小説『赤い渚に浮かぶ月』
作者:UMA.m(UMA.mのブログ)

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 第16話 投影 



「イリィちゃん、もしかして君・・・・・・これが視えてる?」
 フェグダがイリィに目を向ける。雑談を交わしてした時とは全く違う、青白い火花のような空気を全身にまとって。
(捕まる!)
 イリィは反射的に身を竦め、ぎゅっと硬く目を瞑る。
 そのせいで、直後に何が起こったかなど、見ている余裕は全くなかった。
 ただ、ちりちりとまとわりつくような空気がズバッとなぎ払われて、同時に誰かがイリィの腕を力強く引っ張った。
「イリィ、こっちこっち!」
「・・・・・・え? アシェル!?」
 はっとして顔を上げれば、小さな両手をイリィの左腕に回したアシェルが、励ますようにニッコリと笑っている。
「さ、今のうちに行こ! カリムがアイツの気を引いてる隙に!」
「でも・・・・・・」
 アシェルが引っ張るのと反対の方を振り向けば、ぺしゃんと地面に腹這いにされたフェグダと、それを容赦なく押さえつけているカリムの姿が目に入った。
 ブーツの踵で踏まれたフェグダが、世にも哀れなうめき声を上げる。
 一瞬、カリムの蒼い瞳がイリィを見た、ような気がした。
「大丈夫、アレはカリムに任せておけば!」
 アシェルは自分の事のように得意げに胸を張る。
「だから邪魔しないように、ね!」
 アシェルの大きな緑の瞳にウインクされ、イリィは腕を引かれるまま、足早にその場を後にした。

 遠ざかっていくアシェルとイリィの気配に注意を払いつつ、カリムは改めて踏みつけにしている羽根使いの青年に目を向ける。
(・・・・・・本当に変なヤツだな)
 彼の存在に気付いてからもう何度目かになる感想を、カリムは再度、心の中でつぶやいた。



 それよりも少し前のこと。
 村に近付く羽根使いの気配は、実にあっさりとカリムの警戒網に引っかかった。と言うか、警戒していなくてもモロバレなほどに目立っていた。
『一人、だよな』
『うん。一人だね』
『のんきだよな』
『うん。完全に無警戒っぽいね』
 困惑気味にカリムは念を押し、視たままの事実をアシェルは返す。
 カリムがまず不審に思ったのは、その羽根使いの、およそ羽根使いらしくない行動にだった。
 そもそも天軍の羽根使いは、必ず複数、最低でも二人以上での行動が義務付けられている。
 それは羽根の特性に関係することなので、同じ天軍の天使と呼ばれていても、羽根を持たない退魔能力者であれば全く問題にならない。
 だが、こと羽根使いに関しては、この規定は所属する隊や任務に関係なく適応されるし、見習いだベテランだといった区別もない。
 もしも何らかの事情で一時的に単独行動を余儀なくされたとしても、可能な限り仲間との合流が優先されるのが普通だ。
 なのにどれほど眼を凝らしても、彼の周囲には他に連れらしき者は見つけられなかった。
 それだけでも十分不可解だと言うのに、この羽根使いときたら、物見遊山並みのノンキさで歩いて来たかと思えば、ナンパかというような軽いノリで出会った女の子(つまりイリィだが)に話しかけていたりする。
 そいつの任務がどういうものかは不明だが、少なくとも脱走者の追討を命じられた天使狩りではなさそうだ。
『ホント、何なんだろうね、アレ。てか今更なんだけどさ、イリィに付けたあの目印に、話が聞こえるような魔法の一つも組み込んでおけば良かったんじゃない?』
『冗談だろ、鬱陶しい。それに聞こえたところで、初対面の相手に重要事項をペラペラ話す馬鹿はいないだろ』
『馬鹿だったら?』
 全く容赦のないアシェルの反論に、カリムは暫し絶句する。
『・・・・・・それは、考えてなかったな』
 相手が聞けば大憤慨しそうな台詞だが、実際、真面目にその可能性を考慮に入れたくなるほど、変に見えるのだから仕方がない。
『まあ、最初から安易な答えに飛びつくのもな』
『だね。でもまあ、追っ手じゃないならちょっと気が楽かな』
『さあ。それは微妙だな』
『何で?』
『天使狩りの連中はスコアを気にする。やり過ごすのは厄介だが、上手くやり過ごしさえすれば、あいつらは時間を無駄にしないでさっさと次の候補を当たりに行く。逆にああいう奴ほど、何をするか判らない分、却って厄介かも知れない』
『もしかして、アレが天軍の天使じゃないってことは・・・・・・有り得ないっかぁ』
 こうもはっきり判るほど羽根の気配をまとった者が、新人スカウトの目に留まらないでいられるとは考えにくい。
『少なくとも、目印は本物だ』
『ああ、身分証ね。相変わらずいい眼してるなー』
 天軍の発行する身分証にはいくつかの法印が組み込まれているので、その気になれば少々離れていても判別は出来る。
『肝心なのはどう視えるかよりもむしろ、どう見るかなんだが』
 本物を持っている者が、必ずしも本物とは限らない。
 眼くらましを仕掛けてくる魔物を相手にしていれば、自分の感覚を信用するのと同じくらい、疑ってかかる癖がつく。
 結局のところ真偽というものは、最後は自分自身で判断する他はない。
『ねえねえねえ、だったら囮って可能性は? 変な奴だなーってボクらが油断して出てったところを、遠巻きに隠れてる追討軍が一気に突撃! とかさ?』
 真剣とも冗談とも取れる発言のアシェルに、
『俺だったら上級の誰かを待機させておく。その方が早いし確実だ』
 ごく当然のことのようにカリムが応じる。
 情報が徹底的に不足している以上、考えうる最悪の事態は、いつだって起こりうる。
 ただし、そのような作戦を実行するには、天軍の側に、二人が高確率でこの村に潜んでいるという情報が必要だ。
 カリムとアシェルがこの遺跡に着いて一日足らずだが、天軍にはプラス二日の時間があったのだから、その間に状況が動いていてもおかしくはない。
 一番手っ取り早いのは、転移門を開いた張本人である”あの馬鹿”に、転移先を白状させることだろう。
”あの馬鹿”にシラを切りとおす義理などないのだし、むしろ返答を拒否すれば反逆罪決定なのだから、さっさと白状して天軍への恭順を表明するべきだ。自分ならそう判断するし、何よりこれ以上の助力を期待するつもりはない。
 が、よりによって、相手は”あの馬鹿”だ。
『アレにせめて自分の立場を考えて立ち回るくらいの利口さがあれば、俺も苦労しなかったよな・・・・・・』
”あの馬鹿”が上級天使の末席に着いて数ヶ月。任務でしか顔を合わせない奴のことを、カリムがよく知ろうはずもない。なのに残念ながら、自分の保身に走る”あの馬鹿”ほど想像出来ないものはない。
 それよりは、不眠不休で転移門の軌跡を解析したとか、こんなこともあろうかとカリムも気付かないような技術で持ち物に細工されていたとか言われる方が、まだ可能性が高い気がする。
『それか、下手な鉄砲方式に全国各地に囮をウロウロさせるって手もあるな。たまたま、ああゆう変なのが当たったってだけで』
 むしろその方が、説明としては合理的だろう。
『にしてもこれって、お酒片手にノンビリ交わす会話じゃないよねえ・・・・・・って、どうしたのさ? キミ、苦虫かみ潰しながら笑ってない?』
『・・・・・・何でもない!』
 タンッといい音を響かせて空にした杯を傍に置くと、カリムは背の中ほどでゆるく縛っていた髪を解いて、何かを振り払うように大きく頭を一振りし、今度はキリリと頭上で一つに結わえ直す。
『まさかこっちから出てって、あの囮かも知れない変なのの相手をするつもり?』
 少し驚いて、アシェルは大きな瞳をさらに丸くする。
『このまま放っておくわけにもいかないからな』
『・・・・・・一応言ってみるけど、まずは隠れてやり過ごす方がいいんじゃない?』
『確かにそうだ』
 あっさりとカリムは同意する。
 相手が何者だろうと自分達には全く関係ないのだから、無視するのが妥当だろう。もしも邪魔になるようなら、その時にどうにかすればいい。
 だが、そうするには少し遅かった。今の状況でカリムが無視を決め込んでしまえば、イリィを矢面に立たせることになりかねない。
 たとえ相手にその気がなかろうと、羽根を所持しているというだけで、不安定なイリィを大きく揺さぶってしまう危険を孕んでいる。いや、もしそいつとイリィが顔を合わせていなかったとしても、この村に足を踏み入れた段階で、既に均衡が危うくなりかけている。
 これから自分が起こす行動は、自ら天軍を呼び込む結果を招くかも知れないが、そのリスクは”イリィを助ける”と約束した時点で既に覚悟していたことだ。
『だが、考えてみれば、俺には逃げ隠れするスキルが無い』
 心配げに見上げるアシェルに、カリムは悪戯っぽく笑って見せた。蒼い瞳に、不敵な光を宿しながら。
 自分の感覚が切り替わっていくのが分かる。神経が研ぎ澄まされ、ふつふつと湧き上がる高揚感が、身体から重さという重さを速やかに駆逐していく。
 戦いに臨む時、決まって感じるその感覚は、いつも苦いものとともに在った。
 カリムにとって、戦いは存在理由であると同時に義務だった。自分の決めたことでありながら、自分の意思など全く必要のない行為だった。
 だが今は、その高揚感に、全てを委ねられる気がする。
『・・・・・・まあ、コソコソするキミってのも想像つかないんだけどさ、大丈夫なの? 羽根使い相手に羽根なしで』
『手加減要らなくて楽だよな』
 羽根は根本的に羽根使いの身を最優先で守ろうとするから、本気で蹴り飛ばそうが投げ飛ばそうが、やり過ぎて倒してしまう心配は要らない。
『考えてみれば、塔の連中は気に食わないが、だからって手足なだけの天使に恨みがあるワケじゃないしな』
『理屈ではそうでもさ・・・・・・相手にソレ言って通用するとは思えないんだけど。ちなみに論戦になった場合のスキルの方は大丈夫なワケ?』
『これから磨くさ。もっとも、恨み買いまくってる自信だったら、あり過ぎるくらいあるけどな』
『だからそれ、面白がって言うセリフじゃないから』
 どこまでが強がりで、どこまで本気で楽しんでいるのか、判断に困るアシェルである。
『だったら、フル装備しろとまでは言わないけどさ、靴くらいは履きなよね』
『・・・・・・』
 アシェルの指摘に意表をつかれて、カリムは目を丸くする。
『何なら印のところ、塗りつぶしとく?』
 自分がどんな顔をしたのか考えて苦笑すると、カリムはアシェルに手を伸ばし、その綺麗な紅い髪をくしゃりと撫でた。



 遺跡に急ぐイリィを不審に思ったらしい羽根使いの青年は、周囲に潜む者に対して挑発的な波動を放った。
 退魔や魔道に関わる者であれば、反射的に術で対応してしまうだろう波動。それを察知してしまったイリィは、恐れを抱いて立ち竦み、そんなイリィの反応に気付いた青年に、僅かな隙が生じる。
 その瞬間に、カリムは青年を強襲した。
 彼とて体術による反撃を全く予測していなかったわけではないだろうが、不意をついたカリムの速攻に対処できる者が居るとすれば、それは相当の手足れだけだろう。

「・・・・・・災厄・・・・・・双月の天使!?」
 苦労して首を捻ってカリムを見上げながら、羽根使いの青年は呟いた。
 痛みに歪んでいた顔が、その一瞬だけは完全に驚き色の一色に染まる。
 それにしても、”双月”とは、久々に耳にした。
 他人がどう呼ぼうと興味がなかったので気にも留めずに放っておいたら、いつの間にやら”災厄”や”凶兆”などで通るようになってしまい、面と向かって呼びかけられることさえ珍しくなくなった。
”双月”の方は、今ではせいぜい、堅苦しい儀式の時くらいにしか聞くことはない。
 その呼び名がそいつにとって意味があるのかどうかは知らないが、やはりこの羽根使いは塔のある聖都から距離を置いていることは確かなようだ。
 更に言えば、独特の刺繍入りのマントや頭に巻いた細い飾り紐など、これ見よがしに中央平原の出自であることを誇示するような出で立ちも、天使としては珍しい。
 実のところ、天使の服装や装備は、儀礼用の礼装以外では、特に統一された規定があるわけではない。が、それらしいイメージに沿った服装を選んだ方が、天軍の威光を利用しやすく何をするにも話が早いと言うメリットがある。
 この”見てすぐに解ってもらえる”というメリットは意外に重要なことで、それだけで雑事の七割方は回避出来るとなれば、あやからない手はないと考えるのが普通である。
 それはつまり、彼には”天使であること”を吹聴する気がないということになる。
 地方での単独行動、しかも天軍の天使であることを極力伏せているとなると、どんな任務が考えられるだろう?
 軍団の基本配置は把握していたつもりだが、これは少々、認識を改めた方がいいかも知れない。
(何にせよ、俺に用がないってこともなさそうだな)
 カリムは探るように、羽根使いの青年を見下ろす。青年の茶緑色の瞳が、挑むように睨み返していた。

 苦労して頭をもたげて、やっとのことで視界の隅に入ったのは、冷たい光を宿した蒼い瞳を持つ、端正な顔立ち。フェグダの記憶のそれと、寸分違わぬ同じ顔だ。
 五年前、遠くで一瞬すれ違った、あの少年と・・・・・・。
(ちょい待てよ! 同じ、過ぎる!?)
 当時のフェグダには、そいつが同い年くらいに見えた。なのに今、目の前にあるその顔は、完全に年下の少年のもので、五年前の記憶のそれと全く変わっていないのだ。
(上級天使は不老不死・・・・・・)
 噂に聞いた言葉が、頭の中に蘇る。
 いや、全く同じではない。あの時の少年の髪は、これほど長くも、こんなふよふよした色でもなかった。い や、髪を伸ばすのは何も不自然なことではないが、黒鳥のような漆黒だった記憶だけは譲れない。
 あまりにも同じ過ぎるところ、あまりにも違いすぎるところ。
(こいつは、本当に災厄の天使なのか? もしかしたらソックリさんの兄弟だとか・・・・・・!?)
 どう判断するべきか、正直、フェグダは決めかねた。
『上級天使様の見分け方? そんなの見れば判るわよ。なんてったって、オーラが全然違うもの!』とは、クミルが言ったのだったか。
 ただ一つ確かなのは、記憶と変わらぬ冴え冴えとした双眸が、今は自分に向けられていること。

「痛ってええぇぇぇ!」
 ガツンと靴の踵で小突かれた拍子に、忘れていた痛みが蘇ってきて、フェグダは再び地面に突っ伏した。
 いや、痛いなんてもんじゃない。ねじ切られそうな右腕も、容赦なく踏みつけにされている背中も、一瞬でも忘れていたことが自分でも信じられないほどの激痛を訴え続けている。
 しかも、相手は自分よりずっとヤワな体型で、それほど力を入れているようには見えないのに、何故だか全く振りほどくことも跳ね除けることも出来ない。
 羽根使いを見かけで判断してはいけないのは承知しているが、それ以前に格闘で負けるのは、酷く屈辱的な気分だ。などとノンキなことを言っている場合ではない。
 これはかなり、本気でヤバい状況だ。
「すいません、降参です! 俺が悪うございました! お願いします放して・・・げほ・・・!」
 ならばとフェグダは、ダメ元で訴えてみる。
 まさかあっさり応じてくれるはずはないだろうが、相手が油断したスキに、何とかして反撃を・・・・・・。と考えたところでいきなり、腕を捻り上げていた力が消失し、同時に背中を押さえつけていた足がどけられて、フェグダは唐突に自由になった。
「・・・・・・あ!?」
 腹這いの亀のまま呆然とするフェグダを他所に、そいつはクルリと背を向けて、スタスタと歩き去ろうとする。
「お、おい、ちょっと待てよ・・・!」
 咳き込みそうになる喉をかばいながら、フェグダは慌てて身体を起こす。
 言うだけ言ってはみたものの、まさかこんなにあっさり解放されるとは予想外。いや、むしろ心外だ。
 これでは解放されたというより打ち捨てられたみたいではないか。
 しかも何事もなかったかのように無防備に背を向けられるのは、いくら何でも人をなめ過ぎではないか。
「おいって!」
 つい、捻られていた右腕の方を伸ばしてしまい、フェグダは痛テテと顔をしかめる。
 と、立ち去ろうとしていたヤツの足が止まり、ほんの僅かだけ首を巡らせ、冷ややかな視線が向けられる。
 たったそれだけのことで、ぞくりと背筋に冷たいものが走る。
「あー、そのだなー・・・・・・」
 言いよどんだ途端、そいつはとっとと視線を戻して歩き出す。
「おわっ! だからその、待てってば! 待って下さい! お願いします!!」
 遺跡の壁のすぐ傍で足を止めたそいつは、いかにもかったるそうにため息をつくと、
「旅人風情に興味はない。用があるなら勝手に喋れ」
 今度は視線を向けもせずに言い放つ。
(ムカつくヤローだ)
 フェグダは、ぎゅっと音が聞こえるのではないかと思うほど、両手の拳を強く握り締める。
 だが、ここで引いてはただのムカつき損だ。
「じゃ、じゃあ・・・俺のことを何であっさり解放した? そのまま腕を折るなり縛り上げるなり、いくらでも出来たはずだろ!」
 我ながら子供じみた下らないことを聞いてしまった、という気はする。
 話のとっかかりにしても、もう少しマシなセリフが・・・・・・思いつかなかったのだから仕方がない。が、
「・・・・・・お前、そういう趣味なのか?」
「違う! 断じて違う!!!」
 聞かれた意味に気付いたフェグダは、即座に、顔を真っ赤にして否定する。
「そーじゃなくて、俺がそんなに取るに足らない存在に見えるのかって聞いてンだよっ!」
 見え透いた挑発だ。
 激昂しそうになるのをギリギリでこらえて、何とかそれだけ、口にする。
「言った通りだ」
 興味ない、と。
 フェグダが何を言おうと、何をしようと、何を思おうと。
 挑発する気も、気にかける価値さえも。
 その瞬間、頭の中で、何かがブチ切れた音がした。
「・・・・・・お前は、双月の天使なのか!?」
 なけなしのへりくだりもかなぐり捨てて、射抜くような力を視線に込めて、単刀直入に、一番の疑問を相手にぶつける。
 背を向けたまま振り向こうとさえしない、そいつの表情は判らない。だが、どうせ無表情に決まっている。
 こうして見ても、細い背中だ。両手で締め上げれば、簡単にへし折れるのではないかと思うほど。そのくせ居丈高で、尊大で、傲慢極まりない貴族のように自分の優位を微塵も疑いもせず、他者を見下すことが当たり前。
 そいつのまとう雰囲気は、噂と重なる。
 強大な力をその身に有しながら、味方を顧みることは一切ない。味方に犠牲を強いることすら厭わない。魔物のみならず、居合わせた者全てにとっての災厄そのもの。
 宣伝向きに華やかに彩られた歌劇の主人公としてではない、天軍内で囁かれる数々の噂の主・・・・・・。
 こいつが件の天使であるという確証はない。
 だが、違うと断定する方が難しい。
 握り締めた手に、じっとりとした汗が滲む。
 と、不意にそいつが動いた。
「あ、おい!」
 問いかけを無視して歩み去るつもりなのかと思いきや、そいつは腹立たしくも優雅な挙動で半壊した遺跡の壁に腰を下ろすと、そこからフェグダを睥睨する。
 蒼い瞳が、面白がるように細められる。興味などないと言い放ってはばからなかった者が、初めて見せた、感情の色。
「それを聞いてどうする?」
「あ・・・・・・?」
「仮にその天使を目の前にしたとして、お前に何の関係がある?」
「・・・・・・噂を聞いた。双月の天使が白亜の塔から姿を消して、天使狩りに動員がかかったと。それはつまり、 上級天使でありながら、塔から脱走したってことじゃねーか。これが黙っていられることか!?」
そうだ。幼馴染みにして本部通信班のクミルからその話を聞いた時、自分の内に湧き上がったもの。いても立ってもいられないほどの、それは怒りではなかったか。
「関係だって? そんなもん、どうだっていい! 上級天使が脱走なんて前代未聞だ! それはこの上ない裏切り行為じゃないか? 天軍、いや、天使を崇める世界中の全てに対しての裏切りじゃないか! 何がどうすりゃそんなことが許される? 申し開き出来るもんならやってみやがれ! てな・・・・・・」
 高ぶりかけた感情を、フェグダは何とか自制する。
(それを聞いてどうするんだよ・・・・・・?)
 フェグダの中の冷静な部分が、そう、問いかけている。
「世界に対してだと? それは大きく出たものだ」
 そいつの口ぶりは、いかにも面白い冗談を聞いたと言いたげだった。
「お前は本気で世界なんてものを気にするのか? それともお前こそが世界だとでも言うつもりか?」
「言ってねーよ、そんなこた! けどな、上級天使の使命ってのをどう考えてるのか、それくらいは聞いたっていいんじゃねーか? いくら上級と祭り上げられてるからって、大勢の下級天使の支えなしにどれほどのことが出来るってんだ。そのくせ・・・何で・・・!」
(言ってどうなるものでもない。こいつは俺に、名乗りすら求めはしなかった。俺にどんな理由があろうと、こいつに取ってはまるで関心のない、下らないことでしかないってのに!)
 苦いものが、フェグダの中にこみ上げる。そいつに対する失望感であり、何を訴えようと届かない無力感が。
「俺には、お前自身が裏切られたと泣き喚いているようにしか聞こえないがな」
「・・・・・・!」
 今度こそ本当に、そいつはくっくと笑い声を上げた。
「無意味だな」
「何、だと?」
「上辺をあげつらってみたところで、それはお前の言いたいこととは違うのだろう? 自らの言葉で語らぬ者とは、どれほどの時と言葉を重ねても、得られるものなど何もない」
「!」
「そんなことを言うためにわざわざ足を運んだのなら、何ともご苦労なことだ」
 見透かされた、と思った。
 こんな奴に!
「何も違わねーよ! お前こそ、どうしてそんな簡単に何もかも放り出せるんだよ! 名誉も地位も力も、人がうらやむ物は全て与えられておきながら、それの何が不満だってんだよ!」
 こんな、誰よりも恵まれた奴に。どんなに望んでも手に入らないものを当たり前のように持っていながら、それを感謝することもなく、何とも思っていない奴に!
 身体の奥底から湧き上がる、どす黒い怒り。だが。
(違う。そうじゃない・・・・・・)
 フェグダの中の僅かに冷静な部分が指摘する。
 こんな怒りは見当違いだ。
 たとえこいつが本当に災厄の天使本人だろうと、どんなに鼻持ちならない奴だろうと、どんなに気に食わない奴だろうと、自分が本当に怒りをぶつけるべき相手は、こいつではない。これは単なる八つ当たりなのだ、と。

(ある意味、判りやすい奴だよな・・・・・・)
 一生懸命感情を制御しようと努める青年を前にして、カリムは至極冷静に考えていた。
 当然のことながら、カリムに青年の抱える事情など、知る由もない。
 だが、喋りたい奴を喋らせること自体は、さほど難しくはない。
 前置きや駆け引きの手間を省きたいのなら、相手を怒らせることは有効な手段の一つだ。
 盲目的に天使を崇拝するような部外者と違い、天軍の大半は、災厄の天使に対して好意的な感情など持ってはいないだろう。
 それを面と向かって言いに来るほど度胸のある奴は相当珍しいが、それに関しては別段思うこともない。
 問題は、カリムに取って有益な情報をこの青年が持っているかどうかであり、出来るだけ手の内を明かすことなく情報を引き出せるかどうかである。
(噂を聞いた、と言ったな)
 災厄の天使逃亡の報を、追討命令という形ではなく、噂で知ったのだと。
(それに、わざわざ来たと指摘した時も、こいつは否定しなかった)
 つまり、命令を受けて来たのではなく、彼自身の意思でここまで辿り着いたということになる。
 天使狩りの連中が動いているのは解るとしても、躍起になって探しているだろうそいつらより早く、青年がここに辿り付くことが出来たのは、単なる偶然の悪戯か。それとも誰かの周到な作為なのか。
(とりあえず、あの娘から注意を逸らすって初期目標は達成したし、少しだが状況も見えて来たし、後はこいつに暫く行動不能になってもらうだけ、か)
 無関心どころか、そんな物騒な思案をされているとは、青年が知ればどうなることか。
 だが、カリムがあえて思案せずとも、その手段はちょうど向こうからやって来るところだった。
(さて、お手並み拝見といくか)
 内心の思惑など微塵も垣間見せることなく、カリムはただ静かに青年を見下ろしている。

 不意に冷水をぶちまけられたような悪寒を感じて、フェグダは肩を大きく震わせた。
 頭に上っていた血が、一気に引き戻された気分だ。
 ざわざわと草木が騒がしい音を立て始める。
 それなのに、草木を鳴らすはずの風は澱んで、ぬるく湿っぽくまとわりつく。
「やれやれ。またも招かざる客のお出ましだ」
「おい、俺のことかよそれは!?」
 反射的に噛み付いたフェグダだが、そんな場合でないことは判っている。
 肌の粟立ちを押さえようと深呼吸してみるものの、一向に効果はない。
(イヤな空気だ・・・・・・)
 ひたひたと押し寄せる濃い瘴気に、フェグダの両手は無意識に腰の短刀の柄を探る。
 フェグダの背後で、黒い影がゆらゆらと形を取り始めていた。

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