小説『夏空』
作者:水崎 綾()

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 眠れなかった。清々しいくらいに晴れた木曜日の朝に似つかわしくないため息をつきながら下駄箱を開ける。初夏だなぁ、なんて思いながら。

 今日の私の寝不足の原因は明らかに心露くんだ。一晩中ベッドの中で寝返りをうって、一体残りの二日間どうやって彼と接したらいいだろうか、彼に最後に何を伝えたらいいだろうか。そんなことばかり考えていた。教育実習生としてやってきた約一ヶ月前から、わたしの調子を狂わす彼は健在だ。

 結局悩みに悩んだあげく、いつも頼まなくても色々と話しかけてくる心露くんのことだ、別に私から話しかけにいかなければ余計な誤解も生まれないだろうと、自分からは話しかけないことで納得した。
 教室までの廊下を歩いていると、向かいから来る彼を見つけた。今日は何を言ってくるんだろう。少しばかり期待しながら近づいて……

「おはよう知里ちゃん」
「あ、おはようございます」

いつもの笑顔でそれだけ言って、心露くんは去って行く。あれ、おかしいと思わず足を止めて振り返った。いつもなら『今日の朝ご飯は何だったー?』とか『朝からそんな難しい顔すんなよー』とか色々話しかけてくるのに。

 って、これまるで私が心露くんに話しかけてもらうことを期待してたみたいだ。違う、そんなんじゃないのに。数メートル先で、登校してきた別のクラスの女の子達と話す彼の横顔を眺めて、どうしようもなく胸が痛んだ。楽しそうに笑って、最後に頭を撫でて。優し過ぎるんだ、彼は優し過ぎる。

『ヤキモチ焼いてんのはお互い様だろ?』

……違う、違うよヤキモチなんかじゃない。だって意味が分からない。何で私が心露くんにヤキモチを焼かなきゃいけないの? 別に寂しくない。あの人が誰と話してようと、誰に優しくしようと、ましてや誰の事を好きになって大切にしようとするかなんて、私にはこれっぽっちも関係無くて、ヤキモチだなんて見当違いだ。そうやって否定すればするほど苦しい。涙が溢れそうになって、慌てて手の甲で目をこする。これじゃあ教室に入れない。まだ早い時間だけど、それにしたって誰かしらいるはずだから。必死に目をこする。違う、違う違う違う。別に、別に心露くんのことで泣いてる訳でもヤキモチを焼いている訳でも……

「知里ちゃん!」

大好きな声。誰の声かなんてすぐ分かる。

「心露く……っ」

振り返った瞬間涙がぽろりとこぼれた。

「!」

息を切らして目を見開く心露くんが目の前にいる。廊下の向こうから走ってきたんだろうか。私のために、走ってきてくれたんだろうか。

「どうしたの? やっぱり昨日からおかしいよ」
「……っ」

大丈夫、大丈夫なんですと答えようとしたのに、今声を出したら泣き出してしまいそうで黙り込んだ。

「……やっぱり俺に心配されるのは嫌か」

つらそうに目を伏せて、切ないくらいに掠れた声で彼はそんな言葉を口にした。違う、そんなんじゃないのに。どうしてだろう、涙が出そうなのに今はこんなにも心が温かい。

「嫌じゃないです……嫌じゃないんです……っ」

思わず目の前のワイシャツを両手で掴んだ。

「だから……もっと心配して下さい、頭撫でて下さい、いつもみたいに笑って下さい……っ」

さっきの一滴以上に涙は落とすまいと唇を噛みしめて我慢する。

「昨日あれだけ拒否ったくせに」
「あれはっ、」
「でも知里ちゃんの口からそんな言葉聞いたら、駄目だよ俺」

優しい優しい声。誘われるように顔を上げたら、そっと両頬に手を添えられた。大人らしいその仕草にくらりと心が揺らぐ。

「心露くん、その」
「何も言わないで、今は何も」

なぞるように頬を滑った指先が、今度はゆっくりと私の髪を撫でる。触れられたところが熱い。頬も、耳も、胸の奥底も。心地良く速まっていく鼓動に戸惑いながらも、身を任せてしまう。思い出した。昨日は恐ろしいくらいにかき乱された心も体も、今は何故だろう、その感情の渦をすんなりと受け入れられる。とくとくと微かに聞こえる自分の心音に目を閉じて、そうすると心露くんの手の感触がより一層感じられた。温かくて優しくて、この人の気持ちを全て自分のものにできたらなんて素敵なんだろう。

「……またそんな顔して」

呆れたような声に目を開く。どこか拗ねたような顔で彼は私の額を小突いた。

「やめろよなー本当。どこまで俺に意地悪したいんだか」

すっと温もりが離れて、ああちょっと寂しいなんて思ってしまった。

「元気でた?」
「……はい」

彼の手が触れていた場所に自分で触れてみる。たとえ彼が他の生徒達にも同じことを平等にしてあげていたとしても、今だけは、今だけは私だけにくれる優しさの跡。ああこれは、きっとそういうことなんだね。今まで目を背けて馬鹿みたいなことを言っていた自分。本当は気付いていたのに、ずっとずっと違うふりをして。だって自覚してしまったら止められなくなるから。

 じっと自分に注がれる視線に顔を上げてみれば、そこには何やら心露くんの真剣な表情。

「……ねえ知里ちゃん、もしかして君は」
「氷見山先生! こんなところにいた! 全く何してるんですか、職員会議は八時からって言ってありますよね!」

何かを言いかけた彼の声を遮って飛び込んできたのは花澤先生。もともと体力が無さそうな人なのに全力疾走したんだろう、大きく肩で息をしている。

「あ……やっべ」

忘れてた、と頭をかく心露くん。

「早く行って下さい、私はもう大丈夫ですから」
「さんきゅ。じゃあ……放課後また来るから、」
「氷見山先生! 生徒の相談に乗るのもいいですけど、あなた最終日の研究授業の準備ありますよね! 早くプリント類作っちゃって下さい、先生方にもお配りするんですから」
「げ……。知里ちゃん、明日! 明日また」
「急いで下さい!」

慌ただしく走っていく心露くんの背中をぼんやり眺めながら、さっき彼が言いかけたことは何だろうと首をかしげる。

『もしかして君は。』

もしかして私は? 今まで見たことが無い彼の真剣な表情を思い出して、胸が高鳴った。

 こんな時思い浮かんだのは、凜の一挙一動に子供の様に喜怒哀楽を示す木島くん。彼女が心露くんと話すだけでヤキモチを焼いて拗ねていた木島くん。今なら分かる。そんなつもりがなくても、どうしてもその人に対してはワガママになってしまうって事が。自分の知らない所で感情が勝手に独り歩きしてしまって押さえられない事が。

「あ、知里だおはよー」
「何ボケッとしてんだお前」

振り向くといつも通り二人で登校してきた凜と木島くん。

「木島くん、私理解できましたよ」
「何が」

きゅっと胸を押さえて表情を緩める。

「木島くんが、心露くんと話す凜についヤキモチ焼いちゃうこととか、凜が笑うだけですごく嬉しくなっちゃうこととか」
「ちょっ、おま!?」
「昨日あなたが言ったことは何一つ間違って無かった。私もあなたと何ら変わらない、あの人の気持ちが全部欲しい」
「待て! ここには凜も居るだろーが! 待て!」
「何で」
「何でも何も無えだろ! 待てよ!」

顔を真っ赤にする木島くんの後ろでポカンとしていた凜が突然笑いだした。

「あははははっ! なにー、ヤキモチ焼いてくれてたの?」
「いや、まあ……」
「ホント馬鹿だね叶は。だから昨日突然あんなこと言いだしてアタシを困らせた訳ね」
「てめ、馬鹿とか言う事無えだろ」
「馬鹿だよ、叶は馬鹿だ」

さっきまでとは一転、今度は泣きそうな目で唇をかみしめる凜。

「アタシが叶以外の人を好きになるなんて、ありえないのに」

バツが悪そうに押し黙る木島くん。きっとこの人も分かってたんだろうな。凜が他の人に心移りする訳無いって。それなのにヤキモチ焼いてる自分が少しだけ情けなかったりするんだろう。でももう大丈夫。きっとこの二人は大丈夫。よく頑張りましたと彼の頭を撫でて笑う凜の幸せそうな顔を視界の端に残して、邪魔にならないように私は教室に向かって歩き出した。

「……ちーちゃんって絶対ツンデレだと思ってた」
「わ、優衣ちゃん! おはよう」

すぐ隣で声がして、いつからいたのか私の肩に顎を乗せてついてくる優衣ちゃん。それ歩きにくくないだろうか。

「何さーあんな嬉しそうな顔しちゃってさー」
「だって木島くんと凜がうまくいけば良いなって思ってるのは優衣ちゃんも一緒でしょ?」
「ちーがーうー!」

べしっと後頭部をはたかれた。結構痛いんだけどこれ。優衣ちゃん力強いなあ。

「氷見山くんのことー!」

見られてた! と思った瞬間自分でも真っ赤であろうことが分かるくらい顔が熱くなった。

「撫でて下さいとか笑って下さいとか、やだもーちーちゃん可愛過ぎるよお!」
「ゆゆゆ、優衣ちゃんいつから見てたの!?」
「なんかねえ、ちーちゃんと氷見山くんがいるの見つけたから、呼ぼうと思ったらなんと! ちーちゃんが大胆にも氷見山くんの服引っ張ったから、おおこれは見なきゃ損ではないかああっと言う事で!」
「ほ、ほぼ最初っから……!」

どうしようどうしよう、あの時は周囲観察力も状況判断力も落ちてたから、周りに誰かがいるなんて全く気にしてなかったし、もし他にも見てた生徒がいたとしたら私は大変なことをしてしまったんじゃないかと、急に不安が押し寄せてきた。

「氷見山くんも氷見山くんだよー。絶対あの人ちーちゃんを一番可愛がってると思うんだよねえ。差別だ差別だっ」
「そ、そんなこと無いよ優衣ちゃん。あの人は誰にでも優しくて誰のことも大事に思ってるだけだから」
「でもあたしはちょっと心配の量が多い気がするよー、ちーちゃんにだけ」
「それは……」

きっと皆と違って少し面識があったからだよ。私の家庭事情を知っているからだよ。そう考えると何だか寂しくなった。もしも私が何の悩みも無く何の性格のゆがみも無く、そして平凡な家族の一員であったならば、彼の目に留まることも彼に心配してもらう事も無かったはずなのだ。自分のことながら、父子家庭であるという事に小さな嫉妬心が芽生えた。このレッテルが貼られていたからこそ心露くんは私に優しくしてくれるんだ。だけど、それでもいい。この事情のお陰ならそれでもいい。そう思いこもうとしたのに、何だかうまくいかない。魚の小骨がつかえたみたいにもやもやした塊が胸につかえて無くならない。

「ちーちゃん?」
「あ、ううん。何でも無いよ」

振り切れない。心露くんが優しいのは私だからじゃ無くて私の抱える事情のせい……。そればかり頭の中で繰り返されて繰り返されて。

「てゆーことは……ちーちゃんはやっぱり氷見山くんの事、」

目をキラキラさせている優衣ちゃんの言葉を、私は最後まで聞いていなかった。



そして私は、彼と『先生』と『生徒』の関係でいられる最終日を迎える――

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