小説『夏空』
作者:水崎 綾()

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 「あ……」
小さく声を上げた茜沢さんはすぐに窓へと駆け寄り、悲鳴に近い叫びを発した。
「アタシのお弁当っ!!」
その瞬間、教室に時間が戻った。一気にざわめく生徒達。「やりやがった……」と額を押さえる木島くん。目を見開いたまま固まる優衣ちゃん。我に返った私も、ようやく状況が飲み込めた。

 氷見山先生が、茜沢さんのお弁当箱を窓の外へ投げ捨てた。否、払い捨てた――

ガシャンと音を立てたのはその際に弾き飛ばされた彼女の水筒。机の間を転がって、疲れた様に止まった。だが茜沢さんには水筒を気遣う余裕など無い。窓から身を乗り出すその目には涙が浮かんでいる。
「痛くも痒くも無ぇんだろ?」
「そんな、アタシの……っ」
冷やかに言い放たれた言葉に、取り巻きの女子達が動いた。
「酷い!」
「教育実習生とは言え先生なのに信じらんない!」
「凜大丈夫ー?」
「こんなの酷いよ、凜が可哀相!」
「そうだよ可哀相!」
口々に氷見山先生に浴びせられる非難の言葉。しかし先生は動じなかった。
「ならてめぇらが代わるか?」
「え?」
振り返った彼の顔を、私は知らない。あんなに冷たい表情をする人を、私は知らない。
「知里が速水と友達になったその日から速水は買い弁だった。だから今日でおおよそ二週間。てめぇらは九日間あいつの弁当を投げ捨て続けた。だから九回だ。俺もてめぇらの弁当を九回投げ捨てる。今日から九日間、クソ女が毎日買い弁になんのがそんなに可哀相ならてめぇらが代われよ。丁度九人いんじゃねぇか。この全員分でチャラになんぞ?」
窓の外を見ていた茜沢さんが、すがる様な目で取り巻きを振り返った。真っ赤に泣きはらした目と鼻は、かなり哀れだった。だがしかし、さっきとは打って変わって女子達はすっかり黙り込んで、互いに顔を見合せたまま微妙な顔をしている。まあ、そんなものだろうと私は思っていた。良くある話。上辺だけの付き合いをしていると、同情だけは散々するくせに実際にその人を想う人間は居なくなる。偽物、そう偽物の友達。
「何だよおとなしいな。てめぇら全員茜沢の友達なんだろ? こいつを可哀相と思うんだろ?」
そしてきっと氷見山先生もそれを分かっていたんだ。女子達は眉根を寄せたまま俯いている。呆然とする茜沢さんに向き直り、氷見山先生はさらに追い打ちをかけた。
「何だ、てめぇに『本当の友達』なんてものは居ねぇのか」
「っ!」
改めて言葉で認識させられ、クラスのトップであった少女は一瞬にしてその地位を失った。目から溢れる涙もそのままに、一人窓辺で肩を震わせる。その姿はまるで、そうまるで昔の私の様で思わず声が出た。
「「氷見山先生」」
重なった声に驚いた。不機嫌で静かなその声の主もまた、目を丸くして私を見ていた。
「どうしたんだよ水谷」
「木島くんこそ」
彼の右手には、とんど手つかずの彼のお弁当。私の左手には、ほとんど食べ尽くされた私のお弁当。
「……先言えよ」
「木島くんが言えばどうですか」
「ふん」
「ふふっ」
だから二人同時に差し出した。
「「このお弁当、代わりに投げ捨ててもらって構いません」」
氷見山先生がふっと表情を和らげた。いつもの人懐っこい笑顔に戻って、驚きのあまり涙を止めてしまった茜沢さんの頭を優しく撫でた。
「ごめん、間違えた。しっかり居るんだね、本当の友達が」
茜沢さんの艶やかな長い髪を、優しく往復する大きな手。その優しさと効力は私が一番よく知っている。唇を噛んで俯いていた彼女の目から、また涙が溢れ出した。今度は安堵の、安心の、とても無防備な涙。
「おい、どけ先生」
「お、何だマセガキ」
「うるせぇ」
自分より大きな手を払いのけて、木島くんは茜沢さんの髪を乱暴に撫でた。その乱暴さといったら、泣きじゃくる彼女の頭が左右にぐらぐら揺れたぐらいだ。
「凜、オレはちっせぇ頃からお前を見てる。お前が弱っちい事も寂しがりな事も泣き虫な事も全部知ってる。お前がやらかした良い事も悪い事も」
だから強がるな! 木島くんはそう怒鳴って茜沢さんの頭を自分の胸に押しつけた。
「でもっ、アタシはただ友達が欲しかったっ! いつでもアタシの横に居てくれる『本当の友達』が欲しかったっ! それだけなのぉ……っ」
「分かってる。けど、ちょっとやり方間違えたな」
「うん……」
「本当は速水取られんのが怖かったんだろ?」
「うん……」
「ちゃんと謝れるか?」
「うん……っ」
ちっちゃな子供の様に、ぐしゃぐしゃの顔を木島くんのワイシャツで拭いて、茜沢さんは優衣ちゃんを申し訳無さそうに見つめた。
「ご、ごめんなさい。謝っても許されない事だけど、ごめんなさい。ごめんなさい……。優衣、ごめんなさい……っ」
「いいよ、りんりん。許す」
優衣ちゃんは、ほわほわと笑ってブイサインを見せた。
「その代わり、りんりんはあたしのお友達って事で良い?」
茜沢さんの顔がまたぐしゃぐしゃに戻る。涙をこぼしながら何度も何度も頷く。
「ふ、ふええええん」
「良かったな、凜」
自分の胸にしがみつく泣き虫の少女を、木島くんは優しい目で見つめていた。ああ、木島くんは茜沢さんが本当に大好きで、大事なんだなと、緩やかな納得が胸の中を流れて行った。
「それはそうと知里ちゃん」
氷見山先生に声をかけられて体が跳ねた。持っていたお弁当を落としそうになって、慌てて机の上に戻す。
「俺的には、ここでこのマセガキだけが出しゃばって来ると思ってたんだけど」
「え? あ、ああ……」
また睨まれるかなと、若干の恐怖を感じつつあの時思った事を言葉にする。
「茜沢さんと昔の私が重なって見えたんです。強くもないのに虚勢張って、独りっきりで。だから、何だか嬉しかったというか、何と言うか……」
最後の方はごにょごにょと口の中で呟いた、茜沢さん、気を悪くしなかっただろうか。大嫌いな人間に親しみなんて勝手に持たれて。
「水谷さんっ」
だから彼女の声が私の名前を呼んだ時、心臓が凍るかと思った。
「茜沢さんじゃないっ、凜でいいっ。今までごめんなさいっ」
半分怒鳴る様な謝罪と友好の証は、木島くんに一笑されてふてくされた。
「私の事は気にしないで下さい」
「敬語も駄目っ」
「……うん」
木島くんを盾にして、クラスの温かい笑い声から身を隠す茜沢さん、もとい凜はとても可愛らしくて、素直になるだけで人間こんなにも変わるんだなと温かい気持ちになる。緩んだ表情を直しつつ、さぞや思惑通りに事が進んで満足そうにしているだろうと氷見山先生を見ると、彼は額に手を当ててため息をついていた。
「氷見山先生の思い通りに終わったんじゃないんですか?」
そう話しかけると、何とも言えない表情で私を見下ろしてきた。何だろう。
「知里ちゃんってたまに予想外の事しでかすよね」
「そうですか?」
まあ私がお弁当を差し出すのは計算外だったみたいだし。でもきっと、以前の私はそんな事、考えもしなかっただろう。自分に関係の無い事だと切り捨てて、さっさと背中を向けていたかもしれない。それを変えてくれたのは氷見山先生だ。
「あなたに出会ったお陰で、私は学校がすごく楽しいですよ。自分は変われている、そう実感できるんです。本当に、ありがとうございます」
ふふっと笑って肩をすくめる。二度目は言わない。当たり前だ。
「……あのさぁ」
脱力感漂う言い方に彼を見つめてみれば、何やら手の甲を口に押し当ててそっぽを向かれた。
「知里ちゃんって奇襲戦法得意だよね」
「何の話ですか、それ」
「何で忘れたころにバージョンアップして来るかなぁ」
「意味分からないんですけど」
ふてくされた横顔。茶髪の間から覗く耳が真っ赤だった。この人は何をそんなに照れてるんだろう。
「ったく俺が必死に自制心働かしてる横で楽しそうだな」
「だって凜可愛いんですもん」
「どこが」
「いや、素直だとすごく可愛くなるんだなと思いまして」
木島くんに髪をぐしゃぐしゃにされて怒る凜を見ながらくすくす笑っていたら、盛大にため息をつかれた。
「何ですかまた!」
「今言った事、自分にも適用されるって気付け!」
このヤロウ、と頭を小突かれて、そのまま頭を撫でられる。ああもう、この人は何でこんなに優しいかな。相変わらず行動は突飛だけど、最後には全部解決して丸く収めてしまう。
「私氷見山先生に感謝はしてますけど、大嫌いです」
「……ちょっと待て。……今かなりグサッときた」
「ああもう大嫌いだなあ!」
大きな優しい手が心地よくて、私は顔をほころばせた。何で、何でこんなに安心するんだろう。安心してしまうんだろう。
「そういえば俺、『先生』つけなくていいって言ったよね、初日に」
「それが何か」
「呼び方変える気無い?」
「『氷見山くん』って呼べって言うんですか?」
尋ねる私に彼はいじけた顔をして見せる。
「マセガキの事も苗字にくん付けじゃん」
「でも苗字で呼び捨てはさすがに」
「……名前で良いけど、別に」
だから何でさっきからやけに子供っぽいんだこの人。照れたり怒ったりいじけたり。いつもより感情豊かだ。そんな流れに引っ張られて、それは自然に出た。
「『心露くん』」
……ほらまた。強要した本人が一番驚いて目を丸くしてるって、どういう事だ。
「……記憶力良いな」
「下の名前の事ですか? なめないで下さい」
むっとした顔を見せたら、ようやく彼はいつもの様な笑顔になった。
「これからは仲良くな。茜沢と」
「木島くんもですよ」
「あいつは知らん」
言いながら凜の方へ歩き去って行く。記憶力良いな、とか人をなめるのにも程があると思う。私の物覚えの良さといったら……。そこで気付いた。私、心露くんに出会うまでは、クラスの人の名前すら覚えて無かったんだ。なのに、学校内で誰も呼んでいない心露くんの下の名前を一回聞いただけで私は覚えていた。……何だこれ。どういう事だろう。突然激しく動き出した心臓を押さえつけながら、問題の彼を見つめる。凜に千円札を渡しながらごめん、と謝る心露くん。これでお昼ご飯買っておいでと、本当に申し訳無いねと、笑う心露くん。優衣ちゃんや凜と楽しそうに話す心露くん。

 この時私の胸の奥に湧き上がった苛立ちの正体を――事の初めに、私が泣きだす優衣ちゃんに感じたものと同じ苛立ちだったが――私は、まだ知らない。

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