小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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そんなわけで最初の1か月間は雑用メイン。
狂犬病ワクチンやそれとは別の伝染病の予防ワクチン、心臓寄生虫予防などの簡単な診療を任されつつ、通常の診療も院長や先輩のやり方を見て勉強する。
時折、院長に聞かれて答え合わせをするが相変わらずダメ出しを喰らい、「バカが!!」とか「アホが!!」とか「グズが!!」とか「マヌケが!!」とか「役立たずが!!」とか「給料泥棒が!!」とか「使えん奴だな!!」とか言いたい放題言われる。
僕たちが入社して2週間も経った頃からは、院長はもはや本性を隠す気は全く無いらしく、自由気ままに怒鳴り続けている。
どう考えても憂さ晴らしで怒鳴っていて、僕以外の従業員も含めて最低で1日1人、機嫌が悪い時には従業員全員が毎日犠牲になることもある。
しかも、特に標的になるのはやはり、仕事がおぼつかず、権力も弱く、世渡りも未熟な僕と新人看護師たちの院内最下級格の3人組だ。
怒鳴られ続けるというのは非常にストレスとなるようで、他の2人の目が日に日に濁っていく様子がよく見て取れたが、その目に映る僕の目も濁っていっているように見えたのは果たして気のせいだろうか?
ちなみに、反射的に怒鳴る時は別として、じっくり怒鳴ろうとしている時は怒鳴り声がなるべくオーナーに聞こえないようにと奥の部屋に呼ばれるため、次第に院長が居なくてもその部屋に入るのは恐怖を感じるようになる。
わざわざ奥の部屋に呼ぶのもオーナーに短気でよく怒鳴る院長だと思われたくないとか、近所の人も来ているから世間体を大事にしたいとか小っちゃい事を気にしているのだろうが、それならそもそもすぐ怒鳴る性格を何とかしようとは思わないのだろうか?
また、この院長は特にお金が大好きみたいで、新人看護師がお釣りを間違えて多めに渡してしまった時は診察終了後に30分近く怒鳴り続けていた。
当然、看護師は最初の10分くらいで泣いていたが、その後も「仕事舐めてんのか!?」とか「泣いて済まされる問題じゃねえ!!」とか散々喚き散らした後に損害分をしっかり給料から引くと言っていた。(もちろん、後日、本当に引かれていたらしい。)
もはや院長としてどころか、人として関わり合いになりたくない部類の人間だと確信した瞬間だった。
この頃から僕は院長との接触をできるだけ避けるようにし始めた。
とはいっても、狭い病院内で毎日顔を合わすのでほとんど効果はなかったが…。

ところで、この病院の問題児は院長だけではない。
先輩獣医師も院長ほどではないがウザいのだ。
「院長の機嫌を保って怒鳴らないようにする」という名目があるとはいえ、院長にひたすらゴマをすり、他の従業員を小バカにしたネタで院長の機嫌を取る。
また、他の従業員に責任転嫁して自分が怒鳴られるのを回避しようとする事もしばしばある。
そして、本人の居ない所では院長や従業員の陰口を叩き、鬱憤を晴らすのだ。
まさに、世渡り上手の手本のような人物なのである。
さらに、院長不在時には院長と同じような高圧的な態度で看護師に接する。
院長がジャイアンなら、先輩はスネ夫。
「美味しんぼ」で言えば富井副部長を彷彿とさせる人物だ。
当然看護師たちには嫌われており、僕もあまり好きではなかったが、僕に対しては同じ獣医師として親近感を抱いていたらしく、診療の相談には素直に応じてくれたので殺意が湧くほど憎い人ではなかった。
責任転嫁されたり小バカにされたりが無ければ良い人という印象を持っていたかもしれない。
もっとも、“最低の人物”が近くに居るせいで良く見えていただけかもしれないが…。
さらにダークホースの問題児として、見学の時に仲の良さそうに見えた2年目以上の看護師たちが挙げられる。
看護師連中は何がウザいかというと、院長の前ではせかせか働くが、居なくなった途端に仕事をしなくなる。
やるべき仕事をやっていなければ当然院長に怒鳴られるのだが、その確率が一番高いのは新人たちなので、彼女たちは安心して休めるというわけだ。
したがって、その分の雑用はもちろん、僕を含めた新人3人がやらなければならない。
まぁ、新人なら雑用するのは当然だと思うし、今の段階では大した害とも思えなかったから構わないが、院長の前ではやる気を見せるところが何ともいやらしい。
それと、この病院では当たり前の事のようだが、この看護師たちももちろん本人の居ない所でお互いの悪口を言い合う。
さっきまで楽しそうに話していたと思ったら、本人が席をはずした瞬間に「で、あいつってさぁ…。」
そう、この病院の従業員は、仲が良さそうなのは表面上だけで心の中ではお互いが罵り合っている状態なのだ。
戦国時代か、ここは。

要はこの病院、新人以外がみんなウザい。
その諸悪の根源は、短気で、器が小さくて、ケチで、神経質な院長で、皆そのストレスから回避するためにこんな風になってしまった被害者なのだろう。
1年後には僕もこうなってしまうのかと思うと気持ちが悪くなってくる。
変わらずにいられると良いのだが、そんな自信は微塵も湧いてこない。
勤務1か月目にして早くも病院の裏事情が見え、自分の人を見る目の無さを痛感し、全てを投げ出してニートにでもなりたい気分だった。
しかし、『自分で選んで就職した以上、すぐに辞めるのはみっともないし、最初は誰でもこんなもので、次第に慣れるだろう。』と思って踏みとどまった。
友達にも相談しようかと思ったが、臨床系の友達はブログやホームページを見る限りでは忙しいながらも充実した毎日を送っているようで、とてもそんな相談に乗っている余裕はなさそうだった。
臨床以外の仕事を選んだ友達からは「まだ始まったばかりだし、もう少し頑張ってみたら?」という声が多かった。
『他人事だから適当に言ってるんじゃないか?』などと疑心暗鬼になったりもしたが、食い下がったところで余計な心配をさせるだけだ。
しょうがないから憂さ晴らしにネットの掲示板に病院の愚痴を書き込む。
見ている人が少ないようで反応も薄かったが、臨床獣医の愚痴専用掲示板みたいなものもあり、全国に同じような境遇の人が居ることも分かって少し気が和らいだ。

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