小説『赤い渚に浮かぶ月』
作者:UMA.m(UMA.mのブログ)

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 第20話 それでも・・・ 



 一体どんな理由があるのか。
 それとも理由など、最初からありはしないのか。
 ただ、わかっているのは。
 そう。目覚めた時には、それは既に心の内に存在していた。
 ごく微かな囁き声は、この上なく冷たく、静かに、腕を広げて優しく誘う。
 昏く深い、果ての向こうへ。
 乾きに苦しむ者が水音のする方へ手を伸ばさずにはいられないように、優しく差し伸べられる冥き指先へと、手を伸ばさずにはいられない。

 だが、それ以上、手を伸ばしてはならない。
 決して、その手を求めてはならない。
 何故なら、その手を取るべき時に、その手を拒んだのは俺自身。
 大切なたった一人とともに眠ることより、幻の面影を追って生き永らえることを選んだのは。
 だから、それ以外は何一つ、望んだりしないと誓った。
 それ以外の何かのために、決して命を使ったりしないと誓った。
 いつか。
 この世界のどこかに、幻の人を見出すその時まで。
 さもなくば、抗うこともかなわぬほど圧倒的な敵の前に、ただ一つの願いごと粉砕され消滅するその瞬間まで。

 いや、どれほど絶望的な力の差を見せ付けられたとしても、絶対に負けたりしない。決して諦めたりしない。どれほど醜く足掻こうとも、きっと必ず生き残ってやる。
 俺が負けるということは、俺が犠牲にしたものには、簡単に諦めてしまえるような、たったそれだけの価値しかなかったのだと、俺自身が認めてしまうことなのだから。



 ズガアァァ・・・ン!
 豪雷のような衝撃が、閉ざされた空間全体を揺るがした。
 幻の水影が激しくうねり、守護者の形作る少年の姿が千々に乱れてかき消える。
 だが、その衝撃に見合うだけの破壊の波は、いくら待っても一向に押し寄せることなく。
 空間を席巻した力の残滓が生じさせた大量の気泡が、壁にぶつかって蒸発音とともに弾けて消える。そのざわめきがようやく治まり出した頃。
(っつー!)
 豪雷の発生地点ド真ん中で、額を押さえたカリムが、ゆらーりと立ち上がる。
(わあ何だったんですか今のは? てか、君、大丈夫ですかあ?)
 うねりの余韻の残る水影に、クラゲのように胴体や手足をふよふよさせた”あの馬鹿”の姿が、幾つも重なり合って浮かび上がる。
 見ているだけで眩暈がしそうなその有様を、カリムは、額を押さえた手の間から睨みつける。
(テメ、わざとだろ! わさとだな! 絶対わざとだ!)
(えー? 何のことですかー?)
(棒読みで何言ってやがる白々しい!)
(嘘じゃないですよー! 魔法嫌いな君がそんな物騒な魔法障壁張ってるなんて、僕が知るわけないじゃないですかー)
(魔法じゃねーし。魔物の中にはたまに居んだよ、あのテの無思慮な誘いをかけて来るインケンなのが!)
(やだなー。ヘンな魔物と一緒にしないで下さいよー)
(のらくらしやがって、ムカつく奴だ)
 カリムは遠慮なく、胡乱なものを見る目を守護者に向ける。
(・・・・・・お前、俺に感謝しろよ。いくら魔物じゃなくたって、下手すりゃきれいサッパリ消し飛ばされてたんだぞ)
(ええ、全くです! ホント、この姿にしといて良かった! あの馬鹿、じゃなくてアイルさんに感謝です)
(ざけんじゃねーぞ! 俺があの馬鹿に気ィ遣ってるみたいに言うな!)
 反射的にくわっと牙を向いてから、カリムは額から手を離し、真顔で守護者に正対する。
(お前、何を企んでる?)
(おやー? こうなることを見越して、わざと契約を持ちかけたとでも言うんですか? やだなあ。そんなキケンなこと、どうしてこの僕がやらなきゃならないんですか? 君が暴発を抑えようとしてくれるって保障なんか、これっっっぽっちも無かったのに)
(それが解らないから聞いてるんだろ!)
(わーわーわー逆ギレ反対! 裏なんかありませんって、ホント! でも、ほら、丁度良かったじゃないですか。あんな防壁はもう要らないでしょ? アシェルさんさえ居れば、君は昔々の誓いなんかに囚われたりせず、一番いい方法を自分で決められるじゃないですか)
(・・・・・・)
 カリムはゆっくり瞑目すると、一度大きく息を吐く。
 薬酒の効力が切れかかっているとはいえ、あまり感情の振れ幅が大きいと、いつ記憶をごっそり持っていかれるかわかったものではない。忌々しいことに。
 そうして静かに開かれた深淵のように蒼い瞳は、押さえ切れないギラギラとした乾きも、剣呑極まりない灼熱も、すっかり影を潜めていた。
(一つ、教えておいてやる。俺の全てはアシェルにやると、もうとっくに決めている。俺の望みなど、差し挟む余地はない)
(それはひょっとして、僕の提案を拒否るって意味ですか?)
 能天気極まりなかった守護者の表情が、その途端あからさまに曇る。
(アシェルさんにって、それは君が勝手に決めているだけでしょう? 君がそう言った時、アシェルさんは応じませんでしたよね? だったらその契約は成立していません。違いますか?)
(契約どうこうの話じゃない。ずっと前から、それは決まっていたことだ)
 カリムは自分の右手に視線を落とす。
 生っ白く細っこく、ほんの小さな傷痕すら刻むことのない手。
 二度にわたって、アシェルを殺すための力を振るった手。
(でもそれは、アシェルさんを苦しみから解放したかったからでもあるんでしょう?)
(・・・・・・それは多分、後付けの理由だ。そういう綺麗な理由でもなければ、大切なものを殺せるはずがないという、都合のいい願望に過ぎない)
(でもそれじゃ、)
(うるさい。お前に何が解る。あの頃の記憶はもうとっくに無くなった。なのにどうして、何を根拠に違うと言える)
(・・・・・・)
(それでも・・・・・・あいつが再び現れた時、湧き上がってきた感情・・・・・・あれだけはまだ、辛うじて残っている。あの記憶や感覚は、お前も共有出来るんだよな。だったらお前には、あの意味が解るか? 解るんなら教えてみろ)
(・・・・・・)
 守護者は表情を消して、静かに押し黙っている。
(フン・・・・・・それで俺を演じられるとは、よくも豪語したものだ)
(君を、ではなくて、アシェルさんの理想とする君を、ですけど)
(だったらその格好は、俺の望むあの馬鹿だとでも言うつもりかよ)
(さあ。どう思います?)
(いい。興味ない)
(おやまぁ、バッサリと)
 守護者は小さく苦笑する。
(・・・・・・俺には、アシェルを理解出来ているなんて言えないし、アシェルがどうしてあの娘のことを気にするのかも、良く解らない。だが、これだけは聞かなくとも解る。あいつの望む俺だ? そんなもの、あいつは決して求めない)
(それが、君の理由? だけど君自身は本当にそれでいいんですか? また、たった一人で取り残されることになっても? アシェルさんのいなくなったこの世界に?)
(あいつがそう決めたなら)
 死を許さないことは残酷だ。死を求めるしかないことは悲しい。死しか与えてあげられるものがないことは、何よりも辛い。その全てを知っているアシェルが、それでも決めると言うのなら、どんなことであろうと、それはカリムが受け止めなければならないことだ。
(怖いくせに。声が震えていますよ)
(それの何が悪い)
(おや、開き直りましたか)
(・・・・・・アシェルの望む俺、か。そいつはさぞ、いけ好かない奴なんだろうな)
 ふとカリムは、哂うように口の端を上げる。
 そいつはきっと、こんな風に怖れたりしないだろう。滑稽なほどに強がったりなどしないだろう。一時吹き荒れては跡もなく消え去ってしまう感情に、翻弄されることもないのだろう。
だとすれば、それは、これっぽちもカリムではない。
 同じ物を見、同じことを知っていたとしても、同じ気持ちを抱くことがないのなら。
(どうしてもダメですか? 僕がこんなに頼んでも?)
(ああ)
(君のせいで、この地に災いが降りかかっても?)
(そうなった時は、俺ををこの地に引き寄せたお前の失態こそ問うべきだ。自分を棚上げしておきながら、俺に責任を押し付けるのは、ハッキリ言って迷惑だ)
(言ってくれますね。さすがは災厄の天使様だ。ですが、僕も守護として、あっさり「はいそうですか」って引き下がるワケにもいきません)
(だったらどうする?)
 守護者に向けられたカリムの目が、瞬時に鋭く細められる。
(あー、早まらないで下さいよ!)
 途端にそいつは、おどけた調子でひょいと肩を竦め、物騒な視線から逃げ出すように数歩離れる。
(力勝負じゃ、僕に勝ち目なんてありません。そもそも君の承諾も無く力を奪い取るなんて、不可能な話だし。かと言って、みすみす彼にかっさらわれるのもシャクに障りますけどね)
(誰に、何だと?)
(別に、何でも)
(・・・・・・)
(あ! そっか!)
 いい事を思いついたとばかり、守護者はぽんっと両手を打って、笑顔を作る。
(つまり、アシェルさんの承諾を取り付けさえすれば、君は僕に力を譲っても構わないと、そういうことですよね?)
(・・・・・・お前、俺の話ちゃんと聞いてたか?)
(ええ、もちろん、確りと! アシェルさんが承諾しないだろうっていうのは、単なる君の見解であって、最終的に結論を下すのはアシェルさん自身なんですよね? だったらダメ元でも何でも、聞いてみる価値はあります!)
(・・・・・・意外と懲りない奴だな。どっから沸いて出るんだ、そのバイタリティは?)
 むしろ呆れて、カリムは呻く。一人でキリキリしているのが、何だか馬鹿らしくなりそうだ。
(そりゃあもう! ダテに長年、のらくらと守護をやってませんから!)
(それ以前に、アシェルとは道がつながらないと言ってなかったか)
(代わりに君が聞いてくれたりは、)
(するか)
(やっぱり。まあ、がんばって、何か方法を考えますよ)
(だからって、あいつに何かしたら承知しないからな)
(わーかってますって!)
 言いながら、守護者はびしいっと拝命ポーズをキメる。
 そんな守護者から、カリムはつと目を逸らした。
(・・・・・・用が済んだんなら、さっさとこの術を解け)
(おや、何か気になることでも?)
(・・・・・・悪い予感と言うほどではないが、どうにも妙なカンジが、先刻から消えない)
(あの魔気を気にしてるんなら、多分大したことはないと思いますよ。あれは以前にも見たことがありますから。それに、これは君の感覚の妨げになるような術じゃないし、ここで見極める方が時間もたっぷり使えて便利じゃないですか? だって君は元々、)
(もう一度言わせるつもりか?)
(はいはいはい、怖いなーもう・・・・・・あ!)
 カリムの一瞥に、守護者はひょいと肩を竦めてから、思い出したように声を上げる。
(肝心のことを聞き忘れるところでした!)
(まだ何かあんのかよ)
 うんざりした声で、カリムは応じる。
 が、それにめげる相手ではない。
(はい! 君の名前、まだ聞いてませんでしたよね?)



 売り言葉に買い言葉的成り行きで、瘴気を相手に奮闘するハメになったフェグダだが、勝算も無しにイキオイだけで見栄をはったわけでは勿論ない。
 瘴気の凝った触手を避けるだけで精一杯、と見せかけて、次の一手を打つべく鋭意努力中。
 名付けて! こんな瘴気なんざ呪術結界に取り込んで封じ固めてやるぜ作戦!
 結界の頂点となるポイントの地面に、剣先で呪印を刻み込むという下準備には少々手間がかかるのだが、術の効率と効果を考えれば、その程度のことは妥協すべきだろう。
 もっとも、知能どころか本能だって有るかどうかという瘴気を相手に、気付かれないようコッソリ動く必要は、ハッキリ言って全く無い。
 それが必要な相手というのは、ふんぞり返って傍観を決め込んでいるあのクソ生意気な少年の方である。
(あの鼻持ちならない高ビー野郎! マヌケだの要領が悪いだの好き勝手言いやがって! 俺の華麗なるワザで一発逆転バッチリキメて、あっと言わせてやるからな! ついでに瘴気で泥団子作ってぶつけてやるっ!)
 どちらかと言うと封じた後の計画の方を熱心に描きつつ、飛び込み前転の要領で瘴気の腕をかいくぐって顔を上げたフェグダは、その時はじめて、視界の端に入るはずの少年の姿が消えていることに気がついた。
(な、なにーっ!?)
 慌てて左右に目を走らせるも、あの目立つ姿はおろか、動くものの気配すら全く無い。
(あの野郎、どこ行きやがった!? 遺跡の中に逃げたのか?)
 いや、たとえそうだったとしても、ノンキに詮索している場合では無い。
 とっとと気持ちを切り替えて布石を完成させ、一刻も早く瘴気を封じてしまうべきだ。

 だが、もしも上手くいかなかったら・・・・・・という考えが、ふっとフェグダの脳裏を過る。
(馬鹿か俺は! あんなヤツ、最初っからアテになんかしてなかっただろーが! それに、別の手だってある!)
 今まで見ている限り、フェグダを取り囲む瘴気は、遺跡方向に広がろうとはしていない。ということは、遺跡には結界になりうるような力が辛うじて生きている可能性が高い。いざとなれば、壁の破れ目に隠れれば、多少の時間稼ぎにはなるだろう。
(まあ、アレだ! あの野郎を瘴気の中に蹴り飛ばしてイヤガラセしてやれねーのが残念だがな・・・・・・っと、これであと一つ!)
 瘴気を警戒しつつ、残りの布石となる簡略型の魔道図形を、可能な限りの速攻で刻み付ける。
(よっしゃ! これで準備おっけ!)
 図形の完成と同時に、片膝立ちで身構えたフェグダは、短刀を握ったままの左手で印を組み、結界を発動させるべく呪の詠唱を開始する。

 それは、聞く者が聞けば、古代帝国時代の名残を汲む魔道言語だと解るだろう、詩。古代魔術の系統では、そこそこ知られたものである。だが、その韻律を乗せる旋律は、風の唸り声を思わせるような、かなり独特な音だ。
 大気に紡がれる不思議な韻律に反応して、地面に描かれた五つの簡略図形が、ぼうっと不可視の光を放ち始める。図形を浮かび上がらせた光は、すぐに火柱となって立ち上がり、隣り合った火柱同士が手を繋ぐように光の線を延ばして、複雑な文様を持つ五角形の魔法陣を形成する。
 やがて魔法陣の中心に小さな渦が出現し、フェグダを包囲していた瘴気が、強風にさらわれる羽虫のように渦の中心方向へ引き寄せられ、渦の拡大とともに寄り集まりくっつき合う。その有様はまるで、見えない手で捏ね繰り回される粘土塊のよう。ハッキリ言って、かなり不気味。
(ま、まあいっか! そのまま全部捕まえろよーっ!)
 順調に推移する術に、フェグダが安心しかけた、その時。
 何の偶然か。結界の網の中でもがいていた粘土塊の腕が、結界を構成する呪印の一角が描かれた地面を、大きく薙ぎ払った。
 瞬間、バシッと大きな火炎が舞って、呪印に触れた瘴気の腕にぽっかりと大穴が空く。
 だが、半実体化するほど凝り固まった瘴気にピンポイント攻撃された呪印の方も、ただでは済まなかった。
(・・・・・・げ! 消えるな踏ん張れ!)
 フェグダの期待虚しく、呪印から吹き上がっていた火柱が、ぐにゃりと歪んで掻き消える。図形の一角を欠いたことで、瘴気と呪文、内と外との力のせめぎ合いに耐え切れなくなった残り四角の火柱が、風に煽られたローソクの炎のように次々と虚しく吹き消される。
 突然の結界の消滅に、一ケ所にぎゅうぎゅう詰めにされていた瘴気が、弾け飛ぶ羽虫となって、どばっとフェグダの眼前に広がる。
(!!!)
 思わず、息を飲んだフェグダは。
 その空白の分、次の行動を起こすのが遅れる。

 どしゃっ! がらがらがらっ!
「っ!?」
 背後で何かをぶちまけたような不吉な音が、フェグダの空白を打ち砕いた。
「呪文!」
「な!?」
「グズグズすんな!」
 有無を言わせぬ鋭い叱咤。と同時に銀色の尾を引いて、幾つもの礫が飛ぶ。
 フェグダが呪文を再開するや、空中の礫の数個が反応して呪光を発し、瘴気全体を取り囲む五角形を形成する。
 結界の形成を見て取ったフェグダは、呪文を次の段階へ移行させ、結界の強化と縮小を同時に行う。引き絞られる網の中で、瘴気は再び寄せ集めのアメーバ状へと変わり始める。ここまでは大体、先刻と同じなのだが。
(げ!)
 フェグダの見ている前で、術の媒体として瘴気の周りに滞空していた礫の光が、急速に縮み始める。
 術式の為に描いた呪印と違い、礫自体に込められた魔力など、所詮は間に合わせでしかないのだ。これではとても、結界の魔法に耐えられない。
(どうする!? もう保たねーぞコレ!)
 その動揺を見透かしたように。
「うろたえんな! 呪文を続けろ!」
 またしても叱責が飛び、それに呼応するようなタイミングで、地面からゆらりと呪炎が這い上がった。
 先刻投じられたものの、術に反応せずに地面に転がり散っていた礫が、術を引き継ぐように輝き出し、中空の光が完全に消え去るのと同時に、地面の布陣が完全に起動。光の檻となって暴れる瘴気を囲い込む。
(やーれやれ。にしても、どんだけあンだよコレ・・・・・・)
 フェグダは内心、げんなりと唸る。
 これだけ圧し固めたというのに、瘴気の塊は未だ、巨象を呑み込めるほどの大きさがある。
 ここで結界が破られでもしたら、いくら羽根の防壁があると言っても、ダメージは避けられないかも知れない。
(このまま結界を維持して、ギリギリまで動きを封じるとして・・・・・・泥団子にするにはもう一手間必要か?)
 使える手段は無いかと、脳を高速回転させた矢先。
「限界だな」
 きっぱりと断じる声は、片膝をついて呪文を唱え続けているフェグダの、すぐ頭上から聞こえた。
 咄嗟に振り仰ぐより早く、そいつはすいと横を通り過ぎて、フェグダの前に割り込むと、そのままスタスタと歩いて行く。

「・・・・・・!」
 意表を突かれたフェグダは、不覚にも呆然と息を呑んだ。
「危ない」とも「引っ込んでろ」とも叫ぶことなく、痩身の少年をの後ろ姿を、ただ見送ってしまった。
 だって、そうだろう。
 そこに在るのは、頑丈な檻に入れられた見世物の珍獣などではない。いつまで保つか知れない不安定な魔術結界と、いつ結界を食い破って飛び出すか知れない、半実体化したおぞましげな瘴気の塊だ。
 そんなものに自分から近付こうなど、狂気の沙汰ではないか。
 いや、そいつが普通でないだろうことは、もう察しはついている。
 着飾って社交界のサロンで女の子を口説いているのが似合いそうな、ちょっと見栄えがする程度の、長髪でか細い少年の姿でありながら、いくら隙を突かれたとは言え、一瞬でフェグダを締め上げるような体術の持ち主であり、あまり認めたくは無いが、その真の実力は計り知れない。
 だから、どうだと言うのだ?
 フェグダが少しくらい手こずろうと、少年には全く関係無い話ではないか。
 たとえ、少年に取って、この瘴気がアリ程度の代物でしかなかったとしても、そんなことは、わざわざ手を貸す理由にはならない。
(俺だったら、絶対にやらない・・・・・・)
 これが、是非ともお近づきになりたいような美少女のピンチだとか、報酬を山と詰まれてならまだしも、今ここで少年が割って入るなど、フェグダの常識からは考えられないことだ。
 それなのに、いかにも当然とばかりの落ち着き払った態度で、少年は歩調を全く緩めることなく、瘴気との距離を詰めていく。
(何考えてやがるんだ? 何の得があって、こんな・・・・・・)
 ワケもなく混乱する。悪酔いのように眩暈を覚える。
 なのに、信じがたいことに。心のどこかでは、納得してしまっている。理由も無く、安堵してしまっている。
 そんな自分自身の認識のズレが、何だか無性に腹立たしい。

 少年は既に、結界に触れるほどの所まで進んでいる。
 その眼前で。
 何の前触れも無く、結界を構成する光壁が左右に開いた。
 結界の一部が弾ける不気味な手ごたえに、フェグダの身に緊張が走る。
 それは大したトリックではない。少年が手にしている短刀の護符が、結界に干渉した結果だ。
 もちろん、それは意図的に為されたことだ。
(何やる気だ・・・・・・!?)
 当然のことながら、光壁の綻びに向けて、瘴気の塊が雪崩をうって押し寄せる。
 細い体躯があっと言う間に、瘴気の中に埋没する。
 と、見えた瞬間、少年の姿がふわりと舞った。
 大きく後ろに後退するのでも、高く飛び上がって逃れようとするのでもなく。
 襲い来る瘴気の塊を踏み台にして、突出する触手スレスレの僅かに空いた空間を、何の躊躇いも無く、前へ。もっと前へと。
 瘴気と接触した靴底からは、ジュッと灼けた煙が立ち昇る。
 防御結界の類をまとっているのなら、普通、そんなことにはならない。
(まさか、生身で!?)
 僅かでもその身に触れれば、皮膚などたちまち爛れ落ちてしまうほどの濃い瘴気の間隙をついて。
 狙うは瘴気の塊の中心部分、短刀の護法を発動させるには一番効率のいい、逆の言い方をすれば最奥にまで踏み込まねば到達することのできないポイントへ。
(そんな無謀な・・・・・・)
 だが、フェグダがそう考えたのとほぼ同時に。
 無謀なその一点目掛けて、渾身の一撃が叩き込まれる。
 その瞬間、短刀から放たれた白光が、雷の速さで瘴気の内部から触手の隅々まで疾り抜け、完膚なまでに灼き尽くす。
 おぞましげな闇色のアメーバは、のたうつ姿そのままに、完全に硬直した。
 何もかもが静止したかに見えた時間を破って、フワリとトンボを切った少年は、邪魔だとばかり、奇怪なオブジェに軽く蹴りを入れる。大きさの比率を考えれば、大した衝撃になるとも見えなかったが。その一蹴りが合図となったのか、今まで瘴気の塊だった物体は、呆気なくボロボロと崩れ出し、灰が地面に積もるより早く海風に吹き散らされて消滅した。
 ゆらゆらと立ち上っていた結界の名残の陽炎が力尽きたのは、その僅かに後のことだ。
 後には、馬鹿みたいに晴れ渡った明るい風景の中で、やはりたった今瘴気を消し飛ばしたばかりとは思えないほど静かに佇む少年の姿があるだけだった。

 片膝をついた姿勢で、詠唱の印を解かぬまま。フェグダはそいつの背中を睨みつけていた。
 フェグダの意思に関係なく、一連の出来事が脳裏でリピートされる。
 最初から最後まで、一挙手一投足の全てが焼きつくほど、優雅な動き。
 それはつまり、瘴気に向けた少年の攻撃は、目で十分追える程度の速さでしかなかったということだ。
 しかも、離れた位置からの攻撃ではなく、結界呪術と短刀による攻撃の組み合わせでもって。
 それは単に、自分の手の内を明かさなかったというだけではない。
 護法結界で身を守れるフェグダであれば、十分可能な攻撃方法を、敢えて見せ付けるつもりだったのではないか。
「これくらい出来て当然だ」という高笑いが聞こえる気がする。
 いや、方法がどうであれ、助かったのは事実なのだから、ここは感謝すべきなのだろうが・・・・・・・。どうにも素直に礼を言える気分ではない。むしろ酷くムシャクシャする。
(あの野郎にしてみりゃ、どーせ、ちょっとした余興のつもりなんだろーし。・・・・・・・・・・・・けど、このままスルーして、俺の了見が狭いって思われるのもシャクだし・・・・・・いや、でも・・・・・・)
 ぐおおおと叫びたくなるような深刻な葛藤の末に、フェグダはありったけの自制心をかき集めると。
「お、おい! お前! その・・・・・・」
 礼を言う、と続けるつもりが言葉に詰まる。
 そんなフェグダの呼びかけに、少年は思い出したように、僅かに視線を動かすと。
「ああ、返すぞ」
「は!?」
 次の瞬間、目の前に地面にぐっさりと短刀が突き刺さる。ぎょっと目を剥いて思わず飛び退きかけたフェグダは、そのまま派手にバランスを崩した。
 羽根による疲労が、思いの他足にきていたらしい。
 とっさに身体を支えようとした右手が、何の抵抗も無く地面に触れる。
「お、お前、いつの間に・・・・・・!」
 見覚えがあるのも道理。
 右手に握り締めていた短刀が無くなっていたことに、今の今まで全く気付かずにいたとは。不覚以外の何物でもない。
「ん? 待てよ?」
 不意に、戦闘中に聞いたがしゃんという音が、不吉な予感と共に、フェグダの耳に蘇る。
「あ、あーっ! 俺の荷物! 俺の商売道具!」
 改めて見回せば、銀色の礫と見えたものは、天使の紋章が彫り込まれたコイン型のペンダントトップで。
 それがどこから持ち出されたかは、もちろん言うまでもなく、フェグダの荷袋の中からで。
 戦闘中に脇にどけておいたはずのその荷袋はと言うと、派手にぶちまけられた中身の横に、しょんぼりと打ち捨てられていた。

-20-
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