小説『夏空』
作者:水崎 綾()

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 全てが上手く行き出していた。私の父親とも関係も、学校生活も、友達関係も。私自身も変われていた。全部が全部、ある人のおかげ。相変わらず読めない笑顔で事を潤滑に進めてしまうその人は私の恩人であり、生徒皆の『氷見山先生』。誰にでも優しくて、誰にでも平等で、均等に笑顔を分け与えて。

 ……何だか近頃、それが面白くない。何が具体的に面白くないかと聞かれると答えに困るのだが、とにかく胸の奥が気持ち悪い。そしていつの間にか教育実習期間は、あと二週間となっていた。



 「凜は好きな奴居んのか」

放課後、最近よく一緒に居るメンバーで勉強会を開いていた時だった。木島くんが投げかけた唐突な質問は優衣ちゃんと私を固まらせ、中でも動揺した凜は数学の教科書をバサバサと机の下に落としている。

「な、何言ってんの叶」
「居んのか居ねえのか」
「は、はあ?」

拾い上げたそばからまたバサバサバサ……。木島くん、凜の後片付けが大変だから、そう動揺させる様な言い方は如何なものかと私は思うよ。そんな事を心の中で呟いて、馬鹿正直なアプローチに出た彼に呆れた視線を寄こす。そうこうしている内に、ようやく全部を机の上に上げた凜が、桃色のほっぺたでむくれる様にして言葉を落した。

「別に居ないし、そんなの」

教科書の端を爪でいじりながら凜は木島くんの方を見ようとしない。そりゃあ目なんて合わせられる状況ではないだろう。何はともあれ、模範解答じゃない? と質問者に言おうとした私だったが。

「……あっそ」

何やら反応が不機嫌だ。一体どうしたというのだろう? 凜の答えは、彼女を大好きな木島くんにとっては最高のものだったに違いないのに。

「じゃあ質問変える。オレの事は好きか嫌いか」
「は、はああ!?」

馬鹿正直どころじゃない質問に、凜の顔は林檎顔負けの赤さに。薄々気付いていたけれど、この二人は両想い? 視線で優衣ちゃんに尋ねると、えへへとまるで自分の事の様に笑顔で頷いてくれた。

「そ、そんなの嫌いじゃ無いに決まっ」

恐る恐る答え出した凜に木島くんのダメ押しが一発。

「友達としてかじゃねーぞ、履き違えんな」
「な、な……っ」

直球過ぎて凜にデッドボール。危険球退場になるよ木島くん。

「かなちゃんってクールなのかアツい奴なのか良く分かんないよねぇ〜」
「清々しい程に素直だよね」

二人して茶々を入れる。普段クールビューティーな凜が顔を真っ赤にしてうろたえているのは結構可愛くて少しだけ意地悪してしまいたい気分になるものだ。まあ馬鹿正直な木島くん然り。この前は結構いじられたからお返しっていうのもアリかもしれない。

「そんな回りくどい正直さ発揮してないで普通に言ったら良いんじゃないですか?」
「水谷の発言に悪意を感じるのはオレだけか」
「まあ悪意の塊なのであながち間違ってはいませんね」
「っのやろう……」

じろりと木島くんが私を睨んでいる隙に、ガタンと音を立てて凜が逃げ出した。

「おい凜!」
「無理無理無理無理!」

パタパタと上履きが床を叩く音が遠ざかっていく。うん、アレだけ問い詰めたら逃げ出す他ないよね。だって私達も居る前でそんな聞かれても困るよね。

「やい、かなちゃんー」
「んだよ」

優衣ちゃんが両手の人差し指を木島くんに向けて体を揺らす。

「何をそんなに焦ってるんだい? かなちゃんだって分かってるんでしょ、凜がかなちゃんのこと好きだって」

ああ、それは私も思った。確信があるならわざわざ問い詰める必要なんかないはず無いのに。どうして今更明確にしようとしたんだろう。

「……それは」

急に気まずそうに黙りこんだ木島くん。そっぽを向いたその顔はバツが悪そうにも、照れたようにも見える。一向に口を開く気配がないから、床を見つめる彼の視界に入ろうと椅子から乗り出して顔を近付ける。

「木島くん、黙ってたら分かりませんよ」

一瞬切れ長の目と視線が絡んだものの、また目を逸らされる。何でそんなに言い出しにくいんだろう。

「もしかして理由が無いんですか?」
「違う」
「じゃあ何で……あっ」

ぐるんと顔の向きを変えて私の視線から逃げる。そろそろ面倒くさくなってきて、彼の頬を両手で挟んで無理やりこちらを向かせた。

「目線をいくら逸らしても無駄です。さあ白状して下さい」
「ちーちゃん近いよ!」
「ごめん優衣ちゃん、今そういう状況じゃないの。私こういう煮え切らない男嫌いです」

ぐぐぐ、と渾身の力で尚もそっぽを向こうとする彼に対抗して両手に力を込める。と、その瞬間、突然私の視界から木島くんが消えた。というか、代わりに別の物が割って入ってきた。視界いっぱいに広がるのは……出席簿?

「はいそこまでー。近いんだよ馬鹿野郎が」

状況の読めない私の見えないところで、スパアーンと小気味良い音がして、同時に「痛ってえ!」と言う木島くんの声。力の緩んだ私の手からするりと抜け出されて、慌てて空をかくけど何も触らない。

「あー氷見山くんだあー」

すっと視界が開ける。私を笑顔で見下ろしていたのは、右手に出席簿と左手に丸められた何かの書類を持った心露くんだった。というか、笑ってるけど笑っていない。目が、目が怖い。

「知里ちゃんは一体このガキに何をしようとしてたのかな?」
「何って、この人が煮え切らないので無理やり吐かせようと……」
「おい氷見山! 何でオレを殴んだよ!」
「何でって、近いからだ死ね。学校内の不純異性交遊は禁止なのが分かんねーのか。てめーは茜沢とでもいちゃついてろ」
「るせえこの不良教師」
「は? 俺がいつ不良だったってんだよ」
「いつもだろ。犯罪だぞこの野郎」

いつもの通り口論にもつれ込む二人。何でこの人達仲悪いんだろう。寄ると触ると喧嘩ばかりで、でも喧嘩するほど仲が良いってことでもあるんだろうか。だけど私はこの二人のやり取りを見ているのは結構好きだ。まるで子供みたいに木島くんとじゃれあう心露くんは凄く優しい目をしてる。子供っぽいのに大人っぽくて、この人にとって先生っていうのは天職なんだろうな。

「おい、てめーのせいなんだぞ水谷。何ニヤニヤしてんだよ」
「してません」
「嘘つけ、してたろーが。すんげー幸せそうな顔して笑ってたぞ」
「し、してないです!」

木島くんに睨まれ、振り返った心露くんとも目が合いそうになって、慌てて顔を背ける。あれ、今私何で視線逸らしたんだろう?

「まあ大元辿ればこのクソ教師のせいなんだよ全部」
「そうなのー? 氷見山くんかなちゃんに何したのさー」

優衣ちゃんが目をキラキラさせて身を乗り出す。

「悪い、心当たりあり過ぎてどれだか分からない」
「えええー」
「だいたいお前と出くわしたときは必ず俺が一発は殴ってるもんな。なあ木島」
「わあー氷見山くん暴力反対だよお」

駆け寄った優衣ちゃんの頭を軽く撫でて木島くんに笑いかける心露くん。ちくん、と胸に何かが刺さる感じがした。

「別に氷見山がオレに対して行なった数々の暴力のこと言ってるんじゃねえんだけどな」
「じゃあ何のことなんだい、かなちゃんや」
「俺も知りたい。何? 何の話してたの?」

実はですねえーと優衣ちゃんが事情を説明しだす。妨害しようとする木島くんを押し返しながら笑って相槌を打つ心露くん。ああそっか。そうだった。彼は先生なんだから、生徒だったら平等に誰にでもあの優しい笑顔を向けるんだ。私が見た子供っぽい一面も、照れた横顔も、心を落ち着かせてくれる温かくて大きな手も、全部皆もらってるんだ。何だろう、このもやもやした気持ちは。優衣ちゃんのことは大好きなのに、今は彼女への苛立ちしか湧いて来ない。私はどうしたんだろう。友達なのに、大事な大事な友達なのに、嫌な気持ちが胸の中いっぱいになって溢れ出てしまいそう。どうしてこんなに苦しいんだろう。どうしてこんなにも、あの人に触れたくなるんだろう。

「はは、木島もガキだなあ。……ん、あれ、どうしたの? 知里ちゃん」

きょとんとした声にハッと顔を上げる。声の主は首をかしげて私を見つめていた。

「心露くん……?」
「え、何どうしたの? 知里ちゃんらしくない行動だね」

何がですか? と問いかけようとして、気が付いた。私の右手がしっかりと握りしめているもの。微かに男物の香水の香りがする、真っ白なワイシャツの裾。それは心露くんが着ているそれに間違いなくて、

「あ……」

どうしていいか分からず俯いた。掴んだ記憶はない。掴んだ理由も思い当たらない。だけど何故かそれを離したくなくて、一層強く握りしめた。

「もしかして、何かあった?」

ふわりと温かい手が私の手に重ねられる。びくりと肩が跳ねて、掴んでいた力が少し抜けた。すっと体をかがめた心露くんが心配そうに覗き込んでくる。揺れる黒い瞳の奥に、戸惑って泣きそうな顔の私が浮かんでいた。吸い込まれそうに綺麗で、何故だろう、彼の瞳に自分だけが映っていることがとてつもなく心地良い。それなのに、同時に酷く落ち着かない。大きくて少しごつごつした男の人の手。その手に自分のそれが包まれていると思うと、耳の後ろがかっと熱くなる。優しく握られている場所がだんだんと熱を帯びる。どきどきと鼓動が速くなって息ができない。動けない。

「せ……セクハラですよ!」

突如防衛本能が働いて、叫ぶと同時にその手を振りほどいた。氷見山くん変態さーんという優衣ちゃんの声が遠くに聞こえる。顔が上げられない。目の前に立つ彼のつま先だけを見つめて、握られていた自分の手に触れた。微かに温もりが残っている。そう感じた瞬間、また耳が熱くなった。

「知里ちゃん」

静かに自分を呼ぶ声に肩が跳ねる。

「やっぱり知里ちゃんらしくない。何かあったの?」

黙って首を振る。今口を開いたら、馬鹿みたいなことを言ってしまいそうで怖い。

「何ともないの?」
「……はい」

掠れる声で返事をする。お願いだから、これ以上私に近付かないで、おかしくなってしまう。得体の知れない感情に体が支配されて、訳の分からないことばかりが浮かんでくる。

「……俺にはそうは見えない。本当に大丈夫なの?」
「本当に、大丈夫です」

両手を握りしめて、声を絞り出す。ふう、と心露くんが息を吐く音が聞こえた。

「じゃあ俺の目を見て言って。そんな風に強がられたって信じられない」

そっと頬に手を当てられる。その優しい感覚に一瞬くらりと心が揺れたが、すぐに我に返り慌ててその手を払った。これ以上触れないで、お願いだから触れないで、心が、体が、かき乱されてしまう……!

「今は……あなたに心配なんてされたくありません。私に近付かないで下さい」
「知里ちゃん、」
「やめて!」

一気に離れようと後ずさる。全面的に彼を拒んだ私の態度に彼は小さなため息をつくと、

「遅くならない内に帰るんだぞお前ら」

抑揚の無い声でそう言い残し、私の視界から消えた。今の今まで感じていためちゃくちゃな感情の渦がすーっと引いていく。いつもの冷静さを取り戻した自分の体を押さえて、私は深く深く息をついた。

「おい水谷、お前どうしたんだよ」

珍しく心配そうな木島くんの声にようやく顔を上げる。視界に映る彼の姿には何も感じないのにな。何でさっきはあんなに動揺してしまったんだろう。

「何でも無い……」
「嘘つけ。お前明らかに様子おかしかったじゃねえか。いつもなら本気で接してくる氷見山をあんな風に撥ねつけたりしねえじゃねえか」

腕を掴まれても私は至って冷静だ。木島くんの力強い腕に鼓動が速まることも無い。数秒前の別人の様だった私のことも、すっかり霞んでしまった。さて勉強会の続きと木島くんの懺悔を聞こうと、私は元いた席に座りなおした。

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