小説『赤い渚に浮かぶ月』
作者:UMA.m(UMA.mのブログ)

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 第12話 特別ということ 



 柱を背にし、イリィに顔を向けぬまま、カリムはゆっくりと口を開く。
「お前のことは、大体、あいつらから聞いた」
「!」
 その瞬間、イリィはビクリと肩を震わせ、身を竦める。
「あいつらが言うには、お前に関わると災難に遭うのだそうだ」
 そんなイリィに構うことなく、カリムは言葉を続ける。ごく静かな声で、至極当たり前のことを告げるように。
「怪我をしたり病気になったり」
(やめて・・・・・・)
「家が燃えたとも言っていたな」
(知らない! そんなの知らない!)
 心の中で叫びながらも、イリィの内に過去の記憶が頭をもたげる。
 そうだ。
 本当は。
 自分に関する不吉な噂を、全く知らなかったわけではない。
 村人がよそよそしくなり始めた頃、そんな話はどこからともなく耳に入って来た。
 人の不幸を望むつもりは全く無いのだと、どんなに訴えかけてみても、その場限りの作り笑顔をされたり、キッパリと無視されたり、そ知らぬ顔でさっさと立ち去られたり。そして何よりも、彼らの目の中に、怯えの色が浮かんでいることに気がついてしまった時・・・イリィは弁解することを諦めた。彼らに期待することを止めた。
「不幸な災難は、何でもかんでも他人のせい、か」
「・・・・・・」
「少しでも”自分たちと違う”者を見つければ、平気で非難し攻撃する。ちょっと下手に出てやれば勘違いして、いくらでもつけ上がる。まったく始末に終えやしない」
「・・・・・・え?」
 イリィは思わず、伏せていた目を上げる。
 てっきり自分が、関わった者を不幸にしてしまうという事実を内緒にしていた事に対して、カリムが不快感を示しているのだと思い込んでいたのに、どうも話の風向きが違う気がする。
「ただの人間とは、憐れな生き物だな」
 その声からは、哀れみも蔑みも、伺えはしない。
 だが、同じ人間としてではなく、高みから下界を見下ろす者の言葉で。
 カリムはハッキリと、その言葉を口にした。
 イリィに、同意を求めるように。
「何を、言って・・・?」
 心臓がドキドキと、怖いくらいに大きな鼓動を響かせる。
 聞いてはいけない。
 心のどこかが、激しく警鐘を鳴らしている。
「そんな連中のどこに、自分の心を殺してまで優しく慈悲を垂れてやる価値がある?」
 それは、問う者はもちろん、問われる者もまた高みの存在であることを前提にしてしか、発することの出来ない問いかけだった。そして、問われているのは、他ならぬイリィ自身だ。
「だって、あなたにはそうでも・・・・・・私は、ただの村娘で・・・見かけはちょっと変わってるかもだけど、それで 何か特別ってワケじゃないし、どっちかって言ったら何にも出来ない方で、みんなのお荷物になっちゃてるのは本当だし、だから、我慢出来ることは我慢しなきゃならなくて・・・でもいつか、村のために何か役に立てたら、みんなはきっとまた認めてくれるようになって、それで・・・・・・」
「何故、そこで下を向く? お前はここの村人ども、いや、下賎な人間どもとは違う」
ダメだ! 聞いてはいけない!
 心が悲鳴のように叫んでも。
 耳を塞ぐ手をすり抜けて、運命を宣告する言葉は容赦なく、イリィの中に流れ込む。
「お前は、大いなる御手に選ばれた”力”を持つ存在なのに」
「・・・・・・!」
 一瞬にして目の前の見知った景色が全て崩れて行くような、そんな錯覚がイリィを襲った。


「まさか自分で気付いていない訳ではないだろう? 気付いていなかったのなら、それは周りの連中の所為だな。お前の”力”を妬んで、卑小な者のように誤解させたのなら」
「あの・・・・・・何を、言ってるんですか!? 力なんて知らない。そんなもの、私には、これっぽっちも・・・・・・」
「呪歌使い」
「・・・・・・!?」
 初めて耳にする響きに、知らずイリィは瞠目する。
「お前の歌には”力”がある。特に子守唄。あれを歌うお前には、魔物を殲滅させるくらいの強い力が秘められている。そうだな。使い方次第では、人間を操るくらい簡単だ」
「・・・・・・私の、歌・・・・・・?」
「そう。見物だろうな。今まで自分らとは”違う”と見下していた者どもが、一転、救いを求めてお前の足元に平伏す様は」
「そんな・・・・・・私はそんなの望んでない! 私に力なんて、あるはずない!」
「ふうん? それならこの先ずっと、非力な小娘を演じ続けるつもりか? 一生、こんな小さな村の中で?」
「・・・・・・!」
「村を一歩出れば、色んな街があるし、色んな国がある。お前と同じような容姿の奴どころか、もっと奇抜なのさえ珍しくも何ともない。お前ほどの力があれば、どこでだって好きなように暮らしていける」
「やめて・・・・・・」
「誰に遠慮することなく、思う存分、好きな歌を歌って暮らせる」
「やめて・・・・・・!」
「何故? それが”力ある者”の、当然の権利だろう?」
 この期に及んでも、カリムの口調ははごく静かで、語りかけるその声はとても優しかった。
 このまま頷いてしまえたら、どんなに楽になれるだろう。
「やめて! そんなの欲しくない! 私は、私は・・・・・・!」
 だが、誘惑を振り払うように、イリィは必死に声を上げた。
「ならば、お前は何を望む?」
「ここで、この村で! お母さんと、みんなと、仲良く幸せに暮らすこと! それだけでいいのに、それなのに、どうして・・・・・・」
「本当にそうか?」
「人を従わせる力なんて、そんなの要らない! 無理やり人を振り向かせたって、それじゃ一人ぼっちなのと何も変わらない! そんなの違う! 絶対に違う!」
「ではこのままでいて、幸せか? このままお前一人が我慢していれば、何かがどうにかなるとでも?」
「やめて! やめて! やめて!」
「お前は、全然悪くない。村人とは違うとこも、力が使えることも。悪いのは・・・・・・」
「聞きたくないっ!」
 その瞬間、イリィは立ち上がっていた。
 ようやく、彼女をここに縫いとめていた力を振り払うのに成功したかのように。
「どうして! あなたにそんな事が解るんですかっ! あなたとは昨日会ったばかりで、お話だってほんのちょっとしかしてなくて、それなのに私のことが解るだなんて、そんな事あるはずないでしょ!? 私が・・・私が悪いことなんて、そんなのいっぱいあるに決まってますっ!」
 叫ぶや、イリィはそのままホールを飛び出した。
 これまで小さく立ち竦んでいたのが嘘のように、一目散に、振り返りもせず。

 イリィの姿を静かに見送って。
「そうか。悪いのは自分、か・・・・・・」
 カリムはそっと、一人ごちる。
「う・・・・・・ん・・・・・・」
 その時、微かな吐息とともに、アシェルが身じろぎして睫を揺らせた。 

「・・・・・・今の・・・・・・イリィ?」
 まだ虚ろな意識の中で、アシェルは小さく呟いた。
 少女の、激昂する声が聞こえた。
 いつも穏やかで、優しくて、辛いことを全部自分の中にしまい込んで、人に見せまいとしていたイリィが、はじめて見せた身の内の激情。
 そうか。
 イリィはようやく、自分の中に押し込めていた感情を吐き出すことが出来たのだ。
「・・・・・・だけどその役、ボクがやるつもりだたんだけどな。思いっきりハラ立つよーな台詞、考えてるとこだったのに」
 半ば夢うつつの声で、アシェルは近くにいるだろうカリムに向けて話しかける。
「それは悪いことをしたな」
 思った通り、すぐに返答の声が聞こえた。
「そうだよ。憎まれ役なんかより、素直にイリィの憧れの人をやってれば良かったのにさ」
「だが慰め役には向かないと思うぞ、俺は」
(うーん。確かにそれは、オモシロくないかも・・・・・・)
 妙にぼうっとする頭を振りつつ、霞む目を擦ろうとして何気なく右手を上げたアシェルは、自分の手の奇妙な感触にハッと目を見開いた。
 黒い光沢を持つ鎧のような腕。奇怪に長く伸びた指先には、鋭い刃物のように凶悪な爪。
 砂埃の絶えないこの場所で、たった今磨いたばかりのような光沢を放つ、それ。
「・・・・・・そっか、イリィだね」
 思い出した。
 アシェルが気を失う前、イリィは歌を歌っていた。
 いつもより真摯に、精一杯。
 歌うことで、どんどん心を研ぎ澄ませていった。
 もしかしたら、何か強い願いを歌に託して。
 おそらく、そんなイリィの”呼びかけ”に反応し、さほど遠くないどこかで所有者を待ち望んでいた”羽根”は、嬉々として力を解放した。
 だが、それはアシェルにとっては完全なる不意打ちで、羽根の波動にさらされて意識をなくした自分は、支配されてしまったのだ。自分の中の、魔物の衝動に。
 ならば自分が取った行動は、ただ一つ。

 アシェルは腕を元の形に戻すと、柱に背を預けて立ったままのカリムを見上げた。
「何してるのさ、そんな所で」
「・・・・・・いや、まあ、そーゆう気分と言うか」
 何とも歯切れの悪い返事だ。
 そんなカリムの肩から首にかけて、ストールのようにゆるく巻かれている絹布には見覚えがある。今の服に着替える前に使っていた、薄絹の帯だ。
 ファッション的には、なかなか似合っている。
 だがカリムは、理由も無くそういうことをするような性格ではない。
「ねえ、こっち向きなよ。そんな風に立ってられたら、話しにくいでしょ」
「・・・・・・ああ」
 だが、一向に動く気配が無い。
「ボクの言うことが聞けないっての?」
「・・・・・・」
「何かやましいことでもあるのかなー?」
 追及の声が、段々怒気を増してゆく。
 そう、アシェルは怒っていたのだ。気を失うよりもっと以前から。ただ大勢の手前、自制していただけで。

 白ーい目で睨み続けてたっぷり一分以上も経過した頃、カリムは渋々の体で、横顔を僅かにアシェルに向けた。
「ほら、とっととこっち来る!」
「・・・・・・」
 黙っているカリムに業を煮やしたアシェルは、すっくと立ち上がると、柱ごしに絹帯に手を伸ばす。
 だが、素早く身を引いたカリムによって、すんでのところでアシェルの手は空を切った。
「と、見せかけて!」
 そのままフワリと宙高く舞ったアシェルは、頭上からカリム目掛けて急降下をかける。
「!」
 どしゃ!
「お前、それ卑怯・・・・・・」
 カリムが避ければ、アシェル自身が地面に激突しかねないような、無謀な突撃を仕掛けるのは。
 ぶつかられたままの勢いで背中から砂地に転がったカリムは、腕の中のアシェルに恨めしそうな目を向ける。
「だーまーれ! 最初から素直に言うこときかないからそーなるの! 前にも言ったけど、ボクの方が強いんだから、逆らったってムダなんだからね!」
 アシェルはカリムの腕の中から強引に抜け出して、胸の上にちょこんと馬乗りになるや、躊躇なく首元の絹帯に手をかけた。
「やっぱり!」
 絹帯が緩んであらわになったカリムの喉には、締めつけられた名残の赤い痣がくっきりと浮かんでいた。
 それに、血に染まった上衣の胸元には、五つの点状の裂け目がある。
 裂け目の間隔は、魔物化した時のアシェルの手の大きさと符合する。
(我ながら的確な攻撃だね・・・・・・)
 傷口に指を這わせて確かめたアシェルは、詰めていた息を吐き出した。
「・・・これだから白っぽい服は困るんだよな。ちょっとしたことでも大げさに見える」
 往生際悪くそっぽを向いたまま、カリムはそんなことを口にする。
「あのねえ、そんなド下手な対応で、ボクが誤魔化されると思ったわけ?」
 まったく、呆れた話だ。いくら取り繕ったところで、アシェルの魔物化した手をどうにも出来ない以上、バレないわけがないというのに。
「・・・誤魔化されてくれればいいな、くらいには」
 それでも怪我を負わせたことまでは、知られずに済むに越したことはない、と言いたいらしい。
 アシェルの手に付いたはずの血を綺麗に拭ったのも、きっと同じ理由でだ。
「ったく。もっとちゃんと避けてくれないと、安心して暴走出来ないんだけどね!」
「ちゃんと避けたろ。こうして無事でいるんだから。ほら、自分で言ってただろ。お前の方が俺より強いんだって」
「うっわ、そー来るかなっ!」
 これでもかというくらい”怒”マークを顔に貼り付けて、アシェルは思いっきりカリムを睨み付けてやる。
「そう怒るなって。こんなのどうって事ない。どうせすぐ消えてなくなるんだし」
 カリムが言う通り。
 出血は既に止まっていて、乾いた血が紅玉のように傷口を覆っている。
 服に染み込んだ血の跡も、パキパキと結晶化し始めていて、端から徐々に昇華して消えていきつつある。
 喉の赤痣もまた、見る間にじわりと小さく薄くなって行く。
 本当にもう少し経てば、そこに傷があったことなど完全に判らなくなってしまうだろう。
 服に引っ掛けたような裂け目を刻んだ以外、何の痕跡も残すことなく。
 この回復能力もまた、”炎の結晶”のもたらす恩恵の一つだ。

「だから何さ!」
 アシェルはカリムの目の前に、掌を上にした右手を突き出した。
「はい! ボクから取ったヤツ、返して!」
 砂の中から見つけて懐に入れたはずの、紋章入りのガラスの小瓶が無くなっている。
 アシェルが気を失っていた間に、カリムが取り返したのに違いない。
 その紋章を見た時、正直、少し驚いた。”矛に三対の翼”は同じでも、その中央に配されているのは”光条を放つ星”だ。”交差する月”がカリムの紋章だとすれば、その小瓶はカリムの物ではないことになる。
 だが、とりあえず今一番重要なのは、その中身だ。
「キミ、薬酒持ってたんだね。なのに・・・・・・」
 思えば昨日、アシェルが薬酒に言及した時も、カリムの態度は明らかにおかしかった。
 全く、何を考えているんだか。
”炎の結晶”と同化した命を持つ者にとって、薬酒は必要不可欠だというのに。



 何もかもまっさらで目覚めた、白い部屋。白い空間。どこまでも白い、閉ざされた世界・・・。
 そこにいた者は皆、同じようなフード付きの装束をまとい、同じ目的の為に、いつ何時でも同じように立ち働き続けていた。
 そして、そこにいた誰もが同じように、恭しくへりくだった態度を、この自分に向けた。
『素晴らしい命です』
 だからあれも、そんな者の中の一人だったはずだ。
『”炎の結晶”と同化できるのは、本当に選ばれた者だけです。数少ない羽根使いの中でも、真に特別な存在なのですよ』
 そう。真っ白なあの場所で、自分は彼らとは違う、特別な存在だった。
『ただの羽根使いなど、所詮は人間と変わりません。羽根に命を注ぎ過ぎれば、それだけで死んでしまう。人間と同じように、怪我でも、飢えでも、病気でも、呆気なく簡単に死んでしまう、哀れで儚い存在でしかありません』
 哀れで可愛そうな、ただの人間。
 羽根使いですらない彼らもまた、ただの人間でしかない者達だ。
『ですが”炎の結晶”と同化した命は違います。人間に取っては致命傷のような怪我を負ったとしても、たちどころに回復出来ます。当然、病を得ることもありません。それにね、年を取ることも、それによって肉体が衰えることもなくなるんですよ。つまり、死を恐れる必要が無い。どうです? 素晴らしいと思いませんか?』
 目深に被ったフードの下、その表情までは窺い知れなかったが、うっとりと夢見るような響きを持つその声は、妙に耳の奥を揺さぶった。
『”炎の結晶”とは・・・そうですね、たとえて言うなら精巧な機械のようなものです。数々の優れた性能があっても、機械は燃料が無ければ機能しません。”炎の結晶”が機能するのに必要なのは”炎の雫”。薬酒という名で供される、あの飲み物のことですよ』
 あの声の内に潜むのは、羨望だったのか、それとも自尊心であったのか。
『薬酒を常に飲み続ける事によって、結晶は多大なエネルギーを蓄積出来ます。エネルギーを蓄積すればするほど、長時間フルパワーで羽根の力を発揮することが可能となりますし、肉体に回復力を供給することを始め様々な恩恵を得ることが出来るというわけです』
 そのような屈指の技術を有するが故の。
『羽根、炎の結晶、炎の雫。この三者は互いに共存し、拮抗し、はじめてその機能を存分に発揮出来る。それでこそ、命は完璧となるのです』
 完璧でないはずの人間の手によって、完璧なる者を生み出し制御する事に対する自信、自尊心。
 彼らは自らを、”白亜の塔”の”番人”と称していた。



「ねえ、どうして薬酒を捨てちゃったりするのさ! それって絶食するのと同じなんだよ? って、キミが一番良く知ってるハズだよね!」
「・・・・・・捨てたんじゃなくて、隠しておいただけなんだが」
 激怒するアシェルに対し、カリムはあくまで暢気に応じる。
「いざって時に使えないんじゃ、捨てたのと一緒でしょ! しかもボクに内緒で!」
「いや、それは、つい・・・・・・余計な事ばっかやる馬鹿に腹が立ってだな・・・」
 やはり、あの”光条を放つ星”の紋章の持ち主は、カリム言うところの”あの馬鹿”で間違いなさそうだ。
「誰のかなんて、どーでもいいでしょ! てか、そもそもカレは何でキミに薬酒をくれたワケ? キミが持ってないって知ってたからじゃないの?」
 アシェルは不信感満載の目で、カリムを見下ろす。
「それは、単に、お前と再会したあの時、俺たちは任務帰りだったから、それでじゃないか」
「じゃあ、キミの分はとっくに使い済みで、それを知ってたカレが気を利かせてくれたってコト?」
「まあ、そんなトコ」
「本当に? それだけ?」
 だが、あの混乱の中、カレのその行為はあまりにも気が利きすぎてはいないだろうか?
 任務時に携行することが常の薬酒の瓶は、もしも多大なダメージを受けてしまった時や、数日に渡って連絡が取れないような状況に陥った場合に備えての命綱だ。
 それを人に譲ることが、どういう意味を持つのか。
 ついに任務に出ることの無かったアシェルだが、それくらいのことは想像出来る。
「・・・・・・それじゃあ、そういうコトにしといてあげてもいいケドさ。変な意地張って捨てちゃって、その後どうするつもりだったのさ?」
「どうって、・・・・・・」
「ハッキリ言うけどね、キミの結晶、もう大概エネルギー切れ起こしてるでしょ」
 アシェルの目には、カリムの不調は明白だ。その理由もまた、明白だ。
 必要なものが不足すればどうなるか。当然、結晶は機能しなくなる。そうなれば”力”を発揮出来ないどころの問題ではない。
「言うまでもないけど、動けなくなってから飲もうったって手遅れなんだからね。怪我してから鎧着ても遅いのと一緒で! だからほら、早く出す!」
「だから大げさだって。常に自分の状態を把握するのは基本中の基本、だろ? 俺だったらそんなすぐにどうにかなったりしないし、怪我だってちゃんと治ったろ? このままでもまだ十分戦える」
「だーかーら! キミの大丈夫ほど信用出来ないものはないってゆーの!」
「ヒドい言われ様だな」
 アシェルは大きなため息をつくと、胡坐座になって腕組みをする。
「何がそんなに気に入らないワケ?」
「不味いから」
「殴るよ?」
「じゃあ聞くが、好き嫌いに理由なんて要るか?」
 好き嫌いと聞いて、アシェルは思わず視線を泳がせる。
「・・・・・・ええと・・・ニンジンとか、カブの酢漬けとか?」
「そうそう。内臓肉のパイとか。見かけだけは美味そうなのに、アレはねーよなアレは」
「それを言うなら塩漬け魚の包み揚げだよ。香ばしい匂いでユーワクしときながら、あの強烈なしょっぱさは裏切りだよ!」
「聖夜祭のプディングなんかもそーだよな」
「えー、あれは美味しいでしょー?」」
「ああ? 嘘だろ? あんな香料キツくてだだ甘いののどこがいいんだよ?」
「あれはあれでクセになる味なんだけどなーって、そーじゃないでしょ! 嫌いな食べ物は食べなきゃそれでいいけど、薬酒の代わりなんて無いんだから、意味が全然違うでしょ!」
「そーかあ? 似たようなものだと思うがな」
「似てません! ・・・・・・ねえ、ハッキリ言えば? 副作用が嫌なんでしょ」
「・・・・・・」



 慇懃に手を取って導きながら、その人物は語り続ける。
『・・・・・・一つだけ、注意しなければならない事があります。ただの人間にとって、薬酒は強すぎる麻薬のよう なものです。もしも怪我や病気に苦しんでいる人間をどれほど哀れに思っても、決して薬酒を分け与えてはいけません。与えたら最後、その人間は回復の代償に心を食われ、生きて動くだけの屍のようになってしまいますからね』
『・・・・・・!』
『おや、怖がらせてしまいましたか? 大丈夫、あなたが心配する必要はありませんよ。結晶を持つ者には、そんな危険は全くありませんからね。むしろ怒りや恐怖や不安といった余計な感情を洗い流してくれる、とても便利なものですよ』
『・・・・・・それは、何も感じなくなるってこと? それとも記憶がなくなるってこと?』
『大丈夫、感情も記憶も、無くなったりはしませんよ。ただ、過去に感じた事が、少し曖昧になる。たったそれだけのことです』
『・・・・・・それだけの、こと?』
『そうですね。例えばあなたが、何かとても怖い目に遭ったとします。怖い事は、早く忘れてしまいたい。これが人間であれば、忘れたい事ほどなかなか忘れられずに苦しむものです。薬酒はね、それを消し去ってくれるんですよ。どんなに怖い事も辛い事も、少しずつ曖昧になっていって、やがて解放されるのです。忘れたなんて自覚もないくらいに、ごく自然にね』
『・・・・・・それじゃあボクは、もう既に何かを忘れてて、忘れた事さえ忘れてて、思い出せないだけなのかな?』
『それは、誰にもわかりません。忘れるとは、そういう事ですからね。だからと言って、それで何か困ったことがありますか? 無いでしょう?』
『・・・・・・それは、本当にいいことなの?』
『もちろんですとも! 戦闘経験は蓄積しつつも、トラウマのような精神的ダメージに悩まされる事なく、常にベストの状態で、強大な力を発揮して戦える。あなたのような”戦う者”にとって、こんな理想的なものはない。そう、思いませんか?』
『・・・・・・でも、それは、あの土人形とどう違うの?』
 訓練の相手としてあてがわれる土人形。
 命令されたことのみを忠実に実行する以外、自らの意思は持たず、核を破壊しない限り何度でも立ち上がる、あのゴーレムと。
『もちろん、全然違います。ほら、彼らをご覧なさい。ゴーレムはそんな穏やかな表情をする事など出来はしません。あなたにもすぐに解りますよ』
『・・・・・・』
『おや、気に入りませんか? それでは一つ、いい事を教えてあげましょう。それはね・・・・・・』



 アシェルには思い出がある。
 アシェルになる以前のことも、アシェルになってからのことも。
 薬酒に頼らない方法を選んだアシェルには。
 だが、カリムは思い出を持たない。
 塔に帰属し戦い続けることを選んだ時に、それは決した。
 カリムになる以前のことはもちろん、それ以後のことですら。
 どんな出来事があったか、どんな経験をしたかは覚えていても、その経験をした瞬間に何を思ったかは、さほど時間を置かずに消えて行ってしまうから。

 だが、人間とは、体験したことをその瞬間の感情と共に記憶するものではないだろうか。
 時と共に具体的な記憶は薄れても、楽しかった、あるいは怖かったという感情は、後生覚えているものではないだろうか。
 伝え聞いたり調べたりして得た情報以上に自身の体験が意味を持つのは、それを体験した時の感情の起伏が同時に記憶されるから。だとすれば、感情を伴わない記憶は、単なる記録でしかない。
 ただの記録は、知識の海の中に埋没し、情報の渦にのまれてしまう。簡単に、容赦なく。



「ねえ、薬酒を要らないって言うのなら、知ってるよね、他にも方法があるってこと! 結晶の色を変えてしまえばいいんだよ! ボクみたいに・・・・・・!」
 さらに言葉を続けようとした瞬間。
 一瞬で視界の中のカリムが消えて、代わりに高い天井を見上げる格好になり、アシェルはパチクリと目を瞬かせた。
 いきなりカリムが上体を起こしたせいで、その上に乗っかっていたアシェルは、カリムの膝の上にコロンと背中からひっくり返ったというわけだ。
「何すんのさっ!」
 事態を理解し憤慨するアシェルに、カリムは悪戯っぽく笑ってみせる。
「お前があんまり深刻な顔してるんで、つい」
「ついじゃないっ! ったく、ヒトがマジ心配してるってのに、キミってば、もう!」
「それなんだがな。見てくれはこんなでも、俺はガキでも悲劇のヒロインでもないんだぞ。薬酒の特性は知ってるし、納得もしている。今更グダグダ言う気は無いよ」
「・・・・・・じゃあ?」
「俺はね、今、すごく幸せなんだと思うぞ」
「・・・・・・はい!?」
 思いがけない告白で、アシェルは不覚にも言葉に詰まる。
「塔から離れて無茶苦茶せいせいしたし、これから何やったって自由だし、何よりお前がいるもんな」
「ちょっっっ! もう、真顔で何言ってんのさ!」
「だから、忘れてしまいたくないな」
「!・・・・・・だったら」
「俺の不器用さは良ーく知ってるだろ?」
「・・・・・・」
 今でこそ上手くコントロール出来るようになったものの、訓練時代のカリムは、それこそ毎日のように力を暴発させていた。
「考えてもみろよ。今から力の質を変えたりしたら、慣れるのにどれだけかかるか知れたものじゃない。この期に及んで役立たずになんてなりたかねーよ。ハッキリ言って」
「・・・・・・」
「だから、こうしないか? もう絶対捨てたりしない。必要だと判断した時はちゃんと使う。それまでは、俺のスキにさせとく。な?」
「・・・・・・ホントに? ちゃんと使う? 約束出来る?」
「ああ」
(・・・・・・だったらどうして、そんな風に笑うのさ? 嘘つき・・・・・・キミはいつも、いつだって・・・・・・)

 アシェルはふいとカリムの膝から砂地に降りると、背を向けたまま、ビッとホールの奥を指差す。
「・・・・・・あーもう! やってらんない! お酒ちょーだいお酒! ボク今すっごく飲みたい気分!」
 そっちがぶどう酒の隠し場所。
「許してあげる」とは絶対に言いたくなかったから、その代わりに。
「ありがとう」
「だから、許すなんて言ってないからっ!」
「ああ」
 背後で立ち上がったカリムが、指差した方向に離れていく気配がした。

-12-
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