小説『赤い渚に浮かぶ月』
作者:UMA.m(UMA.mのブログ)

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 第28話 双月の出会う刻



 波音が聞こえる。
 低く、静かに、繰り返し、繰り返し。穏やかな鼓動のように、不断の時を刻み続けて。
 過去から未来へ。世界の初めから終わりまで。命の誕生から終焉まで。
 燃えるような空の下、彼方へと広がる海も、果てしなく続く渚も、遥かに遠い山々も、世界の全てが赤く染め上げられている。
 天空に浮かぶのは、弓のような三日月。
 穏やかに凪いだ海の水面にも、鏡に映したような白い月。
  
 ここは、どこでもない世界。
 不断の狭間。
 ぬるま湯のような安堵感に満ちた、全き安寧の世界。
 そしてここには、痛みも苦しみも存在しない。
 熱さも冷たさも、指先に触れるものがあるか無いかも、息が苦しいかどうかさえ。
 身体感覚の全てが意味をなさない。
 優しい暗闇さえも、この世界は拒絶する。
 あるのはただ、静寂のみ。

 こんな所にいてはいけない。
 行かなければ。
 戻らなければ。
 アシェルの元へ、今度こそ。
 必ず戻ると、そう言った。
 どうしても、伝えなければならないことがある。
 絶対に。
 だから、立ち上がらなければ。
 強い振りなど出来なくていい。
 どんなに無様でもいいから、



「行かなくちゃ!」
 矢も楯もたまらず、アシェルは飛び出していた。
「今度こそ、絶対に!」
 カリムに追いつくこと、ただそれだけを思って。

 見送るしか出来なかった、かつての自分。
 それを後悔したのは、喪ってからだった。
 取り返しがつかなくなって、はじめて彼の気持ちを理解した。

 だけど今なら出来る。どこまでだって追いかけて行ける。
 今だからこそハッキリ言える。
 アシェルの力は、そのためにあるのだと。



 あの白い離宮で。アシェルとカリムは、相前後して目覚めた。
 過去、人間の手によって炎の結晶と同化させられた者は数多あるが、目覚めにまで至った例は僅かだった。しかも、芳しい結果は得られていなかった。
 数多の羽根使いと、それ以上に多くの犠牲を積み重ねながら繰り返されたその施術は、まだまだ不完全で実験的な試みの域を出ないものだった。
 それが、二人同時期に現れたのは、異例と受け止められたか、あるいは研究が進んだ成果だと考えられたか。
 しかし、それで彼らは満足しなかった。
 彼らが造り出したかったのは、羽根の力を最大限に操ることの出来る、上級天使を名乗るに足る存在だったから。

 ところがアシェルは、羽根を手にしたものの、期待されるほどの力を引き出せないでいた。
 カリムは、引き出せる力こそ強かったものの、制御がまるで出来ないでいた。
  
 番人どもの焦心はどれほどだったろう。
 彼らが実験に着手し始めてから、既に相当の年月が経過している。彼らは何としてでも成果を上げる必要があった。
 塔の中で、真理の番人の地位を確かなものとするために。 
(だから、番人達にはどちらでも良かったんだ。ボクかカリムか、どちらか一人だけでも、使えると証明出来さえすれば)
 そのために上位の番人が試みたのは、研究に直接従事する番人をアシェルを擁する班と、カリムを擁する班に二分し、両者を競わせることだった。
 アシェルとカリムの実績が、そのまま班の評価に繋がる。
 下級の番人らは次第に反目を深め、対立するようになって行った。
 アシェルがカリムに会いに行くことを彼らが良く思わなかったのは、そういう意味では必然だったのだろう。

(だけれど、もしも・・・・・・)
 彼らが方針を変え、アシェルとカリムを共に伸ばそうとしていたら、何かが変わっていただろうか。互いの正体を知らぬままで。
 少なくとも、あの悲劇は起こらなかったのだろうか。
 上級天使として、二人で共に歩む道が。アシェルが語った楽しい未来そのままに。
 それとも。
 カリムは過去の幻を捨て切れただろうか。それともやはり、手の届かぬものを追い続けただろうか。

 ボク以外の何かを追い続けるカリムを、ボクは許すことが出来たのかな。カリムが追っているのが、昔のボクだと気付かないまま。
 離宮が燃え落ちたあの日、あの場にいた誰かが、ボクに小さな世界の真実を教えた。親切なんかじゃない、それを知ったボクが正気でいられなくなると承知で。
 だけど、誰かがそう仕向けなかったとしても、いつかボクは、やっぱり同じ選択をした気がするんだ。
 黒い炎に染まらなかったボクは彼のことを忘れたままだっただろうけど、キミがボク以外の誰かのために在ことに、いつか耐えられなくなると思うから。
 だって、そうでしょう?
 再会したボクたちは、結局殺し合うしかなかったんだから。
 そうすることでしか、救いを見出せなかったんだから。
 最後の一撃が互いを貫いた瞬間、飛び散った炎の欠片が共鳴して、ボクたちははじめてお互いの正体を知ったんだから。

 おかしいよね。
 昔からボクたちは、大切なことに気がつかないまま、すれ違ってばかりいるんだから。
 キミは、キミの中の彼女が笑っている理由を知っている?
 それはね、そうしていないと、キミとはもう二度と会えなくなるって、彼女は知ってたからだよ。
 キミが、彼女を危険から遠ざけたいと考えていたことくらいは分かっていたよ。だから、彼女は望むことが出来なかった。キミの想いを無視して、追いかけて行くことは出来なかった。
 でも、せめて、戻って来て欲しかったから。
 それだけは、どうしても譲れなかったから。

 だけどそのことが、こんなにもキミを縛り付けてしまっていたなんてね。
 そんな彼女に、ボク自身が嫉妬してしまっているなんてね。
 バカだなあ・・・・・・。
 いつまで経っても、同じこと繰り返して、ホント、バカ。
 それでもやっぱり、他の道なんて選べない。
 何度別れても、何度出会っても、やっぱりまた繰り返す。
 ボクの全ては、いつでもキミが持っている。
 だったら、これこそが、ボク達の運命なんだよね・・・・・・。

 いいよ。
 キミがボクを助けたいと思うのなら、そうさせてあげる。
 演じてあげる。キミが一番見たいアシェルの姿を。
 ほんの一瞬だけ、だけどね。
 キミからもらった力を、ボクはボクを助けるために・・・・・・この世界から消え去るために使うよ。
 キミがいない世界で、ボクの願いが叶うことなんて無いんだから。
 今度こそ全てを終わらせる。
 そのために、ボクは今また、キミの前に立つよ。
 


 不意に、赤い波の上に、滴を落としたように微かな波紋が立った。
 一瞬たりとも形を留めぬ波間に、けれどその波紋はかき消されることなく、水面に小さなしわぶきを広げていく。
 一つ、二つ、三つ・・・・・・
 それは、近付く者の気配に他ならない。
 姿は無く、音さえ無く。
 だが、決して気のせいではない。
 そして、こんな閉ざされた空間に入って来られる者がいるとすれば、それはただ一人だけ。
 いつもそうだ。
 あの呪符だらけの迷宮でさえ、いつも間違えることなくカリムを見つけてくれた者。
 カリムにとって、たった一つの確かなもの。
(アシェル)
 声すら存在しない世界で、カリムはその名を呼ぶ。
 だが、届くかどうかは判らない。届いて欲しいと、願うしかない。
 その、永遠にも似た時間。

「そうだよ、カリム」
 応じたのは、ひどく静かな声。
 安堵と同時に、ひどく後ろめたい気持ちがこみ上げる。
 アシェルは今、どんな顔をしているだろう。
 懲りない奴だと呆れているか。無茶ばかりしてと怒っているか。
 それとも、悲しみを飲み込んだ笑顔を向けているのか。
 カリムが何かをしようとすればするほど、アシェルを悲しませることになる。
 悲しまないでほしいと願えば願うほど、逆に悲しませてしまうことになる。
 きっと、これからも。カリムと一緒にいればいるだけ、それは続くことになる。
 それでも、どうしても伝えなければならないことがある。
 どんなに悲しませることになるとしても、それを伝えることが、カリムに出来る精一杯だと思うから。
 それで、永久にアシェルを失ってしまうとしても。
 伝える方法が残されている内に。

(アシェル、頼みがある。一度だけ、彼女と話をさせて欲しい。傷のある奴からの伝言を・・・・・・)
「・・・・・・彼は、何て?」
(「さようなら。直接別れを言えなくてすまない」と)
「・・・・・・!」

(お前に彼女の記憶があることを承知で、これを言うことを許して欲しい)
(俺が今まで生きて来られたのは、彼女のおかげだ。一目だけでいいから、彼女に会いたいと思っていた。だが、本当のことを言えば、探すのをやめようと何度考えたか分からない。なのに、出来なかった。どうしても、探さずにはいられなかった。・・・・・・その想いだけが、俺を俺たらしめた。彼女を見つけたいという支えが無ければ、俺は何も出来ないまま、とっくに終わっていたはずだ。・・・・・・だが、もしも彼女を探し出せたとして、それからどうするのかを考えたことは一度として無かったように思う。その先なんて、俺には必要無かったから)
(当たり前だよな。彼女は昔の俺にとって、きっと大切な人だった。だが今の俺は、彼女の何かを知っているわけじゃない。どんな人だったのか、どう大切だったのか、どういう間柄だったのか、本当に、何一つ・・・・・・)
(・・・・・・俺は、どうして彼女に会いたいと願ったんだろう。本当は、ただ証明したかっただけだったんだろうか。かつての俺が、何も遺さず誰も幸せに出来ずに終わったのではないことを。それを証明出来さえすれば、それで悔いなく終われるのだと・・・・・・。馬鹿なことだ。どんなに足掻いたところで、昔の俺に戻ることなんて出来やしない。もし昔の記憶があったとしても・・・・・・いや、記憶があればなおさら、戻れないと思い知ったはずだ。俺が彼女を探すことは、彼女の為にはならない。誰の為にもならない。過去への想いなど、亡霊の妄執に過ぎない。それに囚われることで、俺は今まで、どれほど間違いを重ねて来たことか)
(俺は、世界なんか嫌いだった。塔も、番人どもも、天使も、薬酒も、羽根も。・・・・・・だが、一番嫌いだったのはカリムの存在そのものだった。この手に力があったとしても、所詮は全て借り物だ。力も容姿もこの器の本当の持ち主のものであって、それは絶対に自分とは違う存在だ。・・・・・・俺は、きっとそれに甘えていた。違うという確信だけで、何が違うのか知ろうともせず、違うと主張することだけが自分なんだと、そんな風に思い込んで・・・・・・。少し考えれば解ることだ。かつての俺がどれほどの奴だったのか。それこそ山ほどの後悔を残して死んだから、新たに目覚めてなお執着心を捨て切れなかったんだろうに、同じことを、何度も何度も・・・・・・。ったく、そんな奴に、価値などあるものか)
「・・・・・・だから、キミは滅びるのが正しいって? 滅びるべきだって言うの?」
 たまらず、アシェルは声を荒げる。
「キミにとって、彼女は何の価値も無かった。それこそが真実だった。じゃあ、そんなキミに心を止めるボクは、キミ以上の大馬鹿だね? ・・・・・・そう言っておけば、ボクが怒ってキミを破壊するとでも? そうまでしてキミはボクに・・・・・・」
 アシェルを演じることなど忘れて、被っていた仮面をかなぐり捨てて。堰が切れたように、心に溢れた激情が、言葉となって迸る。
 止められない。自分でも、どうしようもない。
(違うよ、アシェル。彼女に価値が無かったんじゃない。彼女の価値に甘え、彼女以外の価値を受け入れなかったことこそが、俺の間違いであり、弱さだったってことだ)
「・・・・・・!?」
(なあ、シェル。お前だけは、いつも俺を見つけてくれるよな。そして幻のまではなく、姿を変えこの世界の一部となって俺に出会ってくれた。確かなものの何もないこの世界で、カリムにはお前だけが真実だった。転移門の間でお前に再会した時・・・・・・本当はすぐにでも、お前の元へ駆けつけたかった。黒翼の天使だとか、魔物の力だとか、そんなものはどうでも良かった。憎しみからだったとしても、お前は俺を選んで会いに来てくれた、それだけで十分だった。だが、それでも殺し合うことしか選べなかったのは、俺自身が、カリムを認められなかったからだ。俺がカリムを嫌い続けていたから・・・・・・カリムにとって大切なものを認めることが出来なかったんだ。今になってみて思う。彼女は、俺に時間をくれたのかも知れない。大事なことに、気付くための時間を。だって、あれはお前だ。お前は、彼女とアシェルに分かれて、俺に会いに来てくれたんだな)
「・・・・・・」
(俺は、お前から、たくさんのものを貰った。最高の奇跡を。この上ない幸せを。だから、少しでも報いになるなら、何でもやりたかった。お前のくれたものには到底及ばないが、俺に出来ることなら何だって。・・・・・・そのためには、自分の心に決着をつけなきゃならなかった。自分が何者か決められなければ、お前のためなんて言っても、ただの虚言にしかならないから。それがお前が望むものではなかったとしても、答えを出さないままでいることは、あまりに卑怯だ。・・・・・・ごめん、アシェル。こんなものしか渡すことが出来なくて・・・・・・)
「だからキミは、薬酒を飲まなかったっの。こんなになるまで・・・・・・」
(昨日言ったことは撤回しないよ。この命は、やはりお前のものだ。お前の好きに使っていい。お前のためになればいいが・・・・・・このまま打ち捨て去られたとしても、仕方ないと思う。それだけのことを、俺はしてしまったから)
「キミは、ずるい。またそうやって、ボクに決めさせようって言うの。そうやって、いつも、いつも・・・・・・。ねえ、ひとつだけ聞かせてよ。キミは、後悔したの? 今も、後悔してるの・・・・・・?」
(・・・・・・後悔はしなかった。何度繰り返しても、あの時は、あれ以外の選択は無かったと思うから、後悔するわけにはいかなかった・・・・・・仕方がないと思っていた。だが、それは間違いだったのかも知れない。あの時、もっと、お前のことを信じていたら・・・・・・)
「・・・・・・」
(後悔したところで過去は変えられないが、今なら言えたかも知れないな。一緒に行こう、と。塔にも魔物にも追われることになっても。ほんの僅かしか猶予がないとしても・・・・・・いや、一時間でも、一分でも構わない。それが短いなんて思わない。二人で、行けるところまで行くのなら)
「・・・・・・それに意味はあるの?」
(何の意味も無いかも知れない。だが、もしかしたら”湖の国”が見つかるかも知れない。俺は世界を嫌うばかりで、この世界がどんなものか、少しもわかってはいないから。それは多分、一歩でも、自分の意志で歩かなければわからないことなんだろう)
「・・・・・・!」
(もし、この先にほんの少しでも意味があるとすれば・・・・・・それはお前が持っていてくれるよな。ここで終わっても、終わらなくても、俺には持ち続けることは出来ないから)
「・・・・・・この、馬鹿!」
 アシェルの口を突いて出たのは、嗚咽で掠れた声だった。
 けれど、それくらいはいいだろう。今のカリムに、涙で一杯のアシェルの顔を見られる心配は要らないから。



 キミが間違えたと言うのなら、ボクも間違えたていたんだね。
 ボクたちにとって、死は安らぎで、救いそのもの。
 でも、キミは安らぎも救いも求めない。
 ボクは、キミを許せないと思っていたけれど、同時に終わらせてもあげたかった。
 どちらも、本当だったんだ。
 でも、本当は知っていたのかもしれない。
 キミは、どんなに絶望していたって、結局、諦めてしまうことは出来ないんだ。開いた箱から飛び出しそこなった、弱い癖に人を魅了してやまない"希望"という名の悪魔の虜。とことん諦めと要領の悪い、一途で不器用でやること目茶目茶なバカ。
 だけど、考えたことはある? とことんバカに生きられる奴は本当に少なくて、みんな賢い生き方を選んでしまう。賢い、妥協した生き方をね。
 だからこそ、キミは人を魅了する。きっと誰も、キミから目が離せやしないし、その瞳に映ることを望まずにはいられない。

 でも、それは教えてあげない。
 だって、キミはボクのものなんだから。
 ボクが見つけた、世界の全てなんだから。
 


「・・・・・・キミの望み通り、キミはボクが貰う。ボクがキミをどうしようと、ボクの勝手。それで、いいんだね?」
(ああ。お前の望みのままに)

 赤く輝く空の下に、赤く染まる渚で。
 空の三日月と海の三日月が引かれ寄り添うように。
 横たわる影の上に、翼を持つ小さな影が舞い降りた。

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