小説『赤い渚に浮かぶ月』
作者:UMA.m(UMA.mのブログ)

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 第23話 慟哭の歌 



「あ・・・あれ・・・・・・?」
 図らずも結界に腕をずっぽり突っ込んでしまったアシェルは、馬二頭分ほど飛び退がってから、恐る恐る周りを見回してみる。
 が、特に何かの術が発動した気配も無く、結界は何事も無かったように依然としてそこにそのまま存在する。
「えええーっ! ここで無視するー?」
 アシェルはむうと唸りつつ、自分の右手に目を落とす。
「変なカンジだったなー。ぷにゅーんってしてて、なんかこー失敗して水入れ過ぎたパン生地みたいな・・・・・・?」
「アシェル!」
「わっ! イリィ!?」
 思いの他至近距離からの呼びかけに、アシェルは文字通り飛び上がった。
 そう言えば結界の存在にばかり気を取られていて、そもそもどうして手を突っ込っこむ羽目になったのかを見事に失念してしまっていた。
「アシェル、どうしよう、私、どうしたら・・・」
 家からアシェルの居るここまで一気に走って来ただろうイリィは、足を止めるより先に口を開いた。
 当然だが、イリィが結界に気付いている様子は全く無い。
「え、えーと、どうしたの? そんなに慌てて。忘れ物?」
「違うんです! あの・・・・・・お母さんが大変なの! 帰ったら床に倒れて、呼んでも揺すっても全然目を開けてくれなくて、だから、だから・・・・・・」
「大っ変! 早く何とかしなくちゃ!」
 まだ何か言おうとしているイリィを遮って、アシェルはすごそこにある小さな家に目を向けた。
「とにかく、まず様子を見に行った方がいいよね! ボクで分かればいいんだけど・・・イリィ?」
「来て、くれるの?」
 問われたことの意味が掴めず、アシェルはキョトンとした瞳をイリィに向ける。
「え? だって困ってるんでしょ? だからボクを呼びにダッシュで来たんじゃないの? あ! そっか、ボクがお母さんに見つかったら心配されちゃうんだっけ。だったら、他の誰かを呼びに行った方がいいかなあ? お医者様とか、近所のおばさんとか、ええと、イリィがいいと思うコトがあったら言ってよ。手伝うからさ!」
「あ・・・・・・」

 イリィが家を飛び出した時、用意していたセリフはこう。
「やっぱり髪留めは返します。お母さんと一緒にいるって決めたくせに、これを持ってるのは、全然決心出来てないって証拠だから。お母さんがこんなことになったのも、きっと私のせいなんです・・・・・・」
 だけど、本当に言いたかったのはきっと、たった一言だけ。
「助けて!」と。

「ヤだなあ、また泣いてるの? 大丈夫! ボクもカリムもついてるからさ! てか、こーゆー時にカリムが役に立つかは分かんないケド・・・・・・でもイリィにはジーロって小さなナイトも、ちょっとハズしてるっぽいけどジーロのお兄ちゃんもついてるんだし、きっと何とかなるよ! だからもう泣かないで、ね?」
「な、泣いてませんっ!」
 両目を両手でゴシゴシしながら言い返すイリィに、アシェルはにかっと笑ってみせる。
「うん。じゃあ行こっ!」
「はい!」
 もうすっかり当たり前のようにイリィの手を取ると、アシェルは先に立って家に向かい始めた。
 だが、イリィに背中を見せた途端に、その顔から笑みが消える。

 今度は意識して結界に手を伸ばしたアシェルは、ぐにゃりとした抵抗を無視してそのまま強引に通過する。
(敵対はしないけど、余計な手出しは無用ってコト? それってやっぱりそーゆーコトなのかな・・・・・・。けど、もしボクの考えが当たってるなら、それこそボクが何とかしなくちゃ!)
 と、何事か決心したアシェルが家の側面に近付いた、その時。
「! イリィ伏せてっ!」
「!?」
 バンッ! 
 大きな破壊音とともに、閉ざされていた木窓が内側から弾け飛び、砕けた木片が真横からアシェルを急襲する。
「な、何!? ・・・・・・アシェル!?」
 ほんの一歩の差で木片の洗礼を免れたイリィは、そのまま呆然と立ち竦む。
「・・・・・・だ、だいじょーぶ」
 散らばった窓枠部分の、すぐ傍。
 割れて杭状に尖った木片の直撃だけは躱したものの、疾り抜けた力に煽られ地面に転がったアシェルは、クラクラする頭を振りながら上体を起こした。
 アシェルの上に積もった細かい木片が、土埃とともにパラパラと落下する。
「それより、逃げてイリィ、早く!」
「え!?」
 無理やり根性でガバッと跳ね起きたアシェルは、状況を把握出来ないでいるイリィを背にして身構える。

 あるはずのない光景を、イリィは呆然とただ、見ていた。
 小道沿いの壁に取り付けられた木窓には、イリィが小さい頃に背伸びして描いた拙い花模様が微かに消え残っていた。
 その木窓が、どこにもなくなっている。
 そればかりか、壁には細かいひびが無数に走り、木窓があったところを中心にして大きな暗い穴がぱっくりと口を開けている。
 暗い、冥い、穴。
 どんなに目を凝らしても、穴の中は全然見えない。
 でも、そんなのは変だ。
 窓を全部閉め切ったとしても、家の中がこんなに真っ暗なはずがない。
 こんな澱んだような臭いなど、するはずがない。
 だって、あの穴の先には寝室があって、お母さんが眠っているはずなのに・・・・・・!
 喉元までせり上がってきたものが、悲鳴となって空気を振るわせようとした矢先。
 塗りつぶしたような闇の奥で、二つの赤い火が灯り、ふらふらと左右に揺れながら持ち上がった。
 火の周りに僅かに見て取れるのは、痩せ細った獣が身構えてでもいるかのような歪な輪郭。二つの火は、灼けるように燃え上がる二つの眼だ。
「おマエが・・・おマエが・・・」
「!?」
 低くカサカサしたような唸り声の中に、言葉のような音が混じる。よく注意しなければ聞き取れないような、拙い発音と喋り口調の。けれど、それに混じって微かに聞こえる、これは・・・・・・。

 手足を突っ張り背中を高く持ち上げた格好で、そいつはギッとアシェルを睨みつけた。
「おマエがタブラかしたのかっ」
「え、もしかしてボクに言ってる!?」
 問い質す間もあらばこそ。そいつは何の予備動作も無く、穿たれた穴の奥から一気に外に飛び出した。
「!」
 咄嗟にアシェルは、イリィを押し退がらせつつ、その場から大きく距離を取る。
 思った通り、そいつは迷わずアシェルを追って鋭角に進路を変えながら突進して来た。
 その動きはまるで、大きく振り回した操り糸の先に吊り下げられた人形のようだ。
「おマエ、あのコをトりアげるつもりだなっ」
「ちょ、待ってよ、ねえ!?」
 そいつの突進を、アシェルは中空でひらりと身を翻して躱す。ギリギリのところを掠めたそいつは、首を捻って灼熱の眼でアシェルを睨みつけながら着地する。

 暗い穴の中から白日の下へ。
 だがそれでも、全身に暗色の靄をまとっているそいつの姿は、あまり判然とはしない。
 辛うじて見て取れるのは、そいつが枯れ木のように細い手足を持ち、針金のような灰色の髪を逆立てていること。
 手足を踏ん張った獣の格好をしていながら、体つきは人間のそれであることだ。
 その姿の歪さには、犬の役が足りずに人の形をしたものを無理やり代役に使ったような、苛立ちや痛々しさといったものを含んでいるように思える。
 そしてもう一つ、何よりアシェルの眼を引いたのは、そいつの額に刻まれた、闇色に脈動する不吉の刻印。
 同じ闇に属する者にしか視ることの出来ない、闇の盟主の所有印。
「そうか・・・・・・あなたは・・・・・・!」
「おマエっ、ユルさないっ」
 アシェルを遮って叫ぶと同時に、そいつは両肩を持ち上げるや、またも生き物の動きを無視した跳躍で敵と定めたもの目がけて肉迫する。
 が、ほんの僅か横に滑空しただけで、アシェルはその攻撃をやり過ごす。
 さらに二度、三度と。
「オノレっ!」
「ムダだよ」
 憤りの唸りを上げる相手に対し、アシェルはごく冷静に応じる。
 実際、相手に生き物的な動きを期待しなければ単調な攻撃だ。いくら相手が素早かろうと、回避するのは難しくない。
 跳んだり跳ねたりという”動き方”を知らないものが、魔力だけで動こうとすれば、正にこういうものになる。
 だが、そればかりではない。
「あなたは絶対にボクに勝てない。あなただって解ってるんでしょ。ボクに言われるまでもなく」
 同じように魔物の力を持っていたとしても、アシェルは人間が変じる魔物とは違う。
 魔物の力を手に入れる以前から、アシェルはもう人間ではなかったから。
 炎の結晶を闇の色に染めた、黒翼の天使なのだから。
 確かに、魔力と魔力の真っ向勝負となれば、本来の力の大半を削ぎ落とされている今のアシェルが有利であるとは言い切れない。
 だが、魔物でしかないものが黒翼の天使に対して僅かでも逆心を抱こうものなら、それだけで精神崩壊を起こしかねないほどのプレッシャーと戦わねばならない。
 灼熱色の眼窩から黒い血を滴らせながら、なおも立ち向かって来ようとするそいつが、過大なプレッシャーを受けていることは間違いない。
 おそらく、このような肉体を使う攻撃は、そいつにとっても不本意だろう。が、どれほど必死になろうとも、アシェルに対して魔物の力を直接ぶつけるような攻撃を仕掛けることは最初から不可能なのだ。
そででもだ。
 魔に属するものの本能に逆らってまで、自らの意志でアシェルを敵と見做すなら。何よりプレッシャーを受けながらも、逆らうこと自体は可能だというのなら、この相手の正体は・・・・・・。
「本当にっ、もう止めようよっ! これ以上やったって、あなたが辛いだけなんだから!」
「ウルサいっ! このイヤしきモノおっ! デてイけっ! ココからイなくなれっ!」
「あーもう! ちょっとは聞く耳持ってよねっ!」
「ダマれダマれダマれっ!」
(困ったな・・・・・・今のボクじゃ無傷で圧倒するのは無理っぽいし、かと言って、ここでモタモタしてたらカリムが来ちゃうかも知れないし・・・・・・やっぱダメだ! こんなトコ見られたら、それこそどうなるか。たく、仕方ないなー)
 アシェルは一つ頷くと、次の攻撃を予測し身構える。
「イなくなれっ! おマエなんかイなくなれえっ!」
 吠えるなり、細い身体が跳ね上がる。
「あんま手荒にはしたくないんだけどさ、ちょっとくらいはガマンしてよねっ!」
 アシェルの腕が、瞬時に黒曜石の光沢をまとう。

「お、かあ、さん・・・・・・?」
 その瞬間。耳に届いた小さな声に、アシェルは思わず、そちらの方へと注意を向けた。
 いや、気付いたのは相手も同じだったろう。
 が、魔物の力のみに頼って肉体を動かしているそいつは、一度動き始めてしまえば、多少注意が逸れたたところで動作に全く影響しなかったのだ。
 ほんの僅かの差。それがアシェルに、間合いを誤らせた。
「・・・!」
 鞭のように振り回された腕の一撃を掴み損ねたアシェルは、とっさに甲冑化させた両腕を交差して攻撃を受け流し、そのままぶつかって来ようとする相手の身体を回避する。が、
「わ、まずっ!」
 自由落下するそいつの視線は、イリィをしっかりと捉えている。
 アシェルがトンボをきる間に地面に降り立ったそいつは、今度はイリィ目がけて地を縫うように走り出した。
 両者の者に割り込もうと、体勢を立て直したアシェルが飛ぶ。
が、間に合わない。。
「逃げてイリィ、早くっ!」
 だが、イリィは立ち尽くしたまま、自分に向かって来るものを凝視し続けている。

「おかあさん、なの・・・・・・?」
 目前に迫るものに、イリィはそっと呼びかける。
 枯れ木が魔力を得て動き出したと言われた方が納得してしまいそうな姿でも。
 見る者を焼き尽くすような灼熱色の眼をしていても。
 イリィが知っている優しい姿とは、全く似ても似つかなくても。
 それでも、強風に喘ぐ木立のようなその唸り声の奥の奥に、聞きなれた声音が確かに存在する。
 毎日毎日、一日も欠かすことなく、おはようからおやすみまでの言葉を交わし続けてきた、決して間違えるはずのない、たった一人の人の、声。

 獲物に襲い掛かる獣のように見えたそいつは、イリィに覆いかぶさるような格好でピタリと動きを止めていた。
 イリィの身を案じてだろう、全身を覆い尽くしていた瘴気が幾分薄らいで、痩せた老女の輪郭が浮かび上がる。
「・・・・・・お母さん?」
「アア、ワタシのタイセツなコ。もうダイジョウブだよ。もうコワくないよ。ワタシがちゃんとマモってアげるからアンシンおし」
「・・・・・・私は大丈夫だよ。誰にも何もされてないよ。それにアシェルは私の友達だから、心配しなくても平気・・・」
「アアアアア、カワイソウに! すっかりタブラかされてしまったんだね。でもダイジョウブだよ。あんなケガラワしいモノなんかスグにホロボしてアげるからね。おマエはナニもシンパイしなくていいんだよ。だからちょっとマっておいでね」
「何を、言っているの? アシェルは怖くなんかないよ。お母さんのことも心配してくれて・・・」
「アアアア、あああアアァァァ!」
「お母さん?」
「おマエがっ!」
 イリィを胸に抱いたまま、そいつは真後ろほどにも首を捻って、頭上のアシェルを睨みつけた。
「おマエのセイだっ。おマエのセイでっ! どうしてそっとしてオいてくれないっ! どうしてこのコをトりアげようとするっ!」
「だから違うって言ってるのにっ!」
「ダマれ、ケガラわしいクロのテンシっ! おマエなどっ。おマエなどおぉぉっ!」
「!」
「キャアアッ!」
 そいつは細い片腕にイリィを軽々抱え上がるや、再びアシェルに向き直った。
 魔物の力を振り絞っての膂力であるが、そんな風に力任せに振り回されるとは予想だにしていなかったイリィの口から、驚きと苦痛の悲鳴が上がる。
「ダメっ! イリィが潰れちゃう!」
 迂闊に手を出すことが出来ず、アシェルは一旦高度を取って間合いをはかる。
「違うよねっ!」
 アシェルは叫んだ。声を限りに。
「あなたはまだイリィを思いやれるし、イリィのためなら自分より強いものにだって立ち向かえる。だったら、あなたはまだ違うよねっ! だからもう止めて! 本当にイリィのことを思うなら・・・・・・っ!」
「ウルサいウルサいウルサいいぃっ! ダレであろうと、カワイいこのコをウバうなんてユルさないっ! ショウジキにコタえろ! おマエ、あのオンナのテシタだろうっ!」
「!?」
「あの女? それがあなたの理由?」
「ダマれダマれダマれっ! ウソをツくなっ! あのオンナ! ニクいニクいあのオンナ! このコをタイセツにマモってキたのはこのワタシだっ! イマさらダレにもワタすものかっ!」
「だからっ! それもっとちゃんと話してよっ!」
「イマサラ、イマサラ、イマサラあぁ、テバナしたりするものかあぁっ!」
「・・・・・・それは、誰? 誰のこと? それって・・・もしかして、私の・・・本当の・・・?」
「イリィ、何を!?」



 もしかしたら、と。
 一度も考えなかったわけではない。
 ただ、考えないようにしていただけ。
 この世界のどこかに、私の本当のお母さんがいるということ。
 私を要らないと言った、見も知らないお母さんが・・・・・・。
 一緒にいてくれるお母さんが嫌いなわけじゃない。本当のお母さんだから会いたいというわけでもない。
 でも、出来るなら、一つだけ。聞いてみたいことは、ある。
”本当に、私は要らない子だったの?”と。

 本当のお母さんがどんな人だったのか。
 それは、私を育ててくれた人に聞くのが一番の早道。
 ほんの一言。
 ごく他愛のないことのように、さらりと、さり気なく。
 でも、聞けなかった。
 だってそれは、私のことを大切だと言ってくれるたった一人の人を、傷つけてしまうかも知れないから。
 いいえ。それ以上に、確かめることが怖かったから。
 確かめないうちは、たとえ儚いものだしても希望は希望のまま、心の中に抱いていられる。万に一つの可能性を。
”本当のお母さんは、私を嫌っていたのではない”のだ、と。きっと、”何か事情があったはず”なのだ、と。
 でも。
 それを考え始めたら、何もかもを疑わなくてはならなくなる。
 一緒にいてくれるたった一人の人さえも。
 怖い。怖い。怖い。
 そうだ、そんな冒険譚のヒロインのような展開が、私なんかに用意されているはずがない。
 私はもう、そんな夢を見るほど子供じゃない。

 けれど、一度心に浮かんでしまった疑いは、そう簡単に消せはしない。
 自分自身でも忘れてしまうほど心の奥底に沈み込みながら、それでも埋み火となって消えることなく在り続け、そして、きっかけを待っていた。
 小さなきっかけ一つでいい。
 それだけで、全てを呑みつくす炎と化すには十分だ。



「嘘・・・・・・」
「!?」
「嘘、嘘、嘘・・・・・・」
「アア、どうしたの? ワタシのカワイいコ。あれはスグにケしてアげるから。ゼッタイにおカアさんがマモってアげるから・・・」
「違うっ!」
「イリィ!?」
「私はあなたの本当の子供じゃないでしょう? ねえ、お母さんはどこにいるの? 私の本当のお母さんは、今もどこかで私を探しているんじゃないのっ!?」
「アア、アア、どうしてそんなコトをイうの! どうして、どうして・・・・・・」
「待ってイリィ! この人は正気じゃないんだから、話を真に受けちゃダメ・・・・・・!」
 イリィの変化に気付いたアシェルは、思わず手を伸ばす。
 黒い光沢に覆われた、魔物の力を宿す手を。

「あああああぁぁぁぁぁあああああ!」

 泣き声は悲鳴に、悲鳴は音階に。
 それは、歌。
 悲しみの歌。
 怒りの歌。
 イリィの心が、歌となって流れ出している。
 歌は、力へと変換されていく。

「わっ!」
 突然生じた衝撃の波に弾き飛ばされた勢いのまま、アシェルは地面に叩きつけられる。
「ったぁー! ・・・・・・どーしてこう何度も何度もっ・・・・・・!」
 思わず毒づいたアシェルのすぐ傍に、どさっと大きな塊が投げ出された。
「!」
 アシェルから見れば大きな塊でも、人間としては小さくか細い。
 魔の力をまとっていなければ、ただの非力な女性でしかない人。
 アシェルはハッとしてイリィの姿を探す。
 居た! でも・・・・・・。
 虚ろに目を見開き、力なく無防備な姿勢で迸る力の只中に立ち尽くしている銀色の髪の女の子。
 いや、そうではない。力はイリィの内側から溢れ出している。
 声ならぬ声。歌ならぬ歌。
 イリィの紡ぐ、この世界のものとは異質な音が異界の力に変換され、天と地とを繋ぐ濁流のように溢れ出している。
「待ってイリィ! お願いだから!」
 だが、アシェルの声は途中で空しく跳ね返された。
 視えない断層の向こうのイリィには、誰の声も、どんな音も届かない。

 シャリィィィ・・・・・・ン・・・・・・

 どこかで何かが砕け散る音ならぬ音が、空間に響き渡った。
 イリィの回りで渦を巻き始めた力の奔流の中に、キラキラとした無数の粒が出現し、縦横無尽に飛び回り始める。
「これは、羽根!?」
 光の一つが、イリィに向かって伸そうとしていたアシェルの腕を掠め、黒曜石を削り出した甲冑のような皮膚に、ざんっと鋭い傷を刻む。
 黒い天使のアシェルであっても、魔物を滅ぼすことの出来る羽根の力は脅威だ。
 明確な攻撃指示を与えられていない今でさえ、羽根は魔の気配に奮い立ち、少しでも近づくものがあろうものなら容赦なく襲い掛かろうと身構えている。
 だが、そんな中で、アシェルは顔を上げて真っ直ぐにイリィを見据える。
「ダメだよイリィっ! そんな風に暴走させたら、命なんてすぐに使い果たしちゃう! それに、」
 旋風に混じる刃が、喜々としてアシェルに襲い掛かる。
 上衣を引き裂き、皮膚を抉り取り、闇色の血をしぶかせる。
「それに、イリィにはいるじゃない! 本当のお母さんじゃなかったとしても、いてくれるじゃない!」
 身体中に傷が増えていくのにも構わず、アシェルは精一杯声を張り上げる。
「イリィの為に、魔物になってもいいとまで想ってくれる人がっ!」
 ああ、そうだったんだ。
 思いながら、アシェルはさらに言い募る。
「ボクにはいなかったよっ! ボクのお母さんは、魔物になってでもボクと一緒にいてあげようだなんて、思ってはくれなかった!」



 人間は魔物になれる。
 どうしても叶えられない望みを、それでも諦めることのできなかった人間が、自らの運命を引き換えにしてでも手に入れるための、最後の手段。
 そうと知った時、何て悲しいことだろうと思った。
 でも、同時に、何故だかすごく腹が立った。
 そんな感情が、自分の内のどこにあったのかと思うくらいに。
 だから、それ以上考えるのをやめた。
 考えないでただ、心の奥に封印した。
 だって、考えてしまったら・・・・・・その答えに行き当たらずにはいられなくなる。
”どうして、お母さんは迎えに来てくれなかったのか”。
 もちろん、仕方がなかったからだ。
 私の幸せを考えるなら、それが一番だと思ったから。
 わかってた。わかってたけど。
 それでも私は、思わずにはいられなかった。
 あんな場所での幸せなんかより、一瞬でもお母さんと一緒にいられたら、その先にどんな破滅が待っていたとしても、絶対に後悔などしなかった。
 それなのに・・・・・・。
 イリィのお母さんは望んだのだ。魔物の力を。
 本当のお母さんでもない人が、そうまでするほどイリィを大切に想っていた。
 そんな推測は間違いであってほしいと、本気で思った。
 だから、ここに来るまでだって、違う可能性ばかり考えてた。
 イリィのために? もちろん、そうだ。少なくとも、それだけは嘘ではない。
 ああ、でもそれ以上に、ボク自身の気持ちのために。
 だけど。
 だからこそ。
「イリィは! その人のために生きるんじゃなかったのっ! だったらダメだよ! ちゃんと、向き合って話をしなくっちゃ! じゃないと、きっと後悔する! ボクみたいになってからじゃ遅いんだよっ!」



「アシェル! しっかりしろ、アシェル!」
 腕の中に抱きしめられ、揺さぶられる感覚に、アシェルはうっすらと目を開いた。
「・・・・・・カリム?」
「大丈夫か? まだどこか痛むか?」
「!」
 焦点が合うかどうかの至近距離に、心配げに覗き込むカリムの顔。
 何だろう。
 頭の芯がぼうっと痺れて、変なカンジだ。
 ああ、そうだ。何か言わなくちゃ。ええと、ええと・・・・・・。
「遅い!」
 一瞬目を丸くしたカリムだが。
 その蒼い瞳に、安堵の笑みが広がった。

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