小説『赤い渚に浮かぶ月』
作者:UMA.m(UMA.mのブログ)

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 第22話 遠い面影 



「これは・・・・・・」
 拾い上げたそれを見つめるカリムは、知らず小さく呻いていた。
「ああ?」
 その様子に気づいたフェグダは、すかさず大股で歩み寄る。
「何だ? 護符の成れの果てがどーしたよ・・・って無傷じゃねーか! やたっ! てか、俺ンだぞ! とっとと返せ!」
 騒がしく突きつけられた手の平の上に、コイン大の素朴な護符を落とし込みながら。
「何故、こんなものを? その印の持ち主はもういないんだぞ」
 自分では平静なつもりだったが、発した声は思いのほか硬かった。
「ンだよ何か文句あんのか!?」
 反射的に喧嘩腰で言い返したフェグダだが、カリムがそれ以上言い返さないと見るや、コホンと一つ咳払いして、改めて受け取った護符に目を落とした。
「あー蒼空の天使の印な。知らねーの? 去年の新作歌劇にも出てんだぜ? 魔物の軍団を相手にたった一人で奮戦して町ごと大勢の人間を救ったはいいが、当の蒼空の天使様は深く傷ついて天の国に羽根を休めに帰られました(空に向かって大仰なお祈りポーズ)って内容のがさ。実際にどーなったかはともかく、世間じゃそーゆーコトになってンだ。おかげで護符の需要も増大中ってってワケだ。どーだ、納得したかよ」
 いささか得意げに、フェグダは知識を披露する。
「実際はともかく?」
 注意深く、カリムはフェグダが使った言葉を問い質す。
「そりゃまー俺だって、蒼空の天使がホントは死んじまってるってコトくらい知ってるさ。けど、それが何だってんだよ? 魔物の大群が誇張だったとしてもだぞ、宣伝劇ってなそーゆーモンだろ? 景気良く盛り上がる演目ならそれで観客は喜ぶし、当の天使様にしたって盛大に褒め称えられた方が浮かばれるんじゃねーの? それで輝かしくも華々しい過去の経歴が変わるワケじゃなし」
 その方が商売繁盛で万々歳、と続けたあたりでフェグダは、黙り込んでいるカリムの様子に「あ」と小さく声を上げる。
「いや、ほら、上級天使様方ってのはさ、俺みたいなヒラやフツーの人間にしてみりゃ、どっかの王様並に手の届かない存在だからさ・・・・・・その、お前の仲間を茶化そうとかそういう気は全然なくってだな、あー、えーとだな・・・・・・」
 そんなフェグダの言い訳を、カリムは半ば上の空で聞いた。

(どういうことだ?)
 確かにあれは、二年近く前のこと。
 蒼空の天使は塔を裏切り、カリムは天使狩りとともに追跡を命じられ、その任を果たした。
 それは確かな事実であり、カリムに命じた連中も他の上級天使らも、そのように認識しているはずだ。
 だが、塔がどのように公式発表したかまでは、カリムも把握していなかった。それもまた、どうでもいいことだったから。
 ともかく、天使を題材にした演目を上演するには、塔の許可証が必要だ。そして規模の大きな戦闘や上級天使の就任などを一般人が知るのは、歌劇の題材からであることが多い。
 そして、除籍された天使を題材にした演目は演目リストから外され、時間とともに忘れ去られていくのが普通だ。それなのに除籍になった天使をわざわざ主役に据えた新作を発表するとは、どういうことなのか。
 理由は簡単に推測できる。
 上級天使が逃亡し追討されたなどという事実は、イメージ戦略重視の塔にしてみれば、スキャンダルもいいところだ。
 そんなものは認めたくないし、可能であれば隠蔽してしまいたい。美談として脚色できるなら、それに越したことは無い、というところだろう。
 いかにもありそう過ぎて、今まで思い至らなかったのが不思議なくらいだ。
 だから、カリムが引っ掛かったのはそこではない。

『上級天使が脱走なんて前代未聞だ! それはこの上ない裏切り行為じゃないか?』
 会って早々カリムの挑発を受けたフェグダは、あの時確かに、そう怒鳴った。
 つまりフェグダは本当に、蒼空の天使の経緯を知らない。
 そしてフェグダが所持している身分証の”五年前に第四軍配属”という記載が確かであるなら、”蒼空が逃亡天使である”事実を噂としてすら知らないのは、どういう訳なのか?
 逆に言えば、”災厄の天使が逃亡したという噂”を、たった三日やそこらでどうやって知り得たのか?
(・・・・・・ま、あの時は中央区画とは言え城内で派手に暴れたし、騎士団の連中って目撃者もいるわけだし、事件自体はは隠しようがないとして・・・・・・それでも外部に対しては、可能な限り緘口令が敷かれたはずだ。聖都外の部隊や転移門の門番に通達を出したとしても、明確に名指しで手配しただろうか・・・・・・?)
 天軍に限らず、情報漏洩に対する軍規は厳しいのが普通だ。
 たとえ公然の秘密のようなものであっても、口にしたこと自体を処罰対象とされた実例はいくらでもある。
 フェグダが”噂”を聞いたのなら、それは通信珠を通してである可能性が高いが、通信相手が誰であれ、単なる内輪の噂話としてでも、話題にするには危険過ぎるネタだ。
(通信班の誰かか? まさかな・・・・・・)
 何しろ、日常的に重要情報に接するあの連中の融通の利かなさときたら、平時ならまだしも、緊急時には何度ブチ切れそうになったことか・・・・・・。
(だったら、あいつの情報源は何者だ? それともまさか、意図的に流された情報ってことは・・・・・・?)
 その”噂”を聞いた時、フェグダがたまたまこの近くにいたことは、偶然だったかも知れない。
 だが、その裏に作為的なものが一切無いと、断言してしまえるだろうか。
 フェグダ自身が与り知らぬところで、糸を引く者が存在してはいないだろうか?
 だとしたら、それは。
 その可能性がある者は・・・・・・。

 ピシッ!
「!?」
 不意に空を疾った、小さな石が爆ぜるような衝撃に、カリムの思考はそこで中断された。



 アシェルと別れたイリィは、ドアの前で立ち止まって、一度大きく息を吐く。
(考えない! 考えない! 考えない!)
 色んなことがあり過ぎて、頭の中がぐるぐるで。
 アシェルに向かって”これからもお母さんと一緒にこの村でがんばります”宣言をしたはいいものの、両足は地面の上を漂っているようで、心の整理も何も出来ていなくて。
 だから、まだ考えない。
 今すぐこの手でトアを開けて家に飛び込んで、お母さんの顔を見てただいまを言って、用事を置いたままで遊びに行ったことを謝って、いつものように掃除して夕食を作って、そうだ、明日のお祭りの準備もちょっとだけして、夜になったらお母さんにお休みを言って隣り合ったベッドに入って。明日、お母さんと二人だけで過ごすお祭りが終わったら、またいつもと変わらない日を何度も何度も繰り返す。
 その頃には多分、この気持ちも落ち着いているはずだから。それからゆっくり考えればいい。きっと、それが正解。
 さあ、歌を歌い始める瞬間のように、思いっきり大きく息を吸って、でもそれは歌うためじゃなくて。
 家に入る魔法の言葉。普通の日に戻るための合図の言葉を、明るく微笑みながら唱えるために。
「ただいま、お母さん!」
 少しぐらつき気味のドアを、注意しながらもパタンと大きく開け放って。満面に笑みをたたえたイリィは、そこにいるべき人に呼び掛けた。けれど。
 ドアを開けてすぐの台所兼居間に、あるはずの姿は見えなかった。
「お母さん?」
 イリィはさして広くない室内を見回しながら、一歩、二歩と踏み入れる。
「ねえ、お母さん、どこ?」
 胸の中が黒いもやもやでいっぱいになる。鼓動が早鐘を打って全身に響き渡る。
 一体どうしたんだろう。
 お母さんが家にいないはずがないなのに。
 病弱なお母さんは、最近では外に出たとしても、家の周囲を歩くらいだ。それなのに、何も言わないでどこかに行ってしまうはずがない。
 それとも、気分が悪くなって寝込んでいたりするのだろうか?
 煩いくらいにドキドキする胸の前で両手を組みながら、奥にある寝室を覗こうとテーブルを回り込んだイリィは。
「!!!」
 目の前の床に倒れ伏している母親の姿に、悲鳴を上げることすら出来ずに立ち竦んだ。



 一方、アシェルは。
「ホント、イリィちゃんってばカワイイなー」
 と、イリィの入って行ったつつましやかな家を眺めつつ、ピョコンと首を傾げていた。
 その家は村の一番外れも外れ、村の境界に沿って張られた災難除けの結界の辛うじて内側というところにある。
「あの子はさ、こう、護ってあげたくなるタイプだよね」
 アシェルはその結界のすぐ外側から、そーっと人差し指を伸ばしてみる。
なるほど、災難除けの結界自体は普通の村ならよくあるレベルのものだ。これが弱すぎたり、逆に強力過ぎたりする村は何かしら問題アリな場合が多いのだそうだから、この村は至って普通ということになる。
 問題は、その至って普通な結界に重なって、微弱ではあるが魔気を帯びた結界が存在することだ。
「実は隠れファンとかけっこーいるんじゃないかなー。で、中には独り占めしたくなっちゃうヤツがいてもおかしくないよねー。それがおっとビックリ魔物だったり? だけどイリィは羽根と関係ありそうだから、退治されやしないかとビビッて近寄れなくて、でも他のヤツがイリィと仲良くするのは許せないからとりあえず結界で見張ってイヤガラセしちゃおう、てコトなのかなあ。だったら話はカンタンなんだけどなー」
 天使とくれば魔物。
 カリムはそれを敵対者という意味で捉えたのだろうが、恋愛トラブルだって負けず劣らず深刻だと思う。特に想いが一方的だった場合は。
「それにしても器用だなー。結界を維持するのにギリギリピッタリな魔力で、魔除けの結界を邪魔しないようすっぽり被せているなんて。何て言うのかな、レース編みでカバーを作っちゃったみたいな? 器用通り越して職人芸だよ」
 フウと感心したように息を吐いて、アシェルは伸ばしていた指先を引っ込める。
「だけど、何でこんなのが要るワケ? これ、攻撃の性質なんか無いし、他に高度な術が仕込んであるようには全っ然見えないし、まさか単にお邪魔虫探知機なだけってコトは無い、よね? それじゃ労力の割に実が無さ過ぎだし」
 むう、とアシェルは眉根を寄せる。
 気に入らない。どこがどうというわけではないが、何となく気に入らない。
「そりゃーね、魔物って言っても色々いるからなー。白亜の塔も白亜の塔だよ。十羽ひとからげで一緒くたにしちゃってさ! あいつらにはその方が都合がいいんだろーけど、ホント失礼な話だよねっ!」

 例えば、塔に寄せられる魔物絡みの要請の中で、正真正銘魔物の仕業と確認されるものはどれくらいあるかというと、多分、一割にも満たないだろう。
 魔物や魔族や魔獣といった生粋の魔性が滅多に存在しないから、というわけではない。
 やむにやまれぬ事情でもない限り、彼らは好き好んで人間とトラブルを起こしたいとは思わないだけのことだ。
 それはそうだろう。在り方こそ生物とは多少違っていようと、魔物がこの世界に存在するものである以上、種族として存続し続けることが至上命題であることは、生物と少しも変わらない。要するに、彼らも生活がかかっているわけだ。
 もちろん中には後先考えずに魔力を駆使して暴れるような例外もいるが、トラブルが常態化しているようなところでは退魔ギルドの目が光っている。
 彼らは塔と違って直接報酬制だから、チャンスがあればソッコー団体で営業に駆けつける。そうなると、基本無報酬でも腰の重い塔の出る幕はない。

 では他はというと、その八割方は魔物呼ばわりされただけの人間が原因であるケースだ。
 行動に問題があるとか、身体的特徴や病気、タチの悪い魔道師、果ては政治的要因など。魔物というレッテルを貼られる要素は様々だ。
 そして、そのようなトラブルの解決方法は、退治云々よりも、いかに折り合いを付けて調停に持ち込むかだったりする。
 何にせよ、人間に害をなすものが圧倒的に人間であるというのは、非常に頷ける話ではないだろうか。

「そーすると犯人候補は・・・・・・どっかから手に入れた魔術アイテムの発動にウッカリ成功しちゃった村人とか? ほら、普段は大人しくて虫も殺さないカオしときながら、実はコンプレックス持ちで粘着質で、けどホントの自分はそんなじゃないぞーってプライドだけは変に高いハタ迷惑なヤツとか、いかにもそーゆーコトに興味持ちそーじゃない? ・・・・・・あ、でもそれだったら村人に限らないっか。結界張った本人が結界内にいるとは限らないわけだしさ。村に立ち寄っただけの旅人とか、街行った時に目を付けられてストーカーされちゃったとか、それから・・・・・・って、キリ無いし。そもそも犯人探しの役に立ってないし」
 考えながら、アシェルは急にシュンとする。
「カリムだったら、ボクよりもっと色々読み取れるのかな。この程度の役にも立てないなんて、ボクって何でこう中途半端なんだろ・・・・・・って、ンなこと言ってる場合じゃないんだってば! こらアシェル、この程度で弱気になってどうすんの! いつまでもそんなんだったら、”力”を手に入れた意味が無いじゃない! そうだよ魔物のことは、ボクの方が詳しいんだからね絶対に!」
 アシェルは両手握り拳で気合を入れて、心から弱気を追い払うと。
「そうだね。結界の術式を探ってみたら、もうちょっと何か判るかも! それにさ、少なくとも殺戮の魔物が関係なさそうなのはラッキーだよね。あれはまどろっこしいこと一切ナシで、実力行使一辺倒。こんな小さな村、一瞬で阿鼻叫喚だもんね」」

 それが最後の一割だ。
 自らを省みず平気で姿を晒し、何も怖れず考えず殺戮本能を満たすためだけに存在するような、最も凶悪な魔物ども。
 殺戮という明確な意図をもって、生み出されたもの。
 彼らに与えられた魔力の核は、非物質の世界に属する。故に、この世に強力な魔法具は数多あれど、核の深度にまで正確に到達し破壊出来る武器は、羽根使いの操る羽根のみと言われている。
 彼らがどのようにして生みだされるのかを知らない天使はいない。だが、何のために生み出されるのかが語られることは、塔においてもほとんど無い。

「さあ、教えて」
 深く息を整えながら、今度は指先一本ではなく手の平全体を結界に近づけてみる。触れるか触れないかの、ギリギリのところまで。
「キミは誰? どこにいるの? 何がしたくてこれを作ったの?」



『・・・・・・魔物とは何か、あなたは知っていますか?』



 いくら細身であるとはいえ、気を失ってぐったりした人間を運ぶのは、そう簡単なことではない。
 倒れていたお母さんの身体を背中から抱きしめるようにして、手足をぶつけたりしないよう気を付けながらようやくのことでベッドに運び上げて横たわらせると、イリィは掛布の端から覗くカサカサと痩せた手を両手でギュッと握りしめた。
「ねえお母さん、どうしちゃったの? 何があったの?」 
 けれどそこには血の気の引いた青白い顔と、固く閉ざされた瞼があるばかり。
 熱もなく、息を荒げもせずに。
 イリィが慌てて駆け寄った時も、足を床に引きずりながら運んでいる間も、お母さんはうめき声を上げるどころか、眉をしかめることすらせず、まるで妖精に眠りの粉を振りかけられたかのように、ただ昏々と眠り続けている。
 こんなことは初めてだ。
(ど、どうしよう? どうしたら・・・・・・)
 このまま見守っていていいのだろうか。
 誰かに助けを求めるべきだろうか。
 でも、誰に?
 イリィが助けを求めたとして、誰か来てくれるだろうか?
 来てくれたとしても、お母さんのこの姿を見て、様子がおかしいと判ってもらえるだろうか? 

『イリィ、お願いだよ。どこにも行かないで、お前のお母さんを一人にしないでちょうだいね。お母さんは、お前さえいてくれればそれで幸せなんだからね』

「・・・・・・これは私のせい? 私がこっそり、お母さんを悲しませるようなことをしてしまったから?」
 けれど、応えは返らない。
 そんなことないよと言ってくれる声は聞こえない。
 イリィは握っていた手を片方放すと、ポケットの中のものをスカートの上から握りしめる。
 アシェルから預かった、カリムの髪留め。
「・・・・・・待っててお母さん、すぐ戻るから!」
 居てもたってもいられなくなったイリィは、お母さんの手を放して立ち上がると、出来るだけ静かに早足で寝室を飛び出し、それから遠慮なく入口のドアを大きく開け放って外へ駆け出した。



 白亜の塔に連れて来られて。はじめて私は、これから魔物と戦うのだと聞かされた。
『魔物とは。我ら白亜の塔に属する者にとって真の敵たる魔物とは、人間が変じた魔性、ただそれのみを指す』
 入城したての新人天使らの前で、天使長を名乗る初老の男は、大仰な身振りで謡うように語った。
『先にも教えた通り、魔物呼ばわりされる人間は往々にして存在する。だが、我らが敵はそのような易いものではない。唾棄すべき邪なる望みを叶えんがため、魔の盟主と契約を交わして身も心も売り渡し、自ら魔へと堕ちたる輩。そうして遂には殺戮の悪鬼と成り果てた、憎むべき人間の裏切り者。天使に与えられた羽根のみが、彼奴らの内の魔を滅し灰燼へと還し得る。銘記せよ。貴方ら羽根の使い手は崇高なる神の僕。尊き使命を託された、希望そのものなのだ』
 それから男は滔々と並べたてたのだ。
 魔物がいかに悪逆非道であるのかの実例を。飽きもせず、延々と。
 侮蔑。嫌悪。憎悪。高揚。陶酔。そんな感情を隠そうともせずに。

『魔物だって? どうして我々が、そんな卑しいものに煩わされねばならないんだ? あんなものは下級天使にでも相手をさせておけばいい。誇り高い我が隊では、そんな些事にかまける必要はない。神に選ばれたる高貴な血を持つ我々の使命は、この羽根の威光を以て、下賤なる者どもを導いてやることだ』
 誇り高いとか、高貴とか、何とか。臆面もなく堂々と。
 言っている本人は信じて疑わないが、これだけ空々しく響く単語も無いものだ。
 隊長だか何だか知らないけれど、好きになれないタイプなのは間違いない。絶対に。
 だけどこの人が嫌いだからと言って、この人の言うことが全て間違いだと決めつけていい理由にはならない。
 それでも私が反論すれば「そんなことも判らないとは世間知らずだ」と言われてしまう。
 本当のことだ。
 私にあるのは、誰かに聞くか読むかした知識だけ。
 それは全て他人の考え、他人の体験。
 私が直に見聞きし思ったことなんて、ただの一つもありはしない。

『魔物とは何か? 面白いことを聞くね』
 よりにもよって白亜宮の中でそんな質問をされるとは、彼には予想外だったことだろう。
『そうでしょうか?』
 私は挑みかかるように真っ直ぐに彼を見上げた。
 幾度となく最前線で魔物と戦い、生き残ってきたというその人の顔を。
 本当は少し怖かった。それでも、知りたいと思う気持ちの方が強かった。
『どうしてそんなことに興味があるんだ?』
『何かおかしいですか?』
『少なくとも、俺のようなものにわざわざ問う理由くらいは、聞いてもかまわないかと思ってね』
『それは、だって、よく知りもしないものと戦うなんて出来ないからです』
『そう? 天使長殿から散々聞かされなかったか? 魔物の凶悪さや、魔物から人間を守る任務の尊さなんてのは。それだけでは、満足出来ない?』
『出来ないから、聞いているんです』
 それは、彼の目にはどれだけ能天気なものに映ったことだろう。
『君の所の隊長殿には、もちろん聞いてみたんだろう?』
『そんなの気にする必要はないって、即答です』
 ああ、と彼は頷いた。
『だろうね。俺だってそう言う。馬鹿なことを考えるヒマがあったらもっとしっかり鍛錬しろ、とね』
『どうしてですか!?』
 けれど彼は隊長のように、下らない質問だと馬鹿にしたわけではなかった。
『魔物は人間にとって最悪の殺戮者だよ、間違いなく。君が戦うためには、それ以上のどんな理由が必要なんだ?』
『それは・・・・・・正直、分かりません。でも、今の私には魔物を憎むことが出来ない。だって、魔物は人間がなるのでしょう? 願いと引き換えに、魔物になっても構わないと覚悟した人間が。じゃあ、その願いってどんなものなんですか? 悪いこと? 勝手なこと? でもその中には、どうしても誰かに会いたいとか、どうしても誰かを助けたいとか、そんな風に考えた人がいないって、本当に断言してしまえるんですか!?』
『出来ないよ』
『!』
『それは本人でなければ知りようのないことだ。他人が何か言えるとすれば、願いを叶える方法が間違っていたと断ずるくらいだろう』
『じゃあ、その人にはどうしようもないことだったら? 追い詰められて、それしか方法がなくて、魔物になること選ぶしかなかったのなら・・・・・・』
『だからこそだ』
『!?』
『自分の身を滅ぼすほどの望み。それがどんなものかは分からなくても、何の望みも持たない人間なんていやしない。たった一つの何かを望む気持ちが理解出来ないと、自信を持って言い切れる人間などいるだろうか。だからこそ、魔物の声に耳を貸してはならない。善悪に関わらずたった一つの純粋で強烈な想いに共感してしまったら・・・・・・それは魔物と戦う者にとって、死を意味するんだよ』
『・・・・・・』
『付け加えるなら、どんな事情があろうと彼らは決断したんだ。願いと引き換えになら、自分の手で他者を滅ぼすことも厭わない、と。相手に罪があろうと無かろうと、生まれたばかりの赤子であろうと。憎しみもなく、喜びもなく、何百人何千人でも無差別に。君の隊長の答えは、そういう意味ではとても正しい。そう思わないか?』
『・・・・・・』
 何か言い返したいと思った。
 でも、言い返せる言葉が無かった。
 他人の経験に便乗しているだけの私には。
『俺も一つ聞いていいだろうか?』
 握り拳を震わせて俯く私に、彼は静かに問いかけた。
『もしかして君は、魔物にならない理由の方こそ知りたいんじゃないか?』
『え!?』
『何となくだが、誰かに怒っているように見えたから・・・・・・いや、詮索が過ぎたな。すまない』

(思えばあの頃から、変にスルドイとこあったよね)
 出会って間もない頃の、真剣だけど、どこか遠慮がちな会話。
 何故だろう。
 あの一つの考えに凝り固まった塔の中で、それに異を唱えれば馬鹿にされるか、運が悪ければ処罰対象にもなりかねないようなあの空気の中で。キミだけには素直に思ったことを吐き出せた・・・・・・。
 だけどあの時間はもう、キミの内からは喪われてしまっているんだね。

 でもね。ボクは取り戻したよ。
 決して諦めることのできない想いに囚われ続ける魔物には、救いの忘却は必要ないんだから。



「アシェル!」
「わっ!!!」
 バタンとドアが開け放たれた音、と同時にイリィの声が響いて。
 強制的に現実に引き戻されたアシェルは、思いっきりバランスを崩しながらも、何とか地面に落下することだけは免れた。が、
「あ・・・・・・」
 伸ばした右手にぐにゃりとした抵抗感。
「どーしよ・・・・・・」
 アシェルの右手の先は、例の結界を突き抜けた向こう側にあった。

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