小説『夏空』
作者:水崎 綾()

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 優衣ちゃんは俯いたままだった。氷見山先生の言葉に、肯定も否定も示さない。私の頭の中も、もうごちゃごちゃで整理がつかない状況で、険しい沈黙が四人の間に座り込んだ。
「速水」
木島くんが静かに急かす。
「……違うよ」
「何が違うんだよ」
「違うもん! りんりんは友達だもん! あたしにそんな事するはず無いじゃん!」
優衣ちゃんは泣きながら笑っていた。目には涙がいっぱいいっぱいに溜まっていて、握りしめた手は変わらず震えているのに、それなのに笑っていた。いつものふわふわの笑顔を泣き顔にかぶせて。
「言って良いんだよ速水ちゃん。俺が守るから」
ふいに差し込んだ優しい声。私の時と同じに、心の奥を溶かす様な、凄く安心する声。
「だってほら、俺は先生だから。権力使って何でもできるんだよ?」
「おい先生、この状況下で茶々入れんなよ」
良いから黙ってろ、そう手で制されて木島くんは黙り込んだ。食い入るように優衣ちゃんを見つめて、彼女が『それ』を言うのを待っている。
「あ、あたし、の」
膝の上で握りしめた手が更に縮こまる。
「あたしのお弁当、いつも窓から、そ、外に、りんりん達、が。でも、あたし、分かるから、でも、やっぱり、い、嫌で」
「優衣ちゃん……?」
疑問の声で友達の名前を呼んだ。責めたつもりなんて微塵も無かった。それなのに、何故か追い詰める様な言い方になってしまった。本当に、そんなつもりは微塵も無かったというのに。……いや、きっとそんなつもりは無かったと信じたい。
「ち、ちーちゃん……ごめんね……ごめんなさい……でも、でもでもっ、ちーちゃんのせいじゃないんだっ! あたしが勝手に、そうあたしが勝手に嫌われただけだからっ」
「そうじゃなくて、優衣ちゃん、『分かる』って何が?」
「……ごめんなさいっ」
とうとうぼろぼろと涙をこぼしだした少女を見つめながら、私は自分の中に得体の知れない苛立ちが生まれている事に気が付いた。優衣ちゃんへのいじめが確定した今、私はこんな感情を抱いていてはいけないはずなのに、どんどん湧き上がって来るそれに、私は歯止めをかけられないでいた。
「速水ちゃん、君をいじめてるのは茜沢って事で間違い無いな」
恐ろしく静かな低い声で、我に返る。いつもの表情の氷見山先生が、いつもは聞かない怖い声を発しているのだと気付くのに、随分かかった。
「……っ」
優衣ちゃんは無言で何度も頷き、木島くんはそれを見ると舌打ちをして顔をしかめた。ただ一人、氷見山先生だけが完璧な笑顔で優衣ちゃんの頭を優しく撫で、いつの間にか静まり返って事の次第を見守っていたクラスに向き直った。
「聞いてたよなぁ、茜沢」
言葉使いが荒い。ああこの人は、何て優しい表情で怒るんだろう。名前を呼ばれた茜沢さんは、その端整な顔に反発の色を浮かべて彼を睨み、周りでお弁当を食べていた女子達は、寒さをしのぐネズミの様に体を寄せ合って、女王ネズミと同じ顔をした。
「速水をいじめてんだろ? 今更言い逃げするなんて野暮な真似しねぇだろ、プライドの高いあんたなら」
「先生としてその口の利き方は、生徒に忠告をするにふさわしくないと思うけど、とりあえず肯定しとく。アタシ達は優衣をいじめた。それが何?」
「学級委員長が『それが何?』とは随分だ。小学校で習わなかったか? 『いじめは良くないです』ってよ」
「習ったんじゃない? でもアタシは悪くない。忠告したのに従わなかった優衣が悪いの」
ちっ、と響いたのは氷見山先生の舌打ち。その珍しさと、後姿から溢れる怒り空気に私の肺は息をする事を拒絶した。何だか、いつもの飄々としていて掴み所の無い彼じゃない。まるで自分を殺したみたいに仮面をかぶった彼じゃない。剥き出しの氷見山先生は、何だか少し怖い気がした。
「……何て忠告したんだよ」
「水谷と関わるなって言ったの。だってアタシら見下してた奴とつるむって事は、優衣もアタシら見下したいってことでしょ? だったらこのクラスには必要無い」
突然出てきた自分の名前に私の体は凍りついた。じゃあつまり、優衣ちゃんが私なんかと友達になってくれたせいで、優衣ちゃんがいじめられたと。全部全部、私のせいだと。私が全ての原因だと。
「違う! ちーちゃん違うの! あたしすっごくちーちゃんと友達になりたかった! いつも一人で居るちーちゃんは、自分をしっかり持ってて周りに流されない、カッコいい人にあたしは見えたの! あたしもそんな風になりたいって思った! クラスで浮くのが怖くて皆に合わせてるだけの自分が嫌になって、ちーちゃんの所に来たの! 名前教えてって言ってくれて本当に嬉しかった! 初めて皆に逆らう勇気をくれたのはちーちゃんなんだよ! だからじめられたってあたしは幸せなの、充分なの! ちーちゃんが居てくれるから……っ」
優衣ちゃんの必死の言葉に茜沢さんが食ってかかる。
「やっぱり優衣はアタシの事、嫌いだったんだ。最初から友達のつもりなんか無くて、とりあえず茜に従っときゃ良いやであたしの隣に居たんだな!?」
「違う! りんりんとも友達になりたかった! でもりんりんのやってる事は間違ってるんだよ! 従わなきゃいじめる、なんて、そんなので本当の友達なんかできる訳無いし、皆だって付いて来ないよ!」
「うるさい! アタシを裏切ったあんたなんかこのクラスにはいらない!」
茜沢さんが怒鳴って教室はしんと静まり返った。男子も女子も、クラスのトップの方をちらちらと見て様子を窺いながら自分達のお弁当をつついている。そんな中、地を這う様な、怒りを押し殺した声を出したのは氷見山先生だった。
「……『いらない』、だぁ?」
びくっと茜沢さんの周りの女子が肩を揺らす。だが茜沢さん本人は口を一文字に結んだまま、ゆっくりと近付いてくる氷見山先生を変わらず睨みつけていた。
「てめぇに何の権限があって、んな事言ってんだよ……っ」
今の氷見山先生に、あの様に目の前に立たれたその威圧感は想像を絶する。現に茜沢さんの真後ろ辺りに居た女子数名が、後ずさって尻餅をついた。
「おい、」
ぐっと上から、鼻と鼻が触れ合うんではないかという所まで茜沢さんの顔に自分の顔を近付けた氷見山先生は、囁く様な声で、しかししっかり怒りを含んだその声で、気丈な彼女にたたみかける。
「いじめられても良い奴が居るなんて、そんな事ある訳無ぇ。理由がどうであれいじめるのは論外だ。これは綺麗事でも何でも無ぇ。てめぇは外道だって事を自覚しろ、クソ女」
茜沢さんの綺麗な顔が、一瞬で怒りの為か赤く塗り変わる。
「でも友達を裏切るなんて、そっちの方が外道じゃない。アタシは何も悪くない」
「なら聞く、」
体が震えた。見えるのは後姿だけなのに、聞こえるのは声だけなのに、初めて氷見山先生を怖いと思った。ここまで離れている私でさえ立っているのがやっとなのに、茜沢さんは名前の如く凛と立っている。少しだけ、凄いと感じた。
「ったく膝笑ってんじゃねーか」
だから、機嫌の悪い木島くんの呟きがまさか茜沢さんの事を指しているなんて、自分の膝が笑っていないのを確認するまでは分からなかった。
「てめぇは速水と同じ事をされたとしたら、当然だと思うか? 自分が原因だと納得できるか? 気にせずにいられるか?」
小さく漏らした笑いはきっと強がり。お弁当箱を窓から棄てられて納得する人間なんか居るはずが無い。完全に茜沢さんの負けだった。それでも彼女は自分を正当化しようとした。だから、最後の強がりに出たのだ。
「別に平気! お弁当箱ぐらい投げ捨てられたって、痛くも痒くも無い!」
「そうか」

ガシャン!

教室中に響き渡った音。左から右に振りぬかれた氷見山先生の右手。窓の外に飛び出した箱の形をした物体。時間が、止まった様だった。

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