から初等部までは七夕祭りをするじゃない? 浴衣着て、みんなで歌うたって、短冊に願い事書いて」
「ああ、そう言えば、してたな。もう三年前だから忘れてたけど……」
アレックスが宙を仰いで初等部でのことを思い出す。
「ヴィヴィは短冊が書きたくてしょうがないのよ。だから中等部に上がってからも毎年、初等部の校舎まで行って短冊飾ってるの」
「えっ!? マジで?」
今中等部三年の彼らにしてみればその行動はあまりにも幼く映るが、ヴィヴィはそんな事を二年も続けていたのだ。
「ガキ〜」
アレックスにそうからかわれてもなお、ヴィヴィは譲らない。
「え〜楽しいでしょ、短冊書くの。だって願い事が叶うんだよ? ね、クリスもそう思うでしょ?」
突然同意を求められたクリスは「う〜ん……そうかも?」と曖昧な返事を返す。クリスは毎年ヴィヴィに引っ張られて初等部まで行っているので、あまり賛同したくないらしい。
「でもそんなヴィヴィに朗報です! 今年から講堂の前のラウンジスペースに笹の葉が設置されるんだって。掲示板に張ってあったよ」
クリスが可哀そうになったのか、カレンは人差し指を立ててヴィヴィにとって素晴らしい情報を提供する。
「えっ!? 本当? 行く行く〜っ!!」
大きな灰色の瞳を輝かしてヴィヴィが歓喜の声を出して喜んだ。その声を聞いて、総勢二十名のクラスメイト達が「何事?」という表情でヴィヴィ達を振り返る。
「講堂前に七夕の短冊飾れるんだってっ! みんな行こう?」
来年は高校生にもなろうという少年少女達が短冊ごときにそんなに興味があるとは思えないが、そこはヴィヴィの凄いところ――彼女が弾けるような天真爛漫な笑顔を振りまけば、周りの者に「ヴィヴィに付いて行けば、何か楽しいことが起こるかも」と思わせてしまうのだ。
「へ〜、知らなかった」
「何年振りだ? 七夕なんて」
「私、『ダイエットがうまくいきますように!』って書いちゃう!」
「え、無理じゃね?」
「あ、可愛いペン持ってこうよ〜」
皆口々にはやし立て、ガタガタと椅子を引いて席を立つ。昼休みの残り時間を利用してぞろぞろと中等部の隣の講堂へ向かうと、そこには2.5メートル程の笹がラウンジの真ん中に鎮座していた。その前には色とりどりの和紙で作られた短冊が置かれている。
「わ〜、七夕っぽい!」
ヴィヴィが小走りで笹に近づき、既に飾られている短冊の願い事を何枚か読んで振り向くと、ラウンジのソファーにそれぞれクラスメートが陣取り、あるものは嬉々として、あるものはうんうん唸りながら短冊に願い事をしたためている光景が広がっていた。
(ふふ、今年は一人じゃなくてみんなと七夕だ!)
にんまりしたヴィヴィは短冊を一つ手に取ると、カレンから水色のペンを借りてさらさらと迷いなくお願い事を書く。あまりに嬉しそうなヴィヴィに、カレンが「なに書いたの?」と尋ねてきたが、ヴィヴィは「秘密!」っと言って笹のなるべく高い位置にこよりで短冊を吊るした。
皆の願い事を覗いてやろうといくつかのグループにちょっかいを出していたヴィヴィだったが、初等部の校舎から管弦楽の音が聞こえてくるのを耳にし、窓際に近づいた。
ゆったりした優しい曲調のそれは、どこかで聞いたことがある。
「…………ん〜と」
(何だったかな……?)
「when you wish upon a star ―星に願いを―」
助け舟を出すように、クリスがその曲名を教えてくれる。自然にヴィヴィの肩に腕を回して自分に引き寄せるクリスを見上げ、「そっか、七夕で『星つながり』なんだね?」と尋ねるとクリスは首肯した。
「クリスは何て願い事書いたの?」
興味津々な表情で探りを入れたヴィヴィだったが、クリスは結局「secret……」と言って教えてはくれなかった。
カランコロンという予鈴が鳴り、皆がぱらぱらとクラスルームに帰り始める。ヴィヴィは皆が忘れ物をしていないか確かめるために最後まで残っていたが、周りに人がいなくなった笹の葉を見上げて微笑んだ。
(今年の私の『願い事』。叶いますように――)
「ヴィヴィ〜? 置いてくよ〜?」
ヴィヴィが付いて来ていないことに気づいて戻ってきたカレンに声を掛けられと、ヴィヴィは「うん!」と頷き踵を返してクラスルームへと戻った。
誰もいなくなった講堂前のラウンジに、空いたままの窓から風が吹き込む。しゃらりと涼しげな音を立てて葉を揺らした笹の葉の間から、一枚の短冊が覗いた。
『大切な人と ずっと一緒にいられますように―― Victoria』
君(星)が生まれたとき
神様はいくつかの力を授けてくれたよ
そのひとつが
夢をかなえる力なんだよ
星に願いをかけるなら
君がどんな人だって構わない
心から願う その気持ちは きっと叶うんだよ
一生懸命夢みているなら
どんな願いでも叶うんだよ
星に願いをかけるなら――
夢みる人がそうするように
運命は優しく、誰かを愛する人の願いを叶えるだろう
密かに望む甘い願いを
予期せぬ稲妻のように
運命はあなたに訪れる――
星に願いをかけるなら
あなたの夢は叶うだろう――
まだ一般営業中の夕方。
大きなメインリンクの横にある半分程の広さのサブリンクで、ヴィヴィは持ち込んだ iPodで音楽を流していた。曲は――When you wish upon a star ―星に願いを―。
今日学校で耳にした時、ふと「この曲で滑ってみたい」と素直に思った。
それは願い事があるヴィヴィが無意識に欲して選んだのか、ただの偶然だったのか。
そして思い立ったらじっとしていられないヴィヴィは、毎日の日課である勉強や楽器の練習もそこそこにリンクへと向かっていた。
(最初はチャーミングに、女の子がちょっと拗ねているように―)
ヴィヴィは腰の後ろで両手を組むと、少しうつむいてつま先を見つめるポーズをする。曲が流れ、拗ねて小石を蹴っている様にトウを動かす。歌い出しが始まると何かに気づいたように辺りを伺い、やがてその視線はゆっくりと夜空の星へと注がれる。スピードに乗ってステップからのトリプルアクセル、もしくはトリプルサルコウ。出来れば片手を上げながら。
(ここはスプレッドイーグルで、たくさん星を振りまく感じで――)
体の前で水をすくうように下から持ち上げた両手を大きく上へと開きながら、両足のトウを大きく開き両足で横に滑る。
シャーロットスパイラルからアラベスクスパイラルへ。バタフライからスピンに入り、レイバックスピンの手のポジションは、必死に請い願う様に胸の下で組んでからゆっくりと空を掴むように指先まで神経を行き渡らせて。
夜空を見上げていた少女はやがて眠くなり大きなあくびをし、氷の上へと跪く――最後は空を見上げて祈りを捧げる。
(う〜ん……子供っぽ過ぎるかな? もうちょっとJAZZとか使って大人っぽくしたほうが――)
一通り滑ってみてヴィヴィが流しながら考えていた時、
「ヴィヴィ、何してるの?」
声のしたほうを振り返るとサブリンクのフェンス傍に、他の生徒を見ていた筈の母ジュリアンが立っていた。
(やっば……)
家ではいつも優しい母だがリンクの上では鬼のように厳しい。きっと「遊ぶ暇があるなら全然上達しないSPを滑り込みなさい!」と怒られる。
「え、えっと……ちょっと――あ、遊び……?」
どもりながらそう答えて、どやされる前にコーチのいるフェンスから少しでも遠ざかろうとしたヴィヴィだったが、ジュリアンの反応は予想と違っていた。。
「ふうん……」
彼女にしては珍しく曖昧な相槌を返しながら、胸の前で両腕を組む。その表情は何かを思案しているようにも見える。
(……………?)
コーチが何も言わないので、スピンの練習でもしようと氷を蹴りかけた時、
「もう一回、滑って見せて」
コーチが思いがけない事を口にする。
「え……? さっきの曲を……ですか?」
「そうよ。ジャンプは適当に流してでいいから」
コーチはそう言うと、有無を言わさずiPodで曲を流す。ヴィヴィは焦って所定の位置まで滑ってポージングすると、先程即興で滑ったプログラムを反芻して見せた。二回目なのでさらに情感豊かに仕上げようと努力してみる。三分ほどのプログラムを滑り終えてコーチの元へ戻ると、ジュリアンはうんうんと頷いていた。
「いいじゃない……」
「え?」
「ヴィヴィのオリジナル? こんなのいつ作ってたの?」
「今日……学校でこの曲を聴いて、滑ってみたくなって――」
ヴィヴィの返事にコーチは目を丸くして驚く。
「今日一日で作ったの? へえ……まだまだ改良の余地はあるけれど、いいわ。そうね……今シーズンのエキシビジョンにしましょう」
今度はヴィヴィが驚く番だった。
「えっ!?」
「なんでそんなに驚くの?」
「だ、だって……」
「私も現役時代、自分で振付したりコーチと一緒に考えたりしてたのよ?」
「知らなかった……じゃなかった。知りませんでした」
「自分のことを一番わかっているのは自分だもの。振付や曲に興味を持つことは、いい傾向よ」
「……………」
てっきり怒られると思っていたのに珍しくスケートに関しての事で褒められたヴィヴィは、驚きと嬉しさで言葉に詰まってコーチの顔を見つめ返した。
「ま、お子ちゃまなヴィヴィが創ったんだからちょっと子供っぽ過ぎるけれど。ヴィヴィ達にとってはきっと今シーズンが最後のジュニアのシーズンになるでしょうからね。お子ちゃまでもいいか」
「……………」
(お子ちゃまって、二回も言った……!!)
バカにされた気がして知らず知らずぶ〜と頬を膨らましていたヴィヴィだったが、
「じゃあ話は済んだから。これからリンク使うから、ヴィヴィは出て行きなさい」
とコーチにリンクから放り出されてしまった。ヴィヴィと入れ替わりにアイスダンスのペアがリンクに入る。
アイスダンスのペアは日本では数少なく、このスケートクラブでも彼ら一組しかいない。成田達樹と下城舞のペアはお互い十九歳で、来シーズンからシニアに上がる。彼らとは小さい頃からお互いを知り仲のいいヴィヴィは、しばらく二人の滑りを見守っていたが舞がヴィヴィに気づいて手を振ってきたので振りかえすと、ストレッチをしにフィットネスルームへと向かった。
今日の練習を終えて十二時前に篠宮邸に戻ると、ヴィヴィはウェアのまま真っ先に防音室へと向かった。だいたいこの時間は匠海が一人でピアノやチェロを弾いているのだ。ヴィヴィは防音室の分厚い扉をバーンと音を立てて開けると、視線の先に兄を見つけて大きな声で言った。
「お兄ちゃん! 私、マムとエキシビの振り付けすることになったのっ!」
いきなりすごい勢いで登場したヴィヴィに、匠海は少し驚いていたがピアノを弾いていた手を止めると、「おいで」とヴィヴィを手招きした。
「どの曲使うの?」
グランドピアノの近くまで小走りにやってきたヴィヴィに、匠海が椅子に座りながら尋ねる。
「when you wish upon a star!」
「ふうん。いいね」
そう言うと匠海は鍵盤に長い指を降ろし、即興でwhen you wish upon a star―星に願いを―を弾き始める。少し色気のあるクラッシック調の星に願いを。鍵盤を見つめて伏し目がちにされた瞼の先では長い睫毛が匠海の頬に影を落とし、サラサラの黒髪が時折揺れる。そんな匠海をヴィヴィはグランドピアノに頬杖をついてうっとりと見つめていた。
(お兄ちゃん、王子様みたい……)
匠海とは生まれたころからずっと一緒なのに、それでも時折はっとした彼の美しさに驚かされることがある。内から醸し出される上質な空気は他にはないものだ。父からは威厳を感じることはあるが匠海のそれとは違うから、もしや匠海の産みの母親の血を引いたのだろうか――。
「で……、ヴィヴィは何を願うの?」
匠海の素敵な演奏に聞き惚れていたヴィヴィに、匠海が突然質問する。その手は喋りながらも器用に音を紡ぎだしている。
「え……?」
咄嗟にどういう意味か分からなかったヴィヴィは、頬杖から顔を離して匠海を見る。
「『星』に何を『願う』の――? やっぱり、金メダル?」
そう言う匠海の視線は鍵盤へと向けられていたが、瞳は優しく細められていた。
「えっと……」
ヴィヴィの胸が少しずつドキドキと鼓動を早める。
「お兄ちゃんと……」
ヴィヴィは少し『願い』を口にするのを躊躇う。
(こんなこと言ったら、お兄ちゃん、どんな顔をするんだろう――?)
『 大切な人(お兄ちゃん)と ずっと一緒にいられますように―― 』
「俺と? 何――?」
言いよどんでいるヴィヴィに、匠海が先を促す。ヴィヴィとは違って、妹である自分に絶対ドキドキなんてした事がないであろう匠海に、ヴィヴィはちょっと面白くないなと思う。
「………………」
(お兄ちゃんも、たまにはドキドキすればいいんだっ!!)
ヴィヴィはそう逆切れするとピアノを弾き続ける匠海の傍まで寄り、兄の座る横長の椅子に片膝を付いた。そして、
「お兄ちゃんに、毎日チュウして貰えます様に――ってお願いするのっ!!」
そう言い放つと匠海の首に両腕を回す。そして兄の顔を強引に引き寄せるとチュっと音がしそうなほど強く匠海の唇のすぐ横にキスをした。
匠海が瞳を見開いてヴィヴィを振り返る。その瞳にはヴィヴィがしっかりと映り込んでいた。当たり前だがピアノの演奏も途切れる。
ヴィヴィは悪戯が成功した小学生のようににかっと白い歯を見せて笑うと「隙あり〜!」と叫んで、そそくさとその場から逃げていった。
「……って! 自分からキスしてるじゃないかっ!!」
驚いてしばし呆然としていた匠海はしかしすぐ我に返って、誰も居なくなった空間に対して一人で突っ込む。そして、はぁ〜と深いため息を付いてうな垂れた。
知らず知らず口元に長い指先を添える。ヴィヴィの――妹の柔らかくてしっとりとした唇の感触が残ってた。匠海だって一応男だ。妹とは言えあんなに可愛い少女が艶々のピンク色の唇を押し付けてきたら、少なからず動揺する。
「はぁ……いつになったら兄離れしてくれるんだろう……」
いつまであの可愛い『攻撃』に耐えなければならないのかと、匠海は途方に暮れるのであった。